誠、寅美に叱られる
真幌市の狂言町は、都内でも有数の歓楽街として知られている。
夜になると、電飾がゲームの画面のようにチカチカと点滅し、通りを歩くだけで香水とアルコールと油煙の匂いが鼻を衝く。通りにはキャバクラや風俗店がひしめき合い、呼び込みたちの声が絶えない。
そんな狂言町であるが、裏側には場違いなほど大きな工場がある。窓ガラスから中を覗くと、制服を着た男女が忙しなく動き回っている風景だ。表側の派手なネオンとは、真逆の空気が漂っている。
そんな工場で何をしているのかと言えば、様々な電子部品を作っている。かつては上司からの罵声や怒号が響き渡っていたものだが、昨今ではハラスメントとして訴えられるせいか、聞こえる声は比較的おとなしいものである。
ただし例外もある。工場のある一角からは、毎日のようにとんでもない声が響き渡っているのだった。
「こぉばやしまことぉ! ヘラヘラすんなって何回言えばわかるんだ!」
「あっ、はい。すんません」
「すんませんじゃなくて、すみませんだろうが! 何回言えばわかるんだ!」
「すみません」
「まったく、懲りん男だな。お前には、常識というものがないのか?」
「一応、あるつもりであります」
「ありますは余計だ!」
今、叱られているのは小林誠、現在二十五歳の男性である。今年の四月から、この工場に勤務することになった青年だ。
そんな誠を怒鳴りつけているのは、班長の豪力寅美である。顔は化粧っ気がなく、目つきは鋭い。外国人の血を引いているらしく、彫りの深い顔立ちだ。とはいえ、その彫りの深さが余計に威圧感を強めているのも確かである。
もっとも、どんな化粧をしようが、彼女から威圧感を取り去ることは不可能であっただろう。
豪力寅美の身長は百八十センチを超えており、体重は……正確な数値は不明だが、確実に八十キロを超えているであろう。半袖の制服から覗く二の腕には、瘤のような筋肉がうねっている。肩幅も広くガッチリしており、首に連なる僧帽筋も逞しい。胸の巨大な膨らみは、実は大胸筋なのではないか……と噂されている。
しかも、この女性班長はただ大きいだけではない。柔道三段、空手二段の腕前らしいのだ。実際、拳はゴツゴツしておりタコがある。普通の生活をしていたら、あり得ない状態であろう。
この鬼軍曹のごとき女性班長は、誠を目の敵にしていた。何かあればすぐに睨みつけ、罵声を浴びせる。その迫力たるや、子供だったら数秒で泣いているだろう。
もっとも、罵声を浴びせられても仕方ない部分が誠にはあった。
今、誠は入ったばかりの外国人バイトたちの机を回っている。一応、彼は新人の教育係なのであった。
訳知り顔で回っていた誠だったが、その足が止まった。彼の視線の先には、ひとりの若い外国人女性が、しかめっ面で作業をしている。見ていて、どうにもぎこちない。緊張しているのか。あるいは、まだ日本の環境に慣れていないのか。
ならば、ここは俺がリラックスさせてやらねばならないな。
誠の裡に潜む、お調子者の血が騒ぎだした。こうなると、もう誰にも止められない。
彼は、おもむろにトントンと机を叩いた。外国人女性は、何かと思い顔をあげる。
その瞬間、誠は渾身の変顔をしてやった──
「ブワッハッハッハ!」
たちまち、外国人女性は笑い出す。ただ、その声は大きすぎた。そのため、誠の天敵をも呼び寄せてしまう。
「こぉばやしまことぉ! そこで何やってんだ!」
寅美に呼び出され、誠は仕方なく彼女の前に行く。
この後、誠はまたしても説教されたのであった。それを横目で見ているのは、他の外国人バイトたちである。
実のところ、彼らはニヤニヤしていた。皆「また始まったぞ」とでも言いたげな表情で、誠と寅美のやり取りを眺めている。イタズラをする誠と、彼を説教する鬼軍曹・寅美……この図式は、彼らにとっては毎日のイベントなのであった。
小林誠という男は、ぱっと見は悪くない顔立ちをしている。切れ長の目は涼しげで、鼻筋も通っている。
だが、それらの好条件を口元がすべて台無しにしていた。常に口角がゆるく上がっており、笑っていなくても「ニヤついている」と思われるのだ。本人に悪気はないのだが、軽薄さがにじみ出る笑顔は、初対面の人間に「こいつ適当な奴だな」という印象を抱かせる。
身長は百七十センチと平均的だが、体重は六十キロあるかないか。体つきは細く、制服越しに見える腕や脚はケーブルのように細い。「マッチョ」という体型とは真逆の体つきだが、そのぶん動きは軽い。通路を歩くときの足取りも、何か企んでいる小動物のように軽やかだ。
さらに、彼の顔つきや体型よりも何より目立つのは、その落ち着きのなさだった。人の話を聞きながら視線はきょろきょろ、作業中でもすぐに口元が動く。
それに加え、異常なほどのイタズラ好きであった。家からわけのわからないものを持ち込んでは、休憩中にいじくり回して他の工員たちを笑わせている。
その上、仕事中にまでイタズラをしては寅美に怒られている。この前などは、工場内を全身タイツで走り回り皆の爆笑を誘ったのだ。もっとも、後で寅美に首根っこをつかまれ説教されたが……よくクビにならないものだ、と周りの工員たちからも噂されている。
工場に入って三か月、真面目にしている姿を見た者はほとんどいない。それが、小林誠の不名誉な現状だった。
「あーあ、今日も寅美班長に怒られたよ。なんで、いっつもあんなにカリカリしてんのかな。やっぱりカルシウム不足かね。あれじゃあ、嫁の貰い手がないぞ」
ブツブツ言いながらも、誠は既に気持ちを切り替えている。そう、この男は無類のお調子者であるが、メンタルも強い。いや、強いというより無責任なだけかもしれない。
とにかく、立ち直りの早さもまた異常レベルであった。毎日のように寅美から怒鳴られているが、数秒経つとケロッとしているのである。
「ま、いいか。どうせ、そのうち寅美班長は道でヤンキーと喧嘩して飛ばされんだろ。そしたら、次の班長は誰になるのかな。もしかして俺だったりして」
そんなわけわからんことを呟きながら、誠は制服を着替える。騒がしいネオン街を避け、路地裏を歩き出した。この男、お調子者なはずなのだが、帰る時は人通りの少ない路地裏を好んで用いている。
楽しい我が家に向かい、てくてくと歩き続けていた……が、その歩みはすぐに止まった。
繁華街の路地裏で、誠は驚きのあまり何も言えず立ちすくんでいた。この男にしては珍しい話だが、それも仕方ないだろう。
なにせ、彼の目の前には、不思議な猫がいるのだ。美しい毛並みをしており、体型も痩せすぎず太りすぎでもない。前足を揃えて佇んでいる姿からは、貴族のごとき雰囲気すら感じさせる。瞳は、美しいエメラルドグリーンだ。
そんな不思議な空気を漂わせている黒猫には、他の猫とは決定的に違う点があった。長くふさふさした尻尾が、二本生えていたのだ。その二本の尻尾は、まるで別の生き物であるかのようにクネクネと動いている。
「うわ……こいつ、猫又なのか!? すげぇ! こんなの初めて見た!」
思わず呟く。と同時に、誠の表情が一変した。ただでさえ締まりのない顔が、さらにだらしなくなる。
「ね、猫ちゅわーん……」
言いながら、体をくねらせ始めた。そう、誠は無類の猫好きでもあるのだ。
しかし、黒猫はさっと身をひるがえし逃げていく。
「待ってよおん、猫ちゅわーん」
気色悪い声を出しながら、猫を追いかけていく誠。だが、猫はすぐに姿を消してしまった。
「もう、いじわるぅ。仲良くしちくりよう」
そんなことを言いながら、誠は悔しそうに辺りを見回す。どうやら、猫は完全に姿を消してしまったらしい。
こうなれば帰るしかない。誠は、トボトボと歩き出した。
◆◆◆
そんな誠の後ろ姿を、じっと見つめているものがいた。
先ほどの黒猫である。二本の尻尾をくねらせながら、誠を光る目で眺めていた。
どうやら、誠のことが気に入ったらしい。黒猫は、そっと歩き始める。
誠の跡を、音もなくつけていった。




