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第51話 ラウスとヒムラー


 ラウスはずっと奮闘してきたし、正しい選択を見つけて実行する「抜け目のなさ」を何度も発揮してきたのであるが、だからといって戦局を逆転するチャンスがあったわけではなかった。どう描いても救いのない過程ではあったが、このころのドイツ軍という組織のありようを素描したものともいえるから、ラウスの戦歴をめぐる少し退屈な話にお付き合い願いたい。


 1943年7月のクルスクの戦いの後、ラウス特設軍団(1943年7月から第11軍団)はベルゴロド、ハリコフと退いた。ベルゴロドの死守指令はラウスが無視したがお咎めはなかった。ハリコフを放棄しようとしたらヒトラーのお咎めがあって、提案者のケンプが首になった。ケンプ軍支隊の最期である。ツァイツラーが踏ん張って、ケンプ罷免から1週間でヒトラーの撤退許可を取り付けた。


 9月下旬にはドニエプル川を渡る貴重な橋があるクレメンチュークを守る責任者となった。渡河の順番待ちは最大で12個師団に達し、橋の30km手前で待たされる師団も出たが、どうにか秩序を保って渡河を終えた。


 次々に師団が損耗したから、軍団も影響を受けた。軍団司令部も再建中の師団を迎えるために後方に動いたり、逆に隷下師団ナシの空洞状態になって前線で戻ってくる師団を待ったりした。第47装甲軍団は9月以降空洞であったが、ラウス軍団長は11月初めにこの軍団に転任し、第11軍団から歩兵師団がごっそり移籍した。新たに空洞になった第11軍団には、シュテンマーマン大将が着任した。そう。本来の所属部隊がほとんどいないシュテンマーマン軍団長は、まさに戦線の弱体な部分にいたために、不運にもコルスン包囲戦(第45話)に巻き込まれ、懸命の指揮を取った末に戦死することになった。


 命拾いしたラウスであったが、第47装甲軍団長だったのは3週間だった。第4装甲軍のホト上級大将が、キエフ失陥など最近続いた敗北の犯人とされて、クビになったのである。大将昇進後の勤続期間が浅すぎたが、ラウスが第4装甲軍司令官代理となった。1943年12月にジトミルで反撃し、攻勢準備中のソヴィエト軍に大損害を与えたのはラウスの第4装甲軍に属する部隊だったが、それがマクロ的な優勢につながるほど状況は甘くはなかった。


 第4装甲軍が奮戦する間、第1装甲軍は包囲されていた。カメネツ=ポドリスキー包囲戦(第46話)である。ようやく包囲を抜けたころ、航空機事故でフーペ第1装甲軍司令官が殉職した。ラウスは1カ月の休暇ののち、第1装甲軍司令官に転じた。


 延々と遅滞戦闘が続く1944年8月、ラウスは第3装甲軍への転任命令を受けた。モーデルがロンメルを引き継ぎ、第3装甲軍のラインハルトがモーデルを継いで中央軍集団を率い、ラウスはその後任という玉突き人事だった。


 その転任先の第3装甲軍は、北方軍集団と中央軍集団を薄皮一枚でつなぐ位置にいた。ラトビアの首都でもある港町のリガに、南西から連絡をつける位置である。そして大規模な攻勢を実施しようとしていたが、あちこち転戦してバラバラになった装甲部隊があちこちから攻撃する計画であった。成功する要素がないことを見て取ったラウスは、まず計画通りに攻撃をさせた。そしてそれぞれが行き詰まったところで同じ方向に退却させ、兵力をまとめて再攻撃し、リガ南西のドーベル市を中心とする高台を占領させるとともに、リガの北方軍集団(第16軍)とのあいだに狭い回廊を確保した。このとき、南のポーランドではバグラチオン作戦による快進撃がヴィスワ川でかろうじて止まっていたころだった(第48話)。


 どうにか破たんを食い止めようと奔走していたテスケ輸送監がOKHと対立したのも、この狭い回廊をめぐる問題だった。OKHが9月に裁可した攻撃計画は、戦前のデータをもとにある鉄道線の能力を高く評価し、それを守るために無理な地形での攻撃を中央軍集団に命じていた。現場で路線現物を見ると、もうそんな輸送力はないのである。とうとうテスケは、長年出していた前線への転属願が通ることになってしまった。総統予備への編入は10月25日になった。


 早くも10月、薄皮一枚は破たんし、ソヴィエト軍はバルト海に達した。北方軍集団のシェルナーはヒトラーへの追従と部下への過剰な罰が際立った指揮官だったが、ヒトラーにクールラント(リガの北西に突き出したエストニアの半島)を守れと言われると(多少の意見具申と交渉はしたのだが)それを貫き、押し込められる軍集団主力のために第3装甲軍からほとんどの装甲師団を取り上げた。ラウスもそちらに退却させようとしたが、ラウスは決然と最後に残った第5装甲師団とともに本土方向へ退き、戦いを続けた。すでにドイツ本土である東プロイセンが戦場だったから、国民突撃隊がしばしば戦場に立ち、ひとたまりもなく壊滅していた。


 重油の足りないドイツ海軍は、ベンゼンやコークスの生産工程から出るどろどろのタールに原油などを混ぜ、さらに固まらないように熱して使っていた。海岸の戦いでは重巡プリンツオイゲンが応援に出てくることもあったのだが、1944年末が近づくと、もう人造石油工場をだいたい破壊してしまった戦略爆撃部隊がベンゼンの工場まで狙ってきたので燃料不足が悪化し、残っている艦船でバルト海沿いの陸軍を支援できなくなっていた。


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 アムトラッハ大尉(第43話以来の登場)は退避壕の中で午睡を取っていた。ここはドイツがまだ占領している、狭いフランス領の切れっ端だった。ドイツとフランスが直接接する国境はライン川に沿っており、川岸には切り立った斜面が多い半面、良い橋と良い道路は少なかった。連合軍が通りやすいところを通ってドイツ国境に向かったので、コルマール市を中心とするアルザス(エルザス)地方南部のドイツ軍が取り残されたのである。ドイツはこれを勇ましくエルザス橋頭堡と呼び、連合軍はありのままに、コルマール・ポケットと呼んでいた。


 この地を守るドイツ第19軍は、もともとマルセイユ市など南フランスの地中海沿岸を守っていた部隊である。1944年8月に連合軍が上陸してきて、防ぎ止めるほどの戦力がない第19軍は懸命に逃げた。そして見事に成し遂げたが、その過程で所属部隊はボロボロになった。「増強小隊程度」と評される歩兵連隊すらあった。


 アムトラッハはトラック部隊から歩兵部隊に引き抜かれることになり、本来中尉になる前に受けておくべきだった中隊長講習と、大尉になる前に受けておくべき大隊長講習を受けるために本土に戻っていて、バグラチオン作戦の壊滅を免れた。そして歩兵大隊長を拝命したのだが、半個中隊ほどの人数しかいなかった。重火器もほとんどないから、アムトラッハが経験不足を露呈する機会そのものが少ないようだった。これなら、トラック運転手たちに小銃を持たせてパルチザンを防いでいたころと変わらない。


「大尉殿、客人であります。大佐殿が見えられました」


 さすがに軍歴の長いアムトラッハは、「大佐」というワードに感電したように反応し、ふらつくほど急に立ち上がった。そして退避壕の斜面を駆け上がった。


 そこにいた大佐は若かった。そして穏やかに右手を差し出してきた。


「戦闘群長となったテスケだ。起こしてしまって済まなかったな」


 テスケは第19軍付から第198歩兵師団付となったところだった。大佐だから、補任される連隊が現地で決まれば連隊長の辞令が出たはずだが、間に合っていなかった。エルザス橋頭堡北西の、一番危ないところを守る、5個歩兵連隊その他いろいろの残余を引き受けるように師団長から言われた。アムトラッハはトラック部隊にいたから、東部戦線でテスケ輸送監の命令書を受けることがなかったし、もちろん会ったことなどなかった。


「部隊の様子を聞かせてほしい。ベルリンで今頃になって連隊長講習を受けてきたんだが、古臭くてあまり役に立たなかった」


「あ、あはははは」


 アムトラッハは笑うしかなかった。本来連隊長講習は、中佐昇進が目前になった少佐が受けるものだが、出世の急速だったテスケは輸送総監部のキャリアに乗っていたこともあって、受けていなかった。10月24日に前職を辞してから連隊長講習を受けて、いろいろ大戦末期ゆえの不手際と無駄も重なって着任が12月後半になったのである。


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 すでに1944年末から、ブダペストは包囲下にあった。丘の上で守りやすいドナウ川西側のブダ地区に退いたのは空路の補給を狭めることにもなったが、空輸のための航空燃料がないのでは意味がなかった。攻め手には既にソヴィエト側についたルーマニア軍が加わっていた。


 そしてラウスと対峙(たいじ)するジューコフがヴィスワ川を越えた。作戦計画は11月から検討され、12月に入るころにはスターリンの決済を待つばかりだったが、「ラインの守り作戦」を牽制してほしいというチャーチルの要請を聞いて、1月12日攻勢発起と決した。


 戦後のことを考えると土地は欲しいのだが、補給と補充の無理が積み重なっているソヴィエト軍としては、それらが間に合って来る日数は欲しかったし、米英軍が多くのドイツ軍を引き付けて出血を分担してくれるのもありがたかった。軍事的決定にももう政治が混じり、そして政治とは多面的なものであった。


 ジューコフを受け止めたラウスの第3装甲軍は捕虜の証言からソヴィエト軍の砲撃開始時刻までつかみ、その直前からソヴィエト側の道路を砲撃したうえ、自分の歩兵は塹壕から下がらせた。突進してきたソヴィエト兵は誰もいない塹壕を見つけ、その先に進もうとしたところ、そこは地雷原になっていた。今までに(つちか)った術策をつぎ込んだ防戦だったが、その程度の手練手管(てれんてくだ)でなんとかなる物量差ではなかった。かき集めた戦車がソヴィエト軍の動きに合わせて機動するガソリンがないのではどうしようもない。ラウスたちはケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に追い詰められていった。


 そこで、ラウスと司令部は所属部隊を近隣の軍司令部に渡し、後退を命じられた。新たに編成されたヴァイクセル軍集団で、また新しい部隊を受け取って戦うのである。軍集団司令官は、初めて会う男だった。ハインリヒ・ヒムラーと言った。


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 テスケは不運であり、幸運でもあった。着任からいくらも経たない12月28日、前線視察に出たテスケは迫撃砲弾により重傷を負った。それは不運であったが、9か月後に退院したら戦争が終わっており、多くのドイツ士官たちが大戦末期に抱えた苦悩を自分のものにしないで済んだ。


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 手に入る情報が制限された独裁国家で、独裁者が指示または黙認した「許されない行為」を知った人々が、それを独裁者のせいだと考えず、独裁者に実情を訴えたいと考える話はいくつか読んだことがある。たぶん特定の国に固有のことではなく、正常性バイアス(あってほしくない異常事態の兆候を目にしたとき、それを否定し無視する心の働き)の変形でもあるのだろう。だからラウスは、ヒムラーに会えると知って、このところのヒトラーの非合理的な戦争指導について、思っていたことをすべてヒムラーにぶちまけた。2月13日のことだった。


 小一時間の顔合わせであったはずが、語ることが多すぎて深夜になった。にこにこしているわけではなかったが、ヒムラーはじっと真剣に聞いた。ヒムラーがそうしていたから、参謀長のラマーディング中将もそうした。1905年生まれのラマーディングは国防軍の軍歴がなく、ずっと突撃隊や親衛隊で士官教育を受けてきた。ヒムラーを軍集団司令官につけたのは、務まらないから失脚するだろうというボルマン官房長の企みだったと言われるが、ヒムラーが選んだお気に入りのラマーディングも師団長までしか経験がなく、ラウスと言い合える男ではなかった。だからこそヒムラーにとっては、圧を感じずに済む参謀長なのであろうが。


 ラマーディングは離席して伝令と話していたが、困った顔で戻ってきた。


「帝国長官。じつは親戚の住居が空襲にあいまして、連絡をしたいのですが」


「ああ、かまわんよハインツ[ラマーディング]。済まないな将軍」


 ラウスは無言でうなずいた。自分の部下であったら、私事で任務を離れることは許さないかもしれなかった。ラマーディングが去り際に見せたナチス風敬礼は美しかった。


 ドアが閉まり、ヒムラーは首を伸ばしてその後を目で追うと、首を引っ込めて……言った。


「君は正しい。将軍、全く正しい。この戦争は負けだよ。我が総統にもそう言った。返答はこれだ」


 ヒムラーはラウスに人差し指を向けた。


「敗北主義者と呼ばれて、部屋を出された」


 ドアがノックされた。伝令が紙片をヒムラーに渡し、すぐ去った。


「……やりおった。やりおったぞ。ああ、いま説明する」


 ヒムラーは笑顔で紙片をラウスに渡した。そして説明した。


 いまヒムラーがいる軍集団司令部は、ベルリンの中心部から北に100kmほどのプレンツラウ市である。そこから東に300kmほどのところに、シュナイデミュール(現ポーランド領ピワ)の街がある。ここの守備隊も死守命令を受けていた。人数は1万2千人に達していたが寄せ集めで、火力があまりなかった。取り残された守備隊の大佐が、死守命令を破り「脱出に成功しつつあり」と打電してきていた。ヒムラーの旧知の人物だった。


「電文の宛て先は帝国長官閣下だけですか。それとも……」


 ラウスが言いかけると、またドアがノックされた。別の紙片が届けられた。今度は無表情に紙片を読み下すと、ヒムラーはラウスに紙片を渡した。


 何と言ってもベルリンやツォッセン(ヒトラーがベルリンにいるときのOKH所在地)に近すぎる。OKHで傍受された通信はヒトラーに報告され、その厳命を受けたグデーリアン参謀総長事務取扱はヒムラーに守備隊を引き返させるよう命じていた。


 ラウスから紙片を受け取ったヒムラーは言った。


「私はさっき言ったな。君は正しいと」


 ヒムラーは紙片を几帳面にたたむと、胸のポケットに突っ込んだ。


「この命令は届かなかったので、伝達されない」


 ポケットをぽんぽんと叩き、にっこり笑ったヒムラーは、愛想のいい近所の理容師のようにしか見えなかった。


 だが戦場における凶報も吉報も、事実のすべてではない。1万2千人の守備隊は1千人になって友軍戦線にたどり着き、その中にいなかった指揮官の大佐は1950年、ソヴィエト軍の捕虜収容所で亡くなった。


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 2月13日は、ブダ地区最後の抵抗がやんだ日でもあった。11日夜の脱出で郊外の森に逃げた兵士も、その過程で部隊そのものから逃げた兵士もいた。運の良い民間人は兵とともに去り、多くの民間人はいろいろな場所に横たわり、いくらかの民間人は何もなくなった街に残った。


 ラウスがヒムラーに言いつのったことの中には、「防御と反撃の余力を少しでも残すべき時に、攻撃など命じている」ことがあった。だがヒトラーはまだ攻撃を命じた。ベルリンが50kmほど東のオーデル川でかろうじて支えられているというのに、南のハンガリーで攻勢に出ろというのである。3月6日に始まる「春の目覚め作戦(バラトン湖の戦い)」であった。ひとつだけここで攻勢がかけやすい理由があって、それはハンガリーには1937年に発見された油田と、そのための製油施設があるということだった。ソヴィエト軍は米英に自分たちの位置を細かく知らせなかったから、誤爆を懸念して製油施設の爆撃が徹底せず、燃料事情が比較的良かったのである。


 3月7日、ヒムラーは理由を告げずにラウスを呼び出した。ドイツに残った地域はもう狭く、ふたりの司令部はもう20kmしか離れていなかった。


 ヒムラーは温かくラウスの奮戦をほめた。ラウスは最近追加された無駄な指示や無理な指示のことを言った。


「我が総統がな。すべては我が総統がお命じになるのだ。もうすぐ潮目が変わる。この戦争は勝つよ、将軍」


 先日の今日でこれである。だが短い付き合いの中で、この矛盾した男の理解不能なところが、ラウスにもわかってきた。ヒトラーに接するたびに強烈な引力でその見解に引きずられるのかもしれないし、ヒムラー自身の中にもう、統合しきれない複数の何かがあるのかもしれなかった。


 ふとヒムラーの言葉が途切れ、見覚えのある表情が浮かんだ。


「……そうだ。私が君を呼んだのだったな。用件は……そう。私の使者として総統会議に出席してみるか」


「ぜひお願いします」


 戦機をとらえるラウスの即断を、ヒムラーは微笑で迎えた。


 ヒムラーは、自分ではもう言う勇気のないことをラウスが言ってくれることに、あまり値打ちもなくなった自分の軍集団司令官職を賭けたのであった。だがヒムラーですら言えば面罵(めんば)される和平のことを、ラウスが言っても処刑されるだけだった。ヒトラーに自分で気づいてもらわねばならないのである。


 3月8日午後、総統会議を訪れたラウスは「前線からの報告者」として弁じた。面と向かって「講和しろ」とは言えないが、ラウスは精一杯、前線の苦難を言い(つら)ねた。ヒトラーに「先を急げ」と言われたが、前線部隊の健闘をたたえて穏やかにラウスはプレゼンを終え、司令部に戻った。だが3月10日、マントイフェル大将が第3装甲軍司令部にやってきて、ラウスの後任を命じられたと言った。ヒトラーは何かをラウスのプレゼンから受け取ったのであり、そして後任者の発令がヒトラーの返答だった。


 20日にはヒムラーも代えられ、ハインリーツィが継いだ。もはや呪術のようなもので、人を代えたら情勢が好転するというものでもなかったが、ヒトラーにできることはもうそれくらいだった。「春の目覚め作戦」はアルデンヌの森に代わって湿地帯が広がり、やはり道路に頼った進撃になって、それが季節の進行で乾いてくると、物量差がストレートにドイツ軍を包んだ。'ゼップ'ディートリッヒはヒトラーの命令を今度こそ無視して、第6装甲軍を一目散に西へ向かわせ、アメリカ軍に降伏させた。


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 キュストリン(現ポーランド領コストシン・ナド・オドロン)は、ベルリン最後の防壁オーデル川が、支流と合流する地点にある街である。東側にあるから、街そのものがドイツの橋頭堡ともいえる。だから1945年1月以来、様々な規模のソヴィエト軍部隊がこの街をしつこく狙っていた。


 グデーリアンははるか南のハンガリーで展開された「春の目覚め作戦」にも不賛成だったし、クールラントに閉じ込められた陸軍部隊の海路脱出をヒトラーが認めないことも不承知だった。そしていまや包囲されたキュストリンを救援する作戦を実施はしたものの多勢に無勢で、「だからクールラントの軍勢があれば」といった口論にもなった。


 ヒトラーは自分の選んだツァイツラーが何かというと辞職辞職と言うのに我慢がならず、今でもツァイツラーは病気休職中ということになっていたし、そうなるとグデーリアンをやめさせるわけにもいかないので、キュストリン救援失敗がはっきりして西側への脱出を済ませた3月30日、グデーリアンに「病気休職6週間」を言い渡した。


 ツァイツラーと違ってグデーリアンは大将昇進以降の軍歴が長いし、だいいち装甲兵総監兼任のままで忙しいので、作戦担当参謀次長を再び任じていた。当初はヴェンクであったが、2月からクレブス大将に代わっていて、クレブスはツァイツラーの事務取扱(代理)たるグデーリアンのそのまた事務取扱ということになった。クレブスは抜け目のない歩兵士官として前大戦を生き抜き、今次大戦ではロシア語ができるので東部戦線で急速に出世し、1942年に第9軍参謀長になってからは有能さにほれ込んだモーデルがつかんで離さず、中央軍集団参謀長からB軍集団参謀長まで(多少の間隙はあったが)そのまま引っ張られてしまったのであった。


 もちろんヒトラーは、6週間後には自分がまだ生きているつもりだったであろう。


第51話へのヒストリカルノート


 ラウスは1943年11月に第4装甲軍のFührerとなり、1944年3月にあらためて第4装甲軍のOberbefehlshaberに任じられました。手続きが間に合わないとか階級が足りないとか言ったとき、当座の指揮官を呼ぶFührerという表現は、訳しにくい言葉のひとつです。


 ラウスとヒムラーの場面はラウスの回想をもとに描いていますが、2回目の会話は創作成分多めです。ヒムラーからラウスを呼び出したこと、総統会議に出てみるかとヒムラーから言い出したことは回想通りです。



「キュストリンの戦車戦」の元ネタは某壮烈本……にはそのまた元ネタがあるわけで、ある有名な大戦末期を描いた実録読み物に出てくるようです。もちろん(もともとは)英語の本ですから「ティーガー28両とパンター29両がソヴィエト戦車を待ち伏せて60両以上を撃破した戦闘」の詳細を求める英語掲示板のログが複数見つかります。確実な答えとまでは言えませんが、「1945年3月22日に第20装甲擲弾兵師団、クルマーク装甲師団、SS第502重戦車大隊それぞれの残余がキュストリンから30km余り東の近くのゴルツォウ(現ポーランド領ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ)でソヴィエト戦車に大被害を与えた戦闘のことではないか」という書き込みがあります。これは全体としてはキュストリンを外から救援する試みの一環でしたが、「ティーガー28両とパンター29両」というのは当時の実態ではなく、もっと少数でもっといろいろ混じった戦車集団であったはずだとも書かれています。



 厳密にいうとヴェンクやクレブスはChef der Operationsabteilung im Generalstab des Heeresでした。司令部幕僚を戦闘部門の「作戦部」と非戦闘部門の「主計部」に大別し、それぞれの長を置いて参謀長を補佐させるのは空軍のやり方で、陸軍が反乱を起こしたので空軍の組織に変更する呪文詠唱のような組織変更であったと思います。

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