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第五章その2 香川の誇り

「さっちゃん、おめでとー!」


「いよっ、香川の誇り!」


 シャンデリアに照らされる、テーブルの並べられた大広間。その一角で大勢の仲間たちに囲まれながら全身に拍手を浴びるのは、ポニーテールとくりんとした丸い目が可愛らしいひとりの少女。


「みんなありがとー! 最高の気分だよ!」


 照れ臭そうに頬を紅潮させつつもイエイッと元気なVサインを返すのは、香川のさっちゃんこと長谷川小夜子だ。


 テーブルの上には好物であるシャインマスカットパフェが置かれている。本当はケーキも注文したいところだったが、シーズン真っ只中ではこれが許容できる上限ギリギリだった。


 10月を迎え、ついに始まった西日本ジュニア選手権。小夜子を筆頭に大阪へと乗り込んだ讃岐アイスアリーナの一団は、選手もコーチも全員が同じホテルに宿泊していた。


 この西日本選手権は、4日間をかけて行われる。


 1日目が開会式及び抽選会、2日目がシングルのショートプログラム、3日目にアイスダンスのリズムダンスとシングルのフリープログラム。そして最終日にアイスダンスのフリーダンスが競われるのが、ジュニア世代の予定だ。


 そしてこの日、ショートプログラムで自己ベストを大幅に更新する見事な滑走を披露した小夜子には、まだフリープログラムを残しているにもかかわらず、ホテル併設のレストランでちょっとした祝いの席が設けられていた。


 中四国九州選手権を1位で突破して自信がついたのか、大会直前にもかかわらず小夜子はプログラムを一部変更し、なんと予定していたダブルアクセルを3回転半のトリプルアクセルに切り替えて本番に挑んだのだ。


 勢い余って転倒してしまったものの、女子ジュニアでは珍しい回転数に観客はどよめき、大歓声が湧き上がる。ジャッジからも正式にトリプルアクセルと認定されたおかげで技の基礎点もぐっと上がり、減点を受けながらも強豪ひしめくこの大会で全体2位という好成績を叩き出したのだった。


 これまで全日本出場経験はあっても、やっと入賞できるかどうかという立ち位置だった小夜子。それがトリプルアクセルという最大の武器を手に入れたことで、彼女は一躍全日本ジュニアの優勝争いに名乗りを上げたのだった。


「さっちゃん、本当に頑張ってたもんね」


「ありがとね! 明日のフリーでは3回転半もきちんと着氷するから、よく見ててよ!」


 スケート仲間からの称賛に応える彼女の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。


「はっはっは、やりましたなさっちゃん! 僕も鼻が高い!」


 人垣の中でえへんとふんぞり返るのは定森晶だ。香川どころか中四国九州ブロック唯一のジュニアアイスダンスに出場する男子である彼もまた、気の置けない友人の快挙を心底喜んでいた。


「えらそーにしてんじゃないよ、あんたも明日本番なんでしょ。ほらほら、多香音ちゃんに迷惑かけちゃダメだよ」


 ぷっと吹き出しながら小夜子が言い返す小夜子。


「はっはっは、こりゃ一本取られたわ」


 すかさず晶が自らの頭をぺしゃりと叩きながらおどけてみせたので、どっと笑い声が巻き起こる。


 そんな一団の中、周りと同じように微笑みながらも、篠田多香音は声をあげて笑うことはできないでいた。




「ふぁー、食べた食べた」


 夕食を終えて、小夜子はまっすぐ客室へと戻る。スイッチを入れて照明に灯された部屋には、シングルベッドが2台並んでいた。


「ケーキ解禁は全日本終わってからだね」


 小夜子に続いて部屋に入ってきたのは、ニコニコと機嫌の良さそうな多香音だ。大会の間、年齢の近いふたりは同室で過ごしていた。


「そうそう、終わったら絶対にケーキ屋ハシゴしてやるってね」


 小夜子はベッドに腰かけながら、ホテルの案内冊子をぱらぱらと開く。


「そういやここ、中華食べ放題あるんだね。ああもう、シーズン中じゃなかったら行ってたのにぃ」


「まだ食べるの?」


「アスリートは身体が資本だから、よく食べてよく寝ないと」


 長身ですらりとしたモデル体型の多香音とは違い、小柄な小夜子は筋肉質でありながら出るところはしっかり出ているグラマラス体型だ。スケーターとしては珍しい部類だが、本人はこの身体だからこそ誰よりも力強いジャンプが跳べると自負している。


「明日も早いから、今日は早く寝よっか。多香音ちゃん、先にシャワー浴びてきなよ」


 開いた冊子に目を向けながら、小夜子は擦りガラスの扉を指差した。このホテルの客室には、トイレとシャワールームが一体になったユニットバスが設置されている。


「ううん、私これから家族にメッセージ送るから。さっちゃん先使っていいよ」


「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」


 そう言うと小夜子は冊子をパタンと折り畳み、てきぱきと荷物から着替えを取り出す。そしてそれら一式を抱え込みながら「おっさきー」と言い残して足早にシャワールームへと入室した。


 やがて扉の向こうからざあざあと水の流れる音が聞こえ始めたところで、多香音は「はあー」と深いため息を吐くと、どすんとベッドに腰かけたのだった。ずっと微笑みを浮かべていた多香音の顔が、たちまち崩れ去る。


「トリプルアクセルかぁ……」


 意味もなく、部屋の天井をぼうっと眺める。だが彼女の目には、氷上で見事な滑走を見せた小夜子の姿がありありと映り込んでいた。


 小学生の頃は、非公式ながら成功させていた3回転半。前人未踏の全日本ノービス4連覇を目指した6年生の時、跳べなくなったあのジャンプ。


 あの疾走感と達成感は、忘れようにも忘れられない。自分が今まで味わった他のどの快感でも及ばないほど、あの瞬間は別格だった。それは晶とアイスダンスを始めた今でも変わらない。


 もう断ち切ったはずなのに、自分はまだシングルに未練があるのではないか?


 電光掲示板のスコアに人目も気にせず「いやったあぁあ!」と叫ぶ小夜子の顔。喜びの感情をストレートにさらけ出したその顔が、両親が暮らす仙台の家の居間に飾られた写真の中で、初めて全日本ノービスを制覇して表彰台の真ん中に立つ小学3年生の頃の自分の顔が、不思議なほどに重なってしまう。


「と、何くだらないこと考えているの! 私は私、さっちゃんはさっちゃん! 篠田多香音はアイスダンスを選んだんだ!」


 明日は本番、他人のことなんか気にしている場合じゃない!


 自分に言い聞かせながら、多香音は頭をぶんぶんと振った。


「そうだ、ちょうどニュースやってる時間じゃん。さてさて、今日の日本シリーズは、と」


 そしてわざとらしく声を上げながら、テレビのリモコンを手に取る。スイッチを入れたところで映ったのは、原稿を読むニュースキャスターの姿だった。


「スポーツのコーナーです。本日、女子フィギュアスケート界に新たなヒロインが誕生しました。その名も、香川のさっちゃん!」


 反射的に、リモコンを押して電源を切る。


 絶句したまま固まる多香音。聞こえるのは、小夜子がシャワーを浴びる音だけだった。


「何やってんだろ、私……」

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