賢人、祈る
その日、賢人は偵察には出なかった。
必要なものは、全て揃えた。計画も、細部まで完璧に練り上げた。もう、完璧だ。あとは明日、計画を実行に移すだけである。
そう、明日になれば全て終わる。明日になれば、全てが変わる。明日になれば、これまでやってきたこと全てが報われるのだ。
そんな中、賢人の心は強烈なプレッシャーを感じていた。
朝起きてから、賢人はずっと座り込んでいた。一応、起きてから食事はとったものの、それからは何もしていない。
恐ろしいまでの緊張で、体が上手く動かない。立ち上がると、体が異常に重い。
そして時おり襲ってくる、全身が痙攣しているような恐怖。手が震え、コップすら持てない状態になるのだ。賢人は、これまでの人生において経験したことのない未知の感覚に翻弄されていた。
これまでにも、強盗はやったことがある。指定された家に侵入し、住人がいたら粘着テープで体を縛り、金の在処を聞き出すというものだ。要は、今で言う闇バイトである。上から指示されたことをやるだけだ。
その時も、確かに緊張はした。だが、今は全く違うレベルのプレッシャーに襲われている。
それも当然だ。相手は、広域指定暴力団の仁龍会である。ヤクザを相手に強盗をするのと、どこかの家に強盗に入るのとは、まるで違う。
賢人は、テレビのスイッチを入れた。しかし、観ていても内容が頭に入ってこない。もちろん映像は見えているし、音声も聞こえている。ところが、脳に届く前に消えてしまう。何をしているのか、何を言っているのか、全くわからない。画面に映っているのが何者なのか、それすらわからない。
誰だか知らない人間が、意味のわからないことをベラベラ喋っている……まるで、外国の番組を観ているような気分であった。
怖い──
不意に、その二文字が頭に浮かびあがってきた。
それをきっかけにして、様々な思いが頭の中を走る。なぜ、こんなことをする? こんなことをして何になる? お前には関係ないことだろう? この仕事にお前は何を見出すのだ?
さらに、心の中に聞こえてきた声──
やめるなら、今のうちだぞ。
そう、やめたからと言って誰にも文句は言われない。逃げたからといって、誰にも咎められるわけではない。逃げたことを知っているのは、自分だけだ。
だからこそ、余計に逃げられないんだよ!
そう、ここで逃げてしまったら、賢人は一生己を許せないだろう。恐怖に負け、逃げてしまったら……いや、負けることよりも恥なことがある。
賢人の脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
(負けることは恥ではない。戦わぬことが恥なのだ!)
養護施設にいた頃に見たアニメ『侍戦士ブシドー』に出てきた言葉である。世界征服を企む悪の宇宙人の野望を打ち砕くため、家に代々伝わる名刀を抜いて、伝説の超人であるブシドーに変身する葉隠士道の活躍を描いた、ヒーローもののアニメだ。まさか、今になって思い出すことになろうとは……。
さらに、ブシドーはこんなセリフも吐いていた。
(我の剣は、武器を持たぬ者たちの代わりに戦うためにある!)
そうだ。
あいつらの代わりに、俺が戦うしかねえんだよ。
賢人は立ち上がった。いつもならトレーニングルームに行く時間帯なのであるが、今日はウエイトトレーニングはしないと決めていた。万が一、重いバーベルなど扱い、関節でも痛めたら大変だ。しかも、今まで既にハードなトレーニングで肉体を痛めつけている。
明日は本番なのだ。そこで百パーセントの力を発揮できるようにしなくてはならない。したがって、今日は体にダメージを残すトレーニングはできない。
だが、未だに消えぬ恐怖を少しでも取り去るためには、何かしらの手を打つ必要があった。このままでは、プレッシャーでおかしくなってしまう。
かといって酒を飲んだり、違法な薬物をやってしまっては明日の本番に差し支える。
事実、賢人の周りでも大仕事のプレッシャーに負け、酒を浴びるほど飲んだり薬物をやったりする者がいた。結果、そういった者のほとんどが本番で冷静な判断力を失い、最終的に逮捕されたり行方不明になっている。この場合の行方不明というのは、裏社会の人間により消されてしまった可能性が高いという意味だ。
それならば、今の賢人に出来るのは……軽く汗を流し、気持ちを別の方向に向けることだけだった。
拳を握りしめ、顔の前まで挙げ構える。左のジャブ、右のストレート。足でリズムをとって動き、再び左のジャブを放つ。
(いいか、パンチは拳だけで打つもんじゃねえんだ。ピストルをイメージしろ。足が引き金、腰が撃鉄だ。つま先の回転でスタートし、腰の回転で体重を乗せる。そして、肩から拳という弾丸を発射させる……そんなイメージで打つんだ)
かつて、山田に言われた言葉が蘇る。あの男は、ひょっとしたら教えるのが好きだったのかもしれない。賢人に対し、熱心に教えてくれた。
山田に教わったことは、今も体が覚えていた。賢人は、虚空に向かいパンチを放っていく。左ジャブ、右ストレート、左フック。パンチを打つたび、ビュンという音が鳴る。
やがて、床に汗が滴り落ちていったことに気づいた。賢人は動きを止め、己の体を見る。
いつの間にか汗だくになっていた。衣服も、汗びっしょりである。そんなことにも気づかないくらい集中しきっていたらしい。
賢人は汗で濡れた服を脱ぎ、タオルで体を拭いた。汗をかいたことにより、先ほどよりは楽な気分になっていた。緊張でガチガチになっていた体も、いい感じにほぐれてきた。
(恐怖で押し潰されそうになった時は、何でもいいから体を動かせ。汗をかけば、少しは楽になる)
これまた、山田のアドバイスだ。彼いわく、試合前の格闘家がミット打ちをするのも、試合前の緊張感でガチガチになった体をほぐすためなのだという。
その時は「へえ、そうなんですか」くらいにしか思っていなかった。まさか、今になってそのアドバイスが役立ってくれるとは思わなかった。
山田さん。ありがとう。
俺は、あんたみたいな死に方はしないよ。
あんたの分まで、生きてやるからさ。
心の中で礼を言うと、賢人は食事をとる。はっきり言って、食欲はないが、それでも食べなくては明日の本番に影響が出てくる。半ば無理やりに食物を詰め込んでいった。
食事を終えると、賢人は横になる。昼寝でもしようかと思ったのだが、当然ながら眠れるはずもなかった。
横になったまま、スマホをいじってみる。だが、眠くはならない。そのまま、時間だけが過ぎていく。
不意に、賢人は壁を……いや、壁に貼り付けてある教会の写真に視線を移した。
しばらく写真を睨みつけた後、おもむろに口を開く。
「俺は今まで、あんたに祈ったことはない。そもそも、祈れるようなことはしてこなかった。俺のやってきたことは、悪事ばかりだ。今さら、祈ったところで聞いてくれるはずもないよな。そいつは、あまりにも虫が良すぎる」
そこで、賢人の表情が歪む。
「これからやろうとしていることも、完全なる悪事だ。犯罪だよ。そのことを承知の上で、あんたにお願いする。俺は明日、人生を懸けた勝負をする。だから……頼む。俺に力を貸してくれ。明日一日だけでいい、あんたのご加護を俺に与えてくれ。もし、この頼みを聞いてくれなかったら……」
賢人の言葉が止まる。考えてみれば、失敗した場合に待っているのは確実な死だ。その時、果たして自分に何ができるのだろうか。
少しの間を置き、再び語り出す。
「もう、あんたを信じない。地獄の底で、ずっとあんたを呪い続けてやるよ」
言った後、両手を合わせる。ひざまずき、目をつぶった。シスターに教わった祈り方だ。
何年……いや、何十年ぶりかで、賢人は真剣に祈りを捧げた。心の中では、シスターの言葉が蘇る。
(マリアさまは、悲しむ人のそばに、必ずいてくださいます。どんなに暗い夜でも、母のように静かに手を差し伸べてくださるのです。皆さん、優しさを忘れないでください。人の心にあるものは、醜いものだけではありません。自分の中にある強さを信じてください。弱い人に手を差し伸べる気持ちを、失わないでください)
神さまでなくても、マリアさまでも何でもいい。
明日一日だけでいい、俺に手を差し伸べてくれ。
俺に力を貸してくれ。




