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第五章その8 夜の車窓

 フリーダンスを終えたその日の夜、香川から来た一行は電車に揺られていた。


 これから岡山まで移動し、そこから特急で瀬戸大橋を渡る。この道順なら関空アイスアリーナを夕方に出発しても、その日のうちに高松に到着できるとのことだ。


 だが新大阪駅で新幹線に乗り込んでからというもの、並んで座るしのぶと多香音の間には、一切の会話が交わされていなかった。


 腕を組んで俯いたままのしのぶ。その隣で多香音はワイヤレスイヤホンでハチャトゥリアンの『仮面舞踏会』を何度も何度も再生して聴き続けていた。


 一方、家族と固まって座る晶もずっと黙り込んだままで、同様に両親や姉も重く口を閉ざしていた。


 ぴりぴりと張り詰めた空気が車内に漂う。他の乗客もただならぬ雰囲気を察してか、誰も口を開こうとはしなかった。


 そんな中、多香音が無言で席を立ち、客室を後にする。そしてトイレで用を足し、デッキの洗面所で手を洗っていた時のことだった。


「ねえ、篠田さん」


 背後から女性の声が聞こえ、反射的に振り返る。


 立っていたのは皐月だった。かつて晶とカップルを組んでカナダのジュニアアイスダンス界を引っ張っていた、相方の実姉だ。


「今、時間いい?」


 小柄な皐月が上目遣いに覗き込む。その言いようのない威圧感に、多香音は「……はい」と頷いた。


 ハンカチで手を拭いた後、ふたりは車両出入口扉の前まで移動する。


「よっぽどショックだったんだろうな……あんなに落ち込んだ晶を見たのは初めて」


 皐月は窓の外に目を移し、こもった声で話し始める。車窓からは夜闇の中に家屋やビルの灯りがぽつぽつと浮かび、高速で流れ去ってゆくのが見えた。


「すみません、私のせいで……」


「ううん、篠田さんは何も悪くない。あんなとこで下手なコケ方した上に、無茶して出場したのは弟の方。一度痛い目見ないと、あの子のバカは治らないよ」


 皐月はふふっと笑ってみせるものの、すぐにその顔を再び外へと向ける。窓に映り込んだその顔は、決して笑ってなどいない真剣な面持ちだった。


「ただ、さすがに効きすぎたみたい。あんな演技を人前で披露したのは初めてのことだから、色々とズタズタになっちゃったんだと思う」


 何と言えば良いものか、多香音には何も思い浮かばなかった。


 あの時、晶を制止できたのは自分だけだ。自分がコーチの意向に背いて晶をリンクに誘ったこと、その結果無様な演技を大勢に見せつけてしまったことについて、ひしひしと責任を感じている。


 耐えきれず、多香音はつい目を逸らす。呼応するかのように、皐月は口を開いた。


「篠田さん、正直に言うとね、私はもう、あの子にスケート滑ってもらいたくない」


 直後、多香音は唖然として皐月に向き直った。時間が止まったかのように沈黙が流れ、走行音だけが車内に響く。


「な、何でそんなこと言うんですか!?」


 少しの間を置いて、語気を強めて尋ねる多香音。対する皐月は額を窓ガラスに打ち付ける姿勢で、顔を伏せながら訥々と答えた。


「ごめん、自分でもよくわからない。けど、あの子がいつ怪我するのかって思うと、とてもこう、胸が締め付けられる気がして……」


 皐月の頬をつーっと涙の筋が伝う。それを目の当たりにした多香音は、口を噤むしかなかった。


「あの子の滑りたいって気持ちは尊重したい。けど、本心ではもう滑ってほしくない」


 床に目を逸らしながら勇気を振り絞って話す皐月の意見を、多香音は否定できようか。


 不慮の事故とはいえ、晶の転倒の原因は自分にあるのではないかという苦悩が、多香音の頭の中にはずっと靄のように振り払われることなく残っていた。


 あの時、自分が必要以上に焦ってしまったために、バランスを崩した晶の転倒を招いてしまったのではないか。自分が落ち着いてさえいれば、彼のスケート人生に最大の汚点を残すことも無かったのではないか。


 これまでも数えきれないほど苦汁を舐めてきた多香音にとって、今日の結果を受け入れることはさほど難しいものではない。


 だが晶は自分とは違い、これまでトップレベルから落ちたことのないエリートスケーターだ。自身が原因で失態を演じたという挫折が、かつて一度として無い。


 だからこそ晶があそこまで落ち込むなどと、多香音には考え付きもしなかった。泥水をすすりながらも競技に食らいついてきた多香音とは、敗北に対する経験値が違い過ぎたのだ。


 もしかしたら自分は今日、彼を一生スケートのできない状態にまで追い込んでしまったのではないか。それももう一度頂点に立ちたいという自分のエゴに、無理矢理付き合わせてしまったがために。


 後悔の念がどっと押し寄せる。気が付けば目の端からもじわりと熱いもの込み上がってくるのを感じ、慌てて目元を拭うと指先が湿っていた。


「そうですね……私……」


 彼とのカップルは解消します。そう口にしかけた、まさにその時だった。


「勝手なことは言わないでほしい!」


 客室のドアがふっと開き、同時に鋭い声が二人の耳に届く。


「晶……!?」


 目を丸くした皐月が口元を手で隠す。今しがたデッキに現れたのは、多香音の相方にして皐月の弟である定森晶その人だった。


 だが普段浮かべているへらへらと軽薄そうな笑みは完全に消え失せていた。それどころか目をぎらつかせながら息を荒げており、見るからに怒りを必死で抑え込んでいる様子が窺える。


 立ち尽くすふたりに、つかつかと近付く晶。そして多香音の目の前に立つと、突如その腕を伸ばして相方の肩をつかむ。


「あっ!」


 思わず声を上げる多香音。気が付けば抵抗の暇もなく、晶の胸元に顔を埋める形で抱き寄せられていたのだった。


 氷上では恥という感情を忘れるほど肌と肌を触れ合わせているというのに、厚手のシャツ越しの晶の胸板は不思議なほどに熱い。普段とはまったく異なる晶の姿に、思考の追いつかない多香音は身を任せるしかなかった。


「正直に話すよ。僕が日本でもアイスダンスを続けてきたのは、姉ちゃんにリンクに戻ってきてもらいたかったからなんだ」


 多香音に腕を回しながら言い放つ晶。向かい合う姉はばつが悪そうに、涙を目に蓄えながらじっと顔を床に向けていた。


 心臓の高鳴りを抑えつつも、多香音は皐月と交わした会話を思い出す。


 晶の言う通り、彼が自分とカップルを結成した本当の目的は、姉に競技復帰してもらうためだということは既に気付いている。以前、晶の自宅で皐月と話したときから、相方の心の中には常に姉がいると思い知らされていた。


「僕が誰かとアイスダンスする姿を見れば、きっと姉ちゃんも昔を思い出してまたスケートやってくれるって信じて、僕は今日まで頑張ってきた。姉ちゃんが競技に戻ってきてくれるなら、結果なんてどうでもいいやって思ってた。けど……それは違ったんだ」


 話しながら首を大きく横に振る晶。改めて、皐月に顔を向ける。


「今日、怪我して滑れないかもってなった時、僕はこれまでにないくらい悔しいって思ったんだよ。自分自身でも初めて経験する、今日出られなかったらもうスケートなんてやめてやるって思うくらいに。その時ようやく気付いたんだ。僕、自分の心の底から全日本優勝したいって思っていたんだって」


 多香音ははっと息を呑んだ。半年とはいえずっとカップルを組んできたのだ。彼が嘘を吐いているのか本心をさらけ出しているのか、ある程度なら声だけで判断できる。


 そして今、晶が口にしたことは間違いなく本音も本音、嘘偽りない100パーセント正直な気持ちだった。


「もう姉ちゃんがどうこうとか関係ない。僕は行くよ全日本に、篠田多香音と」


 そう言うと晶はぎゅっと、多香音の身体をより強く抱き寄せたのだった。


 少し痛いが、不快ではない、むしろしばらくこのままでいたい。そんな割り切れない想いが、多香音の胸中で生まれていた。


「だから姉ちゃんには……僕たちのことを応援してほしい。全日本では期待に応えて、必ず優勝してみせるから」


 言いながら晶は、まっすぐ姉を見据える。一切の迷いも曇りもないその眼には、強い意志が宿っていた。


 姉はしばし弟の黒い瞳を見つめ返していたものの、ある時ついに決壊したかのようにぶわっと涙がこぼれ始め、やがて嗚咽を漏らしながら両手で顔を覆ったのだった。


 それからしばらく経った後、泣き止んだ姉は「良かった……」とこちらに顔を向ける。


「ごめんね晶、私、余計なことしかできないや」


 微笑んで返す皐月の顔からは、いつもどこかに影を湛えていた儚げな印象は消え失せ、代わりに晴れ晴れとした明るさを醸し出している。先ほど頬を流れ落ちた涙も、すっかり乾いていた。


「ふたりの逆リフト、また見せてね」


 そう言い残すと、皐月はふたりの脇を通り過ぎる。そして客室のドアを開け、自分の席へと戻っていったのだった。

参考音源

組曲『仮面舞踏会』より『ワルツ』

https://www.youtube.com/watch?v=TO6eQ95YzCw

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