第六章その1 新たなるスタート
「「すみませんでした!」」
横に並び、深々と頭を下げる多香音と晶。そんなふたりとダイニングテーブルを挟んで向かい合うのは、セットしていないぼさぼさの頭に、よれよれのスウェットを着込んだ小宮しのぶだった。
額を天板にこすり付けそうなほど腰を曲げた教え子を無言で見遣りながら、しのぶは手にしたショットグラスを傾けて黄金色のウイスキーを喉に流し込む。
「もういいです。定森さんの怪我も大したことはなかったですし、私も大人げないことをしたと思います……が、二度目はありませんからね」
ため息まじりにそう言いながら、しのぶは空っぽになったグラスを机に叩きつけるようにして置いた。
床にはすっかり空っぽになった4リットルのウイスキーのボトルが転がっており、テーブルに置かれたもう1本も既に半分ほどが消費されている。それをしのぶは水割りでもロックでもなく、ストレートで飲み続けていた。
ここはしのぶの自宅アパート。予選会を終えて香川に帰ってきた翌日、多香音と晶は学校が終わるや否や制服姿のまま、まっすぐにここを訪ねていた。そして覚悟を決めてインターフォンを鳴らしたものの、アルコール臭い息をまき散らす完全オフ状態のしのぶが這いずるようにして出迎えたので、ふたりそろってぎょっと目を剥いたのは言うまでもない。
「これからは必ず私の指示に従ってください、いいですね? じゃないといくらあなたたちでも、もう知りませんよ」
無言のまま、こくんと頷く晶と多香音。
コーチの指示を無視して強行出場したのは自分たちだ。本来なら契約解除を言い渡されても文句は言えないところだが、それを選ばなかったしのぶには頭が上がらない。
「ではまず、定森さんは足が完治するまでスケート靴を履いての練習は禁止です。治ったらイチから仕込みなおしですよ!」
晶は強く「はい!」と返す。テーブルの下に潜り込ませたその右足は、湿布とサポーターで大きく膨れ上がっていた。医者によると、あと1週間はこの状態を保たねばならないとのことだ。
「そしてこれからの方針ですが、あなたたちが全日本で優勝するのに必要なのものはテクニックではありません。技量に関して言うなら、おふたりは既に世界でも通用するレベルにあることは間違いないです。ですが、まだ経験が足りない。トップを目指すにはどんなトラブルに遭遇しても安定した成績を残せるある種の図太さが必要不可欠です」
そう力説しながら、しのぶはまた次の酒をグラスに注ぎ始める。
「誰かと比較してはいけません。私を見て、俺を見ろ、自分たちが最高のカップルなんだ! そう思ってリンクに立ってください。それができた時、あなたたちは晴れて次のステップに踏み出せるのです」
そして注いだばかりのウイスキーを一口で飲み干すと、ふうっと熱い息をふたりに吹きかける。
「では篠田さん、定森さんがいない間の練習メニューですが……」
グラスを置いて椅子から立ち上がった、まさにその時だった。つい先ほどまで赤く火照っていたしのぶの顔が、一瞬にしてさっと青く染まったのだ。
「ヴッ……!」
汚い音の漏れ出る口元を押さえながら、キッチンの流し台へとダッシュで向かう。
「ゲボボボボボオエエェェェェ!」
そして当たり前と言えば当たり前だが、しのぶは教え子の目の前で筆舌にしがたいマーライオンっぷりを披露したのだった。
「コーチ、飲み過ぎですよ!」
駆け寄った多香音が呆れながら背中をさする。一方の晶は口を両手で覆い、もらいゲロを必死で堪えていた。
「おはよー多香音ちゃん、晶は?」
リンク脇の多香音を目にするなり、氷上でステップを繰り返していた小夜子が練習を中断して話しかける。
「うん、足怪我してるから今日は別メニュー。しばらくはジムで上半身のウェイトトレーニングだってさ」
スケート靴に足を通しながら、ベンチに腰かけた多香音は苦笑いで返した。
「そっか、早く治ってほしいね……あいつがいないと、このリンクも火が消えたみたいだよ」
付き合いの長い友人を心配してか、物憂げな表情を浮かべながら近付く。その裏表のない言動だけを見ると、つい先日西日本チャンプに輝いた本人だとはとても思えないだろう。
「さてと」
しっかりと紐を結び、椅子から立ち上がるのとほぼ同時に、「さっちゃん!」と施設内に声が響く。
反射的に声の聞こえた出入口の方へ顔を向けると、そこにはスケートリンクに似つかわしくない、赤のエプロンをかけたまぁるい体型の中年女性が立っていたのだった。手にはきれいに折り畳んだ白い衣類のようなものを提げている。
「おばちゃん、どしたの?」
氷上をすーっと移動して駆け寄る小夜子。女性はそんな彼女に「ほら、できたよ!」と持っていた衣服を満面の笑みとともに広げた。
白をベースとしたウインドブレーカーだ。だが胸や肩はおろか背中にまで、あちこちに地元スーパーや老舗和菓子店、果ては個人の精肉店まで、随分と身近な商店のロゴがべたべたと貼りついている。
「うわ、早い!」
「そうだよ、商工会の会長が一分一秒でも早く作ってくれって急かしたんだから。これはまだ試作品だけど、量産して商店街に配ることになってるんだってさ」
「ありがと、全日本で使わせてもらうね!」
「頼んだよ、あんた香川の誇りなんだからね! それじゃおばちゃん、配達の途中だからもう行くよ」
そう言ってまた出入口へと引き返していく女性を、小夜子は「ばいばーい!」と朗らかに手を振って見送っていた。
「今のって、前に話してたスポンサーの?」
「そうそう、肉屋のおばちゃん」
近寄ってぼそりと尋ねる多香音にこくこくと頷いて返す小夜子。その頬は感激のあまり紅潮していた。
西日本ジュニア選手権を制覇した彼女の次の目標は、全日本ジュニアでの優勝だ。
リンクの少なさからスケート不毛の地とすら揶揄されていた四国に、突如現れたスター候補。地元メディアも連日途切れることなく取材に押し掛ける中、彼女は全日本ジュニアに向けて日々着々と準備を進めていた。
そんな小夜子を応援したいと、なんと地元商工会がスポンサーに名乗り出てきたのだ。
フィギュアスケートを続けるにはお金がかかる。親に甘えられる間ならともかく、より高いレベルでスケートを続けていくためには、スポンサー契約を勝ち取らねばならない。そんな小夜子の活躍と苦労を耳にして、決して大きな金額ではないものの、小さい頃から顔なじみの商店街が主導して遠征やトレーニングにかかる費用をバックアップしてくれるという。
「みんなの期待に応えるためにも、あたしもぼーっとしてられないよ。さて、今日も練習練習! この調子なら、四回転だっていけちゃう気がする!」
力強く意気込んだ小夜子は再びリンクを颯爽と滑り始める。そし十分に加速したところで足を振り上げ、高速回転のトリプルアクセルを成功させたのだった。
「さっちゃん、さすがにそれは……」
苦笑いを浮かべながらもリンクに滑り出た多香音は、ジャンプの練習に取り掛かる小夜子を見てしばし立止まる。
自分たちが足踏みしている間に、あの子はさらに先の先まで進んでいる。胸の内に苛立ちにも似た焦燥感が芽生えたものの、多香音はそれをぐっと抑え込んだ。
代わりに湧き出てきたのは闘争心だった。先を進むあの背中に追いつき、追い越してやろうという前向きな感情。
そのためには全日本選手権で、リベンジを果たさねばならない。
「ううん、私だって、いつか……」
そう小さく呟くと多香音は氷上を滑り始め、ひたすら練習に打ち込む小夜子を追いかけたのだった。




