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第五章その6 絶対、優勝しないと

「あ、来ました!」


 大通りに面したホテルの前で待ち構えていたのは、テレビカメラにマイクを抱えた報道陣。彼らはこの日の戦いを終えたばかりの多香音たち讃岐アイスアリーナ一団が駅の方から歩いてくるのを目にするや否や、まるで巨大な生き物のごとく一斉に駆け寄る。


「すみません、取材お願いします!」


「一言だけでも」


 そして手にしたマイクをこちらに向けて、口々に尋ねるのだった。


「長谷川さん、長谷川小夜子さん!」


 大柄な男性記者が立ちふさがるように飛び出したので、スーツケースを転がす選手たちはその場で足を止めざるをえなかった。


「えっと、何でしょう?」


 名指しされた小夜子が引きつった笑顔で答える。いつもは朗らかに笑い飛ばしている彼女としては珍しい、疲れを隠しているような作り笑いだった。


「全日本ジュニアへの意気込みをお願いします!」


「香川の皆さんからメッセージは届きましたか?」


 このわずかな隙を逃してなるものかと、他の記者たちも逃げ道を塞ぐように選手たちを取り囲む。


「はいはい、みなさん!」


 だがそんな記者たちを静まり返らせたのは、手をパンパンと打ち鳴らす多香音だった。


「私たち、疲れているんでホテルで休みたいんです。それと取材はリンクにいる間に済ませてください、はっきり言って迷惑です」


 そう言い放ちながらじろりと睨みつけると、記者たちは一斉に口を噤む。切れ長の眼は多香音を美人たらしめる魅力のひとつではあるが、このような状況においては周囲に冷徹な印象を振りまいていた。


 沈黙する報道陣の間を、選手たちはかき分けながら進んだ。


「すみません、明日本番の子もおりますので……」


 コーチのしのぶも愛想笑いを浮かべながら足早にその場から離れる。


「篠田さん!」


 正面玄関の前に立ち、ガラスの自動ドアがすーっと開いた時のことだった。後方から名指しで記者に声をかけられ、多香音の歩みがふと鈍る。


「明日こそ、逆リフトは披露されると期待してもよろしいでしょうか?」


 しかし多香音は振り返らなかった。再びつかつかと歩き始めるとそのまま玄関扉をくぐり、弦楽器のゆったりとした音楽の流れるエントランスホールを突っ切る。


 エレベーターに乗った選手たちは、それぞれ各自の部屋へと向かった。


「ふぅ、疲れた」


 上着をハンガーにかけるよりも先に、多香音は大きなため息を吐きながらベッドに腰かける。外にいる間に清掃が入ったのだろう、ベッドは皴ひとつ無くきれいに整えられていた。


「多香音ちゃん、ありがとね。あんなに取材が来たの初めて……わは、未読がもう100件溜まってる」


 隣のベッドに腰かけながらスマホを覗き込んだ小夜子が、呆れ混じりに乾いた笑い声をあげる。


 滑走が終了してから、彼女のスマホには友人から親戚からメッセージがひっきりなしに届いていた。いちいち返しているとキリがないので、バイブレーションすらもオフにしていたほどだ。


 その内容は全て同じ。小夜子の優勝を祝福するものだった。


「まだ夕飯まで時間あるよね……あたし、ちょっと親に電話してくる!」


 デニムジャケットをベッドの上に脱ぎ捨てると、小夜子はいそいそと部屋を出る。


 ひとり部屋に残された多香音は無言のまま立ち上がると、自分の上着と小夜子のジャケットをクローゼットに片付ける。そしてテレビのリモコンを手に取り、モニターの電源を入れたのだった。


「次はスポーツのコーナーです。今日、新たなシンデレラ候補が香川から生まれました!」


 ちょうど始まったばかりのスポーツニュース。切り替わった画面に映し出されたのは、赤と白の衣装を纏った小夜子だった。


 はるか遠くを見つめるかのような眼で、氷上を舞い踊る小夜子。本日、彼女の演じたフリープログラム『平清盛』は、ライバルを引き離す圧倒的な1位を記録していた。


 元々完成度の高かった3回転ジャンプは次々と成功を決め、新技トリプルアクセルも無事に着氷。演技後半でのジャンプであったために基礎点も1.1倍に加算され、彼女のスコアはシニアのトップ選手と遜色ない数字まで伸びた。


 スピンやステップシークエンスといった他の要素もきっちりと決め、減点もなく自分の力を完全に発揮できた彼女は、前日からさらに順位を上げて逆転優勝を果たしたのだった。


 また幻想的で力強い選曲と白拍子をモチーフにした衣装も好感を呼び、ネットでも写真や動画付きで大きく取り上げられている。


 一躍全日本ジュニアの優勝争いに名乗りを上げた小夜子。同じ日に晶と多香音がリズムダンスで日本記録を更新したことなど、すっかりネットニュースの隅っこに追いやられてしまっていた。


 ちょうどスポーツのコーナーが終わって天気予報が始まったのとほぼ同時に、「ただいまー」と小夜子が部屋のドアを開ける。


「おかえり、ご両親は何て?」


「ふふ、お父さんもお母さんも、すっごく喜んでた! やっぱ優勝って気持ちの良いものなんだね!」


 頬を紅潮させながら嬉しそうに答える小夜子。先ほど浮かべていた作り笑いとは別人のようだった。


「多香音ちゃんも頑張ってね! 明日はあたしが観客席からエール贈るから!」


「うん、ありがと。ちゃんと見ててよ」


 白い歯を見せつける小夜子に、多香音は親指を立てて応える。


 だがその胸中は複雑だった。


 当然、小夜子が棚ぼたで1位になったわけでないことは十分に理解している。同じ讃岐アイスアリーナで滑る者として、彼女が血の滲む努力を積んできたことは間近で見ていた。だから彼女が1位になったことは同郷のスケーターとして誇らしく思っているし、彼女の優勝を心から祈願していた。


 だが何だろう、このもやもやとした気分は。なぜよりにもよってこの大会で、自分は小夜子と同室になってしまったのだろう。


 そんな居心地の悪さを覚えながらも、尊敬できるライバルを決して傷つけまいと、多香音は気丈に振る舞っていた。


「あ、もう夕飯の時間だよ。多香音ちゃん、食堂行こ!」


「そうだね、今日は疲れたから早く食べて早く寝たい」


「あたしもだよー」


 話しながら、ふたりは再び部屋の外へ出る。廊下では他の宿泊客が続々と姿を見せ、エレベーターの方へと歩いていた。


 数歩先を歩く小夜子。その背中をじっと睨みつけながら、多香音は「明日は絶対、優勝しないと」と誰にも聞こえない声で呟いたのだった。




 翌日、西日本西選手権はいよいよジュニアアイスダンスの時刻を迎えた。


「ふたりとも、昨日と同じ心持ちで挑めば優勝は堅いですよ。最後まできっちり気を抜かず、それでいてリラックスしてリンクに立ってください」


「なんか矛盾してますねー」


 コーチのしのぶに励まされながら、晶と多香音は控室で出番を待つ。


 完全に抽選だった1日目とは違い、2日目のフリーダンスはリズムダンスでの得点が低いカップルから順に演技を行う。前日を1位で終えた晶と多香音は本日の大取だ。もうすぐ前半の組がすべて滑走を終えるので、そのタイミングでリンクに出て6分間練習を行うのがこれからの段取りだ。


 ふたりの選曲はもちろんストラヴィンスキー『火の鳥』。夏の合宿で撮影された逆リフト動画がやたらとバズった、あの演目である。


「それにしても、いよいよこの衣装で人前に出るのか……」


 晶は自身の袖に目を落とし、釈然としない顔を浮かべる。彼の衣装は魔王を打ち倒すイワン王子をイメージしており、濃紺のズボンに赤のベストというコーディネートできっちりと固めていた。


「嫌ですか? 王子様らしくてカッコイイと思いますよ」


「コーチ、この人が着ると王子様じゃなくて、お笑い芸人になってしまうんですよ」


「ルネッサーンス! ……て何やらせんだよ!」


 晶の突然のノリ突っ込みに、しのぶと多香音がぶっと吹き出す。


 一方、相方である多香音が纏うのは、燃え盛る炎のように真っ赤なドレス。所々に鳥の羽根を模した模様と装飾が施されており、曲目通り『火の鳥』と称するにぴったりの華やかさだった。


「うーん……」


 衣装を弄られてムキになっているのか、晶はじっと多香音の衣装を覗き込みながら唸る。


「何? じろじろ見て気持ち悪い」


「いや、なんというか……宝塚のフィナーレに混じっていそうだなって」


 晶の口からぽろりとこぼれ出る。


「言われてみれば、たしかに」


 コーチもポンと手を叩く。途端、多香音の顔は耳の先までかぁっと赤く染まった。




 その後、競技は無事に進行し、とうとう後半組の6分間練習を迎える。


 観客席には前日以上に大勢が押し寄せ、満員御礼の状態だった。直前の五輪で藤沢夫婦が日本勢初の入賞を果たしたこともあり、アイスダンスの人気が上がってきたことの表れだろう。


 選手たちがリンクへ滑り出ると同時に、観客席から歓迎の拍手が湧き起こる。


「晶ー! 多香音ちゃーん! 頑張れー!」


 そんな観衆の中で一際声を張り上げるのは、昨日シングルジュニア優勝を果たした小夜子だ。すぐ近くには晶の両親と姉の皐月ら讃岐アイスアリーナ関係者の一団も腰掛け、小夜子と同様に声援を贈っていた。


「なんか氷の調子が良くないねぇ」


 リンクに飛び出てほんの数秒後、多香音と並んで滑っていた晶がぼそりと言い放つ。


「うん、エッジが持っていかれないか心配」


 多香音も同意して頷いた。今日だけですでに男子ジュニアシングルも行われていたためか、銀盤表面にはあちこちでエッジの痕が残されていた。


 決して状態は良くないが、この程度で演技の出来が左右されていては優勝など夢のまた夢。ふたりは氷の感触を確かめながら、伸びやかなスケーティングを見せつけていた。


 ふと周囲に目を配ると、前日2位の岩下・倉木組も先んじてお披露目していた『ジゼル』の衣装を纏い、ステップの最終確認を行っている。


「ねえ、コレオシークエンスのとこだけやってもいい?」


 優勝するには、あのふたり以上の繊細さを『火の鳥』で表現しなくてはならない。対抗心を燃やした多香音は、見せ場のひとつを最後の練習で振り返ることを提案した。


「うん、いいよ」


 特に異論もなく、晶は多香音に従う。ふたりは氷上で改めて肩と手を取って組みなおすと、ステップやターンなど様々な技の連続した一連の動きを繰り返していた。


「ねえ篠田さん、ちょっとテンポ早いよ、落ち着いて」


 だがその最中。いつもおちゃらけた言動で周囲を呆れさせる晶が、珍しく鋭い声を相方にかけたのだった。


「う、うん、ごめん、ちょっと焦り過ぎた」


「どーもどーもね、うわ、とっとと!」


 それは何の前触れもなく、あまりにも突然のことだった。多香音と組み合っていた晶は何かに足をつかまれてしまったかのように躓くと、そのまま背中を氷に叩きつける形で転倒してしまったのだった。


 場内にどよめきが巻き起こる。優勝候補カップルを突如襲ったトラブルに、昂っていた会場の空気は一変してしまった。


「ちょっと、大丈夫!?」


 とっさに手を離したのが幸いしてか、巻き込みを免れた多香音が急いで駆け寄る。だが当の晶は「うっわ恥ずかしー」と頭を搔きながら上半身を起こしていた。


「ごめんね、私がヘンなこと言ったから」


 大事無さそうな様子にほっと息を吐きながら、手を差し伸ばす多香音。


「平気だよ、それにしてもまさかお客さんの前でこんなダサいコケ方……」


 晶は差し出された多香音の細い手をつかみ、立ち上がろうと体勢を変える。だがエッジを氷に乗せて踏ん張ろうとしたその瞬間、彼は目を大きく開いたまま固まってしてしまったのだった。


「篠田さん、どうしよう?」


 恐る恐る口を開く晶に、多香音は「どうしようって?」と首を傾げる。


「足、くじいちゃったみたい……」


 顔面を蒼白にさせて返す晶。同時に多香音は、自分の全身からさっと血の気が引いていくのを感じ取っていた。


参考音源

『平清盛テーマ曲』https://www.youtube.com/watch?v=ZysKS_8fDmg

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