だから俺は諦めない①
「ごめんね」
そう言って、母さんは優しく頭を撫でてくれた。
まだ幼い俺は涙を堪えながらその温かな手を受け入れる。
母さんがそのときなぜ謝ったのか、理解することができず。
誰かが死ぬという意味を正しく理解することもできなくて。
「ごめんね、ライ。母さんはあなたに辛い未来ばかり与えてしまう」
それでももうすぐこの温かな人がいなくなってしまうことだけは、なんとなく理解できて。
悲しかった。寂しかった。辛かった。
けど母さんはそれ以上に辛そうで、申し訳なさそうだったから。
「あなたを残して逝ってしまう母さんのことは恨んでもいい。けどお願い。お父さんのことだけは恨まないであげて」
「大丈夫だよ、母さん。おれ、父さんのこと好きだよ」
だから会ったこともない、誰かのお話の中にだけ存在していた父親のことをそう言った。
「そう」
母さんはどこまで幼い俺の嘘を察していたのかは分からない。それでも、もう一度優しく頭を撫でてくれた。
だから幼い俺は、自分の嘘が通用したのだと信じ込んで、続けて口にした。
「だって、父さんはおれと母さんを守るために戦争に行ったんでしょ? みんな言ってるよ。ライの父ちゃんはかっけーって」
「そう、そうね。あの人は格好よかったわ」
「うん。格好いい」
それから幼い俺は続けた。
その言葉だけは、これまでの嘘とは違って、淡い憧憬をこめて。
「騎士ってすごくかっけーよ!」
その言葉に母さんは――……
「んぁ……?」
唐突に目を覚ます。耳に喧噪が戻ってくる。
「……夢、か」
よだれをぬぐいながら、カウンターに突っ伏していた顔を上げると、そこには見慣れた光景が広がっていた。
綺麗に清掃された店内に並ぶ十個の丸いテーブルには、湯気を立ち上らせる美味しそうな食事が並べられている。
それを肴に盛り上がっている冒険者たちが、乾杯、と野太い声を上げれば、さざなみが広がっていくように、続けざまにエールの入ったコップが打ち鳴らされる音が店のあちこちで続く。
乾杯の衝撃であふれ出した水滴が地面に落ちるのを、少しだけ迷惑そうにしている店員の頬を軽く指で突いてから、ロロナちゃんが元気いっぱいの笑顔で料理のおかわりをテーブルに運んでいく。
待ってました、と今日一番の大声があがれば、ロロナちゃんこっちも、と他のテーブルから注文が入る。
たくさんの注文を手にロロナちゃんがカウンターにやってきて、調理場にこもっている親父さんに注文をいれる。その間も、他の店員たちがテーブルの間を行ったり来たりと忙しい。今日も『黄金の雄鶏亭』は大繁盛だ。
一年前、俺が初めて『黄金の雄鶏亭』を訪れたときにはまだなかった光景だ。あのころは開店してすぐだったので客足も多くなかった。変わらないのはロロナちゃんの笑顔と美味しい料理だけだ。
「あ、ライさん起きてる」
ぼんやりとした頭で盛り上がっている店内を眺めていると、ロロナちゃんが話しかけてきた。
「やっぱり酔いつぶれて寝てたのか」
カウンターで突っ伏して眠るのは久しぶりのことだった。
酔いつぶれること自体はよくあることなのだが、それでも大抵は二階の自分の部屋に戻って眠ることが多かった。閉店後の店内で眠りこけると迷惑になると分かっているからだ。
けど今日は一緒に飲む相手がいたから、いつもより早い時間から飲み始めていた。それで油断してカウンターで寝てしまったのだろう。
一緒に飲んでいたボンマックも、俺の隣の席で気持ちよさそうに眠っている。ドワーフと聞くと大きないびきでもかくのかと思いきや、すーぴーと静かに寝入っている。
結局、ボンマックがどういう性格なのかはよく分からなかったな。
最後の方は色々と話も盛り上がって爆笑していた気がするのだが、今は思い出そうとしても思い出せなかった。ボンマックへのお詫びの意味もあったから、いつもとは違って少し高いお酒に手を出したのが悪かったのかも知れない。記憶が飛んでいる。
「頭が重い……」
「もう、病み上がりにそんなたくさんお酒飲むからですよ!」
ロロナちゃんがわたし怒ってます、という風に腰に手をあてて叱ってくる。懐かしい夢を見ていたのもあって、母親に怒られているかのような気になってしまう。
「ロロナちゃんはいいお母さんになりそうだよな」
「ええっ!」
ロロナちゃんは顔を赤くすると、ぱたぱたと手を顔の前で振り始める。
「ちょっと、ライさん。いきなりなに言ってるんですか! わたしをお母さんにしたいだなんて! どっちの意味でも衝撃的な告白すぎますよ!」
「おかしいな。まだ俺酔っぱらってるのかな?」
言いたかったことがちっとも伝わってないぞ?
「ライさん、もしかして寂しいんですか? 心が母性を求めてるんですか?」
「ならいいですよ、みたいな感じで両手を広げられても困るんだけど」
「寂しくないんですか? 今夜、お父さんには内緒で添い寝してあげましょうか?」
「だから困らせるようなこと言わないで! 俺も男だからね!」
そんなことされたら襲わない自信がない。
「冗談ですよ、冗談」
ロロナちゃんは俺の反応に楽しそうに笑った。
「けどそういえば、ライさんのお母さんのこととか、実家のこととか、聞いたことがありませんね」
「そう言えば、そうだったか」
思い返してみると、ロロナちゃんに家のことを話した記憶がない。てっきり、親父さんから聞いているものと思っていたが、よくよく考えてみたら俺の家の事情は話しにくいか。
「俺の両親はもういないんだ。父親は俺が生まれる前に、母さんは俺がまだ小さい頃に病気で死んじまったからな」
「え? あ、その、ごめんなさい。変なこと聞いちゃって」
「気にしないでくれ。もう昔の話だから」
そう、両親の死なんてものはとうの昔に乗り越えている。今更そこを気にされる方が申し訳ないというものだ。
「他に身よりがなかったからな。母さんが死んだあとは孤児院で育ったよ。そのあとは特別なこともなく育ったかな? まあ、ロロナちゃんも知ってのとおり俺のステータスはこんなだからさ。そのことで多少は色々とあったけど」
「あの、よければそのことを聞きたいんですけど」
ロロナちゃんは少し迷ったあと、意を決した風に言った。
「お父さんから少し聞いてますが、それでもライさんの口から直接、そのときのことを聞きたいんです」
親父さんはたしかに俺の過去を知っている。その親父さんがどういう風に話したかはわからないが、ロロナちゃんはやけに真剣だった。
「おもしろい話じゃないぞ?」
「構いません。わたし、ライさんのこともっと知りたいんです」
そう言うが早いか、ロロナちゃんは「休憩いただきます!」と有無を言わさず声をかけて、親父さんや他の店員の声を無視して俺の隣の席を陣取る。
「さあ、どうぞ。お願いします!」
「……まいったな」
人様に話せるような過去でもないのだが。
「そうだな。どこから話そうか。孤児院に来たばかりの頃は、はっきり言ってあんまり覚えてないからな」
まだ小さかったし、あの頃は母さんが死んでしまった悲しみでいっぱいだった。そこを孤児院の新しい家族たちが支えて迎え入れてくれたのだが、詳細なところまでは覚えていない。気がつくと、俺は孤児院に馴染んでいた。
だからもしもライ・オルガスの話をするというのなら、そこからがいいのだろう。
「今からもう十三年前になるか。八歳のとき、学校で初めて自分のステータスを見たんだ」
そのときのことは今でもはっきりと思い出せる。
古びた教室。ところどころが欠けた机と椅子。上級生たちから脈々と受け継がれてきて、落書きばかりの教科書。そしてクラスメイトたちの騒がしい声と、それを静かにさせようとする先生の怒鳴り声。
いつもはそれだけの教室から机の上の教科書を抜いて、二人の兵士と二人の教会の人を足した教室。フレンス王国に生まれた者なら誰もが通る、八歳になった年に行われるステータス開示の授業でそれは起こったのだ。
教会の司祭様によってステータス開示の魔法を教わったあと、俺は自分のステータスを見た。教室の前の席では、ニルドの奴にAランクの剣士スキルがあったと騒ぎになっていたのを覚えている。
それで、そうだ。俺と同じように俺のステータスを見たシスティナが、泣きそうな顔で言うものだから、俺は手を挙げてこう言ったのだ。
「――先生、ステータス画面が読めないんだけど」
そこからステータスの読めないライ・オルガスの物語は始まったのだ。
◇◆◇
「先生、ステータス画面が読めないんだけど」
俺のその言葉に、あれだけやかましかった教室が嘘のように静まりかえった。
教室にいる全員の視線が、手を挙げた俺に集まる。
「おい、ライ。どういうことだ?」
教会の司祭様にお礼を言っていた先生が、困惑した顔で聞いてきた。
「ステータス画面が読めないっていうのは、書かれている内容がわからないってことなのか?」
「ライ馬鹿すぎ!」
「一年間習ってきただろ!」
先生の言葉に、クラスメイトたちが爆笑する。
「うっせー! 馬鹿のニルドだって読めたものが、俺に読めないわけないだろ!」
「馬鹿とはなんだ! オレよりもライの方が馬鹿だろ!」
教室の前の席で鼻高々に自分のステータスを自慢していたニルドが、顔を真っ赤にして怒ってくる。
「この前のテストだってオレの方が上だったじゃねえか!」
「はいはい、テストの点数で頭がいいかどうかを判断する、そういうところが馬鹿だって言ってるんだ。第一、テストの点数が良かったって言っても一点だけだろ?」
「一点でも上は上だ! ライの方が馬鹿だ!」
「ニルドの方が馬鹿なのになに言ってるんだ笑えるぜ!」
「いいやライの方が!」
「違うニルドの方が!」
「やめんか二人とも!」
机の上に立ってまでにらみあう俺たちを先生はしかりつけたあと、はぁ、と深いため息を吐いた。
「大体、百点満点のテストで一桁だったお前たちが点数で競い合うんじゃない。聞いてるこっちが悲しくなってくる」
「「けど先生こいつよりは俺の方が絶対に頭がいいと思うんだよ!」」
お互いを指さし合い、まったく同じタイミングでまったく同じことを言う俺とニルド。
それを見て、先生はニカリと笑った。
「結論が出たな。二人ともが同じ頭の出来だ」
教室が爆笑に包まれる。俺は少し恥ずかしくなって、いそいそと机から下りる。
見ればニルドも同じように机から下りていたものだから、またもやクラスメイトたちから笑われてしまった。今度は先生までもが笑っている。笑っていないのは、ステータス開示の授業のために学校の外から来ていた兵士の人と教会の人たちだけだった。
いいや、もう一人だけ笑っていない人物が教室にはいた。
俺の隣にいた幼なじみのシスティナが、いきなりバン、と強く両手で机を叩いた。
その大きな音と涙ぐんでいるシスティナを見て、教室中が再び静まりかえる。
「違うんです、先生。ライはたしかに馬鹿でアホで馬鹿だけど、習ったばかりの文字を読めないほどのどうしようもない馬鹿じゃないんです」
おいこら、と言い返したくなるくらい酷い言いぐさだったが、今のシスティナにはなにも言い返せなかった。
「だからライが言っているステータス画面が読めないっていうのはそういうことじゃなくて、実際に読むことができないというか、ええと、なんて言ったらいいんだろ」
口では説明しづらい気持ちはよくわかった。俺もステータス画面が読めない、という以上の言葉を思いつかない。
「ああもう、実際に見てください。見てもらえればすぐに分かりますから」
だからシスティナはステータス画面を開きっぱなしの俺の腕をぐいっと引っ張って、先生の前まで連れて行った。
先生も俺のステータス画面を見て驚く。
「……これは初めて見るな」
何度か生徒のステータス開示の授業に付き添ってきた先生も、俺みたいなステータスは初めて見るらしい。
凄腕冒険者顔負けの厳つい顔と巨大な身体を持っていた先生は、いつもいつも喧嘩する俺やニルドに対して怒ってはげんこつを落としてくる怖い先生だったので、そんな困ったような、弱ったような顔をするのは初めて見た。なんか俺まで不安になってきてしまう。
これ、まずいの? 俺のステータスは問題あるものなんだろうか?
「これは、文字? それとも数字か? 模様のようにしか見えないが。それに見ている間にここまで画面が変わっていくなんて」
「ちょっと失礼」
俺のステータス画面をにらむように見て考え込む先生の横から、教会の司祭様だかなんだかよくわからないけど、そこそこ偉そうなすごく長い髭のじいさんが俺のステータス画面を覗き込む。
「ふむ。ふむふむ。なるほどのぅ」
「司祭様、このようなステータス画面をご存じですか?」
「いいえ、私も五十年近くこれをやってますが、初めて見ます。これは上にお伺いを立てなければならんですかなぁ」
「司祭様よりさらに上の方、ですか?」
「ええ。もしも我らでも判断がつかないステータスを見つけた際には、そのようにせよと言われてますのでなぁ。申し訳ないですが、しばらくこの子を教会の方でお預かりさせてもらってよろしいですかな?」
「ライを教会で、ですか?」
「ええ。もちろん、親御さんには私が直接お話をさせていただきましょう」
「ええと、ライの親御さんはですね」
先生が司祭様と俺の顔を交互に見やったあと、司祭様の耳元で他の生徒には聞こえないように囁いた。俺には両親がおらず孤児院に身を寄せている、と。
そんなに気を遣わなくても、クラスメイトで俺が孤児なのを知らない奴なんていないのに。
「なるほどなるほど。そこなら私も知っています。教会が支援をしている場所だったと記憶しております。であれば、院長は教会のシスターでしょう。やはり私が直接お話をさせていただくのがよろしいでしょうね」
「であれば、私もご一緒させていただきます」
「いえいえ、先生。それには及びません。こちらは私だけで結構ですので」
「ですが、私も担当ですので、教え子の問題は知っておきたいのです」
「先生」
司祭様はにこやかな顔で先生の肩を叩いて、お返しをするように、他の生徒には聞こえないように先生の耳元で囁いた。
「これは聖女様案件です」
「っ!?」
「あなたも聖職者スキルをお持ちならば、ある程度我らフィリーア教と接する機会はあったはず。この意味の重さがわからないわけではないでしょう?」
そう言って、司祭様はもう一度先生の肩を叩くと、俺に向き直った。
「ライくん、と言ったね。申し訳ないが、色々とお話をさせていただきたい。私についてきてもらってもいいかな?」
ぎゅっ、とシスティナが俺の服の裾を引っ張った。ついていかない方がいいよ、と言いたいように。
けど大人たちの決定に子供は逆らえないものだ。司祭様は俺の返答を待たずに、部下の人になにか伝言を頼んで先に走らせると、俺の腕を強引につかんだ。さらにそのときには俺の両隣には兵士の人たちがいて、システィナの手を半ば無理矢理俺から引きはがしていた。
怖い。
俺の中にある感情はそれだけだった。まるで人さらいにあったかのような、そんな気分だった。
「リグ先生!」
助けを求めるように先生を呼ぶ。
その俺の声に、先生ははっとなって俺の顔を見たが、もうどうしようもならなかった。
「では行きましょうか」
俺はまるで罪人かなにかのように、大人たちの手で教室から連れ出されていく。
それを見たクラスメイトたちがなにを思ったのか、兵士たちに囲まれて連れて行かれる俺の姿が学校の他の生徒たちの目にはどう映っていたのか、そんなことを考える余裕は当然このときの俺にはなかった。
この先に辛く険しい未来が待っているとは、まだ想像してもいなかったのだ。




