62 始動6
『ならその子を離してあげてはいかがですか? 縛ったままでは可哀想です』
『うるさいぞっ! お前は僕に言われた通りにすればいいんだ!』
男は突然目を血走らせて口角を泡立てた。男の指先が不随意的にライターのやすりを弾く。モニタリング中のソウヤの心拍数が一気に跳ね上がった――が、幸運にもライターの火花は散らなかった。
私は長く息を吐いて胸を撫で下ろした。控えめに言っても終わったと思った。心臓がバクバク脈を打ち、血液が全身を駆け巡る。冷たい汗がうなじに滴り、指先が震えている。
とにかくアドレナリンがばんばん出まくっている。犯人と対峙しているソウヤと同様に心拍数は過去最高値を記録しているに違いない。
ソウヤは再び交渉を開始する。
『あなたの要求は分かりました。しかし、まずは彼女を解放していただきたい』
『お前がそこの窓から飛び降りて死んだら解放してやるよ。さあ、どうする?』
にやりと口角を歪めた男は、僅かに開くカーテンの隙間を指さした。
『妙な動きをすれば火を付けるからな』
ねっとりと監視する男の眼から視線を切ったソウヤは、窓に向かって慎重に歩き出した。なるべく摩擦を起こさないように、一歩ずつ進む。
この男に対して正気になれだとか正論で説得するのは難しい。意に沿わないことを言ったり口答えしようものなら、後先考えずに火を付けるだろう。目的が達成できなければ少女との心中を選ぶ、そんな常軌を逸した覚悟さえ感じる。
椅子と机で作られたバリケードの一部を撤去して窓にたどり着いたソウヤは、五十センチほど開かれたカーテンに触れた。
『それ以上は開けるな!』
鋭く喚いた男の声に、ソウヤはカーテンから手を離す。
元より彼はカーテンをこれ以上開けることはないだろう。カーテンレールを引いた摩擦で静電気でも発生したら一巻のお終りだ。
『カーテンを開けずに窓だけ開けろ! だが全開にはするなよ、最小限だ』
抵抗する意思がないことを示すため両手を上げた烏丸は、窓の外に視線を移す。ソウヤのカメラが校門外の統合指揮本部にいる私の姿を捉えた。
私たちはアイコンタクトを交わした。次に彼は視線を斜め上に移動させる。
校舎の外壁に張り付いているのはスパイダーマンではない。そこには屋上から垂れ下がるロープを握り、懸垂降下姿勢で待機する赤城善吉の姿があった。




