59 始動3
善吉の姿が完全に見えなくなってからソウヤは階段を昇り始める。四階の廊下を右に曲がって音楽室へ向かう。
『だんだんガスの匂いが強くなってきている。腐った玉ねぎなんて嗅いだことないから知らないけど、腐ったタマネギの匂いと表現されるガス臭だ』
独り言を呟くようにソウヤが小声で言った。もちろんこれは私への現状報告である。
面体マスクで顔を覆った善吉と違ってソウヤは素面のままだ。すなわち致死性の毒ガスを吸い込めば即アウト。だからといってガスマスクを付けたまま立てこもり犯と接触する訳にはいかない。こちらは無防備だと思わせて信用させる必要がある。リスクは承知の上。
ソウヤが鼻歌を口ずさみ始めたのはそんなときだった。メガネ型カメラが拾った音はヘッドセットを介して私に伝わってくる。
しかもこの曲、スーパーデューパーの新曲!?
「ああ、ソウヤの生歌……尊い、尊過ぎる……、ああ、癒されるぅ……」
思わず囁いていた私に警察幹部のおじさんたちが鋭い視線が向けてきた。隊員たちの声は司令官である私にしか傍受できないからだ。
音楽室の扉の前で立ち止まったところでソウヤの歌声は止まった。私はディスプレイに表示された彼の心拍(HR)が50代にまで落ち着いていることに気付く。
ひょっとして今の鼻歌は緊張を和らげるためのルーティンなのかな?
ソウヤはフラッシュライトをズボンのポケットにねじ込んだ後、呼吸を整えてから防音扉を二回ノックした。




