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悪党とバカと不思議な黒猫  作者: 赤井"CRUX"錠之介


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1/10

賢人、動き始める

「なんつー暑さだよ。これでも日本かね、まったく」


 伊達賢人(ダテ ケント)は、ぼやきながらタオルで汗を拭いた。さり気なく向かいのビルに視線を移す。

 既に夕方になっているはずなのだが、太陽の発する熱は容赦ない。地面に照りつける光はアスファルトを焼き、歩道には熱波がゆらめいていた。

 真幌市の狂言町に特有の、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。シャツが背中に張り付いてきた。街全体が、まるで蒸し風呂に閉じ込められたかのようだ。環境保護などとは縁もゆかりもない生き方をしている賢人ですら、地球の温暖化について否応なしに考えてしまう陽気であった。

 通りには人々が行き交っているが、皆どこか足取りが鈍く、汗を拭いながら建物の影に逃げ込んでいく。自動販売機の前にはサラリーマンらしき男が立っており、冷たい飲料を手にしてホッと一息ついている。

 遠くからは工事の金属音やバイクの排気音が混ざり、夕方の繁華街に特有の騒がしさを生んでいた。


 そんな中、賢人の目は前方の古びたビルに向かっている。

 この後藤ビルは……表向きは、雑多なオフィスが入っている古い建物でしかない。

 しかし、その地下には広域指定暴力団・仁龍会が営む裏カジノがあるのだ。会員制であり、一見客は入ることができないシステムである。ちょっと裏の世界に足を踏み込んだ者なら、誰でも知っていることだった。

 もちろん警察も知っている。ただし、彼らがこの裏カジノ摘発に動くのは、だいたい年に三回だ。これ以上ガサ入れを増やせば、仁龍会からの「副収入」が減ってしまうことになる。

 かといって、ガサ入れもしなければ……今度は、こちらの面子にかかわる。一応は摘発しておかないと、いろいろな方面からの突き上げもあるのだ。

 したがって、年に三回程度の回数が、多すぎず少なすぎずというラインである。

 互いの面子を保ちつつ、上手くやっている両組織。中に入ると、まず目に入るのは煌びやかな照明だという。この光が、違法に集められた札束と金で買われた歓声とを照らし出しているのだ。


 そんな裏カジノだが、ほぼ二日に一度のペースで地下の金庫から売上金が運ばれていく。行き先はというと、もちろん仁龍会の本部である。

 賢人の最終目的は、その売上金を奪うことだ。事前に聞いた情報によれば、少ない日でも五千万円は下らない。多い日ならば、一億はあるという。

 今回の下見は、その運搬ルートと警戒がどの程度のものかを確認するためだ。


「まずは入口の監視カメラの位置、警備の交代タイミング、通行人の数……ふう、調べることが多すぎるな。頭がパンクしそうだぜ」


 呟きながらも、ひとつひとつチェックしていく。気になる点は、スマホを使いメモしていった。

 汗で髪の毛が額に張り付き、視界が一瞬ぼやける。賢人は軽く頭を振って視界をクリアにすると、小型の双眼鏡で周辺を見回していった。

 賢人は身長こそ百七十センチ強だが、体重の方は八十キロほどある。脂肪太りではなく、筋肉に覆われた肉体だ。

 その体は見事なものであるが、同時に目立つのも確かである。ビルの周辺はヤクザも多い。賢人のような男が用もないのに長時間うろうろしていては、確実に目を付けられてしまう。万一、実行前に顔を覚えられてしまっては終わりだ。

 とはいえ、一度は中に入ってみなくてはならない。中の様子を知らなくては、手の打ちようがないからだ。



 

 ヤクザの金というのは、基本的に表に出せないものがほとんどである。裏カジノともなれば、なおさらだ。したがって、奪ったとしても警察に訴え出ることはない。ある意味では「安全」といえる。

 その代わり、奪うことに失敗した場合……それは、死を意味する。裏社会には、裁判などというありがたいシステムはない。「裁くのは俺だ」とばかりに、その場で射殺されても文句は言えないのだ。

 いや、ただ殺されるだけならまだいい。下手をすると、死んだ方がマシだと思うような目に遭わされる可能性もあるのだ。

 特に仁龍会のような大組織の場合、その金を奪うこと自体が不可能に近いのだ。これは、バカでもわかる。したがって、そんな恐ろしい事件(ヤマ)にトライした者はいない。

 言うまでもなく、賢人とて本来ならばトライしたくはない案件であった。


 賢人も、当然ながら命は惜しい。金と命を(はかり)にかければ、命の方が圧倒的に上だ。死んでしまえば、どれだけ金を持っていようが使用できない。ならば、考えるまでもなく……いや、本来ならば考えることすらあり得ない選択であった。

 しかし、今の賢人には、そうもいかない事情があった。今回ばかりは、命を懸けてでもやらなくてはならないのだ。


「金は命よりも重い、か」


 かつて読んだ小説のセリフが脳裏に浮かび、思わず口にしてしまった。

 いや、あれは漫画だったかもしれない。もっとも、今さら漫画だろうと小説だろうと関係ない。重要なのは……そうやって己の思考を狂わせなければ、こんなバカげた計画を実行に移せないということだ。


「上等じゃねえか。やってやるぜ」

 

 賢人は、低い声で呟いた。 

 直後に双眼鏡を畳むと、ポケットにしまい込み、何気ない風を装って歩き出した。

 まっすぐに後藤ビルへと向かうのは、非常に危険だ。視線を逸らしながら、少し遠回りして角のコンビニに入る。冷房の風が肌に触れた瞬間、全身の筋肉が緩むような感覚に襲われホッとした。

 店内に流れる安っぽいポップスと、レジ前の菓子袋のカサカサという音が、さっきまでの蒸し風呂のような世界とは別物のように思える。賢人は冷たい缶コーヒーを手に取り、レジで小銭を払った。

 缶の冷たさを掌で感じながら、頭の中では別の熱が渦巻いていた。動くのは、まだ先の話だ。

 賢人はコーヒーを飲み干し、缶をゴミ箱に投げ入れた。底が金属に当たる乾いた音が、妙に大きく響いた。


 外に出ると、陽はだいぶ傾いていた。それでも熱気は消えず、街の空気は重い。賢人は人波に紛れ、後藤ビルの裏手へと回り込んだ。そこには搬入口らしいシャッターがあり、脇には灰皿とベンチ、そして黒いスーツ姿の男がふたり、無言でタバコを吸っていた。

 昨今は、紙巻きタバコを吸う人間も少なくなった。嫌煙の流れは、今や中世の魔女狩りにも匹敵するのでは……とすら思わせる、これも時代の流れなのだろう。

 もっとも、ここにいる男ふたりは、そんな流れなど屁とも思っていないらしい。

 そんな彼らの目つきは、氷のように冷たいものだった。視線を合わせれば、一瞬で探られたくない部分まで探られそうな気がした。賢人は歩幅を変えず、ちらりとも見ずに通り過ぎる。耳だけを研ぎ澄ませ、男たちの会話や動作を拾う。だが、今日のところは特に大きな動きはない。


 角を曲がり、賢人は深く息を吐いた。心臓が鼓動を早めている。まだ何も始まっていないのに、だ。これが本番になれば、その鼓動は破裂寸前まで高まるだろう。

 だが、もう引き返すことはできない。一月(ひとつき)以内に、賢人は命を引き換えにしてでも仁龍会の金を奪いに行く。

 それは、もう決まってしまった道なのだ。




 そんな賢人を、じっと見ているものがいた。

 それは、一匹の黒猫だった。とても美しい毛並みをしており、体型も痩せすぎず太りすぎでもない。前足を揃えて佇んでいる姿からは、気品すら感じさせる。瞳は、美しいエメラルドグリーンだった。

 そんな不思議な雰囲気を漂わせている黒猫には、他の猫とは決定的に違う点がある。長くふさふさした尻尾が、二本生えていたのだ。その二本の尻尾は、生き物のようにくねくねと動いている。


 奇妙な黒猫は、賢人の行動を路地裏から眺めていた。その姿は、この後に賢人が引き起こすことになる事件を予知しているかのようであった。

 やがて、黒猫は向きを変える。路地裏の暗闇に消えていった。







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