第48話 皇帝が残ってしまった8月
1944年7月20日のヒトラー暗殺計画を企んだグループには、1938年のミュンヘン会議直前にヒトラーを逮捕しようとした、ベック大将らもいた。トレスコウは中央軍集団作戦主任参謀だった時期が長かったから、そこで得た縁と、士官社会の名族としてもともと持っているコネクションを使ってベックらのグループに接触し、何度かヒトラー暗殺も試みたが失敗し続けていた。
だから、ベーゼラーガー兄弟も巻き込まれた。貴重な実戦部隊として、すでに第3騎兵旅団に拡張された中央騎兵連隊が当てにされた。退却したとはいえ、戦前のポーランド国境近くにいた連隊からベルリンまで駆けるのである。いま弟のフィリップは第1大隊長で、旅団長も、その下でふたつに分かれた第31・第32騎兵連隊長も、兄のゲオルクではなかった。より高い指揮権を与える含みで、ゲオルク・ベーゼラーガー中佐は、よりによってこの時期に予備役となってしまったのである。だが「どこにいてもいい立場」になったことは、生かす道があった。ゲオルクは連隊とベルリン、そしていまトレスコウ大佐が参謀長をしている第2軍司令部を忙しく往来した。
まず会議室の机の下に置いたカバンの時限爆弾でヒトラーを殺す。そして予備軍司令官のフロム上級大将も一味だから、その黙認のもとに、主犯でフロムの参謀長であるグラーフ・フォン・シュタウフェンベルク大佐が「暴動が起きた」と言い立て、予備軍の下で治安維持や訓練に当たっている部隊を指揮下に置き、放送局などの重要施設を確保する。これがクーデター派の基本的な戦力確保プランだった。「ワルキューレ作戦」と呼ばれる、外国人労働者の暴動などを鎮圧するプランを乗っ取り、クーデター派の都合のいいように発動するのである。
そしてベック大将やウィッツレーベン元帥など、協力する軍の元老たちが各地の実戦部隊にラジオを通じ呼び掛けて、本物の兵士による本物の革命に持って行こうという計画だった。「ヒトラーが死んだ状況」をまず作ることによって、軍人たちがこだわる忠誠の誓いを無効にし、ドイツにとって最も価値のある行動を選ばせようというのであった。
だが、ヒトラーは死ななかった。決意を固めたクーデター派のメンバーは実権を持つ者ほど少なかったから、シュタウフェンベルクはヒトラーの死を確かめることなく、爆発現場のラステンブルク大本営からベルリンに戻らねばならなかった。そしてワルキューレ作戦に必要な指示を次々に発したが、肝心の大前提、ヒトラーの死が達成されていないことが次第にはっきりしてきた。
爆弾そのものは大変な威力だった。多くの死者が出た。ヒトラーの副官であり、しばしば代弁者として振る舞ったシュムント。イェションネックから引き継いでまだ1年にならないコルテン空軍参謀総長。だがヒトラー本人は軽傷だった。
かつてハルダーの片腕だったシュツルプナーゲルはフランス軍政長官としてパリを掌握しようとしたが、ヒトラー生存が知れると逆に逮捕された。ベックとウィッツレーベンも関与が深すぎてすぐ捕まった。ワルキューレ作戦での出動命令は正当なものだったが、暴動が起きている様子はなかったから心服を得られず、ヒトラー生存が伝わるスピードに追い付かれた。フィリップは所属連隊から精いっぱいの戦力を「出動」させたが、ゲオルクが失敗を知らせる暗号メッセージを届けたので、途中から引き返した。やがてゲオルクは関与を疑われ、連隊とともに指揮権なしで出動したとき、わざと兵員輸送車の上に身をさらしてソヴィエト兵に撃たれた。トレスコウも前線視察の途中、自分の手榴弾に点火した。フィリップは終戦まで関与を気取られず、2008年まで生きた。
西方軍とB軍集団を預かったばかりのクルーゲも、8月に暗殺関与の疑いに最近の敗北へのいらだちが加わり、ヒトラーから自殺を勧める手紙と毒薬を送られた。クルーゲは飲んだ。
そして負傷からめきめき回復していたロンメルにも、手紙は届いた。ヒトラーはロンメルを審問しようとしたが、けがの状態を言い訳にしてロンメルは避け続けていた。そこへ届いたのが、ヒトラーの指示を受けてカイテルが書いた手紙である。これについてはニュルンベルク裁判で「カイテルがロンメル殺害に関与した疑い」が提起され審理された関係で、カイテルの供述がしっかり残っている。
手紙は、もしロンメルにやましいところがないならヒトラーと直接会って弁明すること、それができないのであれば裁判で裁くことになること、それも避けたいのであれば「別の道もあること」が記されていた。使者(シュムントの後任となったヒトラー付き陸軍副官)は毒薬を持たされていたが、文面ではそこまで書かれていなかった。
カイテルの供述によると、シュツルプナーゲル軍政長官の証言にロンメルの名が挙がった。ロンメルも選択をする直前、ヒトラーがシュツルプナーゲルの証言を聞いたかどうか、名を挙げて尋ねた。思い当たるところがあったと考えるほかない。
使者はヒトラーから、「ロンメルに拳銃自殺をさせるな」と特命を受けていた。負傷が悪化したことにできないからである。
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「少し考えさせてくれないか」
使者はロンメルの言葉に、敬礼して退出した。ロンメルはひとりになった。
「ひとりで決めるしかないのだろうな」
ロンメルはルシー夫人のことを思った。知らない方が良いこともある。
「マンフレート。ガートルード」
息子と娘の名を呼んだ。カイテルの手紙には、裁判に引き出された場合、何が起こるか考えてみろと書かれていた。それは家族に不名誉と迫害が降りかかるということであった。
「もう稼いではやれんな。ドイツを守ることが、お前たちを守ることにならなかった」
ロンメルは悔しげに顔を上げた。もう決断はなされた。それからの行動は、いつものように速かった。
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10月14日、使者たちと車に乗ったロンメルは、車内で服毒し絶命した。すべては家族にも隠され、ルントシュテットが臨席して葬儀が行われた。ヒトラーの大本営では淡々と日常が過ぎていった。
「誰も私に尋ねてくれないので、帝国長官殿にお話しするのですが」
ヨードルは会議のあと、ヒムラーと廊下を歩きながら話した。
「一部の将軍たちが何か私に隠れてひそひそ話していることには、気づいておりました」
「ベック将軍……いや犯人ベックを尊敬しておられたのでしたな」
ヒムラーはよどみなく答えた。そこまで調べがついて、しかしそれ以上のものが出てこないからヨードルにつながる捜査は打ち切られたようであった。
「はい。特に縁が深かったということはありませんでしたが、ベック将軍を尊敬しておりました」
ヨードルがベックに敬称をつけて呼んだことを、ヒムラーはとがめなかった。
「お寂しいのですか。重大事から除け者にされたことに」
「はい、帝国長官殿」
「わかりますよ、将軍」
ヨードルは目を見張った。ヒムラーは苦笑いし、手を左右に振って否定した。立ち止まったヨードルを残して、ヒムラーは歩み去った。
否定したのは、ベックへの同情。そして理解すると言ったのは……ヒムラーもヒトラーの政治的判断に影響を与えようとして「除け者にされ」、果たせずにいるのであろうとヨードルは思った。
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戦況の話は7月までしか進んでいなかったのに、ロンメルの話まで一気に先走って語ってしまった。少し話を戻さねばならない。
突然の陰謀は、ツァイツラーの後任をどうするかという話を吹っ飛ばしてしまった。グデーリアン『電撃戦』の下巻は、グデーリアンが参謀総長事務取扱となるところから始まる。装甲兵総監は兼任のままだった。あれだけ1940年7月に昇進させた将軍たちも、もうずいぶん減ってしまっていた。
グデーリアンが『電撃戦』に書いているように、本来ヒトラーが考えていた後任者はブーレ(Buhle)大将だった。ハルダーの下で組織担当参謀次長をしていたが、1941年末にヒトラーが陸軍総司令官を兼ねたとき権限を一部OKWに移し(おそらく第39話ヒストリカルノートで触れたように、訓練途上の兵を予備師団に配して西部戦線後方の警備任務を手伝わせた関係で、陸軍部隊を編成し兵を配する権限がいくらかOKWに移った)、そのときブーレも陸軍関係事務に関する幕僚総監参謀長(つまりカイテルの参謀長)として異動した。残念ながらカイテルの回想録はこの時期について書かれていないのだが、ヒトラーにブーレを推薦しそうな人物は直属上司のカイテルしかいない。だからもしこれが実現すれば、OKWとOKHのねじれた関係が改善していたはずだが、7月20日にブーレが負傷してしまったので、流れてしまった。そこで、最近はあまりヒトラーと温かい関係とは言えないグデーリアンに指名が来たのである。
クルーゲが自殺を強いられた8月、すでにアメリカのコブラ作戦での急進撃をとがめる反撃作戦が試みられ、大規模な逆包囲を受けてフランスからの総退却を強いられていた。ただし、南から回り込んでアルシャンタン市を取ったアメリカ第3軍と、北からファレーズ市に押し出したカナダ軍を同士討ちしないように調整するのは容易でなく、13日のアルシャンタン市陥落から輪が閉じた19日までに、多くのドイツ将兵が脱出を果たした。ノルマンディーの第7軍司令官を引き継いでいた歴戦のハウサーSS大将も、そのひとりだった。LAH師団の名物男、マイヤー准将もいったん脱出を遂げたが、まだ混乱の続く北フランスでレジスタンスに捕まってしまった。
パリの最後の守りは、パリ防衛司令官としてコルティッツ大将に委ねられたが、4個保安連隊を持つが砲兵や工兵がいない第325保安師団と、パリ付近にいる雑多なD軍集団の残りが指揮下にあるだけだった。パリを破壊し炎上させろというヒトラーの直命を無視して、コルティッツはパリをそのまま引き渡した。
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ロンドンのポーランド亡命政府はもともとパリにあったもので、かつてのピウスツキ政権と相容れずに亡命した政治家たちが中心だった。もちろんソヴィエト側では、自分たちに従うポーランド軍人たちの部隊を組織していたし、やがては政府も作ることになった。
ヒトラーとポーランドを分割したスターリンを信用せず、ロンドン亡命政権に心を寄せるポーランド国内軍(抵抗組織)は、ソヴィエト軍がワルシャワ市内に突入する前に自分たちで首都を取り戻すべく、しかしソヴィエト軍と事前に連絡を取ったうえで、8月1日に一斉蜂起に踏み切った。
ここで論争があるのが、8月1日に起きたラジミンの戦いである。ワルシャワ中心部から北へ20kmのところで、もう郊外と言ってよい。攻め手はロコソフスキーの第1ベラルーシ方面軍、その尖兵である第3戦車軍団(規模的にはドイツ軍の装甲師団に当たる)であった。
第1ベラルーシ方面軍はボブルイスクを攻め、ミンスクの攻略に加わり、南西に進んでブレストを落とし、真西へ進んでワルシャワに迫った。40日で進んだ距離は、直線距離でも600kmほどである。ワルシャワ前面はさすがに守りが固いから、反時計回りに北西に回り込んで渡河地点を探そうとした。ソヴィエト歩兵はトラックで移動しないから、最先頭は戦車と、それに便乗したわずかな歩兵だけになった。モーデルは近隣の5個装甲師団を総動員して、最先頭にいた第3戦車軍団を叩いた。もちろんみんなげっそりと消耗した師団ばかりだから、5対1とイメージするのは非現実的であろうが、第3戦車軍団は押されて退いた。
ここでまず問題になるのが、ソヴィエトの損害はどれくらいかということである。ソヴィエトはワルシャワに突入しなかったことを正当化したほうが立場が良くなるから、大損害を受けたと公式には言っていたが、いつものソヴィエト軍なら気にせず突進する程度のものではなかったか……という最近の批判がある。
第3戦車軍団を打ち破ったドイツ軍だが、歩兵部隊が追い付いて戦線を張るとそれ以上の突破はできず、装甲師団群はやはり押されて孤立しそうな(結局クールラントに孤立した)北方軍集団を救援に向かった。いっぽうソヴィエト兵は前線まで来たが、弾薬補給はどうであろう。大規模に鉄道で砲と弾薬を送り込み、開幕の一撃で優勢を作るのが「ソヴィエト軍2.0」の勝ちパターンである。ここではその条件がそろわず、無理に戦えば血で残額を支払うことになる。
すでに何度も触れたように、スターリンは毎日詳細な戦況報告を受け、各地のSTAVKA代表からも原則毎日、電話報告を受けていた。各方面軍司令官などからの日次報告も参謀本部から届けられた。進んでいても止まっていても、スターリンの目に留まらない部隊の動きはなかった。ソヴィエト軍が何かをしなかったとしたら、スターリンはそれを黙認したのである。
すでにソヴィエトは戦場でなくなりつつあった。つまりいくら土地を得ても、もうそこから徴兵はできないのである。少し早くワルシャワを救うためにソヴィエト軍人の血を支払うことを、スターリンはソヴィエトの損と判じた……ということではなかろうか。どちらにせよソヴィエト正規軍とその指揮下にある新ポーランド第1軍はワルシャワを支配するのだし、そのときそこにポーランド国内軍がいてもいなくても、ソヴィエトにとって脅威は何もない。
そして、ポーランド国内軍は支援を受けられないまま壊滅することになった。
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ソヴィエトが中央で大きく土地を回復すると、今度は南で攻勢をかける番であった。8月23日のクーデターでルーマニアは枢軸国から脱落した。ハンガリーは3月に休戦交渉を打診したのをドイツに気づかれ、すでに全土を占領されて傀儡政権が立っていたが、9月のうちにルーマニアのほとんどを占領したソヴィエト軍は、10月からハンガリーやチェコスロバキア(当時チェコとスロバキアはひとつの国)に攻めかかった。ユーゴスラビアの首都ベオグラード(ロシア語・ドイツ語などではペルグラード)はこのとき突破されて、ハンガリーへ南から攻め込むルートができた。だが国境からブダペストまでは200kmを越える距離があり、ブダペストそのものへの攻撃は12月以降となった。
西オーストリアを横断しウィーンを通ったドナウ川は、ハンガリーとスロバキアを分ける国境となり、南へ転じてブダペストを縦貫し、最後には黒海に注ぐ。ドナウ川を境に、西がブダ、東がペストであり、時代をさかのぼると別々の街であった。圧倒的なソヴィエト軍を前に、ドイツ軍とそれに協力するハンガリー軍はペストを捨ててブダに立てこもり、1945年の新年を迎えることとなったが、それは少し先のことである。
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コブラ作戦で勢いを取り戻したかに見えた連合軍だったが、補給能力の確保に苦しんでいた。ひとつには、鉄道網を効果的に破壊しすぎたせいもある。だが港湾能力の不足が深刻だった。アントワープは長い湾の奥にあり、湾の北西側にある島々を掃討しなければ商船が安全に入れなかった。
ワルヘレン島は湾の北西にある島のひとつ(戦後に埋め立てで半島化)で、ここには第70歩兵師団がいた。番号は若いが、1944年8月1日に、すでにそこにいた陣地守備隊に多くの保安大隊(M)を編合して編成された部隊である。この保安大隊(M)のMはMagenkranken(胃病患者)のことで、一般的なライ麦入り軍用パンに耐えられない兵士たちを集め、補給事情のいい後方で小麦粉だけの白パンを給して、警備をやらせていたのである。この胃病師団(Magendivision)が11月まで粘って、アントワープ港の活用を大いに妨害した。
だからシェルブール港の陸揚げ分と、上陸海岸に上陸用舟艇が置いていく物資をトラックで前線まで運ばねばならなかった。こういうときの処置の容赦なさではアメリカもイギリスも大差ない。せっかく上陸した歩兵3個師団が「海岸周辺の警備」を命じられ、約2000両の各種トラックが召し上げられて、最前線への補給に投じられた。
こんな中で、一気に勝負を決めてしまいたいとモントゴメリーが考えたのが、皆様ご存知、あの作戦であった。
第48話へのヒストリカルノート
テスケの回想では、クルーゲはトレスコウから政治的な影響を強く受けていましたが、1943年7月にトレスコウが離任すると急速に影響は薄れてしまったのだそうです。




