083 武術での思考方法
思考方法、
思考とは何か?
これについて師匠より話があった。
疑問・課題に対して答えを導き出す。
その流れ。
色々な情報を元に、
その情報を整理、統合、推敲、取捨選択して、
疑問から答えまでの流れを、
一つの作品として完成させる。
それが思考だという。
我々生徒が、
普通行う思考と思っているのは、
ただの脳内記録(記憶)
思考の元になる材料。
彫刻で言う石の塊。
それを丁寧に削って、
バランスを見て、
細かいところをチェックして、
磨いて、
作品として完成したのが思考、との事。
武術について、
どうやって思考をしていけば良いか?
情報源は、私の記憶に残っている、
師匠の言葉。
師匠の教え。
元より、
師匠の教え、言葉を全て漏れなく受け取れば、
思考は必要ないだろう。
それは既に作品として完成しているから。
しかし、受信機側、
つまり我々生徒の脳味噌に入った時点で、
それは二次コピー品。
受け取る側のCPUの低さは、
どうしようもない。
情報の欠落。
さながら高画質デジタル動画を、
旧式の低画質で録画したときに起こる、
画質の劣化。
脳味噌による情報の取りこぼし。
師匠もそれを見越した上で、
色々な角度からの説明をする。
--そう言った意味では、
私が習っている師匠は武術に関して、
極めて希な『教える』師匠だと言える。--
今までの師匠の言葉の記憶。
一応、私の備蓄は十年分。 (※当時の時間による。因みに入門したのは西暦2000年)
それらを使って、
如何に、自分の脳が取りこぼしてしまった
師匠の教えの情報の欠落部分を、
他の時間、
他の場所で、
他の技術について説明した師匠の言葉で、
どれだけ補修できるか?
どれだけオリジナルの作品に近付けられるか?
それが今できる思考。
頑張って運転中の思考。
追記・思考の補完となる話。
私達生徒は、
師匠の言葉・教えを材料にして、
思考をすれば良いと書いた。
では、師匠は何を用いて、
武術の答えを見つける思考をしているのだろうか?
それは、『型』(中国武術では套路)という事になる。
武術の扉を開いた先輩と、
師匠との間で交わされる会話、
先輩は驚きながら、
「こう言うことだったんですね」
と言い、
師匠は苦笑いしながら、
「今頃気がついたか、何度も言ってきただろう」
と答える。
この時の先輩と同じ顔を、
『型』を研究している時の師匠が、
同じ顔をしている事が有るのだ。
師匠が新しい方法論を見つけ、
型にそれを入れてみようとして、
結局、型そのものにしかならなかった。
その時、
「やっぱり、昔の人は知っていたんだなあ」
と驚いた顔をする。
そんな光景を何度か目にした。
型とは何か?、
ある人物が師匠に聞いたとき、
師匠は
『先人の残した、真理の書かれた巨大なジグソーパズル』
と答えていた。
稽古会での私の体験。
一人型の動きを、
二人で組んで行なう応用技術にする練習。
一連の流れが、うまく出来ない。
何度やってもうまくいかない。
その様子を一目見た師匠。
「一人型が間違ってるから、そこからやり直せ」
一人型をやってみる。
一、二、三、で終わる動作。
その『一』の、
初動作の、右手の場所を直された。
僅か10センチ。
たったそれだけで、
組手練習が上手く行くようになった。
なってしまった。
よくよく思い返すと、
一人型で直された所は、
型を習った時に、右手がよく解からなくて
解からないまま、
しっくり来ないまま、
進んだ所だったという記憶があった。
型のその通りに、
間違えていた型の通りに、結果が出た。
上手く行かないという結果がでた。
型を師匠に直されて、
正確な型の通りに、
直後にあっさり上手く行ってしまったという、
結果が出た。
『そんなもの、自分で直せばよかったんじゃないか?』
それは無理、絶対無理。
私自身、自分の目と感覚を信じていない。
昔々、動画に取られた自分の型を見たことが有る。
泣きたくなるほど不恰好だったので、
そのビデオを参考に、自分の不恰好な部分を勝手に直してみた。
次の稽古会で、
自分が勝手に直した部分、丸々全てを師匠から駄目出しされた。
師匠の指導で直されたら、
自分が勝手に直す前の型になった。
あまりにもドンピシャに、
自分で直してみた所を指摘され、
『師匠すげえ!』
と、思いつつ、
同時に、ぴったりと自分が直す前の形に戻ったことから
『俺がやるのは全部無駄!』
と理解した。
自分の目がいい加減であることが解かったので、
師匠から指摘されるまでは、
自分で直すような真似は絶対しないと心に決めた次第。




