第52話 職業としての士官
3月に再び空挺降下を行い、イギリス軍を中心とする第21軍集団はオランダでライン川を越えた。偶然が重なり連合軍の手に入ったレマゲン鉄橋のケースは映画にもなっているが、その奪取も3月であった。ライン川はあちこちで突破され、渡河の流れはいったん動き出すと止まらなかった。
それに先立つ2月に行われたイギリス空軍のドレスデン爆撃は、戦局が定まっているのに多くの民間犠牲者を出したケースとして有名だが、チャーチルはハリスとポータルに対して激怒した。国内世論への影響もあったろうが、すでにチャーチルは占領行政のことを考える段階に来ていた。
もうほとんどない燃料を気にしながら、ドイツ空軍は夜間戦闘機とジェット機をいくらか飛ばし、東部戦線での地上支援すらいくらか行ってきたが、それも終焉に近づいていた。
キュストリンの街が3月下旬に失われ、ラウスのいた第3装甲軍がケーニヒスベルクで4月9日に銃を置いた。そしてジューコフは4月16日、第1ベラルーシ方面軍にオーデル川を渡る最終攻勢の砲門を開かせた。
ヒムラーを継いだハインリーツィ(第34話に登場)は、バルバロッサ作戦が始まったときは目立たない歩兵軍団長であった。上官が次々とヒトラーと衝突したため1942年の春を待たずに第4軍司令官に昇り、放置されたような1942年夏のモスクワ西側で、限られた戦力で抜け目なくソヴィエトにチャンスを与えず、背の低さもあって「Giftzwerg(性悪小人)」とあだ名された。1944年末にはラウスの第1装甲軍を引き継いだが、今回はラウスの上官ヒムラーを引き継ぐことになった。
平野部にも高低差はあった。ハインリーツィは水際を捨てて、坂の上にあるゼーロウ市を中心に防御を固めた。ジューコフはベルリンへの最短コースを攻め口として与えられたが、それはベルリン=キュストリン街道以外の補給路がなく、そこから離れた侵攻ルートが選べないということだったから、自分たちの損害に見合った侵攻速度を得られなかった。
1944年秋にクールラントに逃げ込んだシェルナーはヒトラーの覚えめでたく、ヒムラーの南隣で軍集団司令官をやっていたが、ヒトラーの言う通り今さら攻撃作戦「春の目覚め」をやって失敗した後、正面にいたコーニェフに突破を許してしまった。もともとコーニェフへの命令書には当然のこととして、「目標を達成したあとは」ある程度自由な進路選択が認められていたから、コーニェフが南の大外をまくってベルリンにゴールする可能性が、多少の現実味を帯びてきた。だが結局、写真判定のようにジューコフが先にベルリンへ入ることになった。
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4月17日、ハインリーツィはシュタイナーのSS第3装甲軍団からほとんどの戦力を取り上げて、ベルリン市内の運河に沿ってわずかな歩兵で守備することを命じた。ところが4月21日までに、ヒトラーはハインリーツィの指揮下で別の地域にいた3個師団をシュタイナーの指揮下に入れ、他の部隊(大雑把に言うと、ゼーロウ市を守っていた生き残り)とともに攻撃に移るよう命じた。しかし2個師団はすでに交戦中ですぐには動けず、1個師団の実態は歩兵2個大隊だった。シュタイナーはすぐ、この命令実行は無理だとハインリーツィに上申し、ハインリーツィは(参謀総長事務取扱グデーリアンの代理となった)クレブス大将に電凸した。ヒトラーと直接話させろと言ったのだが、口論の板挟みになることは目に見えていたから、クレブスは「総統は多忙だ」と取り次ぎを断った。
その前日、4月20日には、まだいくらか穏やかな空気が総統官邸にあった。空襲中の勇敢なふるまいなどで勲章を受ける少年たちをヒトラーが閲兵し、生前最後のヒトラーを映した動画として1970年代に見つかった。少年たちと握手しながら、後ろに回しているヒトラーの左手首がずっと震えているところも映っていて、後世の議論を呼ぶことになった。だがこの日、ゲーリングはヒトラーに誕生祝いを述べにやってきて、そのままベルヒデスガーデンに向けて陸路で発った。同じ20日のうちに、カイテルは自分とヨードルの夫人(再婚相手のルイゼ・ヨードル)を輸送機で同じ所へ送り出した。カイテルは陰に陽に、ヒトラーもそうすべきだと勧めていたが、まだヒトラーは迷っていた。
「旧国防省の建物にはヨードルの部屋はなく、ベルリン南西部の別の場所にヨードルとOKW作戦部のための小さなオフィスがあった」と第26話でちらっと語ったことがある。事実上「陸軍省」である国防省の建物からわざと少し離れたところに執務室を構えたのは、まだ三軍総司令官の夢を見ていたブロンベルクで、ヨードルとOKW作戦部がずっとそこをベルリン事務所として廃物利用していた。その物件の管理人室がヨードル夫妻の官舎であった。もう市内を移動することがリスクだから、カイテルもそこに居候していた。逆にそこで執務しているはずの作戦部スタッフは、ほとんどツォッセンのOKH地下壕に間借りしているか、ベルヒデスガーデンに先乗りするか、あるいは北西方向にベルリンを脱出したデーニッツのOKM(海軍総司令部)に同行していた。
これらを背景として、パロディ動画の元シーンとして世界的に知られる「チクショーメ」のヒトラー絶叫事件があったのは4月22日であった。最近は創作を超える実際の事件があまりにも多いが、このときは創作より事実がつまらないものであった。ソヴィエト空軍機を気にしながら慎重に通ってくるカイテルとヨードルの正確な到着時刻はわからないし、ツァイツラーの陸軍参謀総長着任以来、東部戦線のことはOKHとヒトラーで直接話し、カイテルやヨードルにはOKHからは直接報告しないのが通例になっていた。だからこの日、クレブスはふたりを待たず、東部戦線に関する報告を始めてしまっていた。
ヒトラーが爆発したのは、「21日、シュタイナーが自分が命じた攻撃を実行しなかった」という点であった。無理だという掛け合いを握りつぶしたのはクレブスだから、雷を落とされるのは仕方ないと言えば仕方ないのであるが、命令として無理なものは無理でもある。ともあれ、到着したカイテルとヨードルは落雷後の煙を上げるクレブスと、放心したヒトラーを見たのであった。
ヨードルは大急ぎで議事進行を巻いて、総統会議を終わらせた。そしてクレブスを放置したまま、ヒトラーと3人で協議に入った。それほど差し迫った事案があった。ヒトラーの脱出である。
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「お逃げ下さい、我が総統。もはや夜間といえども輸送機は安全ではなくなってきております。今夜が最後の機会かと」
陰に陽に馬鹿にされ、拒否され、そのくせ押し付けられてきた。辞任すら無視された。それでもカイテルは、自分がドイツそのものだと信じた何か……秩序のかけらを生かし、逃がそうとしていた。1942年夏以来、報告と質疑応答くらいしか会話がなく、ついにヒトラーと和解する機会のなかったヨードルは、それを無言で見つめていた。だが、やがて言った。
「我が総統、私は電話をかけねばなりません」
ヒトラーはうなずくだけで、ヨードルの背中を見もしなかった。ヨードルが本当に用事があったのか、ふたりきりの機会を作ってくれたのか、もうカイテルにはわからなかったし、興味もなかった。目の前の男を脱出させたかった。
「君はベルヒデスガーデンに行きたいなら行けばいいだろう。私は最後までここにいる。もう負けなのだろう」
「我が総統。このうえは和平の道をご考慮いただきたく」
「君とゲーリングが交渉するといい。私より適任だろう。いや命令する。君は行け」
沈黙をノックの音が破って、ヨードルが戻ってきた。好機が去ったような喪失感が、カイテルの頭への刺激となった。
「ヴェンクを呼びましょう。こちらに進撃させるのです」
「進撃。それは良い。それは良いぞカイテル」
ヒトラーの表情から緊張が抜けた。
「これから私がヴェンクの司令部に向かいます」
「頼んだぞ」
「我が総統!」
カイテルには、握手することしかできなかった。ヒトラーの気分を変えて、脱出に同意させることを、カイテルはまだあきらめていなかった。
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ポツダム宣言が発せられたベルリン郊外の小都市ポツダムは、中心部から南西に30kmほどである。第12軍の戦線はそこから10kmほど南西まで来ていた。本来西部戦線を支えるはずの軍であるが、難民保護軍のようになってしまっていたし、ソヴィエト軍を食い止めて市民を西へ逃がすことはこの時期のドイツ兵にとってわかりやすい、切実な目標だった。だからカイテルの懇請を受けたヴェンクは、兵に対しそのような鼓舞を添えて東への転進を命じたし、兵たちも最後の気力を奮わせた。
その返事を持ってカイテルが官邸に戻ってきた23日午後が、結果的にはカイテルがヒトラーを見た最後の日になった。いくぶん元気そうだった。カイテルがヴェンクの司令部と往復していた一昼夜の間に、ヨードルは空軍参謀総長のコラー(コルテンに引きずられるように空軍作戦部長になったが、前年7月20日にコルテンが爆死したため後任となった)と話していた。ヒトラーがベルリンを離れようとしないことを告げ、その情報を持ってベルヒデスガーデンのゲーリングのもとへ走ってもらったのである。カイテルは良い考えだと思ったのだが、とんでもない結果をもたらしたことは少し後で触れる。少なくともコラーはこの指示のせいで、総統官邸の降伏に立ち会わずに済んだ。クレブスはコラーほど幸運ではなかった。
ゲーリングがヒトラーの脱出を電話で説得してくれることを期待しつつ、カイテルはもう一度ヴェンクを急き立てに行ったが、その間にもうベルリン中心部は戦場になっていた。ヨードルたちの事務所もベルリン北西の森へと脱出し、24日以降、カイテルたちは総統官邸に近づけなくなった。ヴェンクの先鋒はもう南から来るコーニェフの部隊と交戦していた。軍事機密を流せそうな総統官邸への電話回線がなく、24日には仮設OKWにOKHの士官を呼んで、ヒトラー不在の戦争指導会議が行われた。カイテルはJu52輸送機で総統官邸に飛び込むことを考えたが、幸か不幸か25日早朝に霧が出て飛び立てず、かなわなかった。
OKWの脱出でごたごたしている間に、大変なことが起きていた。ゲーリングがヒトラーに連絡したのはいいが、和平交渉を自分に任せるのか、またゲーリングをヒトラーの後継者とする古い決定はまだ有効かと念を押したせいで、疑心暗鬼になったヒトラーに罷免されてしまったのである。カイテルはクレブスへの電話でそれを知ったが(もう機密保持も何もない)、その通話を盗聴していたボルマンが割り込んできて、「奴は解任された。狩猟長官の椅子さえもうないんだ」と哄笑した。ボルマンが好きなようにヒトラーに暗示をかけられる立場にあるとカイテルは気づいたが、もうどうしようもなかった。26日、空軍のグライムが女流飛行士ハンナ・ライチュの駆るFi156連絡機で官邸に突入し、ゲーリングの後任に任じられた。
4月27日から28日にかけて、もう総統官邸に近づけないカイテルはハインリーツィ、シュタイナーと言った近隣の将軍たちの司令部を訪ねた。そこで交わされた会話の記述は、カイテル自身と将軍たちで相違が多い。この時期になると、多くの指揮官はソヴィエト軍を避け、部下を連れて米英軍に降伏したいと願っていた。高いレベルの司令部では、それは「どの部隊を盾にしてどの部隊を西へ逃がすか」という選択を含んでいた。だからカイテルの指示に、長年の隔離環境で浮世離れした成分もあったであろうが、誰が助かって誰がソヴィエト軍に捕まるかという決定をした将軍たちも、戦後に覚えていることをそのままバランスよく語っているとは限らないのである。こうした中で、4月28日にハインリーツィは辞めさせられ、その申し出によって近くに第21軍司令部を構えたばかりのティッペルスキルヒを当面の代理とし、降下猟兵のシュトゥデントを正式な後任とすることになった。
もう官邸への電話は通じなかったから、ヒムラーが使っていた無線電話基地を29日に使わせてもらって、ヨードルが電話報告をした。イヤホンで聞いているカイテルが、ヒトラーの「少しカイテルと話をしたい」という言葉を聞いた途端、アンテナ気球が撃墜されて会話は途切れた。それが最後の通信になった。
吹き寄せられるように、要人たちはデンマーク国境に近いドイツ最後の一角に集まってきていた。そして5月1日、デーニッツの司令部を訪れたカイテルとヨードルは、そこでヒトラーの自殺を知らされた。
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「私は総統後継者となってしまいました」
「……前総統に対してと変わらず、お仕えいたします」
予想されていたことだったから、ヒトラーの死についてカイテルの感情はあふれたとしても、対応はすぐ決まった。デーニッツは続けた。
「元帥、じつは我が総統の遺書の大略が送信されてきました。いくつかの重要な人事を含みます。だが私は総統後継者ですから、こうした事柄について自分の指示を出すことができると考えます。それを含んで、元帥のご支持を頂けますか」
「喜んで、我が総統」
その後ろで、ヨードルは無言でナチス式敬礼をして見せた。
「カイテル元帥には留任していただきます。前総統の兼ねていた陸軍総司令官が空席となりましたので、ヨードル将軍にお願いしたい。早速ですが、私の就任を支持する兵へのメッセージを頂けますか。私は国民に総統の死を知らせる文書を書きます。ボルマンの電報によると我が総統は戦死されたとか」
少し間があった。カイテルが何を期待されているか気づくのに2秒ほどかかった。真相がどうであれ、ヒトラーは戦死したということでデーニッツ政権は押し通すのだ。そしてデーニッツは何気なく続けた。
「ボルマンが遺書とともに脱出してくるとのことです」
狩り好きなカイテルはゲーリングと仲が良かったから、それを聞いた瞬間の苦い表情は抑えきれるものではなかった。そしてその表情は知りたかった返事に近かったから、デーニッツは続けた。
「講和の妨げになる人物は何人か、新しい政権から遠ざけねばなりません。お任せいただけますか」
「もちろんです、我が総統」
カイテルも、ここに至ってゲーリングを復権させようとは言わなかった。
ボルマンはついに姿を見せなかった。1972年になって、ベルリンの工事現場から遺体が見つかり、脱出途中で死んだらしいという証言が裏付けられた。
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連合軍は降伏する主体としてのデーニッツ政権は認めたが、ドイツの統治者としてのデーニッツ政権は認めなかった。だからドイツが降伏すると、デーニッツたちは戦争犯罪の容疑者として拘束された。
「なぜです。なぜ私まで」
ヨードルはうろたえた。自分は単に捕虜として扱われると思っていたのである。様々な戦時経済の運営組織と、ときには同盟国外交に関与したカイテルと違って、自分は純軍事面にしか関わって来なかったと思っていた。
カイテルは、そんなヨードルを黙って見ていた。自分がヨードルをOKWに引き戻し、今日のこの日を迎えさせたのであった。
「ヨードル司令官。出発しよう」
声をかけたのは、デーニッツだった。ヨードルは今や陸軍総司令官であったことを、ポツリと指摘したのであった。デーニッツが最後の総統となったことは、もう否定のしようもなかったが、苦々しさが口調に込められていた。
ヨードルは、右手を額に添える陸軍式の敬礼でそれに応じた。カイテルはため息をついて、そしてやはり、何も言わなかった。ずっとドイツそのものの重みに耐えてきたカイテルは、多分に形式的なことであっても、毎日の命令で将兵たちを死地に送っていた。どうやらヨードルがその最後のひとりになるようだった。
クレブスは総統司令部で命を絶っていたし、コラーも1943年までは責任の軽い少将だった。ここにいない高級軍人の何人かが加わるとしても、大戦中ずっと政権を支えてきた者たちはそれほど多く残っておらず、だとしたら逃げられないように思えた。
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ニュルンベルク裁判で、カイテルは比較的静かな被告であり、尋ねられたことには答えた。処刑が免れないと察してから回想録を書き始め、判決が出ていよいよ日がないということで1942年のツァイツラー就任から終戦直前までをすっ飛ばし、1945年4月の総統官邸失陥直前から終戦まで書き上げて、処刑の日を迎えた。軍人として銃殺にしてほしいとたびたび願ったが容れられず絞首刑となった。
対照的に、ヨードルは猛然と戦った。ヒトラーに聞かされた通り、ソヴィエトとの戦いは予防戦争であったのだと言い張った。まるで、ずっと参加できなかった第2次大戦をひとりで延長しているようであった。そのことに全力を尽くしたため、短い(いくつかの)インタビューを残しただけで逝った。大戦中の日記はニュルンベルク裁判のために、少なくとも一部が英訳されたが、「ニュルンベルク裁判資料」として保存されただけに終わったようである。
ヨードルの日記翻訳にはヴァーリモントが協力した。とくに大戦序盤の日記にはヒトラーへの熱誠を語っているものもあり、ヨードルにとって不利であった。ヴァーリモントもそれで無罪というわけにはいかなかったが、損得を越えた積年の感情があったのだろう。
西ドイツの再軍備は1955年から始まったが、司令官として様々な命令に署名した軍人たちの多くは戻れたとしても要職につけず、ずっと参謀ポストにいたホイジンガーやシュパイデル(ロンメルのB軍集団参謀長)が主導的な立場になった。
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国民も、陸軍軍人たちも、例えばゲーリングのようなNSDAP幹部たちも(もちろん、末端の党員や親衛隊員も)、それぞれヒトラーに期待し、権力をふるい始めると、ヒトラーがもたらす良いニュースを喜んだ。だがそれは総じて、ヒトラーが他者を圧迫して得た成功であって、長続きする性質のものではなかった。ヒトラーは破滅の明確な予兆を見ても、都合よく心の世界で置き換え、妥協的に考え直すことをしなかった。自分自身を守り、生き残っていく用心深さを捨てて、一時の成功を収めただけの人物だったから、ドイツは丸ごとそれに巻き込まれた。言い換えれば、ヒトラーは他の多くのドイツ人がイメージしたような、都合の良い存在ではなかった。
独裁者が統治している点ではスターリンのソヴィエトはドイツと似ていた。「皇帝の取り巻き」に類する人物たちもいたが、スターリンは才を認めた人物たちを生かさず殺さず、降格を繰り返しながら使い続けた。いま誰の言うことを聞くべきか、自分自身の目を養うのに1年以上を要したが、最終的には妥協点を見つけた。そして勤勉な独裁者として広く意見を求め、率直な声を複数聞いた後で決断し、リソース配分者としての役割を果たし続けた。やや過度な成果主義のデメリットはいろいろなレベルで現れたが(本文で触れる余裕がなかったが、ストレスにさらされた士官の飲酒問題はあちこちで噴き出した)、ソヴィエト軍は大きなコストを支払って侵略者を追い出し、戦後に向けて相当な果実も得た。
古来「特別なときには特別なお洋服を着るものだ」というが、イギリスは戦時になると無造作に異才を登用した。それらは総じて人間的に面倒くさいところを持っており、組織を円滑に回してゆくために、ブルックやイスメイといった黒子が泥をかぶったし、ハンキーが守り育てた国家防衛委員会のように、老大国らしいシステムの支えもあった。本編にちらっと登場したトレンチャード元帥や、登場しなかったスマッツ元帥のように、公的権限を持たない重鎮の調整者も貢献した。
その点では案外、アメリカは「紹介状の社会」としてのありようを崩さず、平時から慎重に、ある程度公平に選び抜かれたエリートたちが国と軍を仕切った(手柄を立てにくいトラック輸送部隊には黒人兵が不釣り合いに多いなど、すべてが公平であったわけではない)。ただしときどき、平時に高い評価を受けた人物が、現場で馬脚を現した。そして名伯楽マーシャルが幾人かの異才を守り育てなければ、アメリカ軍はもう少し硬直的な面を見せたであろう。
アメリカでもイギリスでも、政治家の軍事問題への介入には選挙がらみで、国民の利益を損なうリスクをはらんだものもあった。だが、両立しない複数の切迫した課題に妥協点を見つけること自体は不可避だったし、政治家の関与がなければ軍人だけでは行き詰まった。この点で、ドイツには負ける要因が多く、米英には少なかった。スターリンは参戦当初にはヒトラーと共通する欠点を多く持っていたが、少なくとも大戦中はそれを控える方向に変化した。帝政の階級社会を脱した戦間期ソヴィエトはメリットクラシーに強く傾き、恐怖政治の進行を横目にしても、戦訓を取り入れ功罪を論じることは精力的に行われていたから、戦間期ソヴィエト社会のありようは確かにロシア帝国にない強みを赤軍(ソヴィエト軍)にもたらした。
ひとりひとりに求められる忍耐や奉仕について言えば、戦勝国の軍人たちにもそれぞれの事情と不足と理不尽があり、それは戦後も止むことはなかった。高い戦時階級についていた軍人たちは、元の階級に戻った。戦後の世界でうまくやっていけない軍人もいたし、戦中の失策を取り返せる機会はもうなかった。戦死しなかった軍人たちの中にも、戦中の過労がたたって短命に終わった人々がいた。正義や栄光以外に、人生にはあまりにも色々なものが詰まっていた。
第52話へのヒストリカルノート
今回の話は、カイテルの回想をもとに書いています。本文でも触れましたが、大戦を生き延びた将軍たちとの会話は、会話相手がコーネリアス・ライアンなどに提供した情報と一致しません。おそらく、特に東部戦線についての粒度が粗くなりすぎたOKH報告を間接的に聞くだけだったせいもあり、カイテルの態度は現場指揮官が耐えられない、浮世離れした成分を持っていたのです。カイテルの目からはこう見えていた俺世界とご理解ください。またボルマンは軍人ではないので、いくらかカイテルが記録した出番を削りました。そこにいなかったので、カイテルはグライムとライチュが突入した日付を不正確に覚えていたようです。ここは史実通りにしました。




