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第六章その4 子の心、親知らず

「ねえ多香音ちゃん、昨日なんかあった?」


 練習する晶と多香音をリンク脇から眺めていた長谷川小夜子が、唐突に尋ねた。


「……別にフツーだけど」


 多香音は額に浮かんだ汗粒を拭って素っ気なく答える。だが小夜子はじっと目を細めると、むーんと唸りながら首を傾げたのだった。


「表情も動きも、いつもより硬いね。疲れてる?」


「やっぱり、さっちゃんもそう思った?」


 そう言ってすいーっと小夜子の目の前まで滑り寄ったのは、つい先ほどまで多香音とホールドを組んでいた晶だ。


「今日の篠田さん、なんかスケーティングに鬼気迫るものがあるというか……まるで鬼瓦と向き合いながら滑ってるみたいでさ」


「晶、後ろ後ろー」


 ぶつくさと文句を垂れる晶に呆れながら、小夜子は友人の後方を指差す。


 そこにはまさしく鬼瓦そのものの表情を顔面に貼りつけた多香音が、背後からゆっくりと手を伸ばしていたのだった。




「くっそー篠田さん、絶対に前世は花〇薫だろ!? まだヒリヒリする……」


 真っ赤になった頬をさすりながら、コーチのしのぶに訴える晶。


「口は災いの元ですよ。今後の人生のためにも、女の子に向かってデリカシーのない発言は慎むようにしましょう」


 だがしのぶはろくに取り合うこともなく、教え子の訴えを軽くあしらっていた。


 練習を終えた高校生3人としのぶは着替えを済ませ、スケートリンクを後にする。この時間になると館内の照明も一段階落とされ、窓の景色もすっかり夜の闇一色に染まっていた。


「やはりいっしょに滑れていなかったためか、どうもリズムのズレが見られますね。特にステップシークエンスではそのズレが顕著に表れるので、明日もそこを重点的に克服していきましょう」


 しんと静まり返ったロビーを横切りながら、しのぶが口を開く。多香音と晶はいっしょに傍を歩きながら、じっとコーチに顔を向けていた。


 ステップシークエンスとは複雑なエッジワークを連続して繰り出す一連の動きであり、フィギュアスケートにおいては欠かせない採点項目となっている。


 アイスダンスの場合、互いにホールドし合った状態のものと、近付きつつもふたりの身体が一切触れない状態(ノットタッチング)で同じ動きを連動させるものの2種類をこなす必要があり、ふたりの息がピタリと合っているかどうか、


「しかし定森さん、怪我をする前よりも伸びやかになっていますね。一皮むけた気がします」


「いやあ、それほどでも」


 しのぶが左隣を歩く晶に満面の笑みを投げかけると、得意げに腕を組む晶。その隣を歩く小夜子が「鼻が伸びてますよー」と苦言をはさんでいた。


「対して篠田さん、今日はいつもより動きがもっさりしていましたね。どこか痛みませんか?」


 直後、右に向けられたしのぶの顔は、不安と焦燥に駆られたかのように眉がハの字に曲げられていた。


「いえ、特には」


 思わずコーチから目を逸らし、俯いて応える多香音。


「本当ですか? もしどこか痛むのなら、正直に――」


「多香音!」


 自動ドアが開き、まさに館外へ出ようとした時のことだった。暗くなった屋外駐車場に、男の怒号が響いたのだ。


 突然のことにすくみ上って立止まる一行。そんな4人に向かって夜闇の中からずんずんと近付くのは、背が高く、肩幅の広いがっしりとした体格のスーツ姿の男性。


 うっすらと灯りに照らされた顔は相応に年齢を重ねてはいるものの、分厚い胸板とぴっちりと貼りついたシルエットで、ジャケットの上からでも鍛え上げられた肉体の持ち主であることは窺い知れた。


「お、お父さん!?」


 一瞬のうちに、多香音の顔がさっと青ざめる。


「え!?」


「多香音ちゃんの、お父さん!?」


 だがそれ以上に、晶と小夜子のふたりはぎょっと目を剥き、それぞれ間抜けな声をあげて驚いていた。


「親からの電話を着信拒否するとは何事だ!? 全日本に出るだなんて、またみっともない姿を晒すつもりか?」


 歩調を緩めることなく詰め寄る男。大柄な身体が一歩一歩アスファルトを踏みしめるごとに、ずしんずしんと地面が揺れているかのような威圧感を放っていた。


 その形相を目の当たりにし、多香音はくるりと回れ右すると、今出てきたばかりの館内に逃げ込んでしまったのだった。


「多香音、待ちなさい!」


 父親も娘を追って走り出す。だが多香音は振り返ることも無く、ロビーを全速力で駆け抜けていた。


「父さんな、お前がスケートから離れたいと言ったから、香川で暮らすのを許可したんだぞ!? それなのに何でこっちに来てもスケートやってるんだ! しかもアイスダンスだと? 親をバカにするのもいい加減にしろ!」


「お父さん、落ち着いてください!」


 このままだと娘を殴りつけてしまうかもしれない。そう直感したしのぶは走り寄る大男を前に、大きく手を広げて行く手を阻む。


「なんだあんたは、どいてくれ!」


 玄関前に陣取るしのぶとぶつかる寸前に慌ててブレーキをかけるものの、男は興奮した様子で怒鳴り散らしていた。


「どきません! コーチとして、教え子を守ります!」


 だがしのぶは一歩たりとも退かなかった。40cm近く身長差があろうとも堂々と立ちふさがるその姿に、男は「コーチ?」と怪訝に顔を歪める。


「お話は私がお聞きします。お父様、多香音さんとは何があったのか、お話しいただけますか?」




 興奮の冷めた大男は、屋外に設けられた自販機前ベンチに俯いたまま腰かけると、その隣のしのぶに訥々と話し続ける。


 一方の多香音はじめ晶と小夜子ら子供たちは、大人の会話が終わるまで館内ロビーで待機していた。


「ごめんね、恥ずかしいところ見せちゃった」


 合皮製のロビーチェアに深く腰掛け、がっくりと項垂れる多香音。


「そういえば多香音ちゃんの両親のこと、ほとんど聞いていなかったよ。仙台に住んでいるってのは知ってるけど」


「あの様子だと、自分の子がアイスダンスしてることも知らなかったんじゃ?」


「うん、私ね、自分がアイスダンスやってること、まだ親にちゃんと伝えていなかったんだ。お金もお爺ちゃんお婆ちゃんに無理言って払ってもらってた」


 絶句する晶と小夜子。長野合宿に参加したり全日本ジュニア予選会にまで出場したのに、まさかそれらすべて親に何も告げずに行われたなんてとても信じられないと言いたげに目を丸めていた。


「親の言うことも分かるよ。父さん、昔からよく言ってたんだ。俺の夢はオリンピッック選手を育てることだって。私が全日本制覇した時とか、どれだけ鼻が高かっただろうね」


 そんな戦友たちの仰天顔を見て、娘は自嘲気味に笑みをこぼす。


「でもそれは小学校まで。そこから先は期待だけさせといて、ずっと裏切ってきたんだから。そりゃ今でもスケートにしがみついてる娘を見たら、ああなるのも当然だよ」


「もやもやするなぁ。子供の夢を応援するのが、親っていうもんじゃないの?」


 ぼりぼりと頭を掻きながら晶が口を尖らせる。だが多香音はすぐさま「それは違う」と首を横に振った。


「親だって人間だよ、何度もお金と時間を無駄にされちゃ、いつか諦める。むしろうちの場合、よくここまで続けさせてくれたと思っているよ。本当、もっと早くに子供が諦めてくれていたら、こうも拗れることはなかっただろうにね」


 そう言って多香音は天井を見上げると、へへっとわざとらしく笑ってみせたのだった。


 ちょうどそのタイミングで、エントランスの自動ドアがゆっくりと開く。父親との話を終えたのだろう、いつも以上に複雑な表情を貼り付けたしのぶは小走りで3人の元へ駆け寄ると、「篠田さん」声をかける。


「お父さんから話を聞いて、大体の事情はわかりました……今日、お父さんとお話しされますか?」


「……今はしたくありません」


 教え子の呟きに、しのぶは無言で頷き返す。そして再び外に出ると、1分も経たない内にまた館内に戻ってきたのだった。


「お父さんもそれで構わないと仰っています。なので明日、私も立ち会いますので話し合いの場を設けるのはいかがでしょう?」


 軽く息を切らしながらしのぶが尋ねるものの、多香音はしばらくの間じっと黙り込む。だが何十秒かの沈黙の後、「わかりました」と蚊の羽音のように小さく答えたのだった。

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