第六章その3 全日本を前に
「ぃよし、ちょーしも万全! こんなこともできちゃう!」
屈辱の全日本ジュニア予選から早一週間。日曜朝のさぬきアイスアリーナでは、スケート靴を履いた晶が、エッジのまま氷の上をぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
この日、足のサポーターをようやく外すことができた晶は、大会以来初めてスケート靴に足を通した。
「あんた、そうやって調子乗ってると、また捻るよ」
隣に立つ多香音が呆れた様子で諫める。だが再びリンクに立てたことが余程嬉しいのだろう、本人にはまったく聞こえていないようだ。
「定森さん、今日の練習は軽めでいきましょう。氷に立つのは久しぶりなので、無茶は厳禁ですよ」
リンク脇からにこやかに、しかし強い口調でしのぶが伝える。さすがにコーチの指示とあっては晶も「はーい」と飛び跳ねるのを止めるが、その声からは不満も感じ取れた。
「その代わりに、ふたりとも練習が終わった後、私の家まで来てください。是非とも見ていただきたいものがあります」
ふふっと口角を上げるしのぶ。その意味ありげな微笑みを見て、教え子のふたりは「見せたいもの?」とそろって首を傾げていた。
昼過ぎ、普段よりも早く練習を切り上げた一行は、高松市内にあるしのぶのアパートを訪ねていた。
あの一件以降は酒を控えているのだろう、1週間前には台所の床に転がっていたウイスキーの瓶や、中身があふれる寸前までいっぱいになっていたゴミ箱はきれいに片付けられている。
一方で、以前から衣装やCDの押し込められていた寝室には、さらに多くのDVDや書籍が追加されていた。ベッドへと続く最低限の導線以外には大量の段ボールがひしめき、魔窟具合はより一層増大している。
そんな段ボールの塔にはさまれるように鎮座しているのは、小さなアパートには不釣り合いなほど大きな画面の液晶テレビ。そのテレビの前のわずかなスペースで、晶と多香音は肩を寄せ合うようにして座り込んでいた。
画面に映し出されているのは、超満員の観客が見守る中、銀盤の上で思い思いに滑走する6組の男女。全員、きらびやかな衣装で着飾ってはいるものの、互いに相方と組み合いながら真剣な面持ちで氷の感触を確認している。
「今ちょうど北京で開かれている、グランプリシリーズ中国大会です。やっぱりスケート見るなら大画面がいいでしょう? 本番を前に世界のトップスケーターがどういう滑りをしているのか、改めて見ておきましょう」
ベッドに腰かけたしのぶが、ノンアルコールカクテルの缶をプシュッと開ける。本来ならハイボールで気持ち良くなりたいところだが、今は目の前に教え子がいる手前、せめて気分だけでもとノンアルで我慢していた。
グランプリシリーズとは毎年開催されているフィギュアスケートの世界大会で、男女シングル、ペア、アイスダンスの4部門で世界レベルの選手たちが互いの演技を競い合う。
10月から11月にかけて世界各地6か所で開催され、エントリーした選手はその内最大2つの大会に参加し、上位に入れば順位に応じたポイントを獲得できる。日本でもNHK杯と呼ばれる大会がグランプリシリーズ6大会のひとつとして選出されており、第1回の1979年から長きにわたって世界のトップスケーターたちが競演してきたことはよく知られていることだ。
そしてその合計ポイント上位6人または6組の選手が、最終決戦であるグランプリファイナルで激突し、その年のチャンピオンが決定されるのだ。
例年、このグランプリファイナルを終えた後に全日本選手権、四大陸選手権、そして世界選手権と重要度の高い大会が相次いで開催されることから、グランプリシリーズはその年の有力選手を見出す場として注目を集めている。
「あ、藤沢夫婦だ!」
晶がテレビに向かってぐっと身を突き出す。画面には日本が世界に誇るアイスダンスカップルが、ちょうどアップで映し出されていた。
8月の長野合宿、生の演技を間近で見た記憶が鮮明によみがえる。だが、あの時とは違い、夫婦の纏っている衣装は比較的シンプルなもので、飾り気のない黒いドレスはともかく、薄汚れた白のワイシャツに色褪せた褐色のズボンと、やや小汚い印象すら受けた。
「昨日は首位でしたね。今日は最後の登場ですよ」
間髪入れず、後ろから解説を加えるしのぶ。いつの間にやら手にはノンアル缶だけでなく、おつまみのあたりめまでつままれている。
実はこの前日、藤沢夫婦はリズムダンスを首位で終えており、本日のフリーダンスには最終滑走として臨むことになっていた。
日本人カップルがグランプリシリーズ1日目を首位で終えたのは初めてのこと。このまま逃げ切れれば、初のシリーズ優勝という快挙もあり得る。
もしかしたら今日は、歴史的な一日になるかもしれない。日本国内の競技関係者やフィギュアスケートファンはきっとそう期待を抱きながら、固唾を呑んでこの試合を見守っていることだろう。
やがて演技が始まった。
さすがは世界のシニアトップ選手たち。息の合ったツイズル、ブレの無いまっすぐなスケーティング、重力を感じさせない軽やかなリフト。彼らの滑走はいずれも目を見張るものばかりで、ことあるごとにテレビの前の3人は歓声を上げていた。
「あ、このカップルね、去年キスアンドクライでケンカしてたんだよ」
「ええ、あれは驚きました。しかもその理由が――」
「うん、あれは……思い出しただけでも……笑う!」
アイスダンス歴の長い晶は、時折しのぶと選手たちの裏話をネタに盛り上がる。今年になってアイスダンスを始めたばかりの多香音には何のことやらさっぱり理解できず、彼らの会話には何ひとつついていけなかった。
だがカップルの内情は知らなくとも、氷上にいる誰もが優れたスケーターであることは少し演技を見ただけでイヤというほど実感できる。
スロージャンプやコンビネーションスピンのような、ダイナミックな技は禁じられている。しかし洗練された彼らのエッジコントロール、何より音楽を最大限に理解して表現するという異なるアプローチによって、唯一無二の世界観を銀盤に描き出せるのがアイスダンスという競技の面白いところだ。
各国の有力選手たちが演技を終え、やがて大トリである藤沢夫婦が氷上に滑り出る。
お互いに手をつなぎ、拍手に応えて手を振り返しながらリンクをぐるりと一周するふたり。やがて中央に立つと、夫の亘は妻の手を取ったまま、すっと氷上に跪いたのだった。
静まり返った会場に、優しいバイオリンの音色が響く。いよいよ本日最後の演技、藤沢夫婦のフリーダンスが始まったのだった。
「え、『ニュー・シネマ・パラダイス』? 私、この映画好きだよ」
興奮で頬を紅潮させる多香音。
「そうなの? 初めて聞いたな。篠田さん、映画詳しいんだね」
だが傍らに座る晶はぽかんと口を開けるばかりで、多香音は「めっちゃ有名な映画だから!」とむっと頬を膨らませていた。
シチリア島を舞台にしたイタリア映画の名作であり、そのメインテーマ音楽もまた時代を越えて普遍的に愛されている名曲だ。
主旋律のバイオリンに合わせて、ピアノやフルートが時折アクセントを利かせるものの、基本は緩やかで、どことなく湿っぽい、哀愁を漂わせる曲調。ややもすれば一本調子に感じてしまうかもしれない。
だが藤沢夫婦の滑走は緩急の付け方が非常に巧みで、タメを作ったところで高速のシークエンスを交えて期待感を高め、そして繰り返される主旋律により最高潮に盛り上がったところで時間いっぱいまで使ったリフトでお約束に応えるなど、実にメリハリを効かせた演技を披露していた。
その見ごたえたるや凄まじく、曲調としっとりとした演技が合わさって、世界が注目する大会でありながら、まるでこの広大な空間にたったふたりだけで取り残されているかのようにすら見えた。
「エッジがピタリと揃っているね……まばたきの差すらもないんじゃないか?」
高く掲げたリフトも、アクロバティックな体勢でありながらブレはなく安定感は抜群。傍から見ても転倒するビジョンがまったく浮かばず、安心してふたりの演じる世界に浸ることができる。
魔法のような時間はあっという間だった。ほんの一瞬で過ぎ去ってしまった4分間が終わると、観客はスタンディングオベーションで夫婦の滑走に賞賛を贈る。
日本勢初の入賞を果たした五輪にも匹敵、いや、それを上回る完成度。氷上のふたりも会心の出来と自覚があるのか、演技を終えた瞬間に満面の笑みを浮かべながらがっしりと抱擁し合ったかと思うとそろってへたり込んでしまい、しばらくその場に留まり続けてしまっていた。
やがてキスアンドクライまで移動したふたりはカメラに向かって手を振るものの、その目はまったく笑っていなかった。藤沢夫婦も、会場の観客も、テレビの前の3人も、全員が期待と焦燥にじっと目を細めながら、早く結果を教えてくれと念じていた。
「藤沢亘と藤沢遥佳の結果は……なんとフリーダンスでも首位! リズムダンスに続いて堂々の1位です! 日本勢として、グランプリシリーズ初優勝の快挙です!」
アナウンサーの実況には、悲鳴のような歓声が混じっていた。
「いやったあああああ!」
「すっげえええええ!」
遠く香川県から見守る3人も、テレビ越しとはいえ歴史的な瞬間に立ち会えた喜び、そして日本アイスダンス界の快挙に飛び跳ねて感激していた。
男女シングルやペアの種目では世界でも結果を残してきたものの、アイスダンスにおいては苦杯を嘗め続けてきたのがこれまでの日本フィギュアスケート界だ。社交ダンスの定着していない日本人には、アイスダンスは不向き。長年そう言われ続け、半ば諦めかけていた節もある。
だが、現在の日本アイスダンス界には藤沢夫婦以外にも世界大会で上位を狙える有力カップルを複数抱えており、またジュニア世代にも岩下・倉木など有望株が控えている。今大会における藤沢夫婦の優勝は、これからの日本勢の急進を予感させる歴史的な1勝だ。
「すっげえ、日本がここまでやるなんて、すっげえ! このままグランプリファイナルもいけるかな?」
「次の大会で大きなミスをしない限りは、大丈夫だと思いますよ」
感激を隠さない晶に、丁寧に答えるしのぶ。
今年度のシーズンは始まったばかり。ここからグランプリファイナルや世界選手権など、より重要度の高い大会がまだ待ち構えている。これから藤沢夫婦は、それらの大舞台に照準を合わせて、調整を行っていくことだろう。
自分もあんな演技ができるようになれば……。
楽しげにアイスダンストークを繰り広げる相方とコーチを眺めながら、多香音はぐっと拳に力を入れる。彼女の思い描く理想に、ひとつ具体的で明確なビジョンが提示された瞬間だった。
「おっと、応援に来られた夫婦のご両親も、まだ日の丸を広げていますね」
だがその時、興奮を隠さないアナウンサーの声につられて、多香音は思わずテレビ画面に目を向けてしまった。
画面の中では夫婦それぞれのご両親が並び、4人でひとつの大きな日本国旗をはためかせている。
「おふたりは昔から家族ぐるみで付き合いがあるんですよ。それで幼馴染同士でカップル組んで、そのまま結婚、そしてグランプリシリーズ優勝って、本当に漫画みたいな話ですね」
元アイスダンス選手の解説者が答えるが、多香音の耳にはその声はほとんど入っていなかった。両家のお父さんお母さんが映し出されていた数秒間、多香音はただただぼーっとテレビ画面を見つめていたのだった。
「篠田さん、どうしたの?」
いつもとは違って気の抜けたような多香音の様子に、晶がようやく声をかける。気付いた多香音は一瞬びくっと身を震わせたものの、すぐに「う、うん、ちょっと余韻に浸ってただけ」と苦笑いで返した。
「やっぱそうだよね! あんな演技、カナダのトップ選手でもそうできないよ!」
「うん、そうそう!」
目を輝かせる相方に、相槌を打つ多香音。だがこの時の多香音の頭の中では、藤沢夫婦の完璧な演技よりも、両家一丸になって応援する家族の姿の方が、どういうわけかより強く焼き付いていたのだった。
その夜、帰宅した多香音は学習机に向かい、机上に置いたスマートフォンをじっと睨みつけていた。
そしてふうっと息を整えるとゆっくりと手を伸ばし、必要以上に時間をかけて、丁寧に画面をタップする。
やがてスマホを耳元まで近づけた頃には、スピーカーからはプルルルルと呼び出し音が漏れ聞こえていた。
「あの、お、お母さん!」
そして相手が電話に出るや否や、多香音は声を詰まらせながらも口を開く。
「多香音、あなたからかけてくるなんて、久しぶり」
「うん、いきなりごめんね……ねえ、お母さん。私、今度全日本ジュニア出ることになったんだけど」
「うん、知ってる」
「ありがとう。でね、本番……来れる?」
「……もちろん!」
電話口でも伝わる、溢れる涙をぐっと堪えながらしぼり出された母の答え。
「良かった……お母さん、私ね」
ほっと安堵の息を吐きながら、多香音は会話を続ける。だがその時、電話口から「ん? 多香音か?」という男の声が聞こえ、彼女はピタリと固まってしまったのだった。
「多香音、久しぶりだな」
どことなく威圧的な、他者を拒絶するような声色。
「あの、お父さん、あのね、私――」
その低い声に気圧されながらも、多香音はなんとか話を切り出す。だが父は「多香音、お前」と、娘の声を遮って話し続けたのだった。
「お前、いつになったらスケート諦めるんだ?」
参考音源
『ニュー・シネマ・パラダイス』https://www.youtube.com/watch?v=_3y9ws00NY0




