ねぇ、破って?
みんな、よく言うじゃないですか。
「それが普通だよ」とか、
「普通にしてればいいのよ」とか、
「やっぱり普通が一番よ」とか。
でも「普通」って一体全体なんなんでしょう?
安心するもの?
あるべき形?
それともとっても、つまらないもの?
広辞苑によると「ごく平凡なありふれたもの」って意味らしいですけど、人によって解釈が違う時点で、それってもう「ありふれたもの」ではないですよね。
そんな「普通」に振り回された人を、私は3人知っています。
1人は普通を愛していて、
1人は普通を憎んでいて、
1人は普通に縛られていました。
彼女たちと過ごした日々を、きっと私は一生涯忘れることはないでしょう。
すべてはそう――私の書いた小説が破られた日から、はじまったのです。
「素晴らしい小説ね。これならきっと、賞を取れるわ」
そう言うと先生は、私の原稿を破り捨てました。
一文字すらも目を通さずに。
※
聖ヨシュア女子学院。
総勢800人の生徒が通う中高一貫校で、数多くの著名人を輩出した実績から、入学希望者が後を絶たない。「日本で最も誇り高き女子学院」と名高いわけだが――
「アリスー。将来の夢、なに書いた?」
「第三志望会社員、第二志望は公務員」
「第一志望は?」
「定時で帰れて育休有給取りやすくて、産後の復帰がスムーズな職場」
「ウケる、絶対ないじゃん。私もそれにしよーっと」
ふたを開けてみれば、中にいるのはいたって普通の女子学生だ。
家柄も肩書きも、女学院という箱の中に詰め込まれてしまえば関係ない。
「ってもうこんな時間? やだぁ部活行きたくないよ~、アリス〜」
「それ、昨日も言ってた。そんなに嫌なら辞めちゃえばいいのに」
「違うじゃん〜。アリスの傍から離れたくないんだよ〜。はぁ、この素朴で実家のような安心感……落ち着く……」
「なにそれ、褒めてるの?」
「もちろん。いつまでもそのままでいてね〜」
「はいはい」
アリスは小さく微笑みながら、沙苗の頭をぽんぽんと撫でた。
「なーんか、片手間って感じ。愛を感じなーい」
「こめたよー。たっぷりと」
そう言いつつも、すぐに目線を原稿用紙に戻したアリスを見て、沙苗は唇を尖らせた。
「それ、今度の賞に出すやつ?」
「そうだよ。締め切りもうすぐだから、あんまり時間なくて」
「楽しい?」
「うん、じゃないと続けられないよ」
ふーんと沙苗は相槌を打ち、原稿用紙の端を意味もなく持ち上げた。
「やっぱりこれ、『破り姫』に見せるの?」
「破り姫じゃなくて、美咲先生ね」
「いいよあんな人、あだ名で十分。聞いたでしょ? とうとう風紀委員長まで毒牙にかけたって」
「毒牙?」
現国担当の如月美咲は人気がある。
浮世離れした美貌、透明感のある雰囲気、たまに垣間見える途方もない色気。多感な少女たちが憧れるも無理はなかった。だが生徒たちを惹きつけてやまない一番の理由は――
「破ったんだって、ラブレター。一文字も読まずにびりっびりに。ひどいと思わない?」
「というか、まだ渡す人がいたことにびっくりかなぁ」
この女学院では告白の際にラブレターを渡す慣習がある。言葉で告白するより成功率が高いらしいが……一種のおまじないのようなものなのだろう。
とにかく如月美咲も例に漏れず、ラブレターを渡された。
そして破った。
ことごとく、漏れなく、全ての手紙を。
「ハードルが高いほど燃えるっていうからねー。たしかに渡す方もどうかと思うけど、なにも破ることないじゃない?」
「それはそうだけど……」
「だ、か、ら」
沙苗は机越しに体を乗り出した。
「破り姫なんかに見せない方がいいよ。あんな人、信用できないって」
「んー、でも」
アリスは困ったように笑った。
「やっぱり出版経験ある人に見てもらいたいなぁ」
ちりっ。
胸の奥が僅かに焦げついて、沙苗は顔をしかめた。
「出版経験って……一、二冊書いただけでしょ?」
「でもどっちも二十万部近く売れてるし、才能あるんだよ」
「才能あるなら、なんで教師やってるのよ」
思っていたより随分と、吐き捨てるような口調になった。
「どうせ書けなくなってやめたんでしょ。二十四ならまだやり直しもきくし、教員免許持ってるから就職も簡単だっただろうしさ。それにほら、結婚のこともあるでしょ? そんな人が才能なんて――」
「それ」
アリスが静かに割り込んだ。
「誰かが言ってたの?」
漂うような微笑みに、内臓が冷たい手で引っ張られた気がした。
無理やり口を開く。
「違う、けど」
「そういうの、良くないと思うな」
「……ごめん」
「ううん。心配してくれてありがと」
アリスは表情を崩さずに「そろそろ行かなくていいの?」と続けた。そろそろ部活が始まる時間だった。沙苗は小さく頷いて、教室を後にした。
去る間際、ふと、振り返る。
西日の差し込んだ教室の中で一人、アリスが鉛筆を握りつぶやいた。
「うん。じゃぁ――書こうか」
夕日がやけに眩しくて、沙苗は苦しく目を細めた。
※
文は人の形をしている。
だから読みたくないんだ。
「というわけで美咲先生。次はもう少し、やんわり断ってあげた方がいいんじゃないかと……」
「あら」
禿げ上がった額に玉汗が浮かんでいる。
ストレスかかりすぎて死ななきゃいいけど。
「優しく断ってもいいんですか? 『先生と生徒の関係だから』とでも言って、卒業後に無駄な期待でも持たせますか? 同じ相手を二度振る趣味はないんですけど」
「それは……」
「だったらいっそのこと、思いっきり振ってあげた方が生徒のためじゃないですか?」
「し、しかしですね。そうなると、如月先生の良からぬ噂が――」
「大丈夫ですよ」
話はもう十分だろうと、美咲は校長に背を向けた。
「そういうのは、慣れてますから」
今日89枚目のラブレターを破って、ついに校長に呼び出された。
想定の範囲内だった。言い分の一つや二つくらい、とっくに用意してある。
赴任してくる前から、生徒にモテるだろうという予感はあった。
自分に魅力があることは分かっているし、なによりここの環境は特殊だ。
生徒はみな人並み以上に色恋沙汰に興味のあるくせに、ブランドイメージから敬遠され、同年代の男子と接触する機会が少ない。年上と付き合おうにも家柄がそれを許さないし、そもそも在籍している男性教師は全員齢五十超え。
となれば、魅力的な若い女性教員に興味が向くのは当然で。
自分に白羽の矢が立つのは必然で。
あまりにも明確なロジック。クリアでくそったれな必然性。
「だからと言って、ラブレターを破っていい理由にはならないけどね」
戸締り用の鍵をいじりながら階段をのぼる。
丁度踊り場に差し掛かって、今日告白してきた相手のことを思いだした。
『私、かならず先生を更生してみせます。絶対に諦めませんから』
涙で潤みながらも強い光を宿した瞳が忘れられない。
目の前で手紙を破られて、それでもまだ折れることのない真っ直ぐな視線。
うん、本当に――破って良かった。
「あら、榊原さん。まだ居たの?」
一年A組の教室の扉を閉めようとした時、中に生徒が残っていることに気付いた。
榊原アリス。担任をもっているわけではないが、この子のことは、よく覚えている。
「先生、ちょうどよかった」
アリスは美咲に気付くと、顔をぱっと明るくして駆け寄ってきた。
「これ、読んでもらえませんか?」
「これは?」
「小説です! 六月の新人賞に応募したくて」
手渡された原稿を指でつまむ。
厚さは二、三十枚ほど。六月締め切りであれば――
「はるみ文芸の短編賞」
「そうです!」
しまった、と内心舌打ちした。
しみついたクセ。こびりついた滓。
この子はいつもそうだ。
無意識に、無遠慮に、私を作家にする。
「一言だけでも感想をいただけたら――」
「……」
榊原アリスは文が上手い。
初めて彼女の作文を読んだ時のことは、今でもよく覚えている。
肺の中身がごっそり入れ替わったような感覚。
広大な青空の下に放り出すような文章。
少なくとも――凡人に書けるそれではない。
「そう、分かったわ」
うずくのだ、指先が。脳が、心臓が。
乾いていることを自覚させられ、たまらなく搔きむしりたい衝動に駆られるのだ。
文は人の形をしている。
文は人を象徴する。
だから。
「素晴らしい小説ね。これならきっと、賞を取れるわ」
「え……?」
破り捨てた。
乱雑に、慈悲もなく。
小説だった断片が、ハラハラと床に落ちていく。
「そ、んな……」
アリスはアーモンド型の目を見開いて、やがて両手で顔を覆った。
「ひ、ひどい、ひどいです……。私、一生懸命書いたのに……」
すすり泣く声が聞こえる。指の隙間から涙がにじんでこぼれていく。
憐れだと思う。不憫だと思う。特に同情はしないけれど。
泣かせた相手の傍にいるのは気が滅入る。
さっさと教室を後にしようと踵を返した。
その時だった。
「……榊原さん?」
最初は見間違いかと思った。
一度二度と瞬きをして、そうではないと確信した。
「あなた、どうして」
だから――ただ、困惑した。
脳が理解を拒んだ。
正常な判断を下せなかった。
おかしい、そんなはずない。
これはなにかの間違いだ。
「どうして」
「どうしてあなた――笑っているの?」
榊原アリスは笑っていた。
泣きながら、嗚咽を静かに漏らしながら。
それでも確かに、壮絶に。
※
今でも覚えています。
手書きの小説には特別な思いがこもっているんです。
毎日毎日、暇さえあれば小説のことを考えて、お風呂場でふと良いフレーズが降ってきて。
慌てて外に飛び出して、濡れた手のままペンをつかんで、メモを取ったりなんかして。
そんな偶然と奇跡の積み重ねなんです。一文一文が宝物なんです。
同じ文章は二度と書けない、出会えない。
なのにそれが……そんなかけがえの無い積み重ねが、無情にも引き裂かれて、目の前でぱっと、桜のように散った時。
私はそれを――気持ちいいと、思ったんです。
榊原アリス著 「崩れ落ちて典礼風」より





