第六章その2 またリンクに立てるなら
多香音がリンクで単身練習に打ち込むその頃、晶は高松市内のジムでトレーニングに勤しんでいた。
右足をサポーターで庇いながらベンチに腰かけ、両手のダンベルを「いっち、にーぃ」と交互に持ち上げる。腕が上下する度に、前髪の貼り付いた額からは、汗粒がたらりと滴っていた。
エッジワークに関しては世界と渡り合える技術を誇るものの、線の細い晶にとってリフトの安定感は早急に改善すべき課題だ。以前は相手が小柄だったので問題にならなかったが、自分と背丈が然程変わらない多香音の場合、そうはいかない。演技中でも相方をしっかりと支え続けられるよう、上半身をより一層鍛え上げる必要がある。
「うん、イイ感じ!」
そんな晶に声をかけながら、いっしょになってトレーニングに励むのは姉の皐月だ。普段ボディラインを隠した衣服ばかりを選ぶ彼女には珍しい、ぴっちりと肌に張りついたタンクトップ姿で、弟に合わせてダンベルを上げ下げしている。
当初は弟がまた無茶をして怪我を悪化させないよう見張るつもりで同伴していたが、いざ自分も筋トレを始めてみると、思いの外夢中になってしまっていた。
身体を動かすとは良いものだ。氷の上にはまだ立てないものの、久しく味わっていなかった爽やかな気分に、皐月はかつて自由自在に銀盤を滑走していた頃の喜びを思い出していた。
「ふう、あともうワンセット……」
ダンベルを置いて汗を拭う晶。同時にじっと目を細め、「姉ちゃん、あの人」と隣の姉だけに聞こえる小声でぼそっと呟く。
「さっき、スマホで僕たちのこと撮影してたよ」
「え?」
弟と同じ方向に顔を向ける皐月。視線の先に立っていたのは、トレーニングウェアの金髪男だった。利用者の多くが黙々と汗を流す中、ひとり壁際でスマホを弄っている。
「ホントに?」
「うん、僕と目が合ってすぐに引っ込めたけど、こっちにカメラ向けてた」
聞くなり皐月はダンベルを置いて立ち上がる。そして壁際の男までつかつかと歩み寄ると、「すみません」と声をかけたのだった。
「今、何撮りました?」
「は? 何撮ろうがこっちの勝手だろ」
男は悪びれる様子もなく、スマホを握ったままぎろりと皐月を睨み返す。
「他の利用者を撮影することはジムの規約で禁止されています。すみませんが、今撮った写真、見せてくださいませんか?」
しかし皐月は引き下がらなかった。その間に晶も立ち上がり、姉と並んで男に詰め寄る。
「僕たちのこと、撮っていましたよね? 今すぐに消してください」
「け、有名人気取りかよ。お前、テレビに出てた定森晶だろ? スケートやってるとかいう」
「その通りですが、だからといって撮影されても良いということにはなりません」
「はん、テレビに出たくらいでいい気になってんじゃねえよ素人が。バズったくらいで調子乗りやがって。おまけにその足、女なんかに抱かれてるからそんな怪我するんだよ」
途端、晶は全身の血が沸騰したかのような感覚に襲われる。
平静を保っていた彼も、最後の一言だけは我慢ならなかった。自分のことならまだしも、パートナーである多香音をバカにされたことに。
「晶、待って!」
だがすぐさま皐月が鋭い一声をあげて制止したので、はっと我に返った晶は伸ばしかけた腕をするするとひっこめる。
「見ず知らずの方に、弟を侮辱される筋合いはありません。すぐに写真を消してください。でなければスタッフを呼びますよ」
「なんだそれ、脅迫のつもりか?」
いつもの儚げな印象はどこへやら、怖気づくことなく面と向かって言ってのける皐月。対する金髪男は小馬鹿にしたようにぷっと吹き出す。
「お客様」
その時、背後から声をかけられた男は「あん?」と口を曲げながら振り返る。直後、これまで粋がっていた男の顔からは、誰が見ても分かるほど血の気が引いていった。
金髪男に話しかけたのは、3人の男性スタッフ。それも全員が身長180cmを軽く超え、分厚い胸板と丸太のような四肢に覆われたボディビルダー級の肉体の持ち主だ。屈強な彼らと比較すれば、金髪男などひょろひょろのマッチ棒にしか映らない。
「他のお客様へのご迷惑になりますので、ちょっとこちらについてきてくださいますか?」
にこやかに語り掛けるスタッフに、金髪男は黙り込んだままこくんと頷く。そこからは反抗の意思すら示すこともなく、ただ静かにマッチョメンに連行されてしまったのだった。
「姉ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして。けど……正直、ちょっと怖かったかも」
胸を押さえたまま、へなへなとその場に座り込む皐月。緊張から解放されたせいか、これまでずっと抑え込んできた分だけ脈拍がどくどくと高鳴っていた。
「いやいや、カッコ良かったよ。姉ちゃんの意外な一面を見たって感じだ」
晶はへたり込んだ姉の手を引いて立ち上がらせると、先ほどまで座っていたベンチへと移動する。
「うん、自分でもびっくりしてる。でも晶と篠田さんのこと馬鹿にされたと思ったら、ここで負けちゃいられないって思って……」
「まぁ、馬鹿にされるのは当たり前だよ。あんなに話題になったのに、本番であんなヘマしたんだからさ。知ってるよ、僕たちネットですごいバッシングされてるって」
項垂れたままぼそぼそと話す皐月とは対照的に、晶はわざとらしく高笑いを交えて言った。
夏合宿で披露した逆リフトがあれほど注目されたにもかかわらず、全日本予選で不甲斐ない結果に終わってしまった晶と多香音に対しては、SNSを中心にあちこちで不満の声が噴出していた。
期待していたのに残念、程度ならまだ優しいもの。中には「逆リフトなんて自己満足」や「さっさと解散しろ!」など、見るに堪えないコメントも多数書き込まれていた。
「あんなの気にしなくていいよ。晶の苦労なんて、当事者でもない人に分かるはずないんだから」
咄嗟に皐月は俯かせていた顔を上げて、晶を慰める。本人ではない自分が見ても、ずきずきと胸が痛むほどの文面だ。あんなひどい書き込みを目にした弟のショックはいかほどのものか、気掛かりのあまり晶の前でこの話題を口にすることすら憚られていた。
「うん、気にはしていない」
だが姉の心配とは正反対に、弟から返ってきたのはあっけらかんとした一言だった。
「そりゃ勝手に期待しといて勝手に失望するとか、みんな身勝手だなとは思うよ。けど期待されてないならヘンにプレッシャーに感じる必要もないし、むしろ気楽だよ。それよりも楽しみの方が大きいね。だってワクワクしない? 全日本で今度こそ逆リフト成功させて、ふたりともごめんねって書き込まれるの想像するのとかさ」
そう話す晶の目は、一切の淀みなく輝いていた。長年いっしょに過ごした皐月だからこそわかる、嘘の欠片も混ざっていない心からの本音を話している時の弟の表情だった。
「晶は強いね……私も嬉しいよ」
皐月はふうっと自嘲を込めたため息を吐き出す。
「何言ってんだよ」
だが弟はきょとんと目を丸め、「さっきの姉ちゃんの方が、何十倍も強いと思うよ」と続けたのだった。
「そりゃあまぁ、晶がまたリンクに立てるようにって思ったら不思議な力が湧いてきてさ。もしかして、火事場の馬鹿力って言うあれかな?」
さらなる弟の意外な反応に、姉は照れ臭さからつい苦笑いを浮かべてしまう。
「それなら姉ちゃんを見習って、僕も火事場の馬鹿力で本番を乗り切らないとな。またリンクに立てるなら、今の僕はどんなトレーニングだってできる気がするよ。よし、もういうっちょやるかっと!」
そう言って晶は再びダンベルを持ち上げると、「いっち、にーぃ、さーん……」と掛け声をあげながらトレーニングを再開させる。
再び肌から汗を噴出させる弟を、皐月は優しく眺める。だが無意識のうちに、その手は氷の上に立てなくなった自分の足をそっとさすっていたのだった。




