だけど私は諦めない①
懐かしい光景を夢に見る。
ずっと昔、本当にまだ私が幼かった頃のことだ。
夜、ふとトイレに行きたくなって目を覚ました私は、孤児院の敷地内にある礼拝堂から、誰かのすすり泣く声を聞いた。
泣き声自体は珍しいことではなかった。両親を失って此処に来た子が、悲しくて寂しくて、急に泣き始めるのはよくあることだった。
ただ、夜にこんな場所で隠れるように誰かが泣いているところを見つけたのは、これが初めてのことだった。
だから気になって、私は礼拝堂の中を覗き込んだ。
「誰かいるの?」
窓から差し込む月明かりだけが照らす薄暗い部屋。その片隅でうずくまるようにして泣いていた誰かは、私が声をかけると泣くのをやめて振り返った。
その顔を見て驚いた。
「ライ?」
そこにいたのは、一月ほど前に孤児院へやってきたライ・オルガスだった。
ライは私と同い年の男の子で、明るくお調子者な性格から、すぐにこの孤児院に馴染んでいた。
唯一の肉親を病気で亡くなったばかりと聞いていたから、最初はものすごく落ち込んでいるんだろうな、よしがんばって元気づけてあげよう、とやる気になっていただけに、なんだか肩すかしな感じを私は味合わされたものである。
だから私は思わず驚いてしまったのだ。
ライが泣いている姿を見るのはこれが初めてのことだった。
「……システィナか」
ライは悪戯が見つかった子供のように、バツの悪そうな顔をすると、一度前を向いて涙をぬぐうような仕草をした。
そしてもう一度振り返ったとき、そこにいたのは昼間に見るいつものライだった。
「なんだよこんな夜中に? トイレに一人で行けなくて付いてきて欲しいなら、一緒に行ってやるぞ?」
「そ、それくらい一人で行けるから!」
ライはずっと兄弟が欲しかったんだよ、と言ってよく小さい子たちの面倒を見てくれるが、どうも同い年の私も妹みたいに扱っている節がある。
逆、逆だから。あなたが私の弟だから! といつも言っているのだが、この男は妹扱いをやめない。
……じゃなくて!
「ライ。あなたもしかして、孤児院に来てからずっとここで一人隠れて泣いてたの?」
「…………」
ライは私の質問になにも答えなかった。
けど当たりだろうということは分かった。
今のライの目はそれくらい、泣きはらして真っ赤になっていた。
「どうして隠れて泣いたりするの? 別に泣くのなんて、普通のことよ?」
「……泣いてないし」
あくまでもライは強がって、隠し通すつもりのようだった。
そう、強がりだ。きっとライは強がっているのだろう。もしかしたら死んだ母親となにか約束をしているのかも知れないし、純粋に男の子特有の弱いところを見せたくないあれかも知れない。そんなことを前にお母さんが言っていた気がする。
どちらにせよ、ライが今日までここで一人、ずっと隠れて泣いていたのは明らかだった。昼間はなんでもないように振る舞っていたが、やはりお母さんを亡くした悲しみは癒えていないのだろう。
それはそうだ。当たり前のことだ。私だってもしもお母さんが死んでしまったら、悲しくてたくさん泣いてしまうに違いない。
そう思うと、私は胸がきゅうと締め付けられたように切なくなった。
目の前にいる男の子が、夜中に一人で泣いている姿を想像して。
誰に慰められることも、誰かが傍にいてくれることもなく、誰にも気付かれないように一人声を押し殺して泣いている姿を想像して、無性に抱きしめてあげたくなった。大丈夫だよ、私がここにいるよ、とそう声をかけてあげたくなったのだ。
「わぷっ」
というか、気がついたらライに駆け寄って思い切り抱きしめていた。
その頭を私の胸に押しつけるようにして、ぎゅう、と抱きしめる。
「な、なんだよ? なんで急に抱きしめたりするんだよ?」
ライが慌てて逃げ出そうとするが、それに負けないように抱きしめる力を強くする。体格的に私の方が力があるから、ライは最終的に諦めて私に体重を預けてきた。
「気が済んだら離せよな」
「うん」
「……俺、泣いてなんかいないからな」
「うん、わかってる」
そうだ。私には分かってしまった。
この自分の弱いところを見せたがらない男の子は、誰かが一緒にいてこうして時折抱きしめてあげないといけない。そうじゃないと、いつか溜め込んだものに押しつぶされて折れてしまうだろう。
ライ・オルガスは強くて弱い男の子なのだ。
私が守ってあげないといけない――腕の中で小さく肩を震わせるライの頭を撫でながら、私はそう思った。
『――これは良くないものです』
そして誰かはこの光景を見てそう思い、強制的に私を夢から現実へと引っ張り上げた。
目を覚ますと、目の前に書類の山を抱えた人喰いエルフがいた。
「おや? 目を覚まされましたか?」
「……最悪」
起きて最初に目にしたのがこの変態野郎というのもそうだが、それよりも彼の抱えている書類の山の方が私を嫌な気分にさせる。
「それ、追加の分?」
「ええ。あとこれが二つほどありますね」
「ふ、ふたつも――って、いつの間にか机に上にたくさん積まれてるし!」
自分が眠る前のことはきちんと記憶している。夜通し書類と格闘し、ようやく終わった、と執務机に突っ伏したところまではきちんと覚えているから、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
つまり昨日の分の書類はすべて片付けた。なのに、今は所狭しと書類の山で机が埋め尽くされている。窓の外を見てみると、朝日が昇ってさほど経っていないように見えるにもかかわらず、そこには新たな地獄が広がっていたのだ。
「さあ、フィリーア様。どうぞご確認下さいませ」
「くっ! 殺すならひと思いに殺しなさい!」
「はいはい。いずれあなたのこともきちんと食べてあげますので、今は判子を押してくださいね。他にも仕事はあるのですから」
人喰いと呼ばれたエルフは秘書のようなことを言い、先程まで私が突っ伏していた場所に持っていた書類の山を置くと、さっさと部屋を出て行こうとする。きっとまた書類を運んで来る気なのだろう。
……ここで始末するべきだろうか? いや、この男にはまだ使い道がある。
「そういえば」
私が半ば本気でそんなことを考えていると、人喰いは部屋の扉に手をかけたところで立ち止まり、私の方を振り返った。
「昨日のボンちゃんの件なのですが、忠告だけで良かったのですか?」
「ボンちゃん?」
「ボンマック・ドニカのことです」
「ああ、彼のこと。いいのよ、あれで。脅威はないでしょう」
ていうか、ボンちゃんてなんなのよ。そんな可愛らしい愛称は、彼には似合わないにも程があるだろう。
どうも人喰いは、あの無愛想極まりないドワーフのことを気に入っているようだった。それ即ち捕食対象として見ているということなので、ご愁傷様というしかないのだが。
ただ、私へ向けているそれとは少しだけ感じが違う気がする。この男の嗜好なんて分からないし分かりたくもないが、こう美味しそうなご馳走を前にしてお預けを喰らっているというよりも、珍味を前にして食べようか食べまいか悩んでいる。そんな感じだ。
どちらにせよ、実際にこの男に誰かを食べさせるわけにはいかない。彼を蘇らせた者の責任として、それだけは絶対に許さない。
「人喰い。言っておくけど」
「ええ、分かっていますよ。今のスキルを封印された私では、誰かを美味しく食べてあげることができない。そういうことですね?」
「そうよ」
本当に分かっているのか一抹の疑念が残るが、概ね間違ってはいない。
「人喰い。あなたのステータスは私の管理下にある。妙なことをすればすぐに私に伝わるわ。だから大人しくしていなさい。いいわね?」
「ふむ。ならばひとつだけお聞かせいただきたいのですが」
釘を刺すと、人喰いは神妙な顔つきになって私に向き直った。
「他者のスキルを封印する。まさに神のごとき御業と言えるでしょう。さすがは聖女フィリーアと感服する他ないのですが、これほどの力だ。いかにあなたであれ、その負担は甚大なものでしょう」
「だとしたらなに?」
「いえ、どうしてそうまでして私を星の狭間より引っ張り上げたのかが疑問でしてね。まさか秘書の真似事をさせるために蘇らせたわけではないのでしょう?」
「……当たり前じゃない」
一瞬、言葉に詰まる。この男、なかなかどうして秘書としては役に立っていた。馬車馬のように働かせても心が痛まないのもいい。
もちろん、それがこの男の最たる利用価値ではないのだが。
「今の一瞬の沈黙は聞かなかったことにして、そろそろ教えていただきたいものなのですが?」
「そうね。そろそろ伝えておくべきかも知れないわね」
この半年で人喰いの人となりは、理解できないが把握はできた。
この男は正真正銘の狂人だが、狂人には狂人なりの流儀と矜持というものがあるらしい。
少なくとも、この男は受けた恩は忘れない。相手にその気がなかったとしても、別の思惑があった結果だとしても、自分が助かったと思った以上は恩人として友好的に接してくる。
もっとも、その友好もまた常人のそれとはかけ離れているのだが、人喰いが私を裏切らないであろうことは信じられた。
であれば、伝えておくべきことは伝えておくべきだ。
「いいわね?」
と、自分の胸に手をあてて問う。
それに対し、頭の中に直接返答が返ってくる。
『構いません。この咎人の罪は、大事の前には小事なれば』
私とまったく同じ、けれど冷たく機械的な声。
そう、すべてはこの声から始まったのだ。そしてあのときの冒険を経て、すべては動き出した。
システィナ・レンゴバルトの『聖女』としての運命と。
そしてライ・オルガスの『ドラゴン』としての宿命が。
「まずは最初に、あなたには『聖女』というものがどういうものか説明しておく必要があるわね」
「聖女ですか?」
「そう、聖女には秘密があるの。正確には、聖女を聖女たらしめる『聖女スキル』にはね」
それは今から約七年前のこと。私が十三歳のとき。
私とライが学校の卒業式を迎えた数日後、当時の聖女レフィ・トラベリオがこの世を去った。
これまでの聖女が例外なくそうだったように、彼女の死因もまた同じだったと聞いている。
即ち――気が狂って自殺したのだ、と。
「聖女とはね――……」
先代聖女の狂死によって、新しい聖女の選定は始まり。
そしてあの日に、私が選ばれたのだった。
◇◆◇
私の一日は礼拝堂でのお祈りから始まる。
「神様。どうか」
早朝。礼拝堂の奥に飾られた聖女様の石像の前で、膝を折って天上の神に祈りを捧げる。
どうか。どうか。と、いつも同じことを私は祈る。
十分、あるいはそれ以上か。
「――さて、朝食の支度を手伝わないとね」
時間の感覚が分からなくなるほどに深く祈りを捧げたあと、私は立ち上がって後ろを振り返った。
「あら?」
するとそこには、私をじっと見つめている子がいた。
燃えるような赤毛が特徴な女の子。二歳年下のミリエッタ・パルサだ。
その手には濡れた雑巾と乾いた雑巾が握られていた。どうやら今朝は彼女が礼拝堂の掃除当番らしい。
「ごめんね、ミリィ。掃除の邪魔しちゃってたみたいね」
「ううん、気にしないで。わたし、お姉ちゃんがお祈りしているところ見るの好きだから」
「そうなの?」
「うん。お祈りしているときのお姉ちゃんは、いつもがさつなお姉ちゃんとは思えないくらいすごく綺麗だからね」
「ほほぅ?」
「いひゃい!」
ミリィの柔らかなほっぺをつねり上げる。
「いつもとは違ってってどういう意味? いつもは私、綺麗じゃないの?」
「そ、そんなことひゃいです。システィナお姉ちゃんは、いつもきれぃでふ!」
「よろしい」
手を離してあげる。誰の影響か、どうもこの子は口が悪いというか一言多いのだ。これでは将来的に苦労するだろう。だからこれは姉からの愛の鞭である。
「けどお姉ちゃん、どうして教会の学校に行かなかったの?」
ミリィは赤くなった頬をさすりつつ、涙目でそんなことを聞いてきた。
「どうしたのよ? 突然」
「私てっきり、お姉ちゃんは院長先生みたいに教会のシスターになるつもりなんだと思ってたから。ほら、聖職者スキルだって持ってるし」
「別に聖職者スキルがあるからって、シスターにならないといけないわけじゃないでしょ? だいたいミリィだって聖職者スキル持ってるじゃない。シスターになりたいの?」
「それもひとつの選択肢とは思ってるけど、そこまでかな? 神様とか別に信じてないし。けどお姉ちゃんは毎日お祈りしてるじゃない。だからてっきり神様を信じてるんだとばかり思ってたんけど」
「あ~、これはもう日課というか癖みたいなものだから」
「癖?」
「そう。昔からずっとやってるから、お祈りしないと一日が始まった気がしないというか、落ち着かないというか」
「そうなんだ。じゃあ、別にシスターになるつもりは?」
「ないわね。そう思って上級学校には進学しなかったんだし」
教会のシスターになるには、学校を卒業後に教会の経営する上級学校に進学するのが一番てっとり早い。少なくとも教会の上の方に行くには必須の道である。
けど私はそれを選ばなかった。
別に行けなかったわけじゃない。必須の聖職者スキルだって持っていたし、現役シスターの娘でもある。入学条件は完璧に揃っていた。むしろどこからか高い聖職者スキルを持っているとの噂を聞きつけた教会から、推薦状まで届いたくらいである。
「ま、将来についてはゆっくり考えるつもりよ」
「じゃあ、ライお兄ちゃんと一緒でしばらくは無職なんだね」
「む、無職って」
その通りなんだけど。……やっぱり一言多いのよね、この子。
「けどそっかぁ。お姉ちゃん、シスターにはなるつもりまったくないんだ。院長先生が知ったら悲しむかもしれないね」
いいのよ、別に。お母さんなんて悲しませておけば――とはさすがに口に出して言わなかった。
この孤児院で私だけ母親がいるからという理由もあるのだが、それ以上に、この孤児院に引き取られた子供たちは院長であるお母さんのことを慕っている。
ミリィもそうだ。生まれてすぐ、赤ん坊のときに孤児院の前に捨てられていた彼女にとって、お母さんは本当の母親も同然の存在だった。もっと小さいときは、院長先生ではなくお母さんと呼んでいたくらいである。
そんなミリィの前でお母さんのことを悪く言ってはいけない。私自身がどう思っていてもだ。
「そうね。お母さんは、私にこの孤児院を継いで欲しいみたいだから」
本心を隠し、ミリィにはそれだけを伝える。
「う~ん。院長先生の後を継ぐ、か」
ミリィは少しだけ考え込んでいた。ミリィもあと二年で卒業だ。もしかしたら彼女も彼女なりに、進学先について悩んでいるのかも知れなかった。
「……教会だけは辞めておいた方がいいわよ」
「え? どうして? 教会に行けば、少なくとも食いっぱぐれることだけはないよ?」
思わず口をついた言葉に、ミリィが反応を示す。
「それは……」
私は言うべき言葉が見つからなかった。
結局のところ、私が教会を避けているのは不信感を抱いているからなのだが、それは確証のあるものではなかったからだ。
世間では教会――すなわちフィリーア教は良き組織として扱われている。聖女を指導者に据え、迷える信徒たちをステータスの在り方と共に導いてくれるものと。
けれどその実態はどうだろうか?
四年前、幼なじみのライのステータスを巡って起きた一連の出来事。そこで色々な協会関係者を見て、私は強い疑いを抱いた。
聖女としてライのステータスを祝福し、一方で監視するように命じた聖女様。その命令を受けた結果暴走し、ライを殺そうとした教会の司祭様。
そして同様にライの監視の命を受けて、今なおずっとライを監視し続けている、あの恥知らずな人。
「システィナ」
そのとき名前を呼ばれて、礼拝堂の入り口を振り向く。
「お母さん」
そこにはお母さんが厳しい表情で立っていた。思わずにらみつけてしまう。
「なに? なにか私に用でも?」
「え、ええ。少しお話があるの。私の部屋まで来てちょうだい」
そう言い残して、逃げるように立ち去っていく背中を、私はにらみつけたまま見送った。
「あ、あのさ、お姉ちゃん」
「……なに? ミリィ」
「なにがあったのか分からないけど、院長先生と早く仲直りしてね」
私とお母さんの仲が数年前から悪くなっていることに、ミリィも気付いていたらしい。心配するように、懇願するように、そう言った。
可愛い妹分のお願いだ。出来ることなら聞いてあげたい。
けれど。
「ごめんね、ミリィ。私、お母さんのしていることだけは許せないの」
「お姉ちゃん!」
まだなにか言いたそうなミリィの頭を軽く撫で、私はお母さんのあとを追った。その姿は、まるで喧嘩をしに行くかのようだったことだろう。
だけど仕方がない。仕方がないのだ。
私だって最初は信じていたけど、信じたかったけど、今となってはもうダメだ。
私が教会への不信感を抱くに至った、その最たる理由。お母さんとの不仲の原因。
「ライが怪物にならないか監視するだなんて。そんな仕事引き受けるだなんて!」
それはお母さんが自分の子供も同然のライのことを、教会の命に従って、ずっと監視しているからに他ならなかった。




