誠、ムエタイ教室を見る
プロジェクトBを見事に成功させた次の日、誠は狂言町の大通りを歩いていた。
今日も、職場でたっぷり遊び、そして寅美に叱られた。だが、最近では寅美の当たりが少し変わってきたように思う。以前に比べ、ソフトになってきたような気がするのだ。これは、どういうわけなのだろう。
まあ、いい。ソフトになってきたのはいいことだ……と、誠は気にせず歩いていく。この男、物事を深く考えることがない。気持ちの切り替えも早いし、何より最強レベルの楽天家である。
時間は午後六時であり、人も多くなってきた。また、ヤクザなんぞに出会ったら面倒だ。誠は、裏道へと入っていく。
その時、後ろから声が聞こえてきた。
「あー! いたよ! みんな、見つけた!」
聞き覚えのある声だ。振り返れば、そこにはギャルトリオのひとり小ギャルが立っている。
続いて、中ギャルと大ギャルも姿を現した。三人とも、敵意に満ちた目で誠を睨んでいる。
「こらオヤジ! てんめえ探したぞ!」
「ざけんじゃねえぞ!」
まず、小ギャルと中ギャルが叫ぶ。しかし、誠は妙に落ち着いていた。
「フフフ、やはり来たか……だがな、今日はこっちも備えがあるんだ! 来いソムチャイ!」
叫ぶと同時に、大通りからソムチャイが歩いてきた。自信たっぷりの表情で、誠の前に立つ。
そう、誠は万が一の事態に備え、ソムチャイにボディーガードを頼んだのである。本当は寅美に頼みたかったのだが、あらぬ誤解を受け断られたため、ソムチャイにお願いしたのだ。
気のいいソムチャイは、あっさりと引き受けてくれた。
「何なの、この人?」
大ギャルが尋ねた。ソムチャイの見た目は、リゾート地にいる陽気なタイ人ガイドという風貌である。誠とは、全く接点がなさそうだ。
対する誠は、胸を張って答える。
「聞いて驚け、見てチビれ。この男はな、俺のユウジンボウだ」
「はあ? ユウジンボウ? 何それ?」
小ギャルが聞いた。まあ当然であろう。広辞苑にも載っていない単語なのだから……。
「わからんのか。彼は、俺の友人であると同時に用心棒でもある。すなわちユウジンボウだ。わかったか、このスッチャラカンチャンチャンめ」
わけのわからんことを言い、勝ち誇った表情で三人を見回す誠。だが、ギャルトリオは首を傾げている。
「あのさ、何言ってんのか全然わかんないんだけど」
中ギャルの言葉に、誠はニヤリと笑ってみせる。
「フッ、そんなことを言っていられるのも今のうちだけだ。このソムチャイはな、かつてムエタイの選手だったんだ。さあソムチャイ、お前のタイキックを見せてやれ!」
「わかっただ!」
叫ぶと同時に、ソムチャイはハイキックを放った。
とんでもない高さを、足先がブンと音を立てて通り過ぎていく。フォームは完璧であり、キレも素晴らしい。まさに本物のムエタイキックであった。
ギャルトリオは、一瞬ポカンとなっていた。が、次の瞬間に騒ぎ出す──
「うわ! 今の見た!」
「超すげぇよ!」
「ねえ、もう一回やって見せて!」
ギャルたちは大興奮だ。こうなると、ソムチャイも黙ってはいられない。彼は、根は真面目だがお調子者なのである。ましてや、ギャルトリオに頼まれては嫌とは言えない。
「いいだ。いくだ!」
叫ぶと、またしてもハイキックを放つ。ギャルたちは、飛び上がって喜んでいた。
「ねえ! 今の凄いよ!」
「ブンって音がしたよ!」
「ねえ、どうやんの? あたしに教えてよ」
そんなことを言い出した大ギャルに、ソムチャイは丁寧にタイキックを指導し始める。
「キックは、腰の回転が大事だ。あと、足だけでキックしちゃ駄目だ。全身の力を足に集中させキックするだ」
そんなことを言いながら、蹴りのフォームを丁寧に指導している。大ギャルも、なぜか真剣な表情で話を聞いている。
その様子を見ていた誠は、音を立てずにその場を離れていく。なぜか知らないが、ギャルトリオのリベンジから逃れられそうだ。この隙に、逃げ出すしかない。
誠は、さらに離れていく。帰り際、ふと振り返ってみた。
ソムチャイは、熱心に指導をしている。ギャルトリオもまた、熱心に蹴りの練習をしている。なんだかよくわからんが、助かったらしい。誠は、足早に離れていった。
誠は歩いていき、自宅へと到着した。狭いアパートの一室であり、かなり散らかっている。床は、イタズラに使う小道具や玩具が散乱している状態だ。
そんな中ではあるが、誠はいっこうに気にしていない。むしろ、散らかっている方が落ち着くタイプである。
「いやあ、やっぱり我が家が一番だね」
そんなことを言いながら、ベランダの窓ガラスを開けた。と、彼の目はあるものを発見する。
アパートの庭に、一匹の猫がいた。丸々と太ったハチワレの猫である。顔はまんまるで、お腹周りにはタプタプと肉が付いていた。野良猫なのか飼い猫なのかは知らないが、この辺りをよくうろついている。
誠の表情が一変した。もともと締まりのない顔だが、さらにダランとした顔になる。
「ニャムコ、おいでおいで」
言いながら、誠は手招きする。ちなみにニャムコとは、誠がこの猫に勝手につけた名前である。実のところ、オスかメスかもわかっていない。ただ、見た目のイメージで名付けただけだ。
そのニャムコは、こちらに近寄ろうとはしない。誠の顔を、じっと見つめているだけだ。嫌われているわけではなさそうだが、かといって好かれているわけでもなさそうである。
「もう、ニャムコのいけずぅ」
そんなことを言いながら、誠はいったん引っ込んだ。
部屋の中から皿を取り出し、高級な猫缶『モンペチ』を開ける。
皿に盛り、再びベランダから顔を出した。
「ニャムコ、美味しいよ。お食べ、たらふくお食べ」
言いながら、そっと皿を押しやった。そして、すぐに離れる。皿に手が届かない位置で座り込んだ。
すると、ニャムコはのそのそと歩いてきた。皿に盛られたものの匂いをフンフン嗅ぎ、慎重に食べ始める。だが、食べている間にも誠に対する警戒は怠っていない。時おり、ちらりと見ている。
誠は苦笑した。このニャムコは、三ヶ月前に引っ越してきた時から見かけている。最近になって、ようやく餌をあげられるようにはなった。だが、それでも手の届く位置まで近づけようとはしない。用心深い猫なのである。
それでも、誠は信じている。いつか、あのタプタプと肉のついたお腹を撫で撫でさせてくれる日がくることを信じているのだ。
とりあえずは、少しずつ仲良くなり距離を詰めて行こう……と考えているのである。高級猫缶のモンペチも、いつ来てもいいように家に常備しているのだ。
ニャムコは、皿に盛られたモンペチを食べ終えた。美味しかったなぁ……とでも言いたげな様子で、口の周りを丹念に舐める。その仕草も可愛らしく、誠は目を細めて見ていた。今の誠にとって、最高に幸せな一時である。
しかし、幸せな時間にはいつか終わりがくる。ニャムコは来た時と同じく、のそのそとした動きで帰っていった。
誠は、その後ろ姿を名残惜しそうに見つめる。やがてニャムコの姿が消えると、誠はベランダのガラス戸を閉めた。
テレビをつけると、床に転がっている小道具や玩具などを手に取る。新しいイタズラのアイデアを考えているのだ。
「これをこうして、あれをああして……いや、このパターンもいいかもしれないな」
そんなことを言いながら、誠は手にした玩具を左右に振ったり上下に揺らしたりする。かと思うと、ビニール人形をテーブルの上に乗せてスマホで撮影したりもしていた。
誠の夜は、こうして更けていく。




