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第46話 結実と胎動


 ベンケ中尉はこのところ不機嫌だった。大損害を受けた装甲偵察大隊は本国へ下がり、新兵器を配属されて1944年初頭、厳寒の東部戦線に戻ってきた。ベンケはその新兵器、Sd.Kfz.234/2装甲車"プーマ"をごっそり任され、中隊長に任じられた。それは装甲車から降りて、狭苦しい軍用乗用車キューベルワーゲンで移動するということだった。だがベンケの不機嫌の種は、装甲車部隊の任務が変質してしまったところにあった。


 グデーリアンがうるさく標準化したので、大戦序盤までドイツ戦車の最高速度は時速40kmにそろっていた。いっぽう偵察装甲車は道路上なら時速60kmが出せた(実際に毎日それで走るということではない)。だから非力になってきたII号戦車をもとに、時速60kmが出せる高速偵察戦車を作ろうという構想が生まれたのは、まあ、自然なことと言える。だが難航した。エンジン出力を上げれば速くはできるが、車内にこもる熱で乗員が耐えられなかった。車内の部品配置を大きく変えて折り合いをつけるのに時間がかかってしまった。


 そのあいだにドイツはソヴィエト戦車と出会い、偵察用と言っても20mm機関砲ではダメだろう……という話が出た。だから50mm対戦車砲や後期型のIII号戦車と同じ、長砲身50mm砲を積んだ砲塔が試作された。


 だが、計画が遅延するうちに、対戦車砲部隊から50mm砲が追い出されてしまった。弾の補給をどうするかという問題がある。結局II号戦車型は従来同様20mm砲を搭載した偵察戦車となり、出来上がってしまった長砲身50mm砲塔100個は、8輪重装甲車Sd.Kfz.234の車台に載せ、集中配備することになった。車内が狭いから、50mm砲弾はIII号戦車の半分強しか積めなかったし、長距離無線機を積むともっと少なくなった。それが、ベンケの指揮下にごっそりあるSd.Kfz.234/2"プーマ"装甲車だった。


 小高い尾根の少し下に周囲の灌木(かんぼく)を集めて、ベンケたちが指示を出せる観測所ができていた。その視界には、車両が渡れる小さな橋があった。


 ベンケの双眼鏡がソヴィエトの軽戦車部隊をとらえた。アメリカやイギリスからもらった戦車も混じっているが、対戦車能力は総じて低い。車両が橋を渡り始めるのをベンケは慎重に待った。あまり待ちすぎるとこちらに気づかれる。待つ側も度胸が必要だった。双眼鏡の中でソヴィエト兵の表情に緊張が走った瞬間、ベンケは近くに伏せていた小隊長車のプーマに手信号を送った。砲声が響き、次々に発砲が続いた。尾根の後ろからは、突入するプーマ小隊と、それを走って追いかける歩兵が続いた。橋はボトルネックになるから、ソヴィエト戦車の後退は後続車両が邪魔でうまくいかなかった。


「ついてこい」


 ベンケも中隊本部の護衛兼伝令兵たちに声をかけると、身を低くして走り出した。軽車両はみんな尾根の向こう側だった。


 劣勢になっても敵の攻勢を感知する偵察任務は大切だったが、偵察部隊の中でも高火力の装備は、敵の進撃を遅らせるための襲撃と待ち伏せが主な仕事になっていた。その勇ましさを好む軍人もいたが、ベンケに言わせれば、それはずっと鍛えていた仕事ではなかった。


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「あと10分で撤収する。捕獲品を欲張るんじゃないぞ。シュツルモビクの夕食になりたくない奴は急げ」


 周囲に怒鳴るベンケの口調は厳しかったが、それでもルーチンワークとしての弛緩(ゆるみ)がいくらか含まれていた。大急ぎでいくらか捕虜を取り、書類を探し、シュツルモビク襲撃機が通りかかる前に尾根の向こうに逃げなければいけなかった。すでに丘の上の兵が、あらかじめ決めてあった手信号を中継して、撤収のための軽車両を川岸まで呼んでいた。


 一番仕事のできるふたりの下士官は、兵士の遺体や車両の残骸から情報をあさっていた。逆に一番使えない兵士ふたりを連れて、睡眠不足で獰猛な顔になった古兵が橋の上を警戒に行っていた。放っておくとソヴィエト兵の雑のうから魚の干物をあさるとか、邪魔なことしかしない。1年前ならそれもよかったが、ドイツ戦闘機が多忙すぎる今は、車両を隠すまでが襲撃だった。


「ベンケ中尉殿」


 キューベルワーゲン(乗用車化歩兵)中隊長の少尉が、駆け寄ってささやいた。視線をたどると、農夫の格好をした年配のロシア人が歩いていた。だいぶ距離があるが、パルチザンは迫撃砲くらい普通に持っている。観測員かもしれない。


「追い散らしますか」


「頼めるか」


 今回の襲撃ではベンケが戦闘群長だった。うなずいた少尉は部下のところへ去った。中隊と言っても定員割れしているが、すぐに数名が集まったようだった。ベンケはプーマの一部を、敵に位置の知れたここから撤収させるため、別の下士官を大声で呼んだ。




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 1943年秋のソヴィエト軍が置かれた状況は、1942年秋のドイツ軍が置かれた状況と似ていた。1942年秋のドイツ軍は、東部戦線全体で優勢を保てるほどの戦力がなかったから、南半分に戦力を集めた。逆にソヴィエト軍はドイツ軍がまたモスクワを襲うタイミングをうかがっていることを疑い、南への増援が遅れた。1943年秋のソヴィエト軍はツィタデル作戦をはねのけた後、軍直轄砲兵に加えてありったけの戦車を使って、(季節を選べば)森と湿地が戦車の邪魔をしないウクライナをまず取り返した。コルスン包囲戦を経て、泥の季節までにウクライナのほとんどはソヴィエトが奪回した。


 1944年の作戦は、向上したソヴィエトの補給能力をフルに生かして軍直轄砲兵が順々に動き回り、東部戦線のあちこちで順番に攻勢をかけていくものになった。まず1月から包囲はできなかったものの、レニングラード周辺のドイツ軍が追い払われ、レニングラードはようやく安全な補給路を得た。ウクライナでの勝利に続き泥の季節が訪れた。


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 1944年3月の終わりに、マンシュタインは解任された。


 コルスン包囲戦と入れ替わるように、それよりはるか西、旧ポーランド国境に近いウクライナのカメネツ・ポドリスキー(現ウクライナ領カームヤネツィ=ポジーリシクィイ)付近で、フーペ大将の第1装甲軍が包囲されかかったのだが、フーペは果敢に包囲網の弱いところを食い破り、追いすがるソヴィエト軍と競争になった。上司のマンシュタインは「現在地にとどまれ」と言うばかりのヒトラーに抵抗しつつ、フーペには一番簡単に包囲を脱する南へのコースを取らせず、真西へ血路を開くよう命じた。南へ行かれると、ぽっかりと戦線の大穴ができてしまうからである。だが東から迫ってくるソヴィエト軍にとって一番遠い方向であり、予想を外すことにもなって、この突破はかえって成功することになった。


 この過程でマンシュタインとヒトラーは(何度も繰り返された、同じパターンの)言い争いを続け、何度もマンシュタインは辞職をほのめかしたから、ついにヒトラーも引っ込みがつかなくなってしまったのである。



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 アメリカ重爆撃機隊は1943年10月のシュヴァインフルト空襲で大損害を出した。そしてイギリス重爆撃機隊は冬のあいだベルリンへ再び足を延ばし、ウインドウ(レーダー妨害用アルミ片)に手も足も出ないと思われたドイツ夜間戦闘機部隊の増勢と健闘にあって、大きな出血を強いられていた。周波数を変えてある程度対策できたし、レーダーを妨害すると言っても、それを散布するのがイギリス爆撃機自身である以上、「電波の不自然な乱れの中心」には爆撃機がいたのである。ドイツから見れば、米英爆撃機隊のどちらも手詰まりか、近々そうなるようにも見えた。


 だがアメリカがまず、力任せにこの状況を打ち破った。1944年3月、P-38戦闘機がベルリンの空を飛んだ。P-47戦闘機も最大3個の落下増槽を下げて出撃するようになった。そして本命のマーリンエンジン搭載型P-51は1943年からわずかに使われていたが、1944年夏から急速にその数を増やし、大馬力だが燃費の良くないP-47は次第に交代して、爆弾やロケット弾を下げて地上攻撃機に転用された。


 戦闘機がついてくることで、まずBR21ロケット弾を下げた戦闘機はカモにされ、Bf110戦闘機は昼間の空から追い払われた。1940年のドイツ空軍がやったように、アメリカ軍は一部の戦闘機を爆撃隊に先行させ、ドイツ戦闘機を追い立てるようになり、さらに飛行場を掃射して出撃を妨害するようになった。物量の優位を戦場の優勢に変える方法が、またひとつ追加されたのである。


 一方イギリス空軍も、参謀本部の言うことを聞かないハリスが大損害を出して立場を弱めたところへ、新しい技術が登場した。電波誘導装置の助けを借りて、1944年3月以降、夜間の精密爆撃にめどが立ったのである。これでやっと、米英の爆撃機部隊が同じ目標を狙えるようになった。


 だが……「もういくつ寝るとオーバーロード」というタイミングである。4月14日から米英の戦略爆撃機部隊はアイゼンハワーの指揮を受け、上陸作戦に役立つ目標を爆撃するよう取り決められていた。そうなるとアイゼンハワーの下で航空作戦全般を指揮するイギリス空軍のテッダーと、その下で戦術空軍(中爆撃機、地上攻撃機、戦闘機)を預かるリー=マロリーの意向が加わって、ますます合意が取りづらくなるのであるが、それはオーバーロード作戦と合わせて語るとしよう。


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 1943年にイタリア本土に上陸するか、それを飛ばしてフランスに上陸するかは、ずいぶん以前の1943年5月にワシントンの米英協議(暗号名トライデント)でもめた話だった。戦後をにらんで、チャーチルは精一杯ソヴィエトの取り分を少なくしておきたかった。ルーズベルトたちも、もちろんソヴィエトに底抜けの善意を持っていたわけではないのだが、議会で民主党の優位が危ない状態が続いていて、フランス反攻という明確な成果を早く出したかった。ワシントンの政治家と将軍が譲らないので、チャーチルはアルジェにいたアイゼンハワーを訪ねて、どうにかイタリアへ上陸することでアメリカ軍の同意をもらうことができた。


 シシリー島をめぐる戦いでドイツ空軍は大きく消耗し、そこでちょうど参謀総長の交代もあって、地中海はこれまでと一転して、(空軍は)連合軍に対する劣勢をずっと我慢する戦線になった。連合軍にとっても、それなりに実りはあった。イタリアのフォッジャに航空基地が整備され、ここからドイツと東欧に向けて戦略爆撃機が飛び立つようになった。だが、山がちのイタリア半島でドイツ陸軍は精一杯の遅滞戦闘をして、連合軍はなかなかローマにたどり着けなかった。


 そこでドイツ軍の戦線後方に上陸して、一気に進撃を加速しようというアイデアが生まれた。しかしノルマンディー上陸作戦のために、全上陸用舟艇を地中海からもかき集めなければならない。イギリスでの整備も含めればぎりぎりの時期である1944年1月22日に、アンツィオ上陸作戦が決行された。ドイツ軍は予兆に気づく航空偵察能力すらすでに欠いていた。


 上陸部隊は米英共同だったが司令官はアメリカ軍から出た。行き詰まりを打開する小兵力の上陸だから、ドイツの防衛線を脅かす積極的な動きをチャーチルは期待したが、上陸部隊は慎重に橋頭堡を固めるために時間を使った。このため、ドイツ軍の陸上部隊がかき集められ、突っ込んできた。2個師団(船腹の許す速度で、その後順次増強)の上陸では橋頭堡を潰されるリスクがあり、「お前は死ぬかもしれんがリスクを負え」と現地司令官に命じる役を誰もやらなかった……というのは映画的に誇張された理解かもしれない。だいたいフネをイギリス方面に取られてしまうのだから、アンツィオへの増援も補給も限られることはわかっていた。連合軍が何をしてもしなくても史実通りのドイツ軍が集まってきたのだとすれば、解任のうえ左遷された上陸指揮官ルーカス少将の慎重な指揮がなければ、ちょっと見栄えのいい初期の戦果に続いて、栄光ある全滅が待っていたかもしれない。


 だがドイツ軍も無尽蔵に予備があるものではなく、橋頭堡は封じ込まれたまま持ちこたえ、結局春になって防衛線を打ち破る攻撃が成功して、アンツィオ橋頭堡は「救出」されることになった。ドイツ軍はさらに後方にローマを守る防衛陣地帯を作ることができたが、この防衛線は比較的短期間に突破されてしまい、ちょうど6月のノルマンディー上陸と前後して、ローマへアメリカ軍の入城を許すことになった。



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 泥の季節が明けるのが早い東部戦線の南ではクリミア半島奪回がまず達成され、狭い半島入口で守れるようになって、2個軍相当の部隊を次回攻勢の予備に加えることができた。


 それでもソヴィエト参謀本部の見るところ、ドイツは驚くべき粘り強さでどこからともなく増援部隊をひねり出し、戦線に並べていたから、局所優勢を作り出して戦線に穴をあけるのは簡単ではなかった。短期間に集結を済ませ、ドイツが対応できないうちに攻撃を繰り出してポイントを稼ぐ積み重ねが必要だった。1944年のソ連軍はすでに、鉄道を縦横に使って部隊と物資を動かし、北極圏から黒海までひとつずつ大規模な攻撃作戦を計画し、実施することが可能だった。


 クリミアを取ったあと、6月初めにレニングラードの北でフィンランド軍を押し戻す作戦が始まった。そのころには、戦線背後で巨大な何かが動いていることをドイツ中央軍集団は気づいていたし、軍集団北端の大都市ヴィテブスクは1943年末から執拗(しつよう)に補給路攻撃を受けていたが、事態を好転させる手駒はもうなかった。ブッシュ司令官はヒトラーの命令を硬直的に実行し、言動が従順であったかもしれないが、仮にマンシュタイン並みの先見の明を持ったとして、選べるのは辞任の時期と辞任の言葉くらいであっただろう。


 あえて言えば、ソヴィエトは余計なことをした。1944年3月、キエフから西へサルヌイ(Сарни)に至る鉄道を使って、ソヴィエト軍は盛んに輸送列車を走らせ、攻勢準備を演出して、それをドイツの偵察機に見せた。前年に取ったウクライナの北西端から、ドイツ北方軍集団と中央軍集団両方の背後を突いて、ブレストからバルト海のダンチヒ[グダニスク]まで打通(だつう)を狙っているように見える。ヒトラーとOKHはすっかりだまされて、中央軍集団の貴重な予備である数個師団をブレスト防衛にあてるよう命じた。中央軍集団がヴィテブスクやオルシャのすぐ西に集まっている本物の攻略部隊を探りあてることは、慎重に妨害されていた。だがブレストまで後退するドイツ軍部隊の列車は、不自然なほどに、パルチザンの妨害を受けなかった。だから中央軍集団は6月に入ると、南方はオトリで、本命はミンスク方面への正面突破だと直感していたのだが、OKHはこの上申に取り合わなかった。


 巨大な何かが動いている戦線の反対側では、その移動と集積が思うようにいかず、スターリンがいら立っていた。戦車軍単位にまとまった戦車部隊はすべてウクライナに投じられていたのだが、5月下旬になってようやく第5親衛戦車軍がウクライナから戻ってきて、これを第3ベラルーシ方面軍につけることが決まった。第3ベラルーシ方面軍はヴィテブスクからオルシャにかけて、中央軍集団の正面に襲いかかる形になったが、モスクワ~スモレンスクの鉄道をフル活用できる攻め口で、燃料食いの戦車軍には都合が良かった。なお第2ベラルーシ方面軍と第3ベラルーシ方面軍は、泥の季節に西部方面軍をふたつに分割したものである。


 4つの方面軍を、ジューコフとワシレフスキーがふたつずつ指導して、ドイツ中央軍集団を正面から殴ってつぶすバグラチオン作戦の開始は1944年6月23日となった。これは忌むべき1941年の侵攻日付を狙ったものではなく、準備がここまでかかってしまったのである。森が多く、侵攻路に沿った道路もあまり良くなく、戦車の大規模移動に適さない今回の攻撃作戦では、砲兵も開幕時はともかく、ついていく速度は当てにならず、歩兵がひたすら歩いて、遠くミンスクを目指すしかなかった。


 始まりは、貯めに貯めた砲弾とロケットの乱舞だった。第1次大戦のうちに歩兵の進撃に合わせて少しずつ弾着域を奥の方にずらしていく方法を各国が編み出し、ドイツではフォイアーワルツ、イギリスではクリーピングバラッジと呼んだのだが、第2次大戦期のソヴィエトは大粛清と大戦初期の大損害がたたって、これができる砲兵士官チームが少なかった。赤い煙幕弾が落ちたら、それで準備砲撃は終わり……と敵にも味方にも丸バレな取り決めをしておくこともあった。もちろん取って置きの戦略砲兵部隊が集まるバグラチオン作戦なら、ある程度フォイアーワルツ(ロシア語では砲火の波、オグニェヴォイ・ヴァル=Огневой валという)も実現できた。


 ヒトラーの死守命令で、いくつかの前線主要都市を守る部隊の運命は極まってしまった。しかしそれは後から言えることで、ボブルイスクなどそうした都市を攻めるソヴィエト軍は、両脇を回り込もうとして激しい抵抗を受けた。


  この戦いは長くなるので、攻勢発起時までを予告編のようにここで語っておくことにした。もちろんこの作戦の直前には、ノルマンディー上陸作戦があった。次話ではそこから始めることにしたい。


第46話へのヒストリカルノート


 Sd.Kfz.234/2装甲車は4つの装甲師団に集中配備されたので、ベンケの架空部隊が都合よく入手することは考えにくいのですが、そこはまあ小説ですから。


 対戦車砲兵の手記で、空になった弾薬箱を横にして頭上にかざしたら、遠くで控える牽引車を呼ぶ合図と決めてあった……というものがあります。部隊を問わずよく使うハンドサインは図入りでドイツ陸軍ルールが決まっていたのですが、部隊内限りで、あるいは特定の作戦限りで決められたハンドサインもあったでしょう。



 イタリア本土戦のころになると、アメリカ軍はM4シャーマンの車体に、ちょっと旧式(第1次大戦期の対空砲)ですが貫徹力の高い76.2mm砲を積んだM10戦車駆逐車を主力とした戦車駆逐大隊をたくさん編成しました。すでにドイツは戦車をいくら東部戦線につぎ込んでも溶けてしまう状態で、あまり対戦車戦闘が起きないという実態がありましたから、歩兵師団に戦車大隊や戦車駆逐大隊が一時的に配属されて、そこで必要とされる支援をしました。1943年11月、イタリア戦線のある戦車駆逐大隊は榴弾を8899発、徹甲弾を360発射った……などという話もあります。


 おそらく混信を避けようという善意からなのでしょうが、アメリカ砲兵部隊が使う600系通信機、戦車部隊や戦車駆逐部隊が使う500系通信機、そして歩兵部隊が持つウォーキートーキー(300系通信機)やハンディトーキーはそれぞれ使える周波数がずれていて、互いに通信できませんでした。ですからどうしても連絡がつかないと困る指揮所間には、有線の野戦電話が引かれました。大戦末期になると、歩兵部隊が戦車部隊や戦車駆逐部隊に必要なだけウォーキートーキーを貸すぜいたくな解決方法も見られました。



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