第49話 クリスマスを待ちながら
ジューコフはSTAVKA総司令官代理を兼任したまま、1944年11月に第1ベラルーシ方面軍司令官となった。東部戦線は西欧に近づき、全体として短くなったから、方面軍のあいだをSTAVKA代表が調整しなくていいだろうというのがスターリンの理屈であり、発令前にジューコフは意見を求められた。スターリンはジューコフに対して丁寧ではあったが、前任者のロコソフスキーは騎兵科の親友であったのに、ジューコフにベルリン一番乗りのチャンスを奪われた形で、関係が冷えた。実際には方面軍はあまり減らなかったし、南のほうではティモシェンコが終戦までSTAVKA代表をやっていたのだから、優勢になってスターリンの猜疑心が再び動き出し、口実を構えてジューコフの勢威を少し削る気になったのかもしれなかった。
結果的には第1ウクライナ方面軍のコーニェフとベルリン到達を競い合う結果になったが、そちらは偶発的なものだった。起こってしまったあと、スターリンが競争をあおったのはおそらく事実なのだが。
ドイツ北方軍集団はラトビア西部に突き出す半島状のクールラントに押し込められた。ヒトラーはこの孤立した橋頭堡を保持することに意味があると言い張り、撤退させようとするグデーリアンたちと終戦近くまで言い争い続けて、ついにそのままとなった。第1・第2バルト方面軍がその封鎖を担当することになった。
ソヴィエト軍は黙々と物資や兵器を戦線に貯め、ベルリンを目指して一斉に攻めかかる時期を測っていた。
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ヒトラーが装甲旅団の創設を口にしたのは、すでに東部・西部両戦線に火が付いた1944年7月のことであった。「思いついた」というのは正しくない。旅団規模にすり減った装甲師団があちこちで成果を出しているなら、最初からそのサイズで編成すれば増えるではないか……というのは絵空事ではなく、東部戦線の実態とも言えた。実態どころか、バグラチオン作戦開始のころから、師団規模に足りない再建中の部隊がとりあえず装甲旅団に束ねられて戦場に放り込まれたり、生き残りを集めた集成装甲部隊が装甲旅団と名づけられたりして、実物もあった。
グデーリアンが懸命に反対したのは、現存装甲師団を分割しようという案が出てきたからだった。抵抗は成功し、総統が言ったサイズの装甲旅団を新編成することになったが、長年資源を奪い合った敵である砲兵科は相手にしなかった。だから装甲旅団はいっさいの砲兵を欠くことになり、その代わりに対空機関砲を積んだ装甲兵員輸送車が多数配備されて、火力を補った。東部戦線ではある程度最新装備に見合った戦果を挙げる部隊もあったが、西部戦線では散々な結果に終わった。どうしてそうなったかは、次回に述べる。
歩兵部隊もまた、編成表と実態の落差がどうにもならなくなっていた。すでに1943年7月の「新型歩兵師団編制表」から、もうドイツ軍は「歩兵師団のあるべき理想像」としての編成表を作るだけにして、歩兵師団を編成時期で「波」に分類することを事実上やめていた。そして部分的には新型装備を盛り込むことがあっても、全体的にはその標準編成表をさらに値切り、劣化修正し続けることが1944年になっても続いていた。
そこへ起きたのが1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件である。戦闘親衛隊は「ほらみろ信用できるのは我々だけだ」という態度になった。軍人の思想教育に親衛隊が乗り出すことになり、そこで親衛隊の意向で、8月の新編師団から歩兵師団を国民擲弾兵師団と改称することになった。
1944年半ばごろから、突撃銃StG44の配備が始まった。射程が短い代わりにひとりで支えて撃てる短機関銃はソヴィエト軍が多用していたが、弾数で撃ち負けないようにドイツもようやく大量配備を始めたのである。これに合わせて、編制表もまた大幅に書き換えられた。
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ロンメルが負傷した後、クルーゲが発起した反撃は、かえってファレーズ付近での包囲を受けて終わり、残兵はそれぞれフランスから退いた。クルーゲ失脚後、モーデルがB軍集団を引き継ぎ、9月3日からルントシュテットが再起用されて西方軍司令官となった。ただしこのときD軍集団は廃止されて、西方軍はB軍集団と、南フランスからドイツへ退却してきたG軍集団の上に乗っかる司令部とされた。
このころ、連合軍には3つの大集団があった。ひとつはパットンのアメリカ第3軍で、もともと防衛線西端を食い破ったので一番南寄りのコースを取り、メス(メッツ)の古い要塞に立てこもるドイツ軍と戦って、ドイツ南西部に向かっていた。だがベルリンをゴールと考えれば、一番遠いルートであった。
ホッジスのアメリカ第1軍は、パットンの第3軍とともにブラッドレーの第12軍集団に属していた。パットンの進撃路の北隣であり、パリ解放にも参加して、真っ先にドイツ国境にたどり着いた。ライン川が独仏国境になっているのは南のほうで、ベルギー付近ではライン川の西にも少しドイツ領がある。その中でも主要都市のアーヘンが、1944年9月以降のホッジスにとって主戦場となった。
そして、上陸海岸も一番東であったイギリス連邦軍は、ライン川に最も近い出撃地点を持ち、第21軍集団司令官モントゴメリーの下、短期間で戦争に勝つギャンブルに手を染めようとしていた。マーケット・ガーデン作戦である。
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モントゴメリーの主張を煎じ詰めると、「補給をくれれば我々はライン川を越えるぜ」であった。ブリュッセルからベルリンをにらむアイゼンハワーの視点に立てば、ブラッドレーが右の矢印を伸ばしつつあるところ、アントワープ港から補給を受けるめどが立たないモントゴメリーの左の矢印が、ノルマンディーからのトラック輸送と空輸物資でぜいぜい息をしながら、ルール地域を大きく包囲するために自分たちの優先度を上げろと言ったわけである。空挺部隊を集中投入することはそうしたマクロ的なリソース配分の一側面に過ぎなかった。
アイゼンハワーは「この野郎フカシやがって」とも思ったであろうが、逆に大戦後半を通じて、空挺部隊はアイゼンハワー直轄部隊であり、訓練と維持にかかるリソースの大きさからも、それが大きく勝利に貢献するところを本国に見せたくもあった。
マーケット・ガーデン作戦は、河口に近づくほど大きな障害となるライン川を一気に渡河すべく、1本の道路と、そこにかかったすべての橋を、空挺部隊の橋確保と戦車部隊の迅速な前進で取ってしまおうというものだった。
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「無念であります……将軍」
「我々はチームだ。そのことはどうすることもできんのだ」
ソサボフスキ旅団長は、若い士官をなだめた。ワルシャワの国内軍は、いつか本国に降りるのだというポーランド空挺旅団に期待をかけて、わざわざ聖遺物の布などを使って軍旗を作り、届けてくれた。それを見殺しにしたまま、旅団はマーケット・ガーデン作戦に参加しようとしていた。
落下傘降下ができる空挺部隊は貴重である。いまイギリス本国にいる空挺師団は、アメリカがふたつ、イギリスがふたつ。旅団を半個師団とみなせば、いまパワーバランスはアメリカ2、イギリス2、ポーランド0.5となる。だからイギリス陸軍は懸命に、ソサボフスキを昇進推薦などで懐柔して、イギリス軍の一部として旅団に命令を下せる形に持って行こうとした。それをソサボフスキは、本土に降りる時まで損害は出せないと亡命政府と一緒に突っぱねてきた。最後にはイギリスは訓練用の機体を提供せず、「ポーランド軍は機甲旅団の充足を優先されたい」と空挺旅団の編成完結を妨害することまでした。
亡命政府はソサボフスキをアメリカに出張させて、ポーランドに下りられる航続距離の長い機体を出してもらえないか交渉させたが駄目だった。イギリスも、甚大な人的被害を出せば政権が傾くのであり、薄氷の政権運営であることはソサボフスキも(他人事ながら)わかっていた。
亡命政府はとうとう、一度の出撃に限り無条件でソサボフスキ旅団をモントゴメリーに差し出すという返事を、それでも6月6日に返答した。上陸当日に投入させないという形で意地を通したのである。ここらが限界だとソサボフスキは思っていた。すぐ機材が魔法のように現れ、ご祝儀のように准将昇進の辞令まで来た。
ワルシャワの国内軍も、蜂起の1週間前にそれを知らせてきたようなありさまで、共同作戦ができるチャンスがなかったことは認めるしかなかった。
年配の士官が、若い士官の肩をつかんで、無言で引っ張っていった。ソサボフスキは気を遣われて苦笑した。ふたりの息子のひとりは戦前に夭折し、残ったひとりが軍医として国内軍に参加していたが、安否は不明だった。理屈は理屈として、叫び出したい気持ちは別にあった。
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マーケット・ガーデン作戦は、ライン川を渡るという基本的な目的を果たせず、その直前までの細長い通路を確保したことに当面意味はなかったから、失敗と見なされている。ただし、立案した時点では成功の望みは高く、得られるものも大きかったので、実施したこと自体は間違いではなかったという将軍たちが多い。つまり、実施してみたら見込み違いがあちこちで生じたということである。
取らねばならない橋のうち、問題は主に一番奥のアーネムと、ひとつ手前のナイメーヘンにある橋で生じた。もともと市街の中にある橋を確保するには少し遠くの空き地に降下し、迅速に目標の橋に接近せねばならず、ちょっとした手違いで遅刻と不ぞろいが生じる「ぜい弱さ」を持った作戦だった。
天候は良い日もあり、悪い日もあった。イングランドの天候が悪いと、現地が晴れていても航空支援や増援の降下は妨げられた。だいたい、2日目以降の降下が、すっかり警戒した敵の付近で無事に済むというのは甘い想定だった。逆にドイツからオランダにかけて晴れた日もあって、わずかに出撃したドイツ空軍が連合軍を遅らせた。遅れることが連合軍空挺部隊の孤立と危機につながる類の作戦だった。
これと関連するが、ドイツ軍が見かけほど崩壊していなかったのは非常に悪い影響があった。クルト・チル中将のケースはとくに有名である。チルの第85歩兵師団はもともと、増強歩兵2個連隊以外の支援部隊がほとんど欠けていたのだが、それがフランスからの敗走でさらに減った。そこへ第84・第89・第716歩兵師団の生き残りが加わり、通りかかる敗残兵を集めて拡大を続けた。連合軍兵士の回想にはこの戦闘群にいた降下猟兵のことを印象深く書いているものがあり、このころこのあたりで戦っていた第2降下猟兵連隊第1大隊がチルの指揮下にいた可能性がある。
ヴァルター戦闘群は、チル戦闘群よりもっと急ごしらえだった。5月までイタリアで降下猟兵連隊長をしていたヴァルター大佐が、まさにパラシュートで降下するように、イギリス軍が確保した渡河地点を囲むドイツ軍指揮官として送り込まれたのである。その中に連隊規模の部隊はふたつしかなかったが、ひとつはフォン・デア・ハイテ中佐がノルマンディーから率いてきた精鋭中の精鋭、第6降下猟兵連隊だった。部隊が消耗し、まだ全体として動けない周囲の師団群からも、それぞれ戦闘群が差し出されていた。
9月4日に電話で第1降下猟兵軍を新設するよう命じられたシュトゥデント大将は、後方にいることを逆用していろいろな小部隊を糾合したが、すぐに長距離を移動する手段がない部隊も多く、9月5日に現地入りしたシュトゥデント大将が確保できたのはわずか2万人に過ぎなかった。だがシュトゥデント本来の手兵である降下猟兵部隊は、いま戦線にいないものは訓練未了部隊か壊滅後再編中の部隊に決まっていたが、手に入る限りの武器を手にして全国から順々に集まってきた。オランダに残った訓練部隊も治安部隊も海軍水兵も、銃を持てる者は持たされた。ノルマンディーの上陸地点から東側の海岸一帯にいたドイツ第15軍が、多くは着の身着のままとはいえ、6万5千人の脱出を成功させたことは、1940年のダンケルクの裏返しだった。
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アーネム付近にはSS第9装甲師団とSS第10装甲師団がいたが、8月のファレーズ包囲網から逃げてきたままの欠員だらけで、重火器のほとんどないイギリス第1空挺師団ですら、圧倒できるほどではなかった。だがその動ける一部が市街戦に加わっただけでも、イギリス軍は集中や連携ができなくなった。争奪の中心になったアーネムの橋は現在はジョン・フロスト橋と名付けられているが、フロスト中佐の率いる大隊がかろうじて橋にたどり着き、他の大隊は合流できず、人と弾薬がじりじりと失われていった。
シュトゥデントは動員できる部隊のえり好みなどしなかったのだが、空軍のシュトゥデントにとって頼みやすく、後方にいて車両も持っている部隊となると、対空砲部隊が多くなった。映画『遠すぎた橋』で投下物資を陣地に担ぎ入れようとした兵士が撃たれ、中身のベレー帽がこぼれ出る印象的なシーンがあるが、アーネムを狙ったイギリス第1空挺師団の周囲には特に対空砲部隊が多く、物資が届きにくかった。
「5つの橋を取る」と直感的に説明したが、実際には5つの街にある大小の川をすべて渡らねばならず、それを5つと数えたのは映画『遠すぎた橋』のパンフレット……げふんげふん……とにかく実際に取った橋(渡った川)はもう少し多い。5つの街はソン、ウェフヘル(Veghel)、グラーヴェ(Grave)、ナイメーヘン、アーネムである。
チル戦闘群やヴァルター戦闘群は、連合軍から見てソン橋の手前にある街アイントホーフェンを守って激しく抵抗した。ソン橋も爆破され、さいわい川幅が狭いので仮設橋を架けることができたのは2日目の夜で、ここまで半日の予定が大きく遅れた。さいわいウェフヘルの橋にはアメリカ第101空挺師団が先着し、無事に確保していた。
グラーヴェとナイメーヘンの橋はアメリカ第82空挺師団の受け持ちだったが、連合軍から見て手前にあるグラーヴェをまず取っている間に、シュトゥデントの呼び集めた部隊が降下地点を圧迫した。補給を投下する基準点として降下地点は取られてはならないから、ナイメーヘンの橋を取りに行く余裕がなくなった。
作戦3日目の9月19日にはイギリス戦車部隊がナイメーヘンの空挺部隊と合流し、翌20日はナイメーヘンの橋をめぐって正面からのぶつかり合いになった。映画『遠すぎた橋』でロバート・レッドフォードの演じたクック少佐の敵前ボート渡河はこの日であり、彼らアメリカ第82空挺師団の勇戦もあってナイメーヘンは連合軍が制圧した。そして悪天候に2日続けてたたられたイギリス第1空挺師団の残り半分がようやくアーネム近くに降りた。
だがアーネムの橋のほとりの民家で頑張っていたフロスト大隊残余は、21日午前には弾薬と飲料水がつきた。既にフロストは負傷し、野戦病院にいたから、降伏は一斉ではなかった。そして荒天順延が続いたソサボフスキ旅団主力の降下順がようやく回ってきたのは、こんな日だった。
降下場所はアーネムとナイメーヘンの橋のあいだだったが、イギリス空挺部隊はアーネムの橋の向こう岸にいた。つまりライン川をはさんで、イギリス第1空挺師団は北側、ポーランド空挺旅団は南側に下りたのである。ソサボフスキには橋もなく、ボートもなかった。もちろん計画では、すでに渡河地点は第1空挺師団が確保しているはずだったがされておらず、(第1空挺師団側無線機のバッテリーに問題があって)連絡すらつかなかった。あらかじめ第1空挺師団に配置してあったポーランド軍連絡士官が夜のライン川を泳ぎ渡り、ソサボフスキに現況を知らせた。何とか船を見つけて渡ってきてほしいというのだった。ソサボフスキが承諾すると、返事を持って勇敢な大尉は再びライン川を泳ぎに行った。どこへも行けなくてもドイツ軍は襲ってきたから、ソサボフスキたちがそこに居続けるだけでも命がけの防戦になった。
22日になると、今度は貴重なゴムボートを使って第1空挺師団の参謀長たちがやってきた。上層部に苦境を訴えるためだった。イギリス戦車と歩兵もようやくソサボフスキ旅団に追いつき、最後の橋をめぐる戦いは終盤に入った。だが部隊の渡河に使うボートの到着は遅れ、真夜中を過ぎて渡ろうとしたところ、ドイツの砲弾が川岸の工場に火災を起こさせ、明るくなった川面で次々に兵が撃たれた。無事に渡れたのは50人余りに過ぎなかった。度重なる反撃を撃退されたドイツ軍歩兵や装甲部隊の傷も深かったが、時間が経つごとにドイツの砲兵は集まり、砲撃はますます激しくなってきた。
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23日にソサボフスキが呼ばれたイギリス第1空挺軍団司令部では、戦場真っただ中だと云うのに陶器の食器が使われていた。オーキンレックは司令部の簡素な野営と粗食にこだわったが、モントゴメリーは「英気を養って何が悪い」という考えだと聞いたことはあった。まあ、反対する理由はなかった。ソサボフスキは証拠を素早く隠滅するように、罪もない紅茶を飲みほした。
軍団長・ブラウニング中将は、イギリス空挺部隊のグデーリアンともいうべき人物だった。あらゆる逡巡と反対をはねのけ、何もないところから空挺部隊を作り出し、育てた男であった。そのブラウニングはソサボフスキを甘言で釣って、旅団ごとイギリス軍に取り込もうとした工作の中心人物であり、実行者のひとりでもあったが、他の目下に対する態度は全然違っていることをソサボフスキはよく知っていた。
会議そのものは、前線のソサボフスキが知っていることと、容易に察しが付くことばかりだった。うまくいっていない。だが、続けるしかない。
「ソサブ、ちょっと来てくれないか。ふたりで話がしたい」
会議が終わった後、さりげなくブラウニングはソサボフスキを誘った。ソサボフスキは部下からソサブ親父と呼ばれていた。
「会議では伏せたのだが、計画通りボートが来ないかもしれんのだ」
ブラウニングの声は低かった。いま危機にある第1空挺師団はブラウニングの古巣であり、モントゴメリーの主導する作戦で、否応なく最奥の橋を取りに行かされていた。かつてスコットの南極探検隊募集広告にうたわれたように、「成功の場合のみ栄誉あり」である。
だが旅団員を守るソサボフスキの心は、言葉を切って自分を見るブラウニングに警報を鳴らしていた。何か打開のためのアイデア、でなければ犠牲的な申し出を待っているのだ。
「将軍、もはや最後の攻撃をいつに定めるか、ご腹案を……」
「ああ、いや、それほど深刻な状況とは聞いていない。分かった。もういい」
ブラウニングは、撤退の決断を冷然と促すソサボフスキの発言をあわてて打ち切って、あいさつを手振りで済ませて歩き去った。ソサボフスキもまた、卵を守る獰猛な親鳥であった。
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23日夜に再び渡河が試みられたが、イギリス歩兵の多くはドイツ軍の待ち構える地点に上がってしまい、大半が捕虜となった。ソサボフスキ旅団の順番が回る前に渡河は中断された。そして24日、ついに第1空挺師団を脱出させる命令が下った。ここに作戦失敗が確定したのであった。
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先に述べたように、マーケット・ガーデン作戦は「成功したかもしれない作戦」であり、「成功のご褒美がでかい作戦」でもあった。だがそれを遂行する過程で、モントゴメリーはアイゼンハワーに口出しされたくなかったのか、最新の情報を上げなかった。アイゼンハワーの最も貴重なリソースである空挺部隊を集中投入させておいて、独断を重ねて失敗した格好になった。これはアイゼンハワーも我慢できなかった。出世する男の包容力を備えながらルール違反には容赦しないアイゼンハワーは、アメリカ人の理想像であったかもしれない。
物量に勝る連合軍も、それをどう配分するかが戦略的選択になる。もともと、スイス国境から北海までの戦線全体を少しずつ押すのか、一点を突破するかは議論のあるところだった。そしてモントゴメリーの失敗は、パットンやホッジスにも補給を回す選択につながり、しばらくモントゴメリーの部隊は罰ゲームのように補給状況を改善すべく、先に述べたアントワープ港周辺のドイツ軍掃討に専念する羽目になった。1945年3月下旬になって、ようやくイギリス軍はライン川を渡り始めたのである。
そしてイギリス軍から「度重なる不服従」についての圧力を受けて、1944年12月にポーランド亡命政府はソサボフスキを退役させた。「一度だけ」投入するという約束は無視できなかったからイギリスから見て旅団の利用価値はもうないし、ソヴィエト軍はもうワルシャワの手前にいた。ソサボフスキも抵抗しなかった。
上司でも部下でもないイギリス陸軍省の高官が骨を折ってくれて、妻とワルシャワの戦いで失明していた息子は戦後イギリスに渡り、ソサボフスキは工場労働者として家族を支えることになった。だが遠慮することもなくなり、戦後に出版された回想録は比類ない迫力を持つものになった。映画『遠すぎた橋』は作戦失敗をもっぱらブラウニングの責任と印象付けているという批判があるのだが、誰のせいでそうなったかというと、まあ監督さんがソサボフスキにすっかり同情してしまったからではないかと、マイソフは思っている。
(今回、ヒストリカルノートはありません)




