第七章その3 火の鳥
伸ばした手を取り合い、晶と多香音は見つめ合ったまま静止する。観客の拍手も収まり、会場は時間が止まったかのように空気が張りつめていた。
途端、破壊音にも似た荘厳な弦と金管の重低音が空間を穿ち、不気味でおどろおどろしい旋律が奏でられる。
地の底から聞こえてくるようなバスドラムの打音にのって、氷上でステップを刻むふたり。不穏な音楽と相まって、演者だけでなく観客たちすらもいつの間にか鬼気迫る顔つきを浮かべていた。
やがて互いの腰に手を回したふたりは、スピンを繰り返しながらリンクを縦横無尽に滑走する。寸分違わぬタイミングで互いに足をつけて加減速を繰り返すその姿は、まるで重力から解き放たれたかのようだった。
そこからは手を離してのツイズルに移行する。少し腕を伸ばせば相手の身体に触れてしまえるほどの間隔を保ちながら、両者とも片足だけを氷に着けた状態で、エッジコントロールのみで回転やターンを織り交ぜながらリンクをぐるりと一周する。曲の抑揚に合わせてふたりはさも自由自在に、思うがままに舞っているように映るが、その動きはそれぞれが鏡面と見紛うほどぴたりと揃っていた。
そして序盤最大の見せ場であるカーブリフト。曲の中で晶に素早く足をかけた多香音は、いわゆる「仰け反りサボテン」のポーズで指先までピンと伸ばしたまま彫像のように固まる。そんな相方を支えながら、怪我で練習が思うようにできなかった時もジムに通って上半身を鍛えてきた成果を見せつけんと、晶は制限時間いっぱいまで氷上に弧を描く。燃え盛る炎を彷彿させる衣装の多香音が白い銀盤を高速で滑走するその姿は実によく映え、技の成功に観客からは惜しみない拍手が贈られた。
喝采もまだ鳴り止まない中、ふたりはリフトを解除して氷に足を置く。燃え盛る炎のような冒頭部が過ぎ去り、曲調もフルートを中心とした穏やかなものに移り変わったここからは、再びホールドを行ってのステップシークエンスだ。
スピン、ターン、逆回転と高難度のステップを息つく間も無く連続で繰り出し、いかに美しく滑るかを見せつけるポイントであるが、その分だけ採点基準は厳しい。高得点のためにはほんの僅かなズレすらも許されないアイスダンスきっての難所である。
だが振付だけでなく呼吸のタイミングまでそろえたふたりにとっては、そんなジャッジなど何の障壁にもならなかった。一糸乱れぬ足運びに、足元で飛び上がる氷の粒子がライトに照らされてダイヤモンドのように輝く。
今のふたりはまさに一心同体。途方もない回数の練習を繰り返してきたのは当然のこと、心と心が通い合うまで何もかもを吐露し合ったカップルだからこそ為せる以心伝心の極致に達していた。
ステップシークエンスを完璧にこなした晶は、多香音を軽々と持ち上げてローテーショナルリフトを優雅に決める。最早彼らがミスをする姿など想像すらできない。
いよいよフィナーレに向けて、会場に華やかな金管の音色が鳴り響く。再び高速のステップとターンが繰り返され、これからどのような展開が待っているのかと見ている者の気分も自然と昂る。
とうとう最後の構成要素。互いに向かい合ったまま高速で回転しているところで、突如、晶が背中から倒れ込んだ。そんな晶の背に多香音は素早く手を回して相方を強く引き寄せると、倒れ込む勢いに乗って、ついに晶の足が氷から離れた。
直後、大喝采が巻き起こった。気がつけば多香音は一本の棒にようになった晶の身体を胸の高さまで水平に持ち上げ、高速でスピンしたままその場で留まり続けていたのだ。
曲が最も盛り上がるこのタイミングで見せつけられる、彼らならではの逆リフトだ。
まだ曲は終わっていないというのに、会場は既に拍手と歓声、そしてどよめきに包まれている。中には今我々が見ているのは本当に日本ジュニアの大会なのか、何百回何千回繰り返せばこれほどのダンスを磨き上げられるのか、理解が追いついていない観客もいた。
制限時間をフルに使って回転を交えたステーショナリーリフトを成功させた多香音は、丁寧に晶を氷に降ろす。
そこからは徐々にテンポと音量を落としていく曲調に合わせてふたりは回転の速度を少しずつ落とし、最後は旋律が消え入るととともに、ゆったりとポーズを決めてフィナーレを迎える。つい先ほどまで氷上で行われた烈火のような滑走は現実で行われたものだったのか、それともただの白昼夢なのか、ふたりのダンスは余韻を残したまま幕を閉じた。
「ブラーボー!」
会場にいた誰もが立ち上がり、拍手と歓声をふたりに贈った。
鳴り止まぬスタンディングオベーションにふたりは何度も何度もお辞儀で返しながら、名残惜しそうにリンクを後にする。
「お、終わった……」
銀盤の上ではにこやかな笑みを浮かべていた晶が、エッジにカバーを着けた途端、どっと疲れたとでも言いたげな表情で弱々しく吐露する。
「ふだりとも、すごがったでずよぉ〜!」
そこに駆け寄ってきたのはコーチのしのぶだ。戦いを終えた教え子を出迎える彼女の顔は、涙と鼻水でグズグズに崩れていた。
「私、ふだりのコーチになれて、本当によがったー!」
べとべとに濡れた顔のまま、しのぶは多香音に抱きついた。選手が長身でコーチが比較的小柄なせいで、これではしのぶが多香音に泣きついているようにしか見えない。
「コーチ、カメラ来てますよ!」
恩師のあられもない姿に慌て、多香音が傍まで接近していたテレビクルー一行を指差す。
「知りまぜんよそんなこと、ほらカメラマンさんだって泣いてますし!」
だがしのぶは聞く耳も持たず、むしろテレビクルー一行の方を指差す始末だ。なお、指摘されたテレビカメラマンについても涙を溢れさせまではいなかったものの、その目はすっかり潤んでいた。
いつまでもここにいては進行に支障が出るからと、3人は運営スタッフに促されてキス・アンド・クライまで移動する。その間も、会場の拍手は一向に鳴り止む気配を見せなかった。
「全身全霊、やり尽くしたかな」
沈み込むようにソファに腰掛けた晶の額には、大粒の汗が浮かび上がっていた。
「私も、今できることは全部やった」
隣に座った多香音も呼吸の度に肩を上下させるものの、その目はいつにも増して燦々と輝いていた。
「今のは私にとって、人生で一番の演技だった。今日のフリーがどんな結果であっても、私は今までで最高の滑走ができたって確信している」
頬を紅潮させて興奮気味に話す多香音を見て、晶は「僕もだよ」と頬を緩ませた。
「定森晶さん、篠田多香音さんの得点――」
やがて会場が静まり返り、結果がアナウンスされる。
その場にいた全員が固唾を呑んで耳を傾けるその瞬間、ふたりは無意識のうちに互いの指を絡め合い、強く握りしめ合っていた。




