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第四章その6 妖精と呪い

 野辺山で開かれている合宿も、とうとう最終日を迎えた。


 この日、最後に行われたのは本番を想定した演技の練習だった。小学生から高校生まで参加したすべてのカップルがリズムダンスかフリーダンスのどちらかを選び、順番に入れ替わりでリンクに立ってひとつのプログラムを演じ通す。その間、他の参加者は観客役として演技を最後まで見届けなくてはならない。


 途中で失敗しても中断されることは無い。演技そのものよりも、一発勝負の緊張感に耐えられるかどうか、たとえミスをしても如何にリカバリーできるかどうかが試される。


「さあさあ、この合宿で身につけたことをすべて発揮してください! 見ている人も拍手で讃えましょう!」


 藤沢夫婦が呼びかけると、ノービス世代の小学生たちが「はーい」と元気よく返す。


 対して観客席に集まったジュニア世代の選手たちはずんと重々しい空気に包まれており、多くが立ち上がって無言のままステップやリフトの最終確認にあたっていた。彼らの出番はノービス世代の演技が終わった後になるのだが、既に本番直前さながらの緊張感を漂わせている。


「僕たち、最終滑走か」


 そんなピリピリとした面々に臆することもなく、練習着姿の定森晶はプラスチック製の座席にもたれかかり、先ほど引いたクジの紙を片手に持ってひらひらとなびかせていた。


「あんた、緊張とかしないものなの? 私たち大取おおとりだよ?」


 すぐ近くで立ちながらツイズルの動きを確認していた多香音が、呆れたように話しかける。


「そりゃするよ、僕だって心臓に毛が生えているわけじゃない。けど緊張しすぎたところで良い結果につながるわけでもないし、普段の練習以上に良い演技ができるものでもない。だからこうやっていつも通りに過ごすってのが、経験則的に一番なんだよね、僕にとっては」


 もっともらしく言い返すが、その間も晶はぐでっと力なく背もたれに全体重を任せていた。クッションでも与えようものなら、そのまま横になって眠ってしまうかもしれない。


 だがこんな晶であっても、カナダジュニア3位という実績の持ち主であることに変わりはない。大舞台のメンタルコントロールについては心配ご無用であろう。


「あんたのこと信用はしてるから、私に恥をかかせるような演技だけはしないでね」


 とりあえず一言だけ、多香音は釘を刺す。彼女もスケーティングに関しては、国内ジュニア世代において晶の敵になる相手はいないと全幅の信頼を寄せていた。


「あいよー。そういえば……あのふたりはどこ行ったんだ?」


 ゆっくりと首を持ち上げる晶。あのふたりとはひとつ上の高校生カップル、岩下誠太郎と倉木智恵のことだ。


「あれ、さっきまでそこにいたのに。たしかジュニア1発目だよね?」


 つられて多香音も周囲をきょろきょろと見回す。他の選手らは全員近くでイメージトレーニングに打ち込んでいるものの、彼らふたりだけどこにも姿が見えない。


 そうこうしている間に、ノービス世代の演技が始まった。10歳前後の初々しいふたりが手をつなぎ、練習着のままリンクの上に滑り出る。


 小学生カップルの演技は実に可愛らしい。演目も有名なクラシック音楽やアニメ映画の楽曲など親しみやすいものが多く、見ている側もほっこり自然と心が温かくなる。


 だが氷上の選手たちは真剣そのものだ。ひとつひとつの表現が採点に響くため笑顔を作ってはいても、その眼は決して笑っていなかった。


 やがてノービス世代の演技が終了すると、ジュニアの選手たちは観客席から控室に移る。ここは観客席から死角にあたり、演技直前の選手たちが出番を待ったり、衣装替えのために利用されている。


 そんな控室に踏み入れた途端、晶と多香音は「あ!」と声に出して足を止めてしまった。


「やあ、間に合って良かった!」


 既に控室では、岩下・倉木ペアが待機していたのだ。しかも倉木智恵は花嫁衣裳を連想させる白一色のドレスを纏い、目の縁を中心にばっちりメイクを仕上げている。


「ふたりとも、衣装着るんですか?」


 興味津々といったようすで岩下誠太郎に話しかける晶。ソフトモヒカンの少年は「うん、実は昨日仕上がったらしくて、今朝ここまで届けてもらったんだよ」と、まだ着慣れないのか青を基調とした衣装の胸の部分を引っ張っていた。所々に散りばめられたスパンコールが光を反射してきらきらと輝いている。


 ライバルカップルのまさかのドレスアップに、他のジュニア世代の選手たちはざわつきを抑えられなかった。現役日本最強ジュニアカップルが、本気の滑りを見せてくる。その覚悟を見せつけられて、なんとか保っていた平静を乱されてしまっていた。


「それではジュニア最初の組、準備お願いします」


 スタッフに呼ばれ、控室を発つ岩下と倉木。その去り際、倉木智恵はその舞台役者さながらのメイクを施した眼を多香音に向けると、ふふっと不敵に微笑んだのだった。


 最年長カップルがリンクに滑り出る。同時に観客であるノービス世代の選手やコーチたちは一様に沸き立った。


「衣装着てる!」


「きれい!」


「あのふたり、本気だな」


 観客席から身を乗り出す小学生たちに応えるように、岩下と倉木が手を振り返してリンクをぐるりと一周する。そんな彼らの姿を、師である二階堂コーチは腕を組んだままふふっと眼鏡越しに微笑みを浮かべ、観客席から見守っていた。


「岩下誠太郎、倉木智恵。曲は『ジゼル』」


 アナウンスが入ったところでふたりはリンクの中央に移動する。そして白いドレスの女が裾をたなびかせながらうずくまり、男は嘆き悲しむように額に手を当てて大袈裟なポーズを取って固まると、厳かながら小刻みの弦楽器の音色が会場に響き始めたのだった。


 この『ジゼル』はフランスの作曲家アドルフ・アダンによるバレエ音楽だ。オーストリアの伝承に着想を得たこのプログラムは、村娘ジゼルと貴族の青年の悲恋が描かれている。


 病弱でありながら美しく男たちの人気を集めていたジゼルは、貴族の身分でありながら村人に扮していた青年アルブレヒトと恋仲になる。それを妬んだ村の若者ヒラリオンは、ある時アルブレヒトが貴族であることに気付き、さらにジゼルやアルブレヒトの婚約者の前で彼の正体をばらしてしまう。ジゼルは混乱しショック死、村人たちは悲しみに暮れた。


 その後ジゼルは森の墓に埋葬されたが、彼女の魂は死後も森を彷徨っていた。その森は若くして亡くなった他の女たちも妖精となって住み着いており、ジゼルはその仲間として迎え入れられたのだ。


 しかし夜中、許しを請おうとジゼルの墓を訪れていたヒラリオンは妖精に呪い殺されてしまう。後に森を訪れたアルブレヒトも妖精にとらえられ力尽きるまで踊らされるが、途中でジゼルが割って入って彼を許したことで、アルブレヒトは解放されたのだった。


 ふたりが演じるのはその後半、ジゼルが亡くなった後、森の中での出来事のダイジェストだ。


 ジゼルに扮する倉木智恵はウエディングドレスとも死装束ともとれる純白のドレスを纏い、岩下誠太郎は貴族として細かい装飾の施されたバロック風の宮廷衣装を着込んでいる。


 劇中に使われる複数の曲を編成しなおして4分ほどにまとめたプログラムではあるが、古典的な旋律のワルツを中心に実に優雅で、軽やかながら悲壮感も漂う曲想がふたりの行き違いを特徴づけている。


 実らぬ恋と知りながら惹かれ合うふたりの熱烈な感情は、寸分たりとも狂いの無い見事な足さばき、そして視線の配り方まで徹底的に身体にしみこませた迷いのない完璧な動作で如何なく発揮されている。


 特にリフトは重さを感じさせずまるでふわりと本当に宙を漂っているかのようで、アルブレヒトに支え上げられたジゼルは妖精そのものだった。


 そしてクライマックス、一命をとりとめたアルブレヒトとジゼルのツイズルだ。高速で、つま先の触れそうな位置でふたりそろって回転しているはずなのに、まるで連動したオルゴールのように正確な円を刻みながらリンクを駆け抜ける。このシンクロはあまりにも見事で、まだ演技の最中だというのに観客席から拍手が巻き起こったほどだ。


 最初から最後までとにかく完璧にして優雅、そう表現するに相応しい圧巻のプログラムだった。会場の空気は、完全に岩下・倉木の最年長カップルによって支配されていた。


「あのふたり、さすがだなぁ」


「これは日本のアイスダンスの未来も明るいな」


 滑走終了後、観客席のコーチやスタッフが拍手を贈りながら口々に褒めたたえる。たとえ自分の教え子でなくとも、良い演技を見れば素直に評価したくなるものだ。


 しかし控室のジュニア世代の選手たちは気が気でなく、誰もが戦々恐々と顔を青ざめさせていた。一発目にこれほどの完成度を見せつけられてしまっては後続である自分たちも下手な演技はできない。プレッシャーからか一部の選手は、室内をあちこち落ち着かない様子で意味も無く立ち歩いていた。


「あんた、今の演技どう思う?」


 控室からふたりの滑走を見ていた多香音が、隣に座る晶にそっと声をかける。


「こりゃ困った、思った以上に手強いね。けど」


 話しかけられた晶はすりすりと顎をさすっていたが、すぐに多香音を振り返ると、にぃっとわざとらしく笑いかけたのだった。


「僕たちの演技なら、絶対に負けない」


参考音源

『ジゼル』第二幕より

https://www.youtube.com/watch?v=ErFSAHKjUHA

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