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第四章その2 世界レベルの演技

 宿舎の部屋で着替えを済ませ、合宿参加者一同が連れていかれたのは施設に併設されたアイススケート場だった。


 合宿所併設と侮ってはいけない。ここのリンクは大会を開催できるだけの国際基準を満たしており、100席規模の観客席も備えている。過去にはフィギュアスケートだけでなくアイスホッケーやショートトラックの選手もトレーニングを積み、オリンピックに挑んできた。


 さて滑るぞと意気込んだ一行はリンク脇でストレッチに励むものの、連盟スタッフから観客席に移るよう案内される。どうやらすぐに練習に取り掛かるわけではないようだ。


 思い思いの席に座る参加者たち。その中で晶は「あっち行こう」と多香音の手を引き、先ほどバスの中で出会った高校生くらいのカップルとはうんと離れた座席に腰かけたのだった。


「ふたりとも、この業界ものすごく狭いですから、喧嘩はよしてくださいね」


 隣に座ったしのぶが珍しく険しい顔を見せる。この合宿にはしのぶだけでなく、複数名のコーチも参加している。コーチとしても他者の指導方法を間近で見られるという、成長のためには絶好の機会なのだ。


「喧嘩じゃないです。それにつっかかってきたのはあっちなんで」


 コーチからの苦言にも、晶は口を尖らせて反論していた。これほど苛立っている晶を見るのは、しのぶにとっても初めてのことだった。


「ふふふ、さっきは男同士で丸く収めてたのに、あんた結構根に持つタイプなんだね」


 嫌味を言われた張本人以上の腹立ち具合に、当の多香音はというと今にも笑いが漏れ出そうなのを必死で堪えていた。


「悪いか、なに笑ってんだよ。悔しくないのか?」


 多香音はついに決壊した。両手で口元を隠し、ぶふっと吹き出す。近くに座っていた中学生カップルが「え、何?」と目を向けるが、気にしている余裕は無かった。


「いやいや、悔しいも何もおっしゃる通りですし。私も知ってるよ、アイスダンスが一朝一夕で身に着くようなもんじゃないって。それに」


 こみ上げてくる笑いがようやく落ち着いてきたところで息を整え、多香音は晶に向き直る。


「あんたが私のこと心配してくれてると思うと、なんか色々とおかしくってさ」


 晶の口がぽかんと開く。だがすぐにその口は再びぐっと噤まれ、先ほどの不機嫌顔へと戻ってしまった。


「そりゃまあ、パートナーだから。篠田さんがいないと僕も演技はできないし」


 そうぶつくさと言い返す晶。しかしその顔は多香音ではなく、誰もいないリンクの方へと向けられていた。


「はいはい、あんたと私は一蓮托生、どっちかがダメならどっちも仲良く共倒れする関係ね。それならあんたもいちいち気にしすぎで、逆にこっちが心配になってきそうだわ」


 すっかり晴れ晴れとした顔で多香音が言い放つ。だが晶はなおも納得がいかないと言いたげな顔で、ずっと遠くの壁を見つめていた。


「はい、みなさーん」


 ちょうどその時、連盟スタッフの男性が声を張り上げる。談笑していた参加者は話すのをやめ、全員の視線が日本スケート連盟のジャージを着たスタッフに注がれた。


「本日はジュニア合宿にご参加くださり、ありがとうございます。これから日本のアイスダンスを支えていく皆さんがこのように一堂に会し、ともに高め合っていける機会となりますことを心より期待しております」


 厳格な面持ちで格式ばった挨拶を続ける男性に、一同は物音ひとつ立てずにじっと聞き入る。


「と、こんな堅苦しい挨拶はさっさと終わらせて」


 だがすぐに男性がおちゃらけたように表情を崩したので、緊張の糸が途切れた参加者からはふふっと安堵の笑い声があがった。


「北は北海道、南は長崎まで、遠路はるばるここ長野にお越しくださったのです。私たちスケート連盟も皆さんを歓迎して、お楽しみショーをご披露いたします。それでは皆さん、リンクに注目!」


 スタッフがリンクをビシッと指差すのに合わせて、全員の視線がそちらに誘導される。


「見て!」


 観客席の一同はたちまちに沸き立った。


 いつの間にやら氷上に立っていたのは、現役日本代表の藤沢夫婦。だが先ほどのジャージ姿とは打って変わって、男性の藤沢わたるは上下白の海員制服、女性の藤沢遥佳はるかは赤を基調に背中を大きく開いたイブニングドレスのような衣装をまとっていたのだ。


 ここにいる者なら誰もが知っている。今年2月のオリンピックでもフリーダンスで全世界にその実力を見せつけた、あの衣装だ。


 カップルとコーチ合わせて30人にも満たない参加者たちから、割れんばかりの拍手が巻き起こる。これから始まる全日本チャンピオンにして五輪入賞カップルのワンマンショーに、天井の低いこの会場では隣の人の声すらも聞こえないほどの大喝采が贈られた。


 その拍手に応えて藤沢夫婦はぺこりと観客席に一礼すると、すぐに女性の遥佳が氷に膝をついた。男性の亘はその後ろに回り込み、まるで背中から包み込むように抱きかかえる。


 ようやく拍手が止む。ほぼ同時に、場内スピーカーから静かな低音が響き、柔らかい木管楽器が緩やかな主旋律を奏でる。リンク上のふたりも立ち上がり、悠大な音楽に合わせて手を取り合いながら盤面いっぱい大きく滑り始めていた。


 曲は『マードックからの最後の手紙』。20世紀初頭に大西洋で沈没したタイタニック号を題材に、一等航海士であったウィリアム・マクマスター・マードックが船上から家族宛てに綴っていた手紙をイメージしたメロディアスな吹奏楽曲だ。


 このプログラムにおいて、亘は船とともに海に沈んだ航海士マードック、そして遥佳は夫の帰りを待つ妻エイダを演じている。衣装は当時彼らが着ていた服装をイメージしたもので、初めてメディアにその姿が公開された時はまるで映画撮影だと話題になったほどだ。


 冒頭、男女でつないでいた手を離し、同じ向き、同じ速さで回転しながらふたりそろって右に左に移動する。アイスダンスの見せ場のひとつ、ツイズルだ。


 お互い回転する度にエッジが相手の脛をかすりそうに見えてギリギリ触れず、それでいてこれ以上遠ざかることも無い絶妙な間隔を保ちながら、夫婦は足の高さや回転の角度までピタリとそろった演技を続ける。このツイズルにおいては男女の距離が近く、動きにズレが無いほど高評価がもらえる。


 次第に音楽が落ち着き、ツイズルを終えた夫婦はリンクの中央で一度立止まる。見つめ合い、両手を絡めたまま身体を傾けて静止する祖の姿は、まるで愛する者との一時の別れを互いに惜しんでいるかのようだった。


 と、ゆったりした曲調から陽気なアイリッシュ風の旋律に切り替わり、夫婦はリンクを縦方向にこれまでよりも軽快なステップを踏みながら移動する。その楽しげな躍動感から、出港後、船上でパーティーに明け暮れる人々の姿が思い起こされる。


 大技に制約のあるアイスダンスでは、曲の解釈を通じてプログラムごとに唯一無二の振付や表現を見せることが重要視されている。その点はジャッジ側も重々理解しており、たとえ高難度のステップを成功させて完璧な滑走を披露したカップルでも、曲と演技のコンセプトが明確でない場合スコアは伸びない。


 つまり数あるフィギュアスケート種目において、選曲とテーマが最もスコアに直結しやすいのはアイスダンスであると言える。実際の大会でも上位と下位とでは、技術点と比較して演技構成点のスコアの開きの方が往々にして大きくなるのが一般的だ。


 そういった明確なコンセプトもさることながら、藤沢夫婦の演技は実に卓越したものだった。足先のミリ単位まで、たとえ高性能カメラでスローモーション再生したとしても、ぴたりとそろった動きを見せてくれることだろう。


 やがて氷山と衝突し、混沌に包まれる船内。打楽器が激しく打ち鳴らされ、リズムも旋律もめまぐるしく変化する中、夫婦の滑りもどこへ向かえば良いのやら、あっちでリフトしたりこっちでスピンしたりと忙しない。


 間近で繰り広げられる圧巻の滑りにすっかり引き込まれ、参加者一同は息を吸うことすら忘れたかのようにただただふたりの滑走に魅入っていた。


 事故から一夜明け、冒頭にも似た悠大な曲調が繰り返される。元のように穏やかになった海を見て妻は何を思うのか、マードックとの滑走にはどことなく物悲しさが感じられた。


 曲が再び加速する終盤。まるで新婚夫婦の頃のように強くホールドを組んで滑走を続けていたふたりが高速で滑っていると、突如マードックが妻を抱き寄せる。そして軌道では大きな弧を描きつつも高速で回転しながら、ほぼ肩の高さまで相手を持ち上げるリフトを見せつけたのだった。


 そこからちょうどリンクの中心まで移動したところでさらに回転を速め、夫に持ち上げられていた妻も互いに抱擁し合うような形に姿勢を変える。アイスダンス最大の見せ場であるリフト、それも回転しながら進むローテ―ショナル・リフトとその場で回転するステーショナル・リフトの2種類を組み合わせた高難度のロング・リフトを、夫婦は見事に成功させていた。それも演技の最終盤のクライマックスで。


 そしてこれは夢か幻か、二度と会うことのない夫婦が抱擁を交わして静止すると同時に、ありとあらゆる楽器が一音を合わせて奏で、ふたりの演技は終わりを迎えたのだった。


 同時に鳴り響くは拍手と歓声。4分間のフリーダンスを見終わった参加者は、まるで1本の映画を鑑賞し終えたかのような充足感に包まれていた。気持ちが昂りすぎてしまったのだろうか、少女のひとりは目を真っ赤にして涙で顔をぐずぐずにしながらも手を叩き続けていた。


 藤沢夫婦としても会心の出来だったのだろう。両者ともぜえぜえと呼吸を乱しながらも、澄み切った笑顔で若きアイスダンサーたちに手を振って応える。


 この場にいる者なら誰もが繰り返し見たプログラムのはずだが、間近で見た迫力、そして繰り返し演じられる中で高められた完成度は格別だった。拍手はいつまでも鳴り止まず、スタッフもそろそろ止めようかしばらく放っておこうかと苦笑いを浮かべている。


「すげえ!」


 晶も惜しみない拍手を贈る。これほどの演技はアイスダンス大国カナダでもそう見られるものではない。


「ねえ、あんた」


 その時、隣に座っていた多香音から小声で呼ばれ、晶はふと顔を向ける。彼女も手を叩いてはいるものの、周囲のヒートアップした面々と比べるとかなり控えめに、落ち着いて鑑賞している様子だった。


「私、ずっとシングルしかやってこなかったからアイスダンス生で見たのは初めてなんだけど……」


 パートナーの顔を見て、晶はぎょっと驚く。多香音の頬を、つーっと涙の一筋が走っていることに気付いたのだ。


「アイスダンスって、こんなに優雅でダイナミックなものなんだね。初めて知った」


 そう言って多香音は袖口で目元を拭きながら、これまでいない至福の笑顔を浮かべていた。

参考音源

樽屋雅徳『マードックからの最後の手紙』

https://www.youtube.com/watch?v=QwRTP70yU1k

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