最終章 そして次の舞台へ
多香音が香川に引っ越してから2度目の春が巡ってきたかと思えば、季節はあっという間に新緑の初夏を迎える。
ゴールデンウィーク期間中の讃岐アイスアリーナは、休日を謳歌する一般利用客でごった返していた。多くはスケート未経験の初心者で、氷の上に立つことすら苦戦する有様だ。
そんなまっすぐ滑るのもおぼつかない人々に混じって、高校2年生になった晶と多香音のふたりは、ホールドを組んだ状態で練習に励んでいた。
「ふたりとも、ターンの足がずれていますよ。篠田さんはもう少し速く、定森さんは気持ちコンパクトに収めてください」
リンク脇で目を光らせながら指摘するしのぶに、ふたりは「はい!」と快活に答えて早速修正を図る。若い男女が互いの腰に手を回す姿が珍しいのか、時折他の利用者が眺めながら通過するが、練習に打ち込むふたりの目には映り込むことすらなかった。
奇異の目に晒されながらコーチつきっきりのレクチャーを受け、ようやくベンチで一時の休息を満喫する。
「それにしても今日は混んでるね」
タオルで汗を拭っていた多香音が、辟易したように漏らす。ミラノ五輪から1年以上経過しているというのに、スケートリンクは日に日に賑わいを増している。
「これじゃあツイズルもろくにできないよ。いくら何でもわざわざこんな日に氷の上で練習しなくても」
晶もスポーツドリンクから口を話して不平を垂れるが、すかさずしのぶは「余裕ぶっている暇はありませんよ」と口を尖らせたのだった。
「1度良い演技ができたからと言って、次も同じように上手くいくとは限らないのが勝負の世界です。何が起こるか分からないからこそ、何が起きても動じないように日々の基礎練習が重要なのですよ。それに、あなたたちはもう追われる立場です。おふたりに追いつき追い越そうと、今この瞬間も下の世代がどんどん力を伸ばしています。今までのように挑戦者の心持ちのままだと、必ず痛い目を見ますよ」
就任当初の腰の低さはどこへやら、すっかり強気な物言いに変わり果ててしまったコーチのお言葉に、ふたりは口を噤んで項垂れる。
晶と多香音が挑んだ昨年の全日本ジュニアの結果は、惜しくも2位だった。さすがにリズムダンスで開いた6点もの差を覆すことは叶わなかった。
だが、フリーダンスにおいて心身ともに最高の状態で銀盤に立ったふたりは、日本ジュニア歴代記録を大幅に更新する100.76という驚異的な点数を叩き出し、フィギュアスケート界どころかスポーツ界全体に大きな衝撃を与えていた。この得点はフリーに限れば、世界ジュニア選手権でも表彰台に上れるほどのハイスコアに相当する。
最終滑走の岩下・倉木も『ジゼル』でミスなく完璧なフリーダンスを披露し、こちらも95.10という世界レベルの高得点を積み上げたために逃げ切りを許してしまったものの、全日本ジュニア史上最も熾烈な争いになったと、スケート関係者は参加選手全員を称賛したのだった。
「篠田多香音さん!」
突如名前を呼ばれ、多香音は思わずタオルを持つ手を止めた。見ると、ベンチのすぐ傍で小学校低学年くらいの女の子が、きらきらと輝く瞳をこちらに向けながら立っていた。
「全日本ジュニア見ました。篠田さんと定森さんのアイスダンス、とってもきれいでカッコ良かったです! 私もいつか、ふたりみたいに氷の上で踊れるようになりたいです!」
まっすぐと多香音を見つめながら、はきはきと話す女の子。
邪念など一切感じさせないその眼差しに、多香音もつい頬を緩ませてベンチから立ち上がる。そして女の子と同じ目の高さまで腰をかがめると「ありがとう、きちんと練習を積み重ねていけば、いつかあなたも氷の上で踊れるよ。私も氷の上で待ってるからね!」と、にこやかに返したのだった。
「あ……ありがとうございます! グランプリシリーズ、頑張ってください!」
「もちろん。金メダル取ってくるから、応援よろしくね!」
多香音は少女の小さな手を、両手で包み込むように握り返す。憧れの選手に直接触れられた小さなスケーターは、今にも嬉しさで泣き出してしてしまいそうなほど顔を赤くさせていた。
全日本ジュニア準優勝という結果を受けて、晶と多香音は日本スケート連盟により強化選手Bに指定されていた。これによって2027~2028年度は、大会への出場や遠征のための強化費用が連盟から支給され、ふたりはより一層アイスダンスに打ち込めるようになった。
だが強化選手に指定されたということは、選ばれた責任を果たすことの裏返しでもある。新年度が始まる7月以降、ふたりは日本代表として大会に出場し、世界の強敵と戦っていかねばならない。
当面の目標は8月から始まるジュニアグランプリシリーズだ。ここで表彰台に上がり、12月のジュニアグランプリファイナル出場権を獲得できるかどうかが最初の関門になる。
ちなみにふたり以外には、海外での実績も十分な藤沢夫婦が特別強化選手に、全日本ジュニア優勝の岩下・倉木も強化選手Aに指定されている。彼らもまた更なる高みを目指して、それぞれのホームリンクで努力を積み重ねているところだろう。
「ははは、多香音ちゃんもすっかり有名人だねぇ」
名残惜しそうに立ち去る少女を、手を振り返して見送る多香音に声をかける者がまた一人。ピチピチのスパッツ姿で現れたのは、香川のさっちゃんこと小夜子だ。
「さっちゃん、来てたんだ」
「うん、陸でのトレーニングも飽きちゃったし、やっぱ1日に1回は滑らないとね。にしても人多いねー、ここでトリプルアクセル跳んだら、みんな驚くかな?」
にししといたずらっぽく笑みを浮かべる小夜子に、晶はすかさず「やめときなって、危ないよ」と苦言を呈する。
昨年の全日本ジュニアにて、演技後半に転倒はあったものの小夜子はトリプルアクセルを成功させ、総合3位の成績で大会を終えていた。高校3年生になった今年こそ全日本で表彰台の真ん中に立つべく日頃から闘志をたぎらせる彼女はオフシーズン中もリンクに通い詰め、最近はトリプルアクセルの安定感も増してきただけでなく、4回転ジャンプをプログラムに組み込もうと挑戦の日々を送っている。そんな彼女もまた急成長ぶりと実績を評価され、女子シングルの強化選手Aに選出されていた。
スケート不毛の地とすら呼ばれた四国に、有望なジュニア選手が同時に現れたとあって、フィギュアスケート界は大いに沸き立った。これは近い将来、このリンクからオリンピックのメダリストが生まれるかもしれない。
「さっちゃんに負けてられないね。ほら、私たちもさっさと行くよ!」
触発されて意気揚々とリンクに向かう多香音に、晶が「ええ、もうちょっと休ませてくれよー」と弱気な声をあげる。
晶と多香音が再び氷上で練習に打ち込む最中、リンク脇では一人の少女がスケート靴の紐を縛っていた。
「あの子があれだけできたんだ、私だって……」
ぶつぶつと呟きながら蝶結びをきれいに整えるのは、晶の姉である定森皐月だ。やがて立ち上がった彼女はシューズのブレードを床にこつこつと打ち当てて緩みが無いことを確認すると、ゆっくりとした足取りでリンクへと向かう。
だが銀盤まであと一歩というところで、彼女の足は止まってしまった。
まだまだ氷が怖い。弟の太腿から流れ出た鮮血が氷上に広がっていくあの光景が、脳裏に焼きついている。
でも、今ここで一歩踏み出さなければ、もう一生次の機会は巡ってこない。確証は無いが、何となくそんな気がする。
胸に手を当て、大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。そして歯を食いしばり、右足のエッジをおそるおそる氷上に乗せた。
とんと氷に触れる金属の刃。少し沈み込むような特有の感触に、皐月の身体はびくっと震えるものの、恐怖心を振り切った彼女はもう片方の足も床から放し、さらに一歩前へと進み出た。
気が付けば、皐月の身体は2本のブレードに支えられて、ゆっくりと前に滑り進んでいた。恐る恐る、膝を曲げて両足をハの字の形にすると徐々に減速し、ついにピタリと静止する。
この瞬間、皐月は誰の手を借りることもなく、自分自身の意思と力で氷の上に立っていた。
「……やった、乗れた!」
周囲に大勢の利用者がいるにもかかわらず、皐月の目から涙が溢れ出す。やがて一筋の涙がつーっと頬を伝うと、顎からこぼれ落ちた水滴が、白い銀盤にしみ込んでいったのだった。
ここまでお読みいただいた読者の皆様、最後までお付き合いくださり誠にありがとうございます。
本作は第一話が2022年2月に投稿されたことから、完結までマル3年以上費やしてしまいましたが、なんとか完結まで持っていけることができ、作者として大変安心しております。
というのもこの3年ちょっとの間に、人事異動3回、引越し3回、そして結婚とライフイベントが重なったことから、小説の更新がおろそかになってしまいました。(決してウマ娘やらロマサガ2リメイクにドはまりしたことだけが原因ではありませんのであしからず。)
この小説を書き始めたきっかけは、以前からウィンタースポーツを題材にしてみたいと考えていたところ、北京五輪でフィギュアスケート競技を見て感銘を受けたことが挙げられます。加えて、これまで自分が描いたことの無かったダブル主人公、特に男女バディの形式にも挑戦したかったことから、アイスダンスを題材としてプロット作成に取り掛かりました。
一人称と比べて心情描写が難しく、また場面の転換も多いので書いている最中はなかなかに苦労しましたが、自身にとって多少はプラスの経験になったのではと思います。
さて、現在の日本は世界有数のフィギュアスケート大国ですが、アイスダンスに関しては強豪国の後塵を拝している状況です。その理由には文化的、歴史的な要因もありますが、近年は有力選手の増加により、以前よりも注目度は高まってきていると言えるでしょう。今月下旬にはミラノ五輪出場枠が決まる世界選手権も開催されますので、私もファンの一人として日本代表選手を応援し、今後の日本スポーツ界の発展を願いたいと思います。
次回作についてはまだ何も決まっていませんが、今後も可能な限り小説を書き続けたいと考えています。
後日、もし新着欄で当方の名前を見かけた際には、クリックして拙作をご一読いただければ幸いです。改めて、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
2025年3月13日 悠聡




