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第50話 我らラインの守りなり


 10月から、アーヘン奪取を目指すホッジスのアメリカ第1軍は市街戦と陣地戦に挑んだ。アーヘンというのは以前も触れたように、ライン川の西側にあるドイツ本土の主要都市である。もともとドイツがフランスを食い止めるために作りかけていた国境陣地ジークフリード線は、連合軍に未経験の戦いを強いた。歩兵の補充要員は急速にすり減ったが志願者は少なかった。


 すでに触れたように、パットンの第3軍はロレーヌ地方の中心都市メス(メッツ)で古い要塞と向き合うことになった。もともとフランスが建造し、1870~1871年の普仏戦争でドイツの手に落ち、第1次大戦でフランスに戻ってきたものである。この街には歩兵士官を養成する学校があって、この段階でこの課程にいるのは主に優秀な下士官であったから、敗走してくるさまざまな部隊の兵たちを率いて要塞にこもると、容易に落ちなかった。だが地形的に迂回できないところではなく、パットンは兵糧攻めにして先に進み、要塞は12月に降伏した。


 すでに触れてきたように、ドイツの将軍たちは、戦線を支えるために大規模な増援を要求した。それはもちろん、「この戦いは負けですぜボス。政治のほうでひとつ和平の幕引きを」という意味であったが、ヒトラーはそうした話に取り合わなかった。代わりに空軍で、もはや昼だろうと夜だろうと空で生き残れない多発爆撃機の訓練学校が次々に閉鎖され、要員から「空軍要塞大隊」が多数編成された。要塞というのは例によって、後退は許されないという意味だったのであろう。半分ほどが陸軍の前線部隊に配属されて、その多くは解体されて既存部隊の補充に使われ、残り半分は空軍の降下猟兵部隊に補充された。ヒトラーはドイツに残ったリソースをすべて燃やし尽くそうとしていた。


 9月に既存部隊に交じってイギリス軍を食い止めている間、装甲旅団の欠点は顕在化しなかったのだが、ホッジスやパットンの行く手を阻もうと単独で行動した装甲旅団が、10月以降にいくつか一方的な敗退をした。もちろん根本的な問題として、チームとしての訓練が欠けたまま戦場に出されたせいではあろうが。


 通信機とレーダーは部品や材料が重なり合う。だから1944年に本土防空が最優先とされると、陸軍の通信機生産は後回しになった。それを背景として、小隊長車から上の指揮官車を除き、装甲兵員輸送車には通信機が積まれなくなったという兵士の回想がある。これがどの程度全面的なものかは不明だが、全車が新造車両である装甲旅団は最もその影響を受けただろう。


 偵察用装甲車を配属してもらえなかったことも地味にこたえた。装甲車の模型を作った皆さんはご記憶と思うが、装甲車の上部は金網にカバーされている。あれは手榴弾対策であって、敵の手榴弾が上に乗ったら、左右に開くフレームを押し開いて()()けるのである。装甲兵員輸送車にはその仕掛けがないから、夜間に忍び寄られると手榴弾で全滅の危険があり、夜間偵察には使えない。だから連携と偵察で、歩兵用通信機の小型化で先行するアメリカ軍と戦うと大きなハンディがあったのである。


 フランスからベネルクス諸国にかけての補給ルート再建は時間のかかる仕事であり、1944年12月の連合軍はドイツ国境にじりじりと近づき、航空支援に適する天候回復を待ちながら物資をため込んでいた。フィリピン完全制圧に手を付けた太平洋戦線が人的資源を吸い込んで、欧州の取り分を奪い始めていた。


 9月から11月まで、アメリカ軍は全般的な補給不足を感じるとともに、特定の場所に戦略リソースを集中しなかったこともあって、連隊以下の小集団がそれぞれ独立して、バラバラに戦うことが多くなった。優勢と言ってもそれは全般的なものであり、消耗しきった兵士たちが増援の中隊を誤射してほぼ全滅させる事件も起きたし、ヒュルトゲンの森のように緩慢だが深刻な出血が続いた戦域もあった。


 すでに触れたように、連合軍がアントワープ港の機能をフルに使えるようになったのは11月後半だった。だからドイツ側が何もしなくても、補給の好転と航空支援に適した季節到来で、年が明けるころに米英軍のギアチェンジは起きたと思われるのだが、皆様ご存知のように、ドイツ軍はアルデンヌで攻勢を準備していた。


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 アルデンヌにおける「ラインの守り」作戦は、ヒトラーが言い出したものであり、ヒトラーだけがその意義を知っていた。マーケット・ガーデン作戦の裏返しで、たとえアルデンヌの森を抜けられたとしても、細長い回廊が取れるだけであり、守りようがない側面をさらすことになる。全般的な劣勢は覆うべくもないのだから、なおさらである。


 だがヒトラーが言い張るので、ヨードルは立案し、指揮した。軍人とは命令に従うものであり、そして命令は明確だった。モーデルもルントシュテットも納得していないのは明らかだったが、表立って違背(いはい)はしなかった。


 空軍はこの作戦を支援するために、取って置きの燃料備蓄を吐き出すとのことだった。燃料はなかったが、機体はそれなりに生産できていた。もうレシプロ爆撃機は誰が乗っていても空で生き残れなかったから、双発機乗りたちはジェット機に乗っていた。「爆撃航空団(戦闘機)」という奇怪な部隊も誕生した。新機材への練度は……もうどうにもならなかった。


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 'ゼップ'ディートリッヒ上級大将の第6装甲軍には、いくらでも仕事があるところを無理に呼び集められた親衛隊の装甲部隊がぎっしりと集まっていた。政治的な理由で、親衛隊に一番手柄を立てさせようということだった。そしてその先頭はいつもの男だった。


「最先頭ですね、中佐殿。クリスマスにはアントワープまで行けますかね」


「人に(あお)られると腹が立つものだな」


「すみません、中佐殿」


 兵士が謝って、笑い声が装甲兵員輸送車を満たした。LAH師団では1942年から装甲兵員輸送車で戦ってきたパイパーだったが、1943年末に戦死した装甲連隊長の後を任され、その後ももっぱら装甲兵員輸送車で最先頭に立ってきた。


「ラインの守り」作戦を特徴づけるものはいくつかあるが、ドイツ軍の燃料不足はそのひとつである。まさに1939/1940年のドイツ軍を懸念させ、いくらか現実にもなった道路渋滞が、燃料再補給を妨げ、連合軍の対処が間に合ってしまう大きな要因となった。もちろん届いた燃料そのものが通常の行軍に備える量にも達せず、起伏のある地形では距離の割に燃料が食われた。先陣を切って飛び出したパイパー戦闘群は単に強力な戦車部隊と歩兵部隊を持っているだけでなく、連合軍の燃料補給所に一番乗りできたので、比較的ましだった。


 長く連なる車両群は、雪崩が心配になるほどの轟音を立てていた。


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「ラインの守り」作戦の攻撃目標となったのは(主に)アメリカ第8軍団であり、その上級司令部であるアメリカ第9軍とともに、ノルマンディーから西へ向かってブレスト軍港などを攻略していた部隊である。平穏なアルデンヌ戦線のすぐ北にはヒュルトゲンの森があり、ドイツの国境都市アーヘンを攻め取ったホッジスの第1軍が、その南東にあるヒュルトゲンの森を大きな損害を出しながら攻略中だった。そして西から追いついて日が浅い第8軍団戦区は大きな動きがなかった。


 12月16日に始まったドイツ軍の進撃が、何を目的としてどこへ向かうのか、連合軍首脳はその意図をつかめなかった。当のヒトラーが、「アントワープ港を破壊して早期の進撃が望めなくなれば米英に不協和音が生じて有利な和平の機会があるだろう」といった夢想的観測を口にしていた。とにかく大規模な攻撃であることは17日までにはっきりした。


 第9軍は第8軍団をパットンの第3軍に渡し、その他の部隊の大半をホッジスの第1軍に渡して、軍司令部自身はモントゴメリーの第21軍集団に引き渡され、この戦いが終わるとモントゴメリーとブラッドレーの担当戦域境界で起用されるようになった。そしてブラッドレーとホッジスが露骨に嫌な顔をするのもかまわず、第1軍は一時的にモントゴメリーの指揮下に移された。つまりモントゴメリーが北側チーム、ブラッドレーがパットンの上に立って南側チームとなったわけである。


 アイゼンハワーは思い切りよく、真っ先に虎の子を吐き出した。第82空挺師団と、第101空挺師団である。第82空挺師団は北側に投入され、一部は(結果的に)パイパー戦闘群の正面に回り、主力は後続してくる第6装甲軍を正面から受け止め、血を支払って時間を稼いだ。第101空挺師団は、バストーニュの守りに参加した。


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「Battle of Elsenborn Ridge」と総称される一連の戦いは、「ラインの守り」作戦の中で最も早く終わったのだが、この名称はあまり正確ではない。この尾根(ridge)は、エルゼンボーンの街の北西に伸びているのだが、ドイツ軍はエルゼンボーンを取れず、尾根は全く戦場になっていないからである。


 作戦失敗の原因は、あえて言えば大戦を通して大なり小なり親衛隊戦闘部隊が抱えてきた問題だと言える。悪い意味で純粋で、忠誠心に飽かせて正面攻撃をしてしまうのである。抜け目のない国防軍の指揮官たちは側面や背後からの奇襲を同時に仕掛けて、守備側の心を揺さぶるのだが、我が方の士気は絶大で三倍でとてもすごいと思っている第12SSヒトラー・ユーゲント装甲師団は、エルゼンボーンの手前にあるクリンケルト、ロッケラスのふたつの集落を正面から攻めた。相互に大損害が出たが、十分に時間を稼がれたうえ、突破のための虎の子である装甲部隊をすっかり消耗させてしまったのである。


 パイパー戦闘群の突出を例外として、第6装甲軍は国防軍部隊で占められる第5装甲軍よりもぶつかり合いを迂回で回避できない傾向があって、かえって南隣の第5装甲軍が奥まで進むことになった。第5装甲軍の目標はブリュッセルであったが、それでもはるか手前で燃料不足が深刻化して、次第に進撃は停滞した。


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「俺たちが最先頭を引き受ける。クリスマスにはバストーニュに一番乗りだ」


 19日には関係する高級指揮官たちがフランスのヴェルダンに集まった。アイゼンハワーは陽気な笑い声でパットンの壮語を歓迎した。いま、パットンがまとっている闘気のオーラは好ましかった。パットンは命令を待たず、指揮下の第3軍から有力部隊を北上させ始めていて、このまま現在よりドイツ中心部に近い攻め口をもらえる期待もあったから、張り切っていた。後の記録によれば、戦車からジープまでパットンが北へ向けた車両を数え上げると、13万両を超えた。


 モントゴメリーは言葉少なに、それを見ていた。イギリスはもう、人的損耗をどれだけ抑えられるかが主な関心事だった。戦局の好転に伴い、議員任期を特別法で延ばして総選挙を避けてきたことは、そろそろ終わりにしなけれはならなかった。1935年にボールドウィン内閣が多数派を保って以来の数的優位は、次の総選挙ではさすがに引っくり返る可能性が高く、チャーチルとしては不人気な要素は何であれ避けたかった。


 後方には酒も食料もあった。勝てるという自信は揺らいでいなかった。むしろ「もう勝てる」という楽観が、アメリカ本国における欧州戦線と太平洋戦線のリソース争奪戦に影を落としていた。下院で与野党が伯仲(はくちゅう)する状態は1942年秋から続いていて、先ごろの選挙でやっと解消したばかりだった。親の代からフィリピン陸軍と縁があるマッカーサーに代表されるように、フィリピンとアメリカはすでに深い関係にあって、イギリスが大戦前半の約束を振り回しても通らなかった。


「アメリカ人がみんな奴ほど気楽なわけではないだろうが、今日は奴がうらやましい」


 モントゴメリーのつぶやきは低く、誰にも聞こえなかった。


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「ラインの守り」作戦序盤の焦点は、北のサン・ヴィト、南のバストーニュであった。クルスクの戦いでプロホロフカがそうであったように、この2つの地点は交差点なのである。迂回できないことはないが、迂回すると交通が(とどこお)る。そしてそれぞれが死守された。


 12月22日、サン・ヴィトにいた寄せ集めのアメリカ軍はついに総統護衛旅団などの攻撃を支えかねて、夜になると街を捨て退却した。


「第106歩兵師団残余、第7機甲師団のA戦闘団・B戦闘団、すべてサン・ヴィトを離れました。リッジウェイ将軍(アメリカ第18空挺軍団長。モントゴメリーの下でサン・ヴィト方面の指揮を執る)はなおサーム川東岸で抵抗の余地があるものと具申してきておりますが」


 電報と地図の紙束を手にした幕僚が、モントゴメリーの顔色をうかがった。


「西岸まで撤退して、陣地構築中の第82空挺師団と合流させろ。時間は十分に稼いだはずだ」


 そう。無用な損害を抑えることは、いまや優先事項だった。


 そして、ここで稼いだ時間は決定的だった。23日には天候が回復して、戦術空軍が職務に復帰したのである。終戦直後の捕虜尋問によると、第6装甲軍の'ゼップ'ディートリッヒ上級大将は20日に攻勢は失敗だと感じた。


 残り火のようにドイツ軍の進撃はまだいくらか続いた。第82空挺師団はサーム川を渡られて少し退却を強いられた。だが、もうドイツ軍の補給車両は続いて来なかった。装備なく退却したアメリカ対戦車砲兵たちは、手に入る限りの捕獲砲を逆向きに据えてドイツ兵に抵抗した。バストーニュ守備隊の有名な降伏勧告への返答「Nuts!」は22日のことで、それを聞いた第5装甲軍のフォン・マントイフェルは24日、ヒトラーに攻勢中止を上申した。25日にはグデーリアンも同じ意見を述べた。


 パットンを大いにいらだたせたことに、バストーニュへの救援突入はクリスマスの間に合わず、12月26日夕方になってしまった。だが、引っ込みのつかない前進をしてしまったドイツ軍にとって、南から突出部の根元に近づくパットンの動きが緩慢なのは、むしろ悪いニュースであったかもしれない。


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「何も地図を用意せずスターリンの別荘に来るように、とのことだ」


 ポスクレビシェフ官房長の短い手紙を、アントノフはシチェメンコに見せた。夜にスターリンに伺候(しこう)するのは報告と命令草案決裁のためで、それは開戦以来ほぼずっと続いてきた。テヘラン会談の最中ですら、それは四苦八苦してほぼ同じように実施されてきた。それを1944年の大みそか、スターリンは破ろうとしていた。


 スターリンの別荘(ダーチャ)はモスクワ西部郊外にある。参謀本部の車が着くと、所在(しょざい)なげな運転手たちを待たせた先客の乗用車が並んでいた。軍人や政治局員が大勢呼ばれているようだった。スターリンの執務室に行ったときも遅い夕食を相伴する日があったが、今日の招待者は20人を超えていた。


 スターリンの夕食の流儀は、我々が知っている立食パーティに近かった。一部の食物は先に並べられ、多くの料理はひとつひとつ届けられて、スターリンから順に取り分けるのであった。料理の内容も、材料が何であるのかわからなくなったハムやソーセージはスターリンの好みに合わず、蓋を取ったスターリンは材料が何であるのか言い当てようとして、つぶやきがよく漏れた。給仕が取り分けないということでもあった。


 みんな笑いさざめいていた。赤い顔をしたブジョンヌイがバヤン(アコーディオン)を軽妙に奏でた。そして拍手とともに演奏をとぎらせ、ウォッカを補充に行った。


 今度はスターリンが動いた。レコードがあった。まずダンス音楽でもあるロシア民謡「バリーニャ」がかかると、膝を打つ音と靴音が聞こえた。またブジョンヌイだった。みんな食事は終わってグラスを手に取っていた。


 そして、当時から赤軍の合唱団として知られていたアレクサンドロフ・アンサンブルのレコードがかかると、将軍も閣僚も知っている曲に唱和した。


 宴会は午前3時まで続いた。真冬ゆえ真っ暗な空だったが、アントノフは言った。


「もうすぐ夜明けだ、セルゲイ・マトビェーヴィチ[シチェメンコ]」


「そうですね、同志将軍。春もすぐ来ます」


 確かにこの日、ソヴィエトの長い冬が終わりつつあることを列席者は感じた。


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 1945年1月1日、戦闘機部隊を中心とするドイツ空軍は一斉に飛び立ち、連合軍の飛行場を襲撃した。地上撃破と空戦、そして長らく見なかった友軍機にあわてたドイツの対空砲火も加わって、相互に大きな損害を出すことになった。


 わずかな4発重爆撃機が喪失機数に含まれていることを考えに入れず、機数だけをとらえても、おそらく連合軍の喪失機数はドイツ軍を上回った。だが、ここまで読み進んできた読者の皆様は、それはドイツの負け戦だと気づかれるであろう。訓練用の燃料がもうないドイツ空軍は、最後の熟練搭乗員たちをここで失った。そして地上での撃破機体が多かったことから、連合軍は喪失機数ほどのパイロットを失ったわけではなかった。血の取引は、ドイツの大損だった。


 もう「ラインの守り」作戦に望みはなく、脱出できる部隊は脱出し、脱出できない部隊は降伏した。道の上に細長くひしめく部隊に防御戦闘などできなかった。パイパーも燃料切れの車両を捨てて脱出した。退却の判断は(某劇画にあったように、'ゼップ'ディートリッヒ第6装甲軍司令官が一度撤退を却下したことも事実だが、結局)師団長命令によるものだった。


 この間、もうひとつの敗北も進んでいた。シュペーアとともに、ヒトラーから石油産業復旧・疎開責任者に任じられていたガイレンベルクが辣腕(らつわん)をふるって、人造石油工場を粘り強く復旧させ、荒天が増え戦略爆撃が滞った10月以降に、わずかだが航空燃料備蓄は積み上がっていた。だがルーマニア降伏後に手が空いたアメリカ第15空軍がイタリアの基地から、チェコと当時の東ドイツ(現在はポーランド領になっている地域)を叩き、精密爆撃の腕を上げたイギリス空軍の夜間爆撃が最も堅固な防御を誇ったロイナとペリッツの工場に大きな損害を与えて、ちょうど「ラインの守り」作戦のころに最後の希望もついえてしまった。そして終戦間際まで、戦略爆撃部隊は過去にストックされた燃料の貯蔵庫を探し、狙い続けて、ドイツ軍をマヒに追い込んでいったのである。


 そして西でドイツ軍が忙しくしている間に、ソヴィエト軍はすっかり準備を整えていた。ワルシャワへ、そしてベルリンへ。


第50話へのヒストリカルノート


 ドイツの装甲連隊長には戦車に乗って戦場に出る人も、乗っていない人もいました。「連隊長車」のように扱われているのは連隊本部通信小隊の1号車で、本来の車長は別にいます。それに乗ったまま戦場近くに行けば直に様子がわかりますが、タブレットやディスプレイのある時代ではないので、少し後方にいたほうが司令部との連絡も取れるし、広い範囲の戦況もわかったのです。しかしもちろん戦う男たちは戦場に出てこない指揮官を尊敬しないわけで……パイパーのやり方は独特でした。



 スターリンのダーチャはいくつかありました。シチェメンコは具体的な地名を示していませんが、スターリンが最後の発作を起こした場所でもあるクンツェヴォのダーチャであると想定して書いています。


 ジューコフはノモンハンで手柄を立てた後スターリンに初めて会い、会食を相伴しましたが、そのときは普通のディナーであったようです。シチェメンコはどうやら普通の食事形式をとるスターリンを見なかったようですから、大戦直前か開戦直後に自分のわがままを通すようになったのでしょう。



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