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第47話 君主が岸辺にやってきた

 前話までに語って来たように、(主に)ワシントンで米英の戦略をすり合わせていても、米英の戦略爆撃機部隊の親玉が何かを言い張ると、政治家が別の統一方針を押し通すことはなかなかできなかった。


 何といっても、思い込んだら耳を貸さないイギリス爆撃機部隊司令官のハリスが張本人であった。特別な訓練と装備の「パスファインダー部隊」に先行させて目立つ火災を起こさせ、それを目印に投弾する方法で1942年以降の夜間爆撃は目標付近に爆弾が集まるようになったのだが、ハリスは「爆撃機部隊に特定のエリート部隊をつくることは士気に害を及ぼす」と言い張って反対したから、その有効性を信じるポータルは議論を打ち切って、ハリスにパスファインダー部隊の創設を「命令」した。それでも旧式機体ばかりパスファインダー部隊に割り当てるなど、明白な成果にハリスが黙り込むまで、あからさまな不同意と反抗は続いたのである。


 地中海に新司令部の増設が続いたこともあって、イギリス方面のアメリカ戦略爆撃部隊指揮官は人も変わったし、組織変更もあったが、ノルマンディー上陸作戦に先立つ時期の総元締めはアメリカ欧州戦略爆撃部隊(USSTAF)司令官のスパーツ中将であった。スパーツも持論を譲らない点ではハリスと負けず劣らずだった。


 それを首脳たちは無造作に、「乾坤一擲(けんこんいってき)のノルマンディー上陸作戦に当たって、それに協力する命令を4月14日からアイゼンハワーが出せるものとする」と決めた。実際には陸軍のアイゼンハワーではなく、アイゼンハワーの司令部SHAEFで「司令官代理」をしているイギリス空軍のテッダーが中心になって、ハリスとスパーツの戦略爆撃機部隊にアイゼンハワーの名前で命令を下した。だが「命令が出せる」だけで唯一の指揮官となったわけではない。だからハリスとスパーツは、その命令を果たし、残りの戦力へ自分の命令が出せた。実際、あからさまにノルマンディーへ続く交通路ばかり爆撃したら上陸地点がバレてしまうから、いろいろな作戦を混ぜる必要があった。


 護衛戦闘機の航続距離が伸びてきたので、スパーツの部隊は1944年2月からドイツの航空機工場を集中的に狙い、相当な戦果を挙げた。これを踏まえて3月、テッダーたちはフランス、オランダ、ベルギーの飛行場と操車場を集中攻撃するよう求めた。スパーツはそれより航空燃料(褐炭などから作る人造石油が多かった)工場を叩くと効果的だと言い、ハリスはまだ都市爆撃にこだわった。そうして先ほど述べたように、4月14日から飛行場・操車場攻撃にしばらく戦略爆撃機部隊は大きなエネルギーを使い、残りのリソースで航空燃料工場攻撃と都市爆撃をやるようになった。なお双発爆撃機(戦術爆撃機)や爆装した戦闘機は戦術空軍として、海岸近くの飛行場・操車場攻撃はもちろん、砲台やV1号基地を狙った。ダウディングの次の次のイギリス戦闘機部隊司令官であり、AEAF(連合軍欧州派遣空軍)司令官という肩書きで戦術空軍を束ねるリー=マロリーは操車場攻撃の支持者だった。


 操車場というのは貨車、客車、機関車をつなぎ変えて列車を編成するための、待避線とターンテーブルと切り替えポイントが(から)み合った施設である。現代の旅客電車は前後に運転席のある車両が最初から連結され、編成を解かずに行ったり来たりできるが、蒸気機関車は先頭で、しかも前を向いて編成を引っ張らないといけない。だから機関車を逆向きにしたり、積み荷に合わせて客車と貨車をつなぎ変えたりする操車場が破壊されると、列車の流れが止まってしまうのである。


 イギリス空軍が最初にドイツの操車場を爆撃したのは1940年5月17/18日夜間であり、「操車場を破壊すると鉄道はマヒするんじゃね?」というアイデアは以前からあった。夜間に狙って当たるようになるまで4年かかったのである。もちろん昼であれば当てやすい。1942年8月17日、アメリカ第8空軍のB-17爆撃機部隊が大陸初出撃の目標に選んだのも、フランスのルーアン市に隣接するソットヴィルの操車場だった。


 これによってフランスに増援、物資、支給兵器が予定通り届かなくなった。そしてハリスは目標都市の選択で多少アメリカとの協調性を見せながら、できる限り都市への夜間爆撃を続けた。


 だが、1944年6月は太平洋戦線でサイパン島が失陥した月であり、アメリカ航空機産業の生産力はフル回転を始めていた。だからハリスが余力でやっている夜間爆撃よりも、スパーツの持つ余力が急拡大したことで、その使い道が歴史を変えた。ドイツの航空燃料生産は、1944年4月の57.4万トンから6月の5.2万トンへと激減したのである。連合軍も燃料枯渇がもたらした大きな影響に気づき、6月半ばに、ノルマンディー支援以外のすべての爆撃リソースを燃料生産攻撃に振り向けるよう指示した。戦略爆撃部隊は上陸が始まると地上支援の手伝いを(原則として)しなくてよくなったし、ハリスも人造石油工場や所在都市を夜間爆撃した。4月からルーマニアのプロエステ油田を攻撃していた地中海のアメリカ第15空軍も呼応して、南ドイツや東欧の燃料工場と製油所を狙った。原油にもともと含まれるガソリンはわずかだが、重い分子の結合を切って、ガソリンなどの軽い分子を多くするクラッキングによって褐炭すら航空燃料になる。だから目標は油田より製油所だった。


 シュペーアは1944年2月、ヒトラーの黙認とミルヒの協力のもとにゲーリングの聖域に斬り込み、戦闘機工場の疎開と生産再建についての権限を手中にして、順次それを他の機種にも広げた。だからボールベアリングと航空機の生産はある程度の回復を見せたのだが、燃料生産に起きた急変が新しいボトルネックになった。燃料工場は対空砲の要塞と化し、その復旧にかかる人手と資材は最優先で手当てされたが、10月になって天候悪化で一息つけるまで、ドイツの燃料事情はじりじりと悪化していった。


 だが、すこし余計に休めそうになったそのとき、夜間戦闘機エースであるレント中佐の軍歴は終わりを告げた。誰も彼を撃墜することはできなかったが、乗機のエンジントラブルによる不時着がレントの命を奪った。当時レントに次ぐ夜間戦闘機エースはシュナウファー大尉(終戦時少佐)であり、終戦までにレントの撃墜数を上回ったが、1945年3月が最後の撃墜記録となった。燃料不足の中で、ドイツ戦闘機隊の活動は完全には止まらず、本土を攻められるぎりぎりまで続いたが、すでに流れは定まっていた。


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 ノルマンディー地方の海岸は、ドイツの心臓に一番近い場所でもないし、イギリスから一番近い場所でもない。だがアメリカとイギリスが必要としていたのは、自らの数的優位を生かせる場所だった。1943年のソヴィエト軍が森と湿地の多い北半分を後回しにして、平坦で障害物の少ないウクライナを突き進んだように、迅速に大軍を展開できる場所が良かった。港町シェルブールがあるコタンタン半島は安全に上陸できるであろうが、半島に蓋をされてはイタリア半島のようにわずかな兵力で抵抗されるから、半島からその外側にまたがったひとつながりの上陸地点が選ばれた。もっとも地図の上に表記されていない障害として、果樹園の多いノルマンディーには邪魔な生垣があり、思ったより車両が通りにくく防御しやすい地勢であったのだが。


 長い準備期間のうちに、色々なものが用意された。海岸には細かい穴の開いたマット(マーストン・マット)が敷かれて即席の飛行場になり、イギリスから燃料を運ぶ海底パイプライン(プルート)が敷かれた。極めつけは、船を沈めて防波堤を作るふたつの人工港マルベリーだった。


 イギリスから見て一番近いパ・ド・カレーの海岸には、ドイツ軍が最も手厚い防御陣地を築いていた。だから当然、本当の上陸地点はカレーだという偽情報を流すことに連合軍は力を注いだが、他の地点に上陸するという偽情報も数多く流された。それらのうち特定のものを信じ込んで他を手抜きすることができないのは、イタリアへの上陸に備えるときにも示された、ヒトラーの性格と言えた。そのとき同様、いろいろな可能性のすべてに備えようとして重点が作れなかったのである。情報は手に入っただけでなく、評価され信頼されたあとでなければ、活用はできない。専門家とのいい関係を築けず、ヒトラーの一声が最終決定である今のドイツでは、情報をスクリーニングする合理的な仕組みが働かなかった。


 ドイツの軍人たちは上に足りないものを自分で何とかすることに慣れていたが、連合軍は徹底的にドイツの偵察機を封じ込め、イギリスに集まった戦力の大きさを隠し通した。だから連合軍がどこに上陸したとしても、すぐ次の上陸が別地点にあるかもしれず、それはノルマンディーにドイツが戦力を集めるのを遅くした。


 西部戦線でも東部戦線同様、司令官たちはこの戦力では守り切れないと報告し、増援を要求した。いつまでたっても、政治的に和平を求めるヒトラーの動きはなかった。


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 バグラチオン作戦初日、ドイツ中央軍集団はパルチザンが鉄道に仕掛けた、3500ヶ所の爆発物を解除した。5月に7000ヶ所の爆発物を解除した半分を1日でこなしたのだから、彼らはよく頑張ったのだが、爆破に成功したものは10500ヶ所あったので慰めにはならなかった。そのすべてを修復する機材はないし、届くはずもない。鉄道工兵たちは黙々と、無事な路線のレールをはがし、複線の区間を単線にして仮復旧を目指したが、不通が24時間で解消しなかった区間があちこちに出た。


 もちろん補給物資を犠牲にしてでも増援部隊に列車が割り当てられたが、その帰りの列車には誰もが鈴なりにしがみついた。テスケ輸送監はいつまでたっても空き貨車が出てこないのでイライラした。やがて中央軍集団司令部そのものが列車でミンスクを脱出し、その列車をそのまま臨時司令部として仕事を始めた。


 ソヴィエト軍は縦割りのノルマ社会であるから、一部の部隊や指揮官は割り当て以上の成果を挙げて、次の仕事では一番きついところを受け持たされた。バグラチオン作戦では、歩兵部隊が次の交通の結節点まで先着し、ドイツ軍の退却を阻んで撃滅することが必要だった。だから一部の「できる指揮官」と「できる部隊」が、師団主力より先行して昼夜兼行で歩き続けることを命じられた。砲兵もはるか後方だから、歩兵だけで先着できても死闘が待っていた。


 ヒトラーは例によっていくつかの都市を死守するよう命じた。第9軍司令部はボブルイスク市にとどまって全滅し、司令官は敗北の「犯人」としてクビになるためだけに本国に戻された(このとき司令部の書類が失われたせいで、ルジェフ撤退作戦やクルスク戦北側の細部は確かめにくくなった)。第4軍はミンスクを背中にした位置で逃げ遅れて包囲され、司令官と司令部は脱出を命じられて、軍団長になったばかりのミュラー中将が事実上の軍司令官となり、降伏した。ミュラーは熱心な対ソヴィエト協力者となった。6個軍団と27個師団が全滅した。


 中央軍集団司令官のブッシュも解任され、モーデルが呼ばれたが、どうすることもできなかった。火消し役として装甲師団がいくつか呼び寄せられたが、戦線の広がりに対してあまりに少なかった。ストレスの中でツァイツラー参謀総長は6月30日に倒れ、以後執務に戻れなかった。ミンスクには7月3日にソヴィエト軍が突入した。南ウクライナにいた第1ウクライナ方面軍も、7月13日から呼応して進撃を始めた。


 ミンスクの西北西200kmほどのところに、リトアニアのビリニュス市がある。ミンスクの次の大目標としてソヴィエト軍はここを目指し、とっておきの第5親衛戦車軍が投じられた。だがビリニュス市の争奪に戦車軍を投じるということは、戦車を市街戦に持ち込むということだった。勝利したものの損害が大きく、軍司令官ロトミストロフ元帥の離任が更迭であったかどうかはうやむやになったが、終戦まで部隊指揮を任されることはなかった。


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 守りやすい地形が価値を持つのは、守る戦力があってのことである。ドイツ軍が何とかフランスに集めた戦力は、ほころびかけた戦線の穴をふさぎ、取られた陣地を取り返すために使われた。連合軍とのあいだで、互いに戦力を削り合う消耗戦が起きた。


 その焦点となったのは、イギリス軍とカナダ軍の上陸地点から10kmほどのところにある地域の中心都市カーンであった。イギリス軍は7月18日にグッドウッド作戦を発起し、砲と航空機の支援の下、戦車を連ねてカーンの東側を突破し、南へ回り込もうとした。そしてドイツが4重に敷いた防御陣地で受け切られ、わずかな土地を得ただけで終わった。しかしこのために、もともとここにいた第21装甲師団だけでなく、LAH師団やヒトラー・ユーゲント師団の投入を余儀なくされ、西の守りが薄くなった。


 これを()いたのが、7月25日に始まったコブラ作戦である。イギリスがカーンで多くの血を支払ったように、アメリカ軍の進路をふさぐ地域交通の結節点サン・ロー市も激戦地となった。ここを砲と爆撃の力で突破したのである。Uボート基地などがあるブルターニュ半島、パリ、そしてもちろんドイツ軍の戦線背後への道が一気に開けた。そして同時に、アメリカ軍は補給の算段を心配しなければならなくなった。


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 ロンメルはグッドウッド作戦の直前、スピットファイア戦闘機に乗車を銃撃されて重傷を負った。この機会に、ロンメルを中心としたこの地域の指揮系統について、諸事情をまとめて語っておこう。


 第44話で、ケッセルリングがヒトラーの信頼を回復したので、北イタリア確保・防衛のために立ち上げられたB軍集団司令部に当面の仕事がなくなった話をした。ヒトラーはB軍集団を特設軍集団司令部(Heeresgruppe z.b.V. )に戻し、大西洋岸防衛についてロンメルから大西洋岸の長い海岸線を視察して改善提案をするよう命じた。東部戦線で首になったルントシュテット元帥はパリに復職し、OKHに対してはD軍集団司令官、OKWに対しては西方軍(OB West)司令官として服していたが、自分の上にも下にもないロンメルが口だけは出してくるということになった。


 これでは収まらないので、ブルターニュ半島からノルマンディーにかけてを担当する第7軍と、その東でパ・ド・カレーなどを担当する第15軍、さらにネーデルラント防衛長官府(Wehrmachtbefehlshaber Niederlande、実戦力としては第88軍団)をロンメルの指揮下に置き、B軍集団司令部に司令部名称を戻して、それが西方軍司令官たるルントシュテットに属することになった。1944年1月のことである。南フランスを担当するG軍集団司令部も創設されたから、西方軍は2つの軍集団の上位司令部としての性格が強くなり、D軍集団の固有戦力としてはパリの治安部隊くらいしか残らないことになってしまった。パリ喪失の土壇場でこの治安部隊を率いる羽目になったのが、「パリは燃えているか」で有名なコルティッツ大将というわけである。


 一方、もともとフランスでは捕獲戦車を装備した治安部隊ないし訓練部隊があって、戦力として目途がつくたびにドイツ製戦車をもらって東部戦線に出て行ったが、そうした活動を監督する「西方軍付き装甲部隊総監」のようなポストがあり、やがてこれが海岸有事を想定した「西部装甲集団司令部」となり、しかし1944年1月、西方軍も離れてヒトラー直属となった。そしてガイル=フォン=シュヴェッペンブルク(二重姓)の下で上陸を迎え、そこで初めてロンメルの指揮下に入れられた。この司令部は第5装甲軍に格上げされ、8月のファレーズ包囲戦から辛くも脱出して、終戦の数週間前まで戦い続けた。


 ロンメルが当分復帰できないとわかったとき、すでにルントシュテットはヒトラーの「犯人捜し」で罷免されクルーゲに代わっていたのだが、当面B軍集団司令官もクルーゲが代行することになった。そこでやってきたのが、7月20日である。


第47話へのヒストリカルノート



 ツァイツラーがもう勤務したくないから病気を言い立てたのか、本当に病気で倒れたのか、どうもはっきりしません。ヒトラーに対して言い立てたのであれば医師も含め、相当数の共謀者が必要なように思えますが……もちろんグデーリアンがそうであったように、ヒトラーが「君は病気休職しろ」と言ったのが実相であったのなら、医師の診断など要らないのです。



 テスケの回想によると、軍司令部に送り込まれた輸送全権士官には若い参謀士官と、輸送・補給をずっと取り扱ってきたベテランの一般士官がいました。若い参謀士官は補給のことより普通の士官教育になじんでいるわけですから、補給総監部の外交官たる職務を忘れて、現地司令部の代弁者になってしまうことがよく起きました。そうすると限られたリソースを冷徹に管理する本来の役目が果たせず、とくにバグラチオン作戦の大波をかぶった一部の軍司令部では、輸送全権士官が物の役に立たないケースもあったことをテスケはほのめかしています。



 クルスクのツィタデル作戦に先立って、ドイツ空軍がいくらか鉄道爆撃を行ったことは第42話で触れました。ソヴィエト空軍もスモレンスク~ブリャンスク~オリョールの路線を爆撃しましたが、ドイツ空軍と違って鉄道関係者の話をよく聞いて、機関車修理工場を襲うとか、60kmの区間にある駅を1日で一斉爆撃して通信設備を破壊し、待避線を使って単線区間に何とか多くの列車を通しているネットワークを妨害するとか、鉄道輸送の弱点を巧みについてきたことを、当時中央軍集団で輸送監をしていたテスケが書き残しています。しかしそれはどうも日替わりのようにころころ変わって、ひとつの弱点をボトルネックになるまで叩くようなものではなかったのです。善かれ悪しかれ、スパーツやハリスの権限、そしてその上に一時的に乗っかったテッダーの権限は、ボトルネックをしつこく追及できる強力なものでした。

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