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第七章その1 いざ、全日本

 讃岐平野のはるか向こうに連なる山々も、ところどころ赤や黄に染まり始めた11月のある日。多香音と晶、そして小夜子の3人は再び四国を発ち、またしても新幹線に揺られ続けていた。


 降り立ったのは、名古屋駅のプラットホーム。眼前に聳えるのは、名古屋の大須スケートリンクだ。


「懐かしいなぁ、前もここで大会やったよ」


 感慨深くしみじみと見上げる多香音とは対照的に、相方はスマートフォンの画面から目を離さずに「へえ、そうなんだ」と相槌を打つ。カナダ滞在歴の長い晶には今ひとつピンとこなかったが、ここ名古屋からは多くの名スケーターが世界に羽ばたいている。銀盤の世界で舞う者にとって、大須は聖地も同然だ。


「そりゃそうよ……て、あんたさっきから真剣にスマホ見てるけど、何してんの?」


「いやね、近くに『矢場とん』あるかなって。名古屋と言ったら味噌カツでしょ」


 一心不乱に画面をタップする晶に、多香音は盛大なため息を吐きながら頭を抱える。そんなふたりが並んで歩く姿を少し後ろから眺めていた小夜子は、「ホント、大舞台に慣れ過ぎるもの問題だね」と苦笑を漏らした。


 この日はいよいよ全日本ジュニア選手権の開会式、そしてジュニアアイスダンス1日目の本番だ。


 全日本予選での雪辱を果たすべく、ふたりは全日本制覇という目標を掲げて練習を積み上げてきていた。ステップシークエンスについての不安は最後まで払い切れなかったものの、ここまで来たからにはドンとぶつかっていくしかない。


「あんたねえ、そんなもん本番終わったらいくらでも食べりゃいいから、明日終わるまではピシッとしてなさいって」


「緊張したところで本番上手くいくわけじゃないよ。それならいつもどおりちょっとくらいふわふわしてる方が平常心保てるってもんだよ」


「あんたの場合は普段からふわふわしすぎ!」


 本番前とは思えぬ普段どおりの言い争いを繰り広げながら、ぞろぞろと正門に向かって歩く一行。


「多香音!」


 そんな時、不意に女性の声が聞こえ、3人は足を止めて振り返る。目に飛び込んできたのは、石畳の上を足早に駆け寄る、すらりと背の高い美人顔の女性だった。


「お母さん!」


 多香音はぱあっと表情を明るく一変させると、大きなスポーツバッグを抱えたまま、だっと走り出す。やがて階段の中ほどであるにもかかわらず、母の胸に飛び込むように抱き着いたのだった。


「来てくれたんだ!」


「もちろん。あんたが滑るところ、楽しみにしてるからね!」


 きらきらと輝く娘の視線に、にかっと微笑み返す多香音の母親。大人になったらきっとこんな風貌になるのだろうなと容易に想像できるほど、母娘はよく似ていた。


「で、いつまでこそこそと隠れてるの? さっさと出てきなさいな」


 娘を抱きしめたまま、首を回して呼びかける多香音の母。その目が示す先の建物の陰からは、大きな黒い影がちらちらとこちらを窺っていた。


「お父……さん?」


「多香音……」


 口を押える娘の声につられ、ぬっと姿を現したのはヒグマと見まごう大男。一度見たら忘れるはずがない、つい先日香川まで押しかけてきた多香音の父親その人だった。


 ゆっくりと歩み寄る父に、母の身体を強く抱き寄せながらその場にとどまる娘。両者とも互いにじっと目を見据えながら、その距離は一歩また一歩と縮まる。


「すまなかったな、多香音。父さん、お前に期待をかけつづけて負担になっていたことからずっと目を逸らし続けていたんだってようやくわかったよ。今までずっとお前がやりたいことをさせられなかった、謝っても謝り切れないよ」


 しおらしく言いながら、父は娘に向けていた顔をそっと逸らす。


「違うよ、お父さん」


 だが直後、娘からの思わぬ返答に、父は階段を上っていた足を止め、代わりに再び目線を投げ返したのだった。


「私は好きでスケートを続けてきたんだよ。この全日本だってそう、誰に言われるまでもなく、私が選んで出場したことなんだ」


 そう話しながら、多香音はそっと母の腕をほどくと、階段の上から父を見下ろす。


「だから、私はお父さんのことなんか気にせず、思い切って滑ってくる! お父さんも安心して、客席から見てて!」


「……わかった。よし、一発かましてやれ!」


 一瞬驚いたように大きく目を見開いたものの、父はすぐさま晴れ晴れとした表情かおで、握り拳を前に突き出す。それに応えて、娘も拳を固めると、互いにコツンと突き合わせたのだった。


「じゃあ、お母さんたちは客席から見てるからね! 本番、楽しみにしてるわよ!」


 そう言い残すと、夫婦は娘ら3人を残して、先に自動ドアをくぐって建物の中へと入っていった。


「多香音ちゃん、良かったね!」


 小夜子にぽんと背中を軽くたたかれ、「うん!」と頷いて返す多香音。


「こんな爽やかな篠田さん、ちょっと気持ち悪いな。明日、雪でも降るんじゃない?」


 一方、その隣では晶がぶるぶると身を震わせていた。皮膚には鳥肌も浮かび上がっている。


「ふふ、不思議。なぜだか怒りの感情が全然湧いてこないよ」


 にこやかな笑みを浮かべながら、多香音はそっと相方の頬を優しく撫でる。


「けどとりあえず、おしおきはしておくね。ふん!」


 だがそう言い終えた途端、多香音は晶の頬の肉をぐいっとつまみ、力いっぱいひねったのだった。


「いででででで! やっぱりいつもの篠田さんだぁ!」


 名古屋の街に、晶の悲痛な叫びがこだまする。間髪入れず、小夜子は「自業自得だよ」と呆れてため息を吐いた。




 全日本ジュニアでは、アイスダンスは1日目の夜から競技が開始される。初日にリズムダンスを行なった翌日、2日目の夕方にはフリーダンスが実施され、最終的な結果が確定するのだ。


 今大会に出場したのは6組。その中で多香音たちは、最初の滑走だった。


「いつものあなたたちがいつも通りの演技をしたら、間違いなく勝てます!」


 6分間練習直前、スケート靴を履いたまま出場選手が一列に並ぶリンク脇で、小宮しのぶはふたりに最後のレクチャーを行なっていた。


「今日の主役はあなたたちですよ。さあ、観客にあなたたちの演技を見せつけてあげましょう!」


 しかしその内容には、具体的な指示はほとんど含まれていなかった。とにかく自信を持て、最高の演技をしろ。基礎的な技術について既に並みのレベルを超えている多香音と晶に対しては、今さらどうこう言う必要が無かったのだ。


 コーチからの力強いエールに、晶と多香音は「はい、行ってきます!」とサムズアップで応える。


 そんな多香音たちのすぐ後ろでは、予選会優勝カップルである岩下誠太郎と倉木智恵のふたりが、じっと口を噤んで二階堂コーチの指示に聞き入っていた。


「この練習ではリフトは試さなくても結構です。代わりにステップシークエンスを入念にチェックしてください、氷の調子もいつもと違いますので」


 教え子の鼓舞を目的とはしのぶとは異なり、コンマ1点でも得点を稼ぐため、最後の1秒まで有効活用しようと徹底した勝ちにこだわる姿勢。東京から来た3人は、予選会に続く連覇を目指して目に炎を宿らせていた。


 やがてリンクへのゲートが開かれ、6組のカップルが氷上に滑り出ると、それぞれが本番前最後の練習に臨んだ。


「よく滑る氷だね」


 ふたり並んで滑りながら、晶が多香音の耳元で呟く。


「うん、滑り過ぎて怖いくらい。けどこれくらい、何てことはない」


 やや戸惑った顔を見せつつも、すぐさま笑って返す多香音。


 とうとう6分間の練習時間も終わり、銀盤から続々と選手が去っていく。残されたのはトップバッターであるふたりだけだった。


「一番滑走、定森晶さん、篠田多香音さん」


 響きわたるアナウンス。途端、大勢のスケートファンが詰めかけた会場は、割れんばかりの拍手に包まれた。


 先月の予選会では総合5位に終わったものの、リズムダンスに限れば日本ジュニア歴代最高点の滑走を演じたカップルであるだけに、ふたりに向けられる期待は大きい。


 無言のまま、多香音と晶が手を取り合い、演技が始まるまでの間、指先ひとつ動かさずに静止する。


 そして流れ始めるチャチャコンゲラード。すぐさま互いに腰に手を回し合うと、ふたりは氷上に螺旋模様を描きながら銀盤をめいっぱい滑り始めた。


 情熱的な音楽に合わせた激しい振り付けであるにも関わらず、ふたりの動きは寸分の狂いも見られなかった。


「いい調子ですよ!」


 リンク脇からしのぶが声援を贈る。だがふたりは周囲の雑音を全てシャットダウンしているかのように、一瞥すら返さず演技に集中していた。


 高難度のツイズルも難なくクリアし、ダイナミックなローテ―ショナルリフトも軽々とこなす。このままいけば日本ジュニア歴代最高記録の更なる更新も期待できる。会場の盛り上がりは最高潮に達していた。


 いよいよ最後のステップ。手と手を取り合い、軽快なリズムに合わせてせわしなく、それでいて優雅に銀盤を滑走するふたりは、フィニッシュに向けてひと際高速で回転を始めた。


 そして最後の決めポーズ。互いの手を取り合ったふたりが、ジャッジに向かってピタリと静止したまま笑顔を見せる。


 だがその時、直前の高速回転の勢いを殺し切れていなかったのか、本来ならばジャッジに向かってふたりの身体が正面を向くところが、余計に大きく回転してしまった。


「あ!」


 その際に足を取られたのか、多香音のエッジが氷をとらえきれず、尻もちをつく形でスリップしてしまったのだった。


 たちまちどよめきが湧き起こる。ふたりは急いで体勢を立て直したものの、その頃には曲は既に鳴りやんでいた。


「うわぁ、やっちゃったー」


 ため息まじりの拍手が鳴り響く中、多香音は頭を抱える。


「ドンマイドンマイ。でもそれ以外は完ぺきだったから、きっと良い点出るよ」


 すかさず晶がパートナーの肩を叩いて落ち着かせるものの、彼自身も歯を強く噛みしめ、悔しさを必死で堪えていた。


「ふたりとも、大変素晴らしい演技でしたよ」


 リンク脇で待っていたしのぶは、銀盤から帰ってきたばかりの多香音を強く抱きしめる。


「コーチ、ごめんなさい。最後、あんなミスしてしまって」


「気にしないでください。あなたたちが最高の演技をしたことは、私が一番よく知っています。もっと自信を持って、明日のフリーダンスに挑みましょう」


 コーチに背中をさすられながらキス・アンド・クライへと移動する多香音と、後から続く晶。ソファに腰かけてからも、ふたりはずんと沈んだ表情のまま、自分から声を出そうとはしなかった。


「59.02」


 得点がアナウンスされるや否や、会場は再び大喝采で沸き立った。


 自己ベストである60.14には及ばないものの、例年ならば優勝も狙える高得点だ。結成からまだ数か月であるにもかかわらず、ふたりのリズムダンスは非の打ち所がない出来であることがジャッジにも評価されたのだ。


 だからこそ、あのスリップが悔やまれる。あのミスさえ無ければ、歴代最高点更新は間違いなかったのに。


 盛り上がる観客たちとは対照的に、ふたりは爪が皮膚を突き破らんばかりに、それぞれが手を強く握りしめていた。


「続いての滑走は、岩下誠太郎さん、倉木智恵さん」

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