第四章その1 夏だ、山だ、合宿だ!
ふたりがカップルを組んだ春はあっという間に過ぎ去り、そして夏が到来した。
四国の夏は暑い。特に瀬戸内海沿岸部に位置する高松は雨も少なく、晴天の陽射しがアスファルトを焼き焦がす。この陽光と少雨は名産のみかんにとっては最高の環境なのだが、仙台生まれの多香音、そして長年カナダで過ごした晶にとっては、地獄の釜で焼かれるも同然の辛さだった。
そんな夏休みのある日、まだ陽も上らない早朝。旅行用のキャリーバッグをそれぞれ手にしたふたりは、しのぶに連れられて高松駅から始発電車に乗り込んだのだった。
瀬戸大橋を渡り、岡山からは新幹線で名古屋まで。そこから特急に乗り替え、さらに北を目指す。
「な、長かったぁー」
座りっぱなしで固まった首をぱきぱきと鳴らしながら、3人は小さな駅舎から外に出る。
真夏だというのに涼しい風が肌を優しく撫でる。駅の周辺は商店やレストランが見られるものの、それら建物のはるか向こうには急峻な山脈がまるでノコギリの刃のように連なって3人をぐるりと取り囲んでいた。
ここは長野県野辺山。霊峰八ヶ岳を西に臨む標高1300メートル超の高原リゾート地だ。
「ほら、あれじゃない?」
多香音が駅前のロータリーに駐車していたバスを指差す。フロントガラスの内側には、『日本スケート連盟主催アイスダンスジュニア合宿』と書かれたパネルが置かれていた。
3人がはるばる長野までやって来たのは、これが目的だった。今日から3日間、この近くにある通年スケートリンクを備えた宿泊施設にて開かれるジュニア世代向け合宿に参加する。
到着した参加者は、3人が最後だった。
「思ったより……少ないね」
バスに乗り込むなり、晶が多香音だけに聞こえる声でぼそっと呟く。
これで本当に全国から集まったのだろうか。左右それぞれに2列シートがずらりと並んだ車内で待っているのは、ざっと見た限り10組ほどだった。
いつか日本が強豪国とも渡り合えるよう、ここ数年スケート連盟はカップル競技の次世代育成に力を入れている。だがそもそもの競技人口が少ないので、ジュニア世代を集めてもバス1台で事足りてしまうのが悲しいところだ。
参加者の年代も幅広く、下は10歳くらいの小学生カップルも参加している。このメンバーの中では、高校生の多香音と晶はかなり年長のようだ。
ほどなくしてバスが発進する。市街地を抜けると、目の前にははるか遠くの山の麓まで延々と続いているかと思うほどの農地が広がっていた。
「わあ、きれい!」
窓側の席に腰かけていた多香音が、車窓に顔を貼り付けて目を輝かせる。田園には見頃を迎えたソバの花が咲き誇り、まるで自分が緑と白のまだら模様の絨毯を突っ切っているかのようだった。
「篠田さん、こういう風景好きなんだね。瀬戸大橋渡る時もずっと海眺めてたし」
隣に座る晶が何気なく言うが、スマホを手にした多香音は写真撮影に夢中で返事すらしない。
「ねえ、さっきから気になってたんだけど」
だがそこに突如、しのぶとも違う女性の声が聞こえ、晶と多香音は「うん?」と振り向いた。
ふたりが並んで座る2列シートと、ちょうど隣り合った座席。そこに座る男女の内、窓側の席に座った少女が上半身を前にぐっと突き出して多香音に顔を向けていたのだ。
「あなた、もしかして篠田多香音さん?」
ふわふわと柔らかそうなロングヘア。陶器のような白い肌にはほくろひとつ無く、Tシャツ姿でもやんごとなき気品を漂わせていた。
通路側の席に座っているのはパートナーであろう少年。こちらはがっしり逆三角形に短めのソフトモヒカンと勇ましい風貌であり、まるで高貴な姫君とそれを守る親衛隊長のようだった。
「あら、ばれちゃいました?」
多香音はへへへと苦笑いで返す。
ともに高校生くらいだろう。自分たちと年齢の近い参加者の存在に、晶と多香音は安心感を覚える。
「そりゃ全日本にも出場していたもの。風の噂でアイスダンスに転向したって聞いた時は、アイスダンス仲間が増えたって喜んだんだから」
少女がふふっと笑みを向けて応える。だが次の瞬間、その眼はぎろりと多香音を睨みつけたのだった。
「でもアイスダンスのこと甘く見ないでね。シングルで上手くいかなかったからって安易な考えで、勝てる世界じゃないから」
「は?」
反射的に多香音は睨み返す。隣の晶は絶句して固まっていた。
「おい、なんだその言い方は!」
相方の少年が叱り飛ばす。だが少女はぷいっと窓の外に顔を向け、振り返ろうとすらしなかった。
「すみません、後できつく言っておきますので」
ぺこぺこと頭を下げる大柄な少年。我に返った晶は「いえいえ、お互い苦労するもんです」と相手を宥めたが、多香音はぶすっと口を尖らせたまま、こちらも車窓のソバ畑を眺めていた。
やがてバスは合宿所に到着する。スケートリンク以外にもテニスコートに弓道場、剣道場、そしてキャンプファイヤー場まで備えたかなり大規模な施設だ。
「ねえ、あれ!」
バスを降りたところで、中学生くらいの少女が震えながら声をあげる。つられてその場にいた一同が彼女と同じ方向に目を向けると、たちまち全員が「わあ!」と驚嘆と歓喜の声を漏らしたのだった。
合宿所の建物の前で手を振るのは、1組の男女。ラフなジャージ姿ではあるが、この合宿の参加者で彼らの顔を知らぬ者はいるまい。
「本物の藤沢夫婦だ!」
参加者のひとりが声に上げた途端、周りの参加者全員が歓声をあげる。それは多香音とて例外ではなく、先ほどの不機嫌はどこへやら、「え、本当に?」と頬を紅潮させ目を潤ませていた。
「皆さん、野辺山にようこそ!」
にこにこ笑顔の夫婦が歩み近寄ると、歓声はさらに大きく激しくなる。さながらアイドルだ。
だがこの反応は当然だろう。彼らは現在の日本アイスダンス界におけるエースカップルなのだ。
カップル結成から16年。10代の頃から世界で孤軍奮闘してきた彼らは、層の薄い日本勢を引っ張って着実に地位を高めてきた功労者だ。現在は競技パートナーとしてだけでなく私生活においても本当に婚姻関係であり、以降は藤沢夫婦の呼び名で親しまれている。
実力も折り紙付きで、毎年世界各地を転戦して開催されるグランプリシリーズでも度々上位に食い込んでおり、成績優秀6組だけが参加できるグランプリファイナルに日本人カップルとして初めて出場したこともある。
この2月に開かれたミラノ・コルティナダンペッツォ五輪にも出場しており、そこでなんと日本勢史上初となる8位入賞、さらに翌月の世界選手権でも7位入賞という快挙を成し遂げた。これはシングル競技と比べて大きく後れを取っているアイスダンス関係者に、大きな希望を抱かせる結果となった。実際に今年度の世界選手権では、夫婦の活躍のおかげで日本の出場枠が1から2に拡大されたほどだ。
だが常に世界と戦うため、普段彼らはアメリカを拠点に活動している。日本のトップスケーターでは、もっぱらより練習環境の整った海外で過ごしている選手も少なくない。
そんな日本アイスダンス界のトップスターふたりが、指導のためにここ野辺山を訪れている。それだけで連盟がこの合宿にどれほど力を入れているのかが窺い知れた。




