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第七章その2 最高のパートナー

「何度見返しても、凄い……」


 全日本ジュニア初日を終えて、寝間着を兼ねたスウェット姿でホテルのベッドに腰かけた多香音は、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。


 晶と多香音が高得点を記録した直後、岩下・倉木のカップルが演じたリズムダンスは、完璧と呼ぶ以外になかった。


 かつてミス・パーフェクトの異名で世界を相手にしてきた二階堂コーチによる薫陶の賜物か、寸分違わぬタイミングで繰り出されるエッジワーク。機械仕掛けのように正確でありながら、迫力ある情緒豊かな振り付け。ケチを付ける要素がどこにも見当たらない洗練された演技。結果、彼らの叩き出したスコアは64.88と、先月の予選会で晶と多香音が更新した日本ジュニア歴代最高得点を大幅に上回ったのだった。


 最早、敵ながらあっぱれとしか言えない。この1か月間、晶たちが研鑽を積んできたのと同様に、彼らもまた腕に磨きをかけてこの大会に挑んでいたのだ。


 現時点で59.02点である多香音たちの順位は2位。ここから逆転優勝するためには、フリーで何としても6点近い差を取り返す必要がある。


「こう、こう……」


 ちらりと部屋の隅に目を向けると、イヤフォンを装着した小夜子が本番に向けて、イメージトレーニングに没頭していた。


 明日のショートプログラムでは、彼女の代名詞であるトリプルアクセルとトリプルトゥループのコンビネーションジャンプが組み込まれている。超高難度のリスキーな組み合わせではあるが、成功すれば優勝も狙える大技だ。


 前回までは入賞できればラッキーといった立ち位置に過ぎなかったのに、3回転半を携えて挑む今大会では、表彰台候補の一角にまでのし上がっている。小柄な小夜子の両肩には、西日本大会チャンピオンとしての自負と、地元香川の期待とが、ずっしりとのっかっていた。


 そんな彼女の邪魔をしてはいけないと、多香音はスマートフォンの音量を更に1段階下げた。小学生の頃とは言え、自分自身も全日本の頂きに立った経験があるだけに、小夜子がどれほどのプレッシャーを感じているかは知っている。一挙手一投足に全神経をとがらせる友人に声をかけることもなく、多香音はただ傍で見守っていた。


 ちょうどその時だった。ピコーンという電子音とともに、多香音のスマホがメッセージを受信したのだ。




 エレベーターで1階のロビーに降り立った多香音は、周囲をきょろきょろと見回す。時刻は既に11時を回っており、フロント脇の売店は既に閉店して照明も落とされていた。


「篠田さん、こっちこっち」


 併設されたラウンジから多香音を呼ぶ声が聞こえる。ソファや机が並べられた薄暗い空間で待っていたのは、メッセージの送り主である晶だった。


「ごめんね、こんな時間に」


 短パンTシャツ姿の晶に、多香音は「どうしたの?」と尋ねながら近付く。


「ううん、フリーダンスの前に、どうしても伝えておかなくちゃって思ってさ」


 暗がりの中で話す晶の表情はよく見えなかったものの、普段の饒舌ぶりに比べると、いくらか歯切れが悪いように聞こえた。


「予選会の本番前で、篠田さん、僕にありがとうって言ってくれたじゃない」


「ああ、そう言えばそんなこともあったかな」


「そのお返しをまだしていなかったなって。僕をここまで連れてきてくれて、本当にありがとう」


 きょとんと目を丸める多香音。一呼吸置いて、晶は続けた。


「僕ってほら、いっつも強がってばかりじゃん。冗談や軽口ばっか言って、細かいことは気にしないよって見せつけてる。けど本当はすっごい心配性なんだ。心の中では失敗したらどうしようって、事あるごとにビクビクしてる。だから自分自身を奮い立たせるために、わざと気にしてない風を演じてたんだ。正直言うと、明日のフリーだってめちゃくちゃ怖い。不安でいっぱいだし、今日みたいにミスしたらどうしようって、ずっと気になってる」


 暗闇に目が慣れたおかげで、うっすらとではあるが晶の顔が浮かび上がる。常にわざとらしく貼り付けたような笑顔はどこへやら、気が小さく臆病な子どものように、そっと上目遣いで多香音を覗き込んでいた。


「だけど、気が強くて前向きな篠田さんがいたから、僕もいっしょになってずっと強がっていられた。どんな不安な時でもキミがずっと発破かけ続けてくれた。キミのおかげで僕は今までアイスダンスを続けられたんだ。篠田さん、本当にありがとう」


 口ではそう言ってはいるものの、晶の表情は今にも泣き出しそうで、ひどく怯えているようにも見えた。


「あんたがそんなこと言うなんて、思ってもいなかった」


 相方の見たこともない表情につい吹き出してしまう。


「けどね、それ、そっくりそのまま返すわ、私をここまで連れてきてくれて、本当にありがとう。作り物であっても、あんたのそのポジティブ思考、嫌いじゃないよ」


 今度は晶が目を丸める。暗がりの中、ふたつの眼玉だけが白く開かれていた。


「シングルができなくなって、私、自分の存在意義を根底から否定されたと思った。フィギュアを失った私は、ただのワガママで気難しい、なのにプライドだけは高い人間でしかないって、もう自分自身が嫌になった。あんたがアイスダンスに誘ってくた時も、最初はこれまで自分が積み上げてきた過去を裏切ってしまうような気がして嫌だった。だけど今は違う、あんたといっしょになって、私はアイスダンスができる私になれた。また氷の上で踊れる私になれた。ここまで来るためには、私の背中を押してくれる相手が絶対に必要だった」


 まっすぐと晶の目を見つめて言い放つ多香音。静かではあるが力強い言葉に圧されてか、晶は呆然とした顔を相方に投げ返す。


「それにあんた、自分が虚勢ばかり張ってるように言ってるけど、私はそんなことちっとも思わないよ。だってあんた、たまにだけど男らしいこと言うじゃん」


「そ、そうかな?」


「そうだよ。倉木さんにイヤミ言われた時怒ったのはあんただし、予選会の帰りの新幹線とか、お父さんと会った時とか、あそこであんたがいないと私、本当にスケートやめていたかもしれない。あんたは私にとって最高のパートナーだよ。それ以外、相応しい言葉は無い」


 両者の間に、しばしの静寂が横たわる。先にわざとらしく大きなため息で沈黙を破ったのは晶だった。


「何を今更。けど、ようやく分かってくれたんだねぇ」


 非常灯のかすかな照明に照らされた彼の顔には、いつもの胡散臭い笑みが戻っていた。


「ところであんた、わざわざ私にそれ伝えるために呼び出したわけ? センチになっちゃって、案外かわいいところあるじゃん」


 ここぞとばかりに相方をからかう多香音。晶は「別にそんなんじゃないよ」とばつが悪そうに手を払った。


「さあ、もうさっさと寝よう。何せ明日は篠田さんの復活劇のクライマックスだからね」


「私だけじゃないよ」


 改めて、多香音は晶に向き直る。


「あんたと私、ふたりの復活劇だよ」


「……そうだったね」


 晶が浮かべた微笑みは、これまで多香音が見てきた中で最も自然な、彼の本心が表れたような顔だった。


 その夜、多香音は本番真っただ中の緊張感から解放され、不思議なほどにぐっすりと眠れたという。




 とうとう全日本ジュニア大会はフリーダンスの時刻を迎えた。


 リンクの上ではリズムダンス3位のカップルが今まさに『誰も寝てはならぬ』の歌声にのって演技を披露している。しかしリンク脇に立つ多香音と晶は彼らの滑走には目もくれず、しのぶと向かい合って小声で話し込んでいた。


「私から教えられることは、もう何もありません」


 しのぶの言葉に、ふたりはじっと口を閉ざして耳を傾ける。


 心臓が高鳴っている。だがその緊張は不安や焦燥とはまるで別物であり、むしろこの時間が永遠に続けば良いのにとすら願ってしまうほど心地良いとさえ思えた。


 確たる自信と集中力に由来する高揚感。ふたりの精神は今、最高の状態に達していた。


「あなたたちは私が知る限り最高のカップルです。ですから自信を持って、実力を示してください。結果は後からいくらでもついてきます」


 やがて高らかに響くテノールが止み、同時に拍手が沸き起こる。いよいよ自分たちの番だ。


「さあ、ひとつぶちかましていきましょう! 今この時間、世界はあなたたちを中心に回っているのですよ!」


 しのぶに背中を叩かれ、ひとつ前のカップルと入れ替わる形で銀盤へと繰り出すふたり。


 詰めかけた観客にに歓迎されながら、銀盤の中央へと誘われる晶と多香音。リズムダンスでの好演のためか、ふたりに向けられる拍手は昨日よりも一段と盛大なものに聞こえた。


「あんたのこと、信じてる」


 銀盤上をぐるりと回りながら観覧席に手を振る最中、多香音は相方に顔を向けることもなく小さく呟く。


「僕もだ。篠田さんのこと、信じてる」


 晶も多香音だけに聞こえる小さな声で答えた。


「第5滑走、定森晶さん、篠田多香音さん。曲は『火の鳥』」

参考音源

オペラ『トゥーランドット』より『誰も寝てはならぬ』

https://www.youtube.com/watch?v=zBtJRZxmiVM

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