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第45話 飴と鞭

第44話を投稿すべきところ、誤って第45話を投稿してしまいました。割り込み投稿で第44話を同時2話公開とします。ご迷惑をおかけします。


 イギリス公刊戦史の戦略爆撃に関する部分の共著者だったフランクランドは、自分の担当部分を再構成した著書『Bomber Command's War against Germany』の第7章を「The Year of Conflict, 1943」と名付けた。コンフリクトの相手はドイツではない。イギリスとアメリカのコンフリクトが激しかった年なのである。特にそれは7月以降に激しくなった。このことを中心に、1943年7月以降のドイツ本土防空戦について語るとしよう。


 その火種はすでに、1943年2月4日のカサブランカ指令にあった。「中間目標」としてドイツ戦闘機部隊の撃滅が言及されたが、何かがすぐ実行されたわけではなかった。


 1943年6月14日のPointBlanc指令は、いよいよ大陸反攻が迫り、それを成功させる前提として、明確に航空機工場とドイツ戦闘機部隊の撃滅を求めたものであった。しかし土壇場で指令草案が修正され、イギリス爆撃機部隊を除いてアメリカ第8空軍だけが爆撃によるドイツ戦闘機部隊撃滅を中間(intermediate)目標とすることになった。草案では、米英両方の爆撃機部隊がドイツ戦闘機部隊撃滅を喫緊の(immediate)目標とすることになっていたのであるが。


 アメリカが迫り、イギリスが同意しなかったからこうなったのは明白である。そのプロセスをもう一度見てみよう。


 第44話で語ったように、アメリカ第8空軍の爆撃機部隊は、護衛戦闘機がついて来られる少し先まで飛ぶようになり、相当な損害を出していた。いよいよドイツ本国の奥にある航空機関連工場を叩くとなると、ドイツ戦闘機部隊がその障害になるから、イギリス空軍も手伝えというのである。だがハリスの爆撃機部隊は、いよいよレーダーを妨害するウインドウ(現代で言うチャフ)の散布に踏み切り、夜間空襲でドイツの都市を焼き尽くせると自信を深めているところだった。言い換えれば、ドイツの夜間戦闘機に仕事をさせない方法論がようやく確立したかに見えていた。「戦略爆撃だけで勝利を決定できる」チャンスが目の前にあった。


 だからハリスはアメリカの要請を無視した。イギリス空軍参謀本部はどちらかというとワシントンの統合参謀本部に、従ってアメリカに近い立場を取ったが、ハリスを更迭する踏ん切りはつかなかった。ハリスの勝利は、もし得られるとしたら、イギリス空軍の勝利だった。そして護衛なり飛行場襲撃なり、イギリスの戦闘機部隊にもう少し無理な仕事をさせることは、戦闘機部隊司令官のリー=マロリーが同意しなかった。アメリカは、自分でやるしかなくなった。


 その結果が、ドイツ最大のボールベアリング工場を狙った、1943年10月18日のシュヴァインフルト空襲で、8月17日に続く2回目の空襲だった。ボールベアリングは航空機のプロペラなど、工業製品の回転部分には欠かせない部品である。


 護衛戦闘機は途中で引き返したから、ドイツ空軍はこの時期だけ有効だった兵器を使えた。BR21と呼ばれるロケット弾である。


 陸戦兵器の模型を作られる読者諸賢は、6本の筒を束ねたドイツ軍の21cmロケット砲、ネーベルヴェルファー42をご存知であろう。あれの「弾だけ」を単発戦闘機なら2発、Bf110双発戦闘機なら4発、翼の下に吊り下げていき、20機前後の緊密な編隊でやってくるアメリカ重爆撃機に撃ち放すのが、当時最新の攻撃方法だった。対空機関銃の届かない距離から撃つから、だいたいの狙いしかつけられない。しかし飛び散った弾片で手負いの機体が出て、群れからはぐれてくれれば、他の戦闘機が群がって仕事をすればよい。291機のB-17重爆撃機が参加して60機が未帰還、さらに修理不能機と着陸時全損機が17機出たから、アメリカは大きなショックを受けた。ボールベアリング工場は相当な被害を受けたのだが、他の工場が奮闘してカバーしたし、数週間で操業再開できたから、ドイツをボトルネックにはめる狙いも当たらなかった。


 だが、ハリスが満を持して「これで決めるっ」と繰り出したベルリン爆撃作戦も、1943年11月から1944年3月まで続いたが、大きな損失を出しながら首都機能は奪えなかったし、ドイツ市民の心を折ることもできなかった。まさにハリスの1943年前半までの成功が、地中海戦線を丸ごとあきらめるような本土防空への集中配置を生んだし、早期警戒機を海上に出しておくなどの対策が順々に間に合ってきた。地上レーダーと戦闘機の連携にこだわったカムフーバーはノルウェーに「ご栄転」となり、広域的に夜間戦闘機がイギリス爆撃機に群がり、食い下がるようになって局所優勢が生まれた。機上搭載レーダーで後方から忍び寄る戦法が広がり、忍び寄った後に使う新装備としてシュレーゲ・ムジーク(斜め銃)が加わった。コンフリクトを解決できなかった結果、イギリスとアメリカがそれぞれ苦々しい思いをしたのが、1943年末までの状況であった。


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 第41話で、アメリカが北アフリカのフランス軍をまとめるために、ジロー上級大将を擁立したことに触れた。1943年末にダルラン提督が若いフランス人に暗殺されたため、政治面でフランス領アフリカをまとめる役割が空席となって、この面でもジローとド・ゴールの主導権争いが生じることになった。


 だがジローは政治家ではなかったし、政治家としてどう争ったらいいのかわからなかった。ジローの実質的な擁立者であるルーズベルト政権がチャーチルと掛け合い、ド・ゴールに引導を渡してくれればいいのだが、これは「フランスの内紛」なので、アメリカが強引に現状を変更する名分がなかった。ド・ゴールとジローは「国民解放委員会」の共同代表におさまり、主導権争いは先送りされた。


 1943年9月、フランス領コルシカ島の抵抗運動が蜂起し、ジロー系のアフリカ軍が支援のため駆逐艦と陸兵を出した。何も聞かされなかったド・ゴールは怒ったが、現地の抵抗運動グループが共産党系だったから、ややこしいことになった。政治面のデリカシーがないジローのせいで、地中海に共産党系の島ができてしまう可能性があったわけである。いっぽうド・ゴールも、ジローを追い払って国民解放委員会が割れては困る。だからジローは少しずつ実権を譲っていき、1944年4月に最終的にすべての職を明け渡したのだった。


 ド・ゴールは英雄になりたかったが、ぜひ政治家になりたかったわけではない。だから先の話になるが、戦争が終わるとド・ゴールはいったん政治的指導者としては引退してしまった。遠い将来にはクーデターに加わって指導者に逆戻りしてしまったのであったが、指導者となることに消極的だったジローと同様、平時に選挙によって政権を目指すような人ではなかったのであろう。


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 東部戦線の南半分には、ドイツが東へ攻め、ソヴィエトが西へ押し返すとき、障害になる川がいくつかある。それらは蛇行して「南北に流れている」と言いづらいものもあるが、少なくとも東西を隔てている。


 一番東にあるのは、スターリングラードを流れるボルガ川で、ドイツ軍は事実上これを越えられなかった。スターリングラードのうち西側部分だけがドイツの手に落ちていたのである。


 ドイツ軍が第6軍救出を争った戦場あたりを流れていたのがドン川である。カラチ、ロストフといった流域の都市は、1942年のうちにソヴィエトが取り戻した。その西側にあるハリコフをはじめ、ウクライナの産業拠点としてドン川流域(ドンバス)は大きな比重を持つが、1943年秋にはもうドイツの手の届かないところにあった。


 そして次の川が、1941年のドイツ軍も困難にぶつかったドニエプル川であり、その上流はキエフを通る。ザボロジェやドニプロペトロフスクのある河口近くでは、川幅が狭いところでも3kmに及ぶので、防衛線としてこの川には期待がかかっていた。


 包囲の可能性を捨てて、土地の回収を急いでいるのは、今やソヴィエト側だった。だから人と物資の消耗が激しく、たっぷりあった物量の優位が前線では怪しくなっていた。そのことをジューコフたちに検討させ、方面軍に予備をいくらか配った後、スターリンは命令を発した。ドニエプル川を渡河した指揮官には、当時の最高勲章であるソヴィエト連邦英雄号を授与すると。


 指揮官たちが欲にかられた……と書くのは酷であろう。指揮官たちは、忠誠心を試された。試みずに済ませたら、あとでどんなお咎めがあるかわからない。そしてドニエプル川をめぐって、生者と死者を合わせ2500人以上のソヴィエト連邦英雄が生まれることになった。


 キエフの南東70~80kmのところにヴェリキー・ブクリン(大ブクリン)、マリー・ブクリン(小プクリン)というふたつの村が並んでいる。ここに広がったプクリン橋頭堡は、9月下旬に生まれた数十の橋頭保のひとつに過ぎない。もちろん橋頭堡の数は、一時的にせよ成功した渡河作戦の数だけを数えているのである。この戦果を拡大するため、きわめて損害の大きいソヴィエトの空挺作戦がこの橋頭堡近くで行われたのだが、このころ数千人のソヴィエト連邦英雄たちや、失敗して英雄になれなかった指揮官たちが、ドニエプル川のあちこちで自分と部下の血を支払って、無謀な渡河を試みていた。


 そして、プクリンにはドイツ軍の反撃が集中したので、主力を突破させる橋頭堡を変えることになった。バトゥーティンのヴォロネジ方面軍はすでに第1ウクライナ方面軍に改称していたが、その牙である第3親衛戦車軍はプクリンから大部分が引き抜かれて、キエフのすぐ北にあるリュティジェ橋頭堡に回った(現代の地図ではリュティジェ橋頭堡付近のドニエプル川は人工湖のように広がっているが、当時はそんなことはない)。そしてドイツの偵察機が飛べない悪天候の日を選び、リュティジェ橋頭堡からの出撃に合わせてプクリン橋頭堡からも陽動攻撃が行われた。9月下旬に多くの橋頭堡がドニエプル川西岸に生まれてから、11月6日に第3親衛戦車軍の突入でキエフを奪回するまで、ソヴィエト軍は様々な大きさのサイコロを次々に振って、ドイツ軍の守りを少しずつ溶かしていったのである。


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 兵たちは急き立てられていた。だが、ひとりひとりの兵士は急いでいることも、そうでないこともあった。だいたい、彼らは兵士であることも、そうでないこともあった。


 防衛陣地としてのドニエプル川は、後退を嫌うヒトラーのせいでほとんど整備されていなかったから、兵士たちはその防衛線としての危うさを心に感じ、しかし口は慎んでいた。そして急速な退却のせいで、戦線にはいないはずの面々……建設部隊や保安部隊と交錯し、同居するようになっていた。


 国家労働奉仕団(RAD)はヒトラー政権以前から原型が存在する組織で、失業者を国家事業に使うために拡大され、戦争になると徴兵年齢の若者に基礎訓練を兼ねて建設作業などをやらせた。もう徴兵もされづらい年齢の団員たちはRAD建設大隊にまとめられ、東部戦線でも後方で建設作業をやった。そこには、徴兵もされづらい年齢で無理に徴兵された中高年兵士たちがランデスシュッツェン(郷土防衛)大隊に属して、後方治安戦をやっていた。それらが消耗するにつれ、建設大隊も物資交付所で荷役をやる補給大隊や、パルチザンと治安戦をやる保安大隊に改組されるものが増えていた。


 絶え間なく木か金属を叩く槌音がした。人の声はあまりしなかった。ドイツ語の通じない人々も多かったからであろう。ソヴィエト捕虜たちはほとんど銃を持たされず、作業に追い使われていたが、銃を持っている者もいた。そうなったらソヴィエトへの降伏も難しいはずだったが、ドイツ軍の揺らぎを感じ取ったソヴィエト兵たちはパルチザンへの帰参を企てることがあって、遠く西部戦線へ追いやられるソヴィエト捕虜部隊も増えていた。そこで言葉も通じないレジスタンスたちに銃を向けるのであった。


 寝ていない鉄道工兵たちは不機嫌だった。紺色の制服を着たライヒスバーンの鉄道員たちもそこは変わらなかった。捕虜と労働者は火の粉をかぶらないように、ますます無言になった。貴重なレールを敷いて、引き込み線と降車場が作られているところだった。戦線が突然大きく動いたために、「戦線すぐ後方にないと困るもの」がすべて足りなかった。蒸気機関車であれば水の補給は死活問題で、水道への攻撃はパルチザンの得意とするところだったから、発着が増える駅では給水能力増強も必要だった。


 飛行機のエンジン音が遠雷のように聞こえたが、兵たちは反応しなかった。すでに音で敵味方を区別できるようになっていた。まだ、1943年のドイツ軍は昼間に移動し、作業することができた。


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 第43話で触れたように、浮沈する司令官ポポフは1943年7月にブリャンスク方面軍司令官に任じられ、クルーゲやモーデルを追い出してオリョールを奪回した。8月に上級大将になったから、上出来と評価されていたと言える。


 そして1943年10月、すでに包囲が半分解けている(鉄道も道路も通っているが補給路への砲撃は続いている)レニングラードのすぐ南に戻ってきて、方面軍は名前が変わり、第2バルト方面軍となった。


 ところが……である。1943年夏まで貯めに貯めたリソースであったが、ソヴィエト軍はシオシオと消耗し、物資補給も欠員補充も来なくなってしまった。そしてすでに語ったように、1943年~1944年の冬はソヴィエトが南のウクライナ、さらにその南のクリミアを一気に奪回していった時期だった。そこにはずっとジューコフが張り付いており、ときどきモスクワに戻ってはスターリンに物資と補充をねだっていたから、第2バルト方面軍にはその残りしか来なかったのである。


 直接戦線を引き継ぐものではないが、かつてこの近くに北西方面軍がいて、STAVKA代表としてジューコフが来たこともあった。1943年1月、レニングラードへの補給路を確保するためのイスクラ作戦発動時である。そのとき北西方面軍司令官だったのは、ティモシェンコだった。


 ティモシェンコは、1942年夏にハリコフで大敗し、続いてスターリングラード方面軍で1942年秋のドイツ軍に押し負けた。だがハリコフではスターリンがティモシェンコの攻撃計画を認め、それを逆襲されて負けたのだし、スターリングラード方面軍が劣勢だったのも、スターリンがドイツ軍のモスクワ攻撃を心配しすぎた読み違いのせいである。だからティモシェンコは相対的な閑職である北西方面軍に転任するだけで済んでいた。だが当面のメンツが救われたというだけであり、物資や補充が来ないから手柄の機会もないのである。


 ジューコフは指導にやってきて「あっ、ここは」と思ったに違いない。さりげなく「ティモシェンコはウクライナで軍歴が長く、そちらの地理に明るいですから」とスターリンに吹き込んで、南方でのSTAVKA代表として登用するように仕向けたのである。まもなくティモシェンコは離任し、1943年11月には方面軍そのものが廃止された。


 第2バルト方面軍には物資も補充もあまり来ないけれども、ウクライナをむしゃむしゃと奪回してゆくジューコフたちと比べられては、攻撃計画を立てないわけにもいかない。だが勝てない。ドイツ軍を後退させられるだけで、突破や包囲ができない。皮肉なことに、ティモシェンコがまた戻ってきて第1・第2バルト方面軍を調整するSTAVKA代表となり、この不出来な作戦の責任者となった。そして1944年3月、ポポフはまた大将に降格されて方面軍司令官を追われたのであった。ここからポポフはまた頑張って浮き上がり、戦後にソヴィエト陸軍参謀総長まで行くのだが、それはもうこの小説の枠外である。


 成果主義の悪しき副作用は、組織のリソース不足で成果が出ないとき、たまたま責任ある地位についた個人の成績が下がってしまうことである。東部戦線北側は長く膠着が続き、攻防の焦点から外れていたため、現在の目から見ると独ソ戦中期までは「出世しづらい任地」であったと言わざるを得ない。こうした地に赴任した将軍たちも不出来の責任を問われ、そして彼らの軍歴はそれで終わらず、激動の戦後に浮いたり沈んだりを続けていくことになった。


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 勝利が続いたとはいえ、クルスク突出部から攻勢に出て以来、ウクライナのソヴィエト軍は戦い詰めだった。欠員は多く、補給は滞っていた。ようやくキエフを確保してドニエプル下流域西岸の確保にかかったときには、ソヴィエト軍にもほころびがあった。


 だからキエフを取った直後にジトミルを奪回され、はるかノルウェーから呼び寄せた第25装甲師団がファストフで戦っていた時期は、ドイツにもいくらか勝ち目があるようにすら見えた。スターリンはこの「苦しい」戦況報告をテヘラン会談の場でリアルタイムに受け取り、チャーチルを押し切って「イタリアでもなくギリシアでもなく北部フランスに」「1944年5月までに」米英軍が上陸することを約束させる梃子(てこ)に使った。だがすでにソヴィエト軍は全体として優勢であり、ドイツ軍の息切れがはっきりした時に起きたのが、1944年1月のコルスン包囲戦だった。


 コルスンの飛行場が重要と言えば重要だが、とりたてて重要な地域ではない。むしろ重要な大都市や鉱山がなく、主要道路からも外れているから、ドニエプル川の岸辺にあるのにソヴィエト軍の進撃が後回しになり、ドイツ軍の突出部ができてしまったのであった。もちろん例によって、ヒトラーは戦闘なしに退却することを嫌がった。ジューコフはこれに目をつけた。第1ウクライナ方面軍の現地指導に入り、コーニェフの第2ウクライナ方面軍とともにドイツ軍を包囲にかかった。


 包囲されかかった6万人のドイツ軍は、進路をふさぐソヴィエト軍を打ち破って、懸命に包囲から逃げた。3週間の逃避行が続き、支援の努力に加えて、今回はマンシュタインからあいまいながら、脱出を認める命令が出た。「合言葉は自由」というフレーズは有名である。ここでソヴィエトにとって痛恨事が起きた。ジューコフがインフルエンザで数日間寝込み、ドイツ軍の脱出に気づいたとき迅速な指示が出せなかったのである。死傷者数の推定には著者によって大きく隔たりがあるが、当時のドイツ軍側の記録によると4万人ほどが脱出できた。


 火星作戦で土がついたものの、スターリングラード戦やクルスク戦でジューコフの立つところ常に勝利があった。皇帝スターリンとしては、この功臣は帝国の救い手であると同時に、政敵になりかねない相手だった。そんな中で、コルスン包囲戦で相当な脱出者が出たことは、久しぶりに見るジューコフのしくじりだった。だからスターリンは、少し貯めこんでいたどす黒い感情も込めて、ジューコフを冷遇した。第2ウクライナ方面軍のコーニェフに以後の包囲戦指揮を任せ、ジューコフが現地指導していた第1ウクライナ方面軍のバトゥーティンをこの件ではコーニェフの下において、上位者としてのジューコフの口出しを禁じた。そして内部のドイツ軍が全滅すると、第2ウクライナ方面軍だけの功績をたたえてモスクワで祝砲を鳴らして見せたのである。それを終えた2月、コーニェフはジューコフと並ぶ元帥に昇進した。


 だがスターリンは、1944年4月に新たに高位軍人向けの「勝利勲章」を制定すると(ソヴィエト連邦英雄を気前よく配りすぎたせいであろう)、自分自身、ワシレフスキー、そしてジューコフを最初の授与者として同時布告した。統治者として人を使って行くためのバランス感覚を、スターリンはまだ失っていなかった。


第45話へのヒストリカルノート


 もっぱら鉄道路線警備をやる部隊もありましたが、その多くは1944年以降の編成です。つまり一般的な保安部隊がすり減った後、体力的に駅からあまり動かない警備任務しか務まらない人たちを動員して、そういう部隊が作られたのではないかと思います。



 ポポフの更迭については、政治委員ブルガーニンとの確執や、酒量が過ぎる問題など、いろいろな話があります。真相はともかく、大粛清下でうっかり出世してしまった軍人として、ポポフは力いっぱい泳ぎ切って、相当な名誉を受けて生涯を終えた、まれにみる成功例と言えるでしょう。


 大戦末期のティモシェンコは、ベルリンに向かって競争しない南の方の戦線でSTAVKA代表をやっていました。ですから結局、大戦中盤からは華々しい業績を積めなかったわけです。



 コルスン包囲戦もあんまり日本語化されてない秘密はなさそうなんで通過的に。でも「何があった何があった何があった何があった何があった、ほらみんな戦場の真実」ではなくて、その結果は何によってもたらされ、何につながっていくのかという縦横のつながりを書いていきたいですね。

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