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悪党とバカと不思議な黒猫  作者: 赤井"CRUX"錠之介


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19/33

賢人、思わぬものと再会する

 午後六時を過ぎ、狂言町は混沌と悪徳の街という素顔が剥き出しになる。学校帰りの学生や仕事帰りのサラリーマンたちが行き交い、出勤するキャバ嬢や風俗嬢の数も増えてきた。加えて、キャバクラや風俗店の客引き、さらにはスカウトまで現れ、道行く人たちにそっと声をかけている。だが、パトロール中の警官を見かけると、巧妙に人混みへと消えていった。

 さらに、通りを警戒するヤクザの数も増えてくる……はずなのだが、一昨日までに比べると極端に少なくなっている。

 賢人は確信した。ヤクザの大半は、警察署に勾留されているのだ。あの殴られていたイタズラ小僧が被害届を出さなくとも、しばらくは勾留されている。うまくいけば、二十日ほど留置場にて身柄を拘束されることとなる。

 その間、警備が手薄になる。逃げるルートは……以前と同じく、大通りでいいだろう。木を隠すには森、人を隠すには人混みである。

 売上金を奪ったら、警備が手薄になった大通りから逃げればいい。これで、仕事がやりやすくなった。




 賢人は、大通りに出てみた。ゆっくりと歩き、周囲を観察する。

 相変わらず人の数は多いが、彼らは望みのものがある方向にのみ注意を向けている。賢人に視線を向ける者などいない。

 賢人のような筋肉質の体を持ち、顔もいかつい若者が歩いていれば「こいつ何なんだ?」という警戒の視線が飛んでくるはずだ。

 実際、三日前まではそうだった。警備を担当しているヤクザからの、矢のような視線を感じた。だからこそ、これまでは極力近づかず、双眼鏡を使い遠くから偵察していたのだ。

 しかし、今は視線を感じない。通りに配置されていたヤクザは、ほとんどいないと考えていいだろう。


 さらに歩き続け、後藤ビルの周辺を回っていく賢人。その時、彼の目は奇妙なものを捉えた──


 道路の隅に、一匹の黒猫がいた。綺麗な毛並みで、体型はスマートだ。尻を地面に着け、前足を揃えて座っている。瞳は、美しいエメラルドグリーンだった。

 さらに、その猫には他の猫と違う点があった。長くふさふさした尻尾が二本生えていたのだ。その二本の尻尾をくねらせ、賢人をじっと見上げている。

 賢人は、驚きのあまり声も出せなかった。同時に、かつての記憶が蘇る──


 ◆◆◆


 教会に併設された児童養護施設にいた頃、この不思議な猫を一度だけ見たことがあった。教会の礼拝堂にて、退屈な牧師の話を聞いていた時……この猫が、片隅にて背中を丸めていたのだ。説教を聞いているかのように、二本の尻尾を緩やかに動かしている。

 その猫を見るなり、賢人は慌てて立ち上がった。その珍しい猫を捕まえようとしたのだ。しかし、他の少年たちに怒られてしまった。牧師さまの話が終わっていないのに、何事だ……と。

 賢人は、必死で不思議な猫がいたことを主張した。だが、ひとりを除いて誰も信じてくれなかった。


「賢人くん、世の中には不思議なことがあるの。もしかしたら、その猫さんは君にしか見えなかったのかもしれないわね」


 シスターは、そう言って笑っていた。

 賢人は救われた気がした。自分の話を皆で嘘だと決めつけていたのに、シスターだけは信じてくれたのだ。


 ◆◆◆


 その黒猫が、この狂言町にいる。




 賢人は、黒猫を追いかけた。だが、黒猫は人混みの中をすいすい進んでいく。

 不思議だった。この狂言町、今は大勢の人間が行き交っている。にもかかわらず、誰もこの黒猫には気づいていないようなのだ。

 そして黒猫はというと、人の足を巧みに避けて進んでいく。ぶつかっていてもおかしくないのに、一度も当たることなく優雅に歩いていった。

 賢人は、その黒猫を追っていく。なぜかは知らないが、黒猫を追わなくては……そんな衝動に支配されていたのだ。

 やがて、黒猫は大通りを外れ裏道へと入っていく。賢人も、後に続いた。

 その瞬間、賢人は思わず立ち止まる──


 目の前にいたのは、可愛らしい顔立ちの外国人女性だった。こちらを、唖然とした表情で見ている。どこかで見た覚えのある気がした。

 いや、こんな女性など知らないはずだ。賢人はうろたえたが、そこでようやく冷静さを取り戻す。いったい何をやっているのだ。あの黒猫が、今の自分と何の関係があるというのだ。

 賢人は、すぐに立ち去ろうとした。しかし、そこで思わぬ言葉が飛んでくる──


「こないだは、ありがとうだよ」


 訛りのある特徴的な声に、賢人は立ち止まった。そういえば、こんな喋り方をする女と会った記憶がある。

 賢人は振り返り、女をまじまじと見つめた。そこで、ようやく思い出す。数日前、チンピラに絡まれているところを助けたのだ。

 女は、何か言いたげな表情でじっとこちらを見ている。

 立ち去るべきだった。大仕事を控えている身なのに、こんな女に構っている場合ではない。賢人の理性は、そう告げていた。

 だが、賢人の心は違う反応をした。


「俺は今、忙しい。けどな、仕事が全て終わり、無事でいられて、もう一度会うことができたら……その時は、あの、食事に誘っていいかな?」


 気がつくと、そんな言葉が出た。

 なぜ、そんな言葉が出たのか自分でもわからない。だが、目の前にいる女性には離れがたいものを感じていた。あの仕事がなければ、彼女を今すぐ誘っていただろう。

 しかし、その衝動をかろうじて押さえた。失敗すれば、賢人は死ぬかもしれないのだ。さらに、彼女にも何らかの迷惑をかけることになるかもしれない。だからこそ、今ここで彼女と何らかの繋がりを持つわけにはいかなかった。

 代わりに、こんな意味不明の言葉が出てしまった。もし、命あったら……もう一度会いたい。その願望が、この言葉を吐かせてしまったのだろう。


 女はというと、キョトンとした顔でこちらを見ている。何を言っているのだ、と思っていることだろう。賢人とて、見知らぬ女にそんなことを言われたら確実に引く。違法薬物か酒の飲みすぎで頭のおかしくなった女だと判断し、さっさと遠ざかることだろう。

 そう思った途端に、恥ずかしさがこみ上げてきた。さっさと、この場を離れよう……そう思った時だった。


「うん、いいよ。約束だよ」


 女は、そう言ったのだ。直後、ニッコリ微笑む。

 賢人は、あやふやな笑顔で微笑み返した。そのまま、何も言わず去っていく。




 賢人は、雑踏の中を進んでいく。

 当然ながら、黒猫の姿はどこにもなかった。まるで最初から存在しなかったかのようである。今や、影も形も見当たらない。

 だが賢人には、あれが幻ではなかったと確信していた。黒猫は、自分を彼女に会わせるために現れたのではないか……そんな考えすら、頭に浮かんだ。

 

 胸の奥に、妙な熱が宿っているのを感じた。

 幼い頃、自分ははっきりと見たのだ。礼拝堂の隅に、不思議な黒猫が背中を丸めていた姿を……二本の尻尾を揺らしながら、呑気な顔で説教を聞いていた。


 今、賢人は死と隣り合わせの仕事を前にしている。もちろん恐怖はあった。今も怖くて仕方ない。だが、「生きたい」という強烈な願望の芽生えも感じていた。


 もし生き延びられたら、彼女ともう一度会いたい。


 それは子供じみた夢想なのかもしれない。だが賢人にとって、それは久しく持ち得なかった「未来への約束」だった。




 街の空気は、さらに淀みを増していた。呼び込みの声に、今度は酔客の怒号が混じり始めた。夜の街が、その本性を見せる時間帯である。

 そろそろ立ち去らねばならない。闇の世界の住人が、もうじき活動を開始する。奴らの嗅覚を侮ってはいけない。怪しい人間を目ざとく見つける能力は、ヤクザよりも上かもしれないのだ。

 そんな連中に見咎められては、全てが台無しである。


 ゆっくりと歩き、家へと帰る賢人。彼の胸の中で、確かに何かが変わり始めていた。








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