第六章その5 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……
翌日、高松市内の喫茶店。
気だるげなジャズが流れ、昔ながらの純喫茶と呼ぶにふさわしい内装の店内では、お出かけ途中で立ち寄ったのであろう奥様方や、いかにも馴染客といった様子で持ち込んだ文庫本を読みふけるご隠居さんが午後のコーヒーブレイクを楽しんでいた。
そんな店の一角、6人がけの大きなテーブルに集まっているのは、多香音たちさぬきアイスリンクの面々だ。
授業を終えたばかりでブレザー姿のまま、グラスの底まで氷で満たされたアイスティーをストローでかき混ぜる多香音。同じテーブルにはしのぶと晶、そしてなぜかシングル選手の小夜子までもが着席していた。
「もうこの際だからお互いに腹割って話しちゃおうよ、親子なんだからさ」
向かいに座る小夜子が大げさに手を振りながら多香音を宥める。目の前に置かれた生絞りオレンジジュースは、既に半分ほどまで減っていた。
「親子だからこそ話せないこともあるんだよ……」
そう言うと多香音はストローを咥え、紅茶をブクブクと泡立てる。なんともお行儀の悪いことだが、誰もそれを咎めようとはしない。
「にしてもお父さん、昨日はホテルに泊まったんでしょ? 何なら僕の家に泊まってもらっても良かったのに」
「いや、それもっと居心地悪いから! 主に私が!」
「はっはっは、まるで娘婿の家に泊まりに行くようなもんだねー」
「「勝手に結婚させない!」」
けらけらと笑う小夜子に、多香音と晶は声をハモらせて鋭く切り返す。
この日、一行はいつもの練習を前に、市街地まで移動していた。その目的は、昨日香川までやってきた多香音の父親との話し合いだ。
父娘で互いに思うところをぶつけ合うための場といえばわかりやすいが、今日の話し合い次第では、最悪、多香音が仙台まで連れ戻されてしまうかもしれない。もしそうなってしまったらと、晶もしのぶもそれから小夜子も、全員が全員気が気でなかった。
「そろそろですね」
賑やかな教え子たちとは対象的に、コーヒーカップをソーサーに置きながら、壁にかけられた振り子時計を眺めるしのぶ。
「うう、気まずい……」
多香音はそわそわと落ち着かない様子で、ストローを口につけては離し、時計を見上げてはストローを口につけ、そしてまた時計を見上げてと繰り返す。
「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……」
そんな多香音の耳元に顔を近づけて晶がささやくので、当然ながら彼女は「うっさい!」と目にも止まらぬ裏拳を打ち込んで返した。
「いってぇ!」
眉間にクリーンヒットし、晶が悶絶する、ちょうどその時だった。
「いらっしゃいませ」
カランカランとドアベルが揺れ、ぬっと大きなシルエットが店内に現れる。
多香音の父だ。シワひとつないスーツ姿の、まるでこれから式典にでも出席するかのような畏まった出で立ち。
俯いたまま、びくっと多香音が震え上がり、石のように硬直する。そんな相方の隣で、晶は額をさすりながら「こっちですよー」と手招きしていた。
「……ごめん」
だが、父がこちらに向いて歩いてきたその最中のことだった。多香音は残りのアイスティーをずぞぞっと乱暴に吸い上げると、突如、立ち上がったのだ。
「やっぱ無理!」
止める間も、声をかける間もなかった。突如、バッグすら持たずに駆け出した多香音は、父の脇をすり抜けると、そのままドアを蹴り開けるようにして店から飛び出す。
「多香音ちゃん!」
その背中を追いかけるのは小夜子だ。自分のスマホを手に取ると、今先ほど多香音が走り抜けたのと同じルートを辿り、やがてドアベルを激しく鳴らしながら店から消える。
店にいた全員が会話を中断し、何事かと一斉に目を向けた。あまりにも突然の出来事に、ふたりが飛び出していったドアを呆然と見つめる晶、しのぶ、そして多香音の父親。
店を包む気まずい沈黙。さっきまで人の声に溶け込んでいたジャズの音色が、異常なまでに響き渡っていた。
「あの、篠田さんのお父さん」
そんな静寂を最初に打ち破ったのは晶だった。彼は恐る恐る、机の上に置かれたメニューを手に取ると、「とりあえず、何か飲みます?」と開いて見せたのだった。
「多香音ちゃん!」
さすがアスリート同士、多香音と小夜子の追いかけっこはそこらの学生のそれと違い、フォームもスピードも陸上競技場で行われる真剣勝負と遜色ない迫力だった。
石畳で、横断歩道で、人と人の間をすり抜けて繰り広げられる大激走。何分間走り続けただろうか、とうとう腕の届く範囲まで距離を縮めたところで、小夜子は前を走る多香音に腕を伸ばし、「捕まえたぁ!」とその手首を把持する。
さすがに観念したのか、多香音も徐々に足を緩めると、やがてふたりともほとんど息を切らすこともなく、その場に立ち止まったのだった。
瀬戸内海と直結した水堀の脇を電車が通り、石垣に聳える櫓を見上げる。そんな高松城のすぐ傍で、ふたりの追走劇は終了した。
「多香音ちゃん、お店に戻ろう。お父さん、せっかく仙台から来てくれたんだからさ」
小さな子供をあやすかのように話しかける小夜子。だが当の多香音は、ぶんぶんと首を横に振って返すばかりだ。
「無理だよ、お父さん私のこと許してくれるわけないよ」
「そんなことわからないよ。多香音ちゃん、昨日話してくれたじゃん。お父さんの夢を叶えるんでしょ? オリンピック選手になるんでしょ? じゃあ私はアイスダンスでそれを実現するって、本音はっきり言っちゃおうよ!」
「それができたらこんなことになってないよ!」
語気を強め、振り返る。その顔を見て、小夜子ははっと目を丸めると同時に、つかんでいた腕を力なく手放してしまった。
多香音の両眼からはぼろぼろと、大粒の涙が零れ落ちていたのだ。
「私だって……スケート諦められないよ……お父さんの夢、叶えてあげたいよ……」
くしゃくしゃに顔を歪め、止め処なく、人目も憚らずに嗚咽を漏らす多香音。いつも気丈で高圧的な雰囲気を醸し出す友人のこのような顔は、ずっと練習に付き合っていた小夜子でさえも見たことがない。
「でも……もう諦めないとダメだって……スケートなんかもう嫌だって……自分の本音がどこにあるのかすら、よくわからないんだよ!」
ついにアスファルトに腰を落とし、おいおいと泣き叫ぶ。小夜子はそんな多香音を、無言で見つめるしかできなかった。
「私とお父さんはね、もうどうしようもないところまできちゃってるんだよ」
一方その頃。多香音の父親は、喫茶店の席に座り、晶としのぶのふたりと向かい合いながらブラックコーヒーをすすっていた。
当初、父は追いかけた方が良いのでは、と外を指差したものの、晶が「どうせしばらくしたら戻ってきますよ、カバン置いてますから」とメニューを差し出すので、しばしここで待つことにしたのだった。
「昨日、冷静になって考えてみたんです。あの子がスケートを始めた頃のこととか。そして思ったんです、私はあの子をずっと束縛してきたんだな、と」
カップを片手に、ため息を吐く。昨日の激昂していた大男と同一人物とはとても思えないほど、その顔色は沈み込んでいた。
「あの子にスケートをさせたのは私です。スケートの才能があると分かり、俺はこの子を世界一のスケーターに育ててやるって、親としても意気込んでいました。だからあの子が伸び悩んでからも、お前には才能があるんだ、オリンピックで金メダルを取れる逸材なんだと励まし続けてきました。ですがそれは本当のところ、自分自身に言い聞かせていただけなのかもしれません」
肯定も否定もせず、頷いて返す晶としのぶ。
「あの子は私の期待に応えるために、ずっと無理していました。親父の夢なんかどうでもいい、自分の好きなことをやりなさいとでも言ってやれば良かったのですが……それを私の方から口にするのが怖かった。大会が終わって泣いて帰ってくるあの子に、もうやめていいんだよって、もっと早く言ってあげれば良かった」
そこで父は目元を指でこすると、誤魔化すように慌ててコーヒーを飲み干す。
「あの子がこれ以上傷つくのはもう見たくない。口では応援するぞと言っておきながら、私はあの子がスケートを諦めてくれるのをずっと待っていたのです……親として、最低ですよ」
そして自嘲にあふれた視線でどこか遠くを見つめながら、ゆっくりとカップを置くのだった。
「お父さんの言いたいことはよく分かります。私も味わってきた挫折の数だけなら自信はありますから」
多香音の父親の話を一通り聞いたところで、しのぶも一口コーヒーを口に含み、ふうっと小さく息を吐く。
だがその直後、しのぶはカップを手に取ったまま、対面する大男にぎろりと鋭い視線を向けたのだった。
「ですが、お父さんは一点だけ大きな勘違いをしておられます。篠田さんはまだ諦めていません。全日本ジュニア優勝、あの子は本気で目指していますよ」
「そうですよ、篠田さんのスケーティングは、オリンピックでメダルも狙えます!」
すかさず、晶もコーチの隣から加勢する。
「篠田さんのエッジワークは正確で、まったくブレが無い。アイスダンスに転向してまだ半年しか経っていないのに、ホールドもリフトも、完全に自分のものにしています。全日本制覇も、篠田さんにとっては通過点に過ぎません。相棒の僕が言うのだから、間違いない!」
ずっと何も言わなかったふたりが堰を切ったようにまくしたてるので、多香音の父親は面食らい、ぽかんと目を丸めていた。
「娘にスケートの才能があると見抜いたのは、誰でもないお父さんです。今はお互いに複雑でしょうが、篠田さんはお父さんのことをきっと大切に思っていますよ。ところで……」
しのぶがぐっと身を乗り出す。
「どうやってお父さんは、篠田さんのスケートの才能に気付かれたのですか?」
「それは……」
2、3秒ほど、天井を見上げる父。そして再びしのぶたちに目を向けた時、ずっと張り詰めていたその顔は、幾分か綻んでいた。
「あの子がまだ幼稚園の頃、水泳に体操にと色々試してみました。ですがたまたま家族でリンクに行ったとき、初めてスケート靴履いて氷の上に立ったあの子の顔が、とても楽しそうだったから、でしょうか」
にかっと微笑む父の顔は、娘が笑った時とそっくりだった。




