閃光⑤
ヒュドラに一撃を加えた目的は、あくまでもミリエッタへの攻撃を防ぐためだった。剣を叩きつけた衝撃で射線がずれ、炎があらぬ方向へと放たれる。それでも吹き付ける熱波は肌を焼くほどであり、一瞬、周囲が真昼のように明るく照らし出された。
炎の吐息を浴びせられた草原は一瞬にして燃え上がり、黒ずんだ大地が剥きだしになる。さらに表面は煮えた鍋の中身のようにぐつぐつと沸騰していた。人間が直撃を受ければ、ひとたまりもないだろう。
これがヒュドラだ。俺は地面に着地しながら、かつての戦いを思い出す。
ヒュドラはその口から強烈なブレスを吐く。その属性は首ごとに違っており、頭を切り換えることで連続して放つことが可能なのだ。
俺は着地と同時にもう一度地面を蹴り、倒れた馬車の許まで下がった。
剣でそぎ落とすように馬車のドアを切り裂き、中からミリエッタを助け出す。
「ミリエッタ、大丈夫か?」
「ライお兄ちゃん、助けに来てくれたんだ。ありがと……ね」
ミリエッタはそうお礼だけを口にして、意識を失った。外傷らしい外傷は見あたらない。衝撃で意識を落としただけのようだ。
俺は剣をしまい、ミリエッタを右手に抱えると、さらに御者をしていた男性を引っ張り出し、全力でその場から離れた。それからさほど時間が経たないうちに、今度は氷結のブレスが放たれた。
熱から氷結へ。この流れはかつての戦いでも経験したものだ。ヒュドラの中でもブレスの吐く順番は決まっているのだろうか。だとするなら、次のブレスは――
ヒュドラの頭のひとつが持ち上がり、頭をひねるようにしてその口から液体を周囲一体へと振りまいた。
それは酸だった。鋼鉄であっても易々と溶かしてしまう強酸だ。ひとしずくでもまともに浴びてしまえば、この先の戦闘に支障が出る。
俺は両手に二人を抱え、その場から全速力で距離を取った。雨のように降り注ぐ酸から、辛うじて逃げ切ることに成功する。
だが幸運が続いたのはそれまで。炎、氷、酸と来て、再び最初にミリエッタを狙った首が動き出した。黄金の輝きを口の中に灯らせると、それをこちらに向かって吐き出した。雷撃が恐るべき速度で襲いかかってくる。
「くっ!」
地面すれすれを滑らせるように二人を投げ、雷撃の間合いから逃がす。勢いよく投げたから怪我は免れないだろうが、それでもこの攻撃を無防備に受けるよりは遥かにマシだ。
「ぐぁああああ!」
眼前で稲妻が弾け、その熱と衝撃に俺は吹き飛ばされた。肌が焼け、全身に鋭い痛みが走り抜ける。
それでも意識が落とされることはなかった。
受け身を取り、衝撃を逃がしつつ立ち上がって剣を構え直す。
投げた二人は狙いどおり、先程逃げた馬の近くで止まった。高い調教が施された馬は、俺が近くまで投げた意味を察したのか、二人の服の裾をかんでズルズルと引きずっていく。
そのまま安全なところまで逃がしてくれたら言うことはないのだが、それには目の前のモンスターをどうにかしないといけない。すぐ目の前に俺という武器をもった邪魔者がいるにもかかわらず、ヒュドラの眼はなおもミリエッタに向けられていた。
あいつになにかがあるのだろうか。もしかして、教会から預かった荷物かなにかが原因だろうか。
理由はわからないがヒュドラの狙いはミリエッタだ。ならば、彼女を無事この場から逃がすには、俺がこの場でヒュドラを足止めするしかない。
ギルドマスターの予言は的中した。ヒュドラと戦う瞬間はやってきてしまった。
先程はミリエッタを助けるために飛び出すことができたが、今、こうして再び向かい合ったことで恐怖が蘇ってくる。剣を持つ手が震えるのがわかった。
けれどヒュドラは俺の覚悟が定まるのを待ってはくれなかった。ミリエッタに向かって突撃しようと身体をくねらせる。ヒュドラの巨体は、ただ移動するだけで破壊をまき散らしながら、俺を挽き潰そうと襲いかかってきた。
九つの頭もそれぞれが独立した脅威となって、首を伸ばし、牙を剥きだしにして次々に襲いかかってくる。
かつての戦いでも思ったが、とにかくヒュドラという生き物は動きが変則的なのだ。どのようなモンスターであれ、ある程度はその動きが元々の姿形に左右される。けれどヒュドラは軟体系のモンスターのように、胴体と九つの頭とが予想もできない不規則な動きで襲いかかってくる。さらに一撃でも直撃すれば命にかかわるのだ。これほど防戦に適さない相手もいないだろう。
ヒュドラを止めるには、攻撃を捌き続けるなんてことをしても意味はない。
「行くぞッ!」
やられる前に頭を潰す。それ以外に道はない。
俺は勇気を奮い立たせ、ヒュドラを迎撃した。突っ込んでくる頭にタイミングを合わせ、刃を叩きつける。手に伝わってくる肉を切り裂く感触。それ以上の、硬い鱗に勢いを阻まれてしまっている感触が伝わってきた。
「らぁあああああ!!」
それでも渾身の力で、刃を無理矢理通し切る。ヒュドラが悲鳴をあげ、切り裂かれた頭から血を吹き出しながら首をのたうち回らせる。
その影響は、他の頭にはない。
頭上で輝く三つの光。真上、左右と俺を取り囲むようにして三つのブレスが同時に放たれる。俺は土と炎のブレスに向かって飛び、攻撃が直撃しないわずかな間隙へと身体を滑り込ませた。
そこには狡猾な獲物を期待していた頭が、口を開いて待ちかまえていた。その口が閉じるスピードは、俺がこれまで経験したことのない一瞬の速度。このまま引いたら腕か脚を持って行かれる。一瞬を超える判断で、さらにヒュドラに向かって踏み込んだ。
ぱくり、と俺の身体をヒュドラの口が一呑みにする。そのときにはすでに俺は背後の肉の薄い部分に向かって剣を振っていた。ヒュドラの顔の半分が切り落とされ、そこから脱出する。
痛みにのたうち回る顔の削ぎ落とされたヒュドラの身体を伝い、攻撃の届かない場所まで移動する。
そこで俺は気がついた。内側からヒュドラの肉を裂いた剣が、その刀身を半ばまで失っていた。あの一瞬の斬撃で溶かされてしまったらしい。
「くそっ!」
さらに俺と数体の頭が戦っている間も、別の頭がミリエッタの方に向かって移動していた。
「させるか!」
使えなくなった剣を振りかぶり、ミリエッタたちに迫るヒュドラに向かって投擲する。自分でも予想以上の威力を発揮し、刃は深々とヒュドラの首を抉り、その動きをわずかとはいえ封じた。その間に俺は予備の短剣を取り出して、そのヒュドラにとどめを刺すべく走り出した。
そんな俺の前に立ち塞がる七つの首。さらに胴体がぐるんと勢いよく回転し、上に乗っていた俺をふるい落とそうとする。
そのタイミングを見計らって射出される無数のブレス。炎、氷、稲妻、岩、水、それぞれが圧倒的な破壊力を発揮しながら迫ってくる。これを必死に避けながら走って走って、ダメージから立ち上がろうとしているヒュドラに近付き、その横っ面に斬撃をお見舞いした。頭が紫色の毒液をまき散らしながら、吹き飛んでいく。
「あの毒か!? くそっ!」
気化する猛毒を吸い込まないように注意しながら、俺は携帯していた毒消しを取り出した。
そのときにはすでに乗ってきていた馬が毒の症状を発症し、痛みにもんどり打って地面に倒れ込んでいた。
たとえ途中で邪魔されるとはいえ、獲物を仕留める、という腹づもりであのヒュドラの頭がミリエッタたちに近付いていたのだとするなら、これほど恐ろしいことはなかった。俺は毒消しを自分ではなく、ミリエッタと御者の人に対してまずは服薬させた。口の中に指を突っ込んで、生理現象を利用して無理矢理飲み込ませる。
けれど馬は間に合わなかった。泡を噴いて事切れている。
その激痛の最後を思えばこそ、俺は短剣の頼りない切っ先をヒュドラに向けた。
ヒュドラはようやく俺を脅威と認めた様子で、その九対十八の瞳を俺に向けていた。俺が顔を抉ったヒュドラの傷はすでに修復されている。まるで蛇が脱皮をしたように、その威容に欠けている部分は見つからない。
――勝てない。
最初からわかっていたことではあるが、改めてそう思う。
どうにか俺の攻撃はヒュドラに通じるようだが、決定打には至らない。あるいは全力の斬撃であれば頭をひとつ吹き飛ばせるかも知れないが、そんなことをすれば得物を失ってしまう。それに吹き飛ばしても再生されてはどうしようもない。
ヒュドラを倒すには、ただの一撃をもってその巨体すべてを吹き飛ばすか、あるいは圧倒的な手数で再生力が尽きるまで切り刻むしかない。
今の俺の全力の斬撃では、ヒュドラの動き回る巨体のすべてを消し去るのは無理だろう。こんな弱い短剣では、どれだけ持ってくれるか分からない。念のため、もう一本短剣は持ってきたが、それを使ってもヒュドラを倒しきるのは不可能だろう。
絶望感が全身にのしかかる。震えが再発し、吐き気がした。
ヒュドラのようなモンスターが、災厄とさえ称される理由が今の俺にはよく理解できた。戦っても戦って底の知れない力と再生力は、まるで大自然に一人で立ち向かっているかのような錯覚に陥らされる。そしてその大自然は明確な敵意をもって牙を剥いてくるのだ。空を裂き、大地を削り、地形を瞬く間に変えて、矮小な人間との差を見せつけてくる。
ヒュドラを倒すということは、つまり大きな湖を干上がらせるようなことなのだろう。
この怪物を倒すには英雄が必要だ。
人知を超越した、正真正銘の英雄が必要なのだ。
あるいは――ふと獣の唸り声が耳元で聞こえた気がした。
遥か彼方、あるいは吐息のかかるほど近くの闇から、なにものかの囁きが聞こえた気がした。
怪物を倒すには、それ以上の怪物になるしかない、と。大切な家族を守るためには、ライ・オルガスが本物の怪物になるしかないのだ、と。
「守りたいものを守るためには――」
それを理想とするのなら、取るべき選択肢はひとつしかない。英雄になれないのなら、その理想の末路は怪物だ。
ぞわり、と全身から得体の知れない力が沸き上がってくる。
身体を満たす全能感。それはボンマックにアビスコールを施されたときと同じ、いや、それ以上の力が俺の身体の奥底からあふれ出していた。その力たるや、ヒュドラが怯んで逃げ腰になるほどの力だった。
「さあ」
柄がきしむほどに右手の短剣を握りしめ、さらにもうひとつの短剣も惜しむことなく左手で持った。
どうせなまくら。一撃さえ耐えてくれればいい。剣がなくなれば素手でやろう。元々、怪物に剣なんて必要がないのだから。これまでの努力を無視することになるけれど、そんな感傷は結局圧倒的な怪物を前にすれば塵芥だ。
ここで引けば家族を失う。また、あのときと同じ惨劇を生み出すことになる。
フラッシュバックする記憶。地面の上を転がる、家族の頭。守れずに目の前で殺されてしまった、大切な人。ライ・オルガスにとって決して癒えることのない、致命的な疵だ。
そして身体を包み込む力が教えてくれた。
過去から現代へ。記憶から現実へ。
『起きなさい! 起きるのです!』
すり鉢状の巨大な空間。そこに倒れ伏す金色の髪をした誰かの姿を垣間見る。
『諦めてはなりません! 世界を救うのです! 人を守るのです! あなたには守らなくてはならない人がいるのではないのですか!?』
必死に叫ぶ声にならない誰かの声。けれど無駄だ。倒れ伏すその人はすでに死んでいる。流れ出た血は人一人分の量に等しく、手や足はあらぬ方向に折れ曲がり、身体や頭は半ば以上潰されてしまっているではないか。
死んでいる。息絶えている。ここから蘇ることなんて許されるはずがない。
彼女は必死に戦ったのだ。圧倒的な怪物を前に、絶望的な戦力差を前に、それでも人として譲れないもののために人として戦った。
怪物の攻撃は肉体だけではなく、精神やその魂にまで及んでいる。痛みはヒュドラの毒の比ではなく、死だけが救いとなるような苦痛だった。
それでも彼女は戦った。だからもう、休ませてあげて欲しい。
彼女にとって、諦めることだけが唯一の救いだ。唯一、死ぬことができる道なのだ。
これまでの彼女たちがそうであったように、また彼女にもそれを選ぶことを許してあげて欲しい。
あとはオレが引き継ぐから。人間であろうとした彼女にはできなかったことを、怪物となったおれが引き受けるから。
だから……
「わかって、るわよ……」
ああ、なんでお前はそこで立とうとするんだ? 諦めようとしないんだ?
折れた手足で、傷ついた身体で、それでも彼女は立ち上がった。
「諦めるわけ、ないでしょ? ちょっと休んでただけよ」
微笑みを浮かべて、その青い瞳で敵をにらんだ。
その不屈の意志を見て――そうだよな、と同意する自分がいた。
『なぜ? なぜ? あの少女は救われていい。もう十分にがんばった。もういいだろう? 終わらせてあげよう。それが救いじゃないのか?』
彼女の献身を悼み、終わりを求めた闇の囁きに、俺は答える。
「簡単なことだ。俺は怪物にはならない。怪物にはなれない。だって――」
そして同時に彼女も叫んだ。
「「まだ夢を叶えてない!!」」
だから俺たちは、どれだけ辛くでも諦めないのだ。
『……そうか。ならばいつか、君は……』
闇は嘆くようにも讃えるようにも聞こえる声でつぶやくと、そっと俺の側から身を引いた。怪物に立ち向かう誰かの光景が遠ざかり、ヒュドラという目の前の現実に戻ってくる。
全能感はすでに消え失せてしまっている。ヒュドラは怯えたことを恥じるように、怒りたけって俺を見下ろしていた。
危機は去っていない。なにも状況は好転していない。
けれど俺の胸には先程までの恐怖はなくなっていた。いや、消えたのではない。ここではないどこかで戦っている誰かがいることを知って、乗り越えようと思っただけだ。
「そうだ。負けてたまるか」
そして俺のそのつぶやきを応援するように、彼女は駆けつけてくれた。
「お待たせしました、ライさん。ミリエッタさんたちは私にお任せを」
リカさんはボロボロになった身体で、けれどいつものように笑顔で俺を送り出してくれた。
「いってらっしゃいませ。どうかご武運を」
「ありがとう」
ミリエッタたちはリカさんに任せればいい。後顧の憂いはなくなった。一歩、前に踏み出す。
さらに力強く両手の短剣の柄を握ったところで、短剣がまるで蝕まれてしまったようにボロボロになっていることに気がついた。これでは満足に戦えない。
「待たせたな」
そこへ再び、俺を後押しする声が届いた。
俺とヒュドラが同時に声のした方を振り向く。戦場となった草原を見下ろすことのできる小高い丘の上に、堂々と腕を組んで立つ一人のドワーフの姿があった。その背中から戦場に向かって、いくつもの輝きが降り注ぐ。
それは無数の剣だった。無骨に鍛えあげられた無数の剣が、戦場に突き刺さる。
「やっほー、ライくん!武器は腐るほど持って来たからね!」
ギルドマスターから頼まれたのだろう。ボンマックと一緒にやってきて、剣を戦場に投げ込んでくれたルッフルがぐっと拳を前に突き出した。
「やっちゃいなよ!」
「そうだ。やってしまえ」
ボンマックも拳を突き出した。
「ありがとな、これで思う存分戦える!」
俺も拳を突き出してそれに答え、使えなくなった短剣の代わりに、近くに突き刺さった剣をひきぬいた。その柄は吸い付くように手に馴染んだ。そして俺の力に、力強さを返してくれる。たとえ砕けようとも構わないと言わんばかりに。
ならば俺も答えないといけない。この剣たちをもって、助けに駆けつけてくれたみんなの期待に応えないといけない。今も戦っている誰かのために、勝ってならなければならない。
約束の騎士に。
此処に怪物を倒す英雄がいないのなら、俺がそれになろう。
「行くぞ、ヒュドラ」
みんなの応援を背に、剣の切っ先をヒュドラに向ける
ヒュドラもすべての頭を持ち上げ、一斉に口を開いてブレスの構えをとった。
絶望するには十分な現実。けれど、俺は怪物になることなくこれを超えると決めたのだ。
だから誓うように叫ぶ。
ここからが本当のーー
「ーー勝負だッ!!」
次回他者視点。




