第五章その7 崩れ落ちた栄光
「続いての滑走は岩下誠太郎、倉木智恵。曲は『ジゼル』」
アナウンスが響き渡ると同時に、大きく手を振りながら銀盤に滑り出る誠太郎と智恵。
「もう次かぁ……」
多香音は純白のドレスを着込んだライバルの背中をリンク脇から見送ると、反対方向のベンチに視線を戻す。
そこでは相方の晶が右くるぶしに保冷剤を当てたまま、じっとうずくまっていたのだった。
俯いて垂れ下がった前髪で目元を隠し、終始黙り込む晶。あと5分ほどでふたりはフリーダンス『火の鳥』を演じなくてはならないのだが、今の状況では氷の上に立つことすら難しいだろう。
本番直前の6分間練習で転倒した晶には、捻挫という診断が下されていた。本来ならどんなに早くても1週間の安静が必要だという。
沈黙する晶からそっと目を逸らす。同時に軽快な弦の旋律が流れ始め、多香音はリンクへ目を向けた。
白一色の氷上では、逞しい四肢の誠太郎が可憐で儚げな智恵を包み込むように抱え上げていた。愛する乙女を失い悲しみに暮れる青年を
わずかな乱れも見せないふたりのステップ。その巧みなエッジさばきを目の当たりにして、多香音は無意識のうちに大きくため息を吐き出した。
「おいおい、そんな落ち込んだ顔するなよ」
咄嗟に振り返る。そこにはベンチに腰かけたままの晶が、いつものへらへらとした顔をこちらに向けていたのだった。
「これくらいよくあることだから、平気平気!」
指でマルを作ってみせる晶。だがその脇に立っていたしのぶは身をかがめ、「定森さん……」と顔を覗き込みながら話しかけたのだった。
「気持ちはわかりますが、今回は諦めましょう。捻挫を甘く見てはいけません」
穏やかなコーチの声。だが晶はまるでそれが聞こえていないかのように、顔を多香音の方に向け続けていた。
競技人口の少ないアイスダンスでは、予選会を無事に滑り終えさえすれば全日本ジュニアに出場できる。だが無事に滑り終えるとはつまり、リズムダンスとフリーダンスを両方とも演じること。ここで棄権すれば、全日本への出場は白紙と消える。
「無茶をしたら次の大会どころか、競技人生さえも棒に振ってしまいます。チャンスはまだ来年にも――」
「いやだ、今出る!」
これまでにないほど強い口調で、晶が言い放つ。あまりにも鋭い剣幕に、多香音もびくっと身を震わせてしまった。
「ですが定森さん、トップのスケーターでも体調を考えて出場を辞退することは珍しくありません。そうやって怪我とうまく付き合っているからこそ、トップ選手は長く活躍できるのですよ」
しのぶはなおも食い下がる。コーチとして教え子の身体を第一に考えるのは、至極当然のことだろう。
だが晶はコーチの声など耳に入ってすらいないかのように保冷剤を投げ捨てると、慣れた手つきで足首にテーピングを施し始めたのだった。
「定森さん、本当に一生スケートの滑れない身体になりますよ!?」
耳元でしのぶが声を荒げるが、晶は一向に聞く耳を持たない。時折、音楽に混じって拍手が聞こえる。現在行われている演技への称賛の拍手だが、この場にいる者はリンクのことなど気にすらしていなかった。
「私を恨んでもかまいません、ですから出場を辞退してください!」
「嫌です、僕は今日、滑りたいんです」
「いい加減にしなさい! 取り返しのつかないことになりますよ!?」
ヒートアップするしのぶと晶。テーピングを終えた晶は、既にスケート靴に足を通していた。
その二人の前に、一本の細腕がすっと差し出される。
言い争いを止めたふたりが口を開けたまま見つめた先には、まっすぐに晶を見つめながら腕を伸ばす多香音が立っていたのだった。
「行こう」
抑揚なく、ただただ言ってのける多香音。
「そうこなくっちゃね!」
そんな相方に晶はにやりと笑みを浮かべると、その手を握り返して立ち上がった。
「篠田さん!?」
顔を青白くさせたしのぶが口元を押さえる。ほぼ同時に音楽が止み、場内は喝采に包まれたのだった。
演技を終えた岩下誠太郎と倉木智恵がリンクを出てコーチとハグを交わす。それを見た多香音は晶の手を引きながら氷上まで滑り出た。
「岩下誠太郎、倉木智恵の記録、90.85」
アナウンスが流れると同時に、大歓声が轟いた。日本ジュニア最高記録が更新されるという歴史的快挙。前日のリズムダンスと合わせて、世界ジュニア選手権入賞も狙える高得点だ。
「ありがとうね、篠田さん」
氷上をゆっくりと滑りながら、大喝采に紛れて晶が多香音に耳打ちする。
「別に、全国行けなかったら私が困るし。それに――」
振り返らずに答える多香音が、しばし言葉に詰まる。
「それに、私がもしあんただったら、きっとあんたと同じことしてたと思うから」
手を取り合ったまま加速し、大きくぐるりと滑りながらリンク中央に立つふたり。
「最後の滑走は定森晶、篠田多香音。曲は『火の鳥』」
アナウンスが告げられ、観客から盛大な拍手が贈られる。直前のトラブルにも関わらずよくぞリンクに立ってくれたと、称賛の念が込められていた。
だが音楽が流れていざ演技が始まると、その想いはたちまち落胆へと変貌する。
スケートに詳しくない者が見れば、本当に怪我しているなどとは思えないだろう。だが昨日のふたりの滑走を見ている者からすれば、本日の演技は目を覆いたくなるほどの出来栄えだった。
ステップは高さが不ぞろいで、回転のタイミングもずれが目立つ。正確な動きを刻む多香音と並ぶと、晶の動きのぎこちなさが嫌でも目に付いた。
そして最大の見せ場である終盤の逆リフト。多香音は見事に晶を持ち上げるものの、その身体はぴんと伸び切っておらず、回転の勢いも弱い。拍手は起こったものの、それは同情心から生まれているようにしか聞こえなかった。
演技を終えたふたりは、乾いた拍手を浴びながらキス・アンド・クライへと向かう。リンク脇に立っていたしのぶはじっと腕を組んだまま終始俯いており、口を開こうともしなかった。
「定森晶、篠田多香音の記録、50.27」
無言のまま椅子に腰かけていた3人に、非情な現実が突きつけられる。
リズムダンスで稼いだリードを台無しにする、ふたりからすればあり得ないレベルの低スコア。岩下・倉木組に抜かれるどころか、表彰台すら届かない全体5位にまで転落してしまった。いや、まだ5位で済んで幸運だったと言えるかもしれない。
とりあえず1カ月後の全日本へ望みはつないだものの、会場の誰一人として笑顔を浮かべてはいなかった。
「……ごめん」
マイクにも拾われない小さな声で、晶が呟く。
「気にしないでよ」
その背中をぽんぽんと軽く叩きながら、多香音は小さく返していた。
「運が悪かっただけだからさ。ほら、いつまでもくよくよしないで、私たちの目標は全日本優勝でしょ?」
「本当に、そうでしょうか?」
だが隣に座るしのぶはわざとらしくため息を吐くと、スコアの表示されたモニターを睨みつけたまま毒づいていたのだった。
「バカな子たちだとは思っていましたが、まさかここまでバカだとは想像できませんでした」




