第四章その5 夜のコンビニにて
入浴を終えたしのぶと多香音は、宿舎を出て夜道を歩いていた。
この合宿所は消灯時間を迎えても閉館はされず、外出することができる。また500メートルほど離れた場所にコンビニがあり、夜間でも宿泊客が頻繫に買いに来るのだそうだ。
夜闇に覆われた田園の向こうで、カラフルなコンビニの看板が煌々と輝いている。師弟はその灯りに誘われるかのようにまっすぐと、車もほとんど通らない道路を歩いていた。
「まー、あの言い方は無いですね」
しのぶの隣を歩いていた多香音が、やれやれと手を広げる。
「ええ、ですが二階堂先生の言ったことは事実ですから……あの方には経験も実績もある。けれど私には何もない、きちんと見てきたのはあなたたちが初めて。何の実績もない私が、あなたたちの才能を潰してしまわないかって、急に不安になってきて……」
俯いたまま、とぼとぼと歩くしのぶ。高身長の多香音と並んで歩くと、どちらが年上なのかまるでわからない。
「そっかー、今より上手くなれるのなら、二階堂コーチに乗り替えた方がいいかなー」
「ええ!?」
「冗談ですよ冗談、本気にしないでください」
愕然とするしのぶを、多香音は吹き出すのを堪えながら宥める。すぐにしのぶは「ああ驚いた」と胸を撫で下ろした。
「あの完璧主義マシーンですよ。私が男をリフトしたいって提案しても、どうせ秒で却下されていただけですって」
多香音はけらけらと笑いながら歩く。だが言い終えたところで、改めてコーチの顔を覗き込むように向き直ったのだった。
「でも小宮コーチは違う。私たちの無茶な提案でも、きっちりと受け入れてくれました」
夜の闇でも強く輝く瞳をじっと向けられ、しのぶはただ何も言わずこくんと頷いて返した。
「だから安心してください。私はコーチのこと、信じていますから」
そうこう女同士で話している間に、ふたりはコンビニへと到着した。
長距離トラックの運転手も利用するのだろう、駐車場は讃岐アイスアリーナのリンクよりも広い。奥にはキャンピングカーも駐車しており、ドライバーにとってはちょうど良い休憩所になっていることが見て取れた。
自動ドアを抜けるなり、店員の「いらっしゃいませ」という声が返ってくる。と同時に、賑やかなはしゃぎ声が、多香音たちの耳に届いたのだった。
「うわぁ、ソシャゲのコラボ商品全部売り切れてる。出遅れたなぁ」
「こっちにまだ余ってますよ」
「あー、そのキャラどこ行っても余ってるから。主人公ポジだから出荷数は多いけど、あまり人気無いから売れないんだろうね」
陳列棚の向こうから聞こえるのは若い男の声、おそらく2人ほどいるのだろう。
「賑やかですね」
「コンビニくらい静かに買い物しなさいっての」
ふふっと微笑むしのぶを引き連れ、多香音はぶつくさと文句を垂れながら店の中へと進む。だがふと陳列棚の裏に目を向けるや否や、「あれ?」と間の抜けた声をあげて立ち止まってしまったのだった。
「あんた、何してんの?」
「何って、そっちこそ何してんだよ?」
お菓子コーナーで商品を物色していたのは、スウェット姿の定森晶だった。しかもいっしょにいるのは、ガッシリとしたガタイでソフトモヒカンの強面……あの倉木智恵の相棒、岩下誠太郎だった。
「いや、コンビニ行くよって言ったら定森君も行くって」
「風呂場で意気投合したんですよ、僕たち」
そう言いながらコンビニの駐車場でイエーイとハイタッチする男子2名。たった1回でこれほどの親睦を深められるとは、男同士裸の付き合いの効果は絶大だ。
「はあ、やっぱ男子ってどこまで行ってもアホだわ」
「本当に、私たちがいちいち悩んでいるのもバカバカしく思えてきますね」
そんな野郎どもの戯れを、ベンチに腰かけながら多香音は100%オレンジジュース、しのぶはスクリュードライバーの缶をそれぞれ飲みながら眺めていた。
「そういえば」
岩下誠太郎が思い出したようにしのぶを振り返る。そしてずんずんと歩み寄ると、「小宮さん、すみませんでした」と深く頭を下げたのだった。
「定森君からお聞きしました。二階堂コーチが失礼なことを言ったみたいで、本当に申し訳ありません」
「あ、頭を上げてください!」
あまりにも急だったので、しのぶは慌てて
「岩下さんが謝ることではありません。それに二階堂先生のおっしゃったことは全て正しいので、何も気にされる必要は無いのですよ」
「いや、ですがコーチがしたことはとても許されるものではありません。俺もそれに気付けなかった責任があります、どうか」
謝る謝らないで押し問答を繰り広げるしのぶと岩下。これでは埒が明かないと、多香音は「あの、岩下さん」と横から声をかけたのだった。
「倉木さんのことなのですが、私、あの人とどこかで会った気がするのです。でもそれが思い出せなくて……私のこと、倉木さんは何か話していませんでしたか?」
数秒の間、岩下はその無骨な顔を多香音に向けて黙り込んでいた。
「前に智恵から聞いたことがあります」
だがやがてぽつぽつと、やや演技がかった声で話し始めたのだった。しのぶら師弟も全員がじっと耳を傾ける。
「智恵は小学校の頃、シングルの選手でした。その才能は東京都内でも有数で、あっという間に上級生を追い抜き、優勝は間違いない、これは将来のオリンピック金メダリストだと言われていました」
「ですが小学4年の時、全日本ノービスに出場した智恵は、まだ3年生で初出場だった篠田さんに敗れました。順位は2位でしたがスコアでは圧倒的な大差で、生まれて初めて、才能とはいかに青天井のものであるか、そして自分がどれだけちっぽけな存在だったかを彼女は思い知らされたそうです」
多香音は口元を押さえ、顔面を蒼白にさせていた。まさか自分が初めて日本一に輝いた大会で、同じ表彰台に上がっていたなどとは予想だにしていなかった。
「そこから彼女はシングルの道を断ちました。年上の人と組んでアイスダンスを始めて、中学からは俺と組むことになりました。あいつにとって篠田さんは憧れも羨望も色々と混じった特別な存在だったはずです。ですから篠田さんがシングルからアイスダンスに転向したことは、あいつにとって受け入れがたいことだったのでしょう」
話しながら、岩下は最後にぎろりと多香音を一瞥する。その眼光は非常に鋭く、恐怖心すら抱かせるほどだった。
「そうだったんだ」
多香音はオレンジジュースの缶を手に取り、最後の一滴までぐっと飲み干した。そしてぷはあっと冷たい息を吐き出すと、「あの、倉木さんにお伝えできますか?」と改めて岩下に向き直ったのだった。
目を丸める岩下。だがすぐに「はい、どうぞ」と小さく頷いて返すと、多香音もそれに応じた。
「倉木さん、失望させてしまってごめんなさい。私はたしかにこれ以上シングルでは無理だと、限界を感じていました。ですが――」
ここで一息、間を入れる多香音。じっと岩下の目を見つめながら、さらに続ける。
「ですが、スケート自体は諦めたわけではありません。私も倉木さんと同じように、アイスダンスについては本気です。そのことは演技を見てくだされば、すぐにわかると思います」
最後まで言い終えた多香音を、岩下はその立派な顎をさすりながら睨み返す。だが数秒後、愛嬌たっぷりににこりと微笑むと、「はい、伝えておきますよ」と指でマルを作ったのだった。
ちなみにその帰り道、男子2名がソシャゲの推しキャラ論争に歩きながら白熱しているのを見て、女ふたりがそろって「男って、やっぱアホだわ」とこぼしたのはまた別のお話。




