第五章その4 氷の上の、お熱いふたり
「前半の組の皆さん、入場してください」
スタッフの呼びかけに応じて、控室で待機していた選手の半数が立ち上がる。その中には岩下・倉木組も混じっていた。
「いよいよか……」
「よし、いこう!」
口々にこぼしながらその場を発つ選手や付き添いのコーチたち。やがて控室の人けがまばらになると、残された者たちは誰もが息を止めているのかと思うほど物音ひとつ立てなかった。
そんな静まり返った控室で、ふと多香音は壁にかけられたモニターに目を移す。そこには先ほど部屋を出たジュニアアイスダンスの選手たちが、6分間練習の時間を利用してリンク上で最後の調整に当たる様子が映し出されていた。
岩下・倉木カップルもラテンドレスを身に纏い、互いにツイズルを合わせて氷の感触を確認している。この日に向けて調子を合わせてきたのだろう、音楽は流れていなくともふたりのタイミングは寸分の狂いなく一致していた。
この大会はネットでも中継されている。フィギュアスケートには熱心なファンが多く、競技の華やかさもあってトップ選手に至ってはアイドルユニットさながらの絶大な人気を誇る。彼らはジュニア世代や地方大会でも有望選手の台頭を欠かさずチェックしているため、今日のような予選会であっても選手たちは画面に映り込む一挙手一投足まで全国のファンに審査されていると言ってもよい。
一方、控室に残された選手のほとんどは、じっと目を瞑ったまま微動だにせず座り込んでいたり、カップルで立ち上がって振付の確認をしたりと、壁のモニターなど眼中にすら入っていない様子だった。
大切な本番直前、他人のことなどかまっていられない。彼らは外界からの刺激一切をシャットアウトして、ただただ己と向き合っていた。
「僕たちもやっとく?」
そんな緊迫に包まれた控室でも普段と変わらぬ晶に、多香音は「別にいい」と首を横に振る。
そうこうしている内に練習時間が終了し、選手たちが続々とリンクを離れる。そして残された1組目のカップルが会場の中央に立つと、アナウンスの後に音楽が流れ始め、とうとうジュニアアイスダンスの種目が開始されたのだった。
「始まったね」
ぼそりと呟く晶に、多香音は無言で頷き返した。
主に中高生の年代の選手たちが、次々と氷の上で舞い踊る。いずれのカップルも8月の野辺山合宿の時とは見違えるほどに成長しており、ミスらしいミスは見当たらなかった。
そして前半の最後、この日一番の盛大な拍手とともに4組目に登場したのは優勝候補筆頭、岩下・倉木組だ。
「来た来た!」
晶が上半身をぐっと前に突き出す。隣の多香音は相方ほど反応しなかったものの、その視線はじっとモニターに向けられていた。
観衆に見守られながら静止する誠太郎と智恵。やがてエイトビートの細かなリズムが刻まれると、陽気なラテン音楽に合わせて氷の上を自由自在に舞い始めたのだった。
落ち着いた入りからの丁寧で繊細な演技。だが時折加わる大きくダイナミックな動きがアクセントとなり、演技にメリハリが感じられる。
「やっぱり完成度上げてきてるね」
食い入るように画面を見つめていた晶が口走る。
身長差をものともしない見事なシンクロ。ふたりのダンスはまるで教科書、いや、基本は踏まえつつもさらに二歩も三歩も先へと踏み出しているような表現力を備えていた。
アイスダンス特有の優美は当然として、力強い躍動感、暑苦しいほどのアグレッシブさ、どの言葉で表現してもぴたりとあてはまる。ただ「美しい」の一言で言い表すには惜しすぎる、そんな演技が氷上で繰り広げられていた。
やがて演技終盤、智恵の背後に立った誠太郎が相方の腰を両手でつかむと、回転と直進を織り交ぜながら相方を持ち上げる。そして滑走の勢いを殺さないまま片手で智恵の身体を持ち上げつつサボテンのようなローテ―ショナルリフトを見せつけると、観衆からは大喝采が湧きあがったのだった。
「うわぁ、これは難しいリフト入れてきたな」
晶がぎょっと目を剥いて感嘆の声を漏らす。
アイスダンスにおけるリフトに使えるのは7秒までという制約があり、その時間をギリギリいっぱいまで使って大技を決めることで高得点につながる。
この技を成功させるにはスケーティング技術はもちろんのこと、素早く相方を持ち上げて支え続ける腕力も備えなければならない。線の細い晶にとっては、真似しようにも真似できない力技だ。
そんな大技を最後に決めて、会場のボルテージは最高潮に達する。ふたりは拍手喝采に押されながらリンクの中央まで移動すると互いに組合ながらポーズを決め、同時にジャンと底抜けに明るい音楽もあっけなく終了したのだった。
この楽しい時間がもっと続いてほしかった。そんな余韻を会場に残す、実に満足感のある演技だった。
「シニアの大会でもこれほどの演技はなかなか見られません」
ずっと黙り込んで画面を見つめていたしのぶがようやく口を開く。
やがてキス・アンド・クライに移動した誠太郎と智恵、そして二階堂コーチの姿が画面に映し出される。互いに不安げな表情を浮かべながらぜえぜえと息を切らしつつも、誠太郎は智恵の肩にそっと腕を回して励ましていた。
「岩下誠太郎、倉木智恵の得点」
淡々としたアナウンス。熱気に満ちていた会場が、たちまち静まりかえる。
「59.21」
だが数字が告げられたその瞬間、ふたりはこれまで見せたことも無いほど満面の笑みを浮かべ、テレビ中継などおかまいなしに互いに抱擁を交わしたのだった。
スコアの内訳が表示されてしばらく経っても、会場の大喝采は一向に収まる気配はない。だがそれも無理はない、掲示板には『日本ジュニア新』の文字が表示されていた。
当然、現時点で断トツの首位だ。シニアクラスでも国内トップレベル相当の得点でも、異論をはさむ者は誰一人いなかった。
「やっぱり、完成度上げてきてますね……」
ごくりと息を吞むしのぶ。その眼は歓喜に飛び跳ねる教え子の傍らで、カメラに向かって不敵に微笑む二階堂コーチをまっすぐに睨みつけていた。
夏合宿の時点であれほどの出来だったのだ。これはフリーの『ジゼル』では、とんでもないスコアが打ち立てられるかもしれない。
盛り上がる中継とは対照的に、控室にはずんと重苦しい空気が流れ込む。全日本選手権を待たずして日本記録が更新されてしまったのだから、これから出番を迎える選手たちにとってはたまったものではない。
「なるほどなぁ、こりゃあすごいや」
だがそんな重圧などまるで感じてすらいないかのごとく、晶は他人事のようにぽかーんと呆気にとられた顔を浮かべていた。
その後も大会は滞りなく進められ、とうとう7組目、晶と多香音の出番が巡ってきたのだった。
ひとつ前のカップルと入れ替わりに、リンクに滑り出すふたり。SNSでバズった注目のカップルだけに観客の関心も高いのだろう、ふたりを迎える拍手はなかなかに盛大なものだった。
「晶、頑張れよー!」
喝采に負けじと声を張り上げるのは晶のお父さんだ。客席の一か所に、姉の皐月ら家族で集まって座っている。
そんな家族に手を振りながら、晶は多香音の手を引いてリンクの中央まで移動する。そして互いに向かい合ってポーズを取ると、打ち鳴らされ続けていた拍手がしんと鳴り止む。
「篠田さん」
その演技本番までのほんのわずかな時間。ぼそりと、ふたりにしか聞こえない小さな声で、晶は多香音に話しかけたのだった。
「日本記録、更新しよう!」
本番直前も直前というこのタイミングで、何を言っているのだろう。
そう呆れかえりつつも、多香音はつい表情を崩す。そして少し間をおいて、「……ええ」と頷いて返したのだった。
直後、音楽が流れ始める。選曲は細かいリズムとボーカルが特徴的な、社交ダンスでもよく使われる『CHILLY CHA CHA』だ。
参考音源
『CHILLY CHA CHA』
https://www.youtube.com/watch?v=MnL-pTVMjjA&t=3s




