第44話 イタリアの夕焼け
第44話を投稿すべきところ、誤って第45話を投稿してしまいました。割り込み投稿で第44話を同時2話公開とします。ご迷惑をおかけします。
第42話で語ったように、北アフリカのアメリカ軍は物量を優勢に変える方法を飲み込むのに少し時間がかかったが、それに長けたモントゴメリーがチュニジア国境に追いついてくると、ドイツの防衛線はひとつひとつ打ち破られていった。ツィタデル作戦の発動準備が遅れるうちに、チュニジアのドイツ軍は降伏した。
クルスクでそうであったように、チュニジアでもドイツ空軍は陸軍の戦況を精いっぱい有利に傾けるべく働いたが、及ばなかった。海上攻撃が大切なテーマになったこともあり、中間管理職として「上につく」タイプではないハルリングハウゼンが第2航空軍団長として、主にシチリア島で働いていたが、参謀本部との関係がこじれ、6月から半年予備役にされたうえ航空救難関係のポストに左遷されるという結果になった。ハルリングハウゼンが育てた航空雷撃部隊である第26爆撃戦闘団も、航空優勢の喪失に伴ってだんだん働き場所がなくなってきていた。イェションネック空軍参謀総長もまた、劣勢の犯人を捜したということである。
地中海におけるハルリングハウゼンの立場を簡単に言えば「双発爆撃機部隊の親玉」であった。連合軍のトーチ作戦以後、ドイツ空軍は東部戦線が大変なことになっているのを横目に、地中海の戦闘機部隊を増勢したが、双発爆撃機はかろうじて数の補充がつく程度で、スターリングラードで多発機訓練機でもある輸送機と旧式爆撃機を乗員ごと失ったことから、双発爆撃機乗員の訓練は滞り、新人の飛行時間は落ちていた。だからハルリングハウゼンが見せしめのように首になったのは、ドイツ空軍の不如意がどこにあるかのマーカーのようなものだった。
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すでにシチリアにおいて、独伊の協力はぎくしゃくしていた。長いことケッセルリング元帥は第2航空艦隊司令官であり、南方総軍司令官を兼ねていたが、1943年2月から参謀長の下の作戦主任参謀として陸軍のヴェストファルが赴任していた。そして6月、ケッセルリングは第2航空艦隊を離任して南方総軍司令官のポストに残り、ヴェストファルがそのまま参謀長を務めた。シチリア島のドイツ軍部隊は、スターリングラードを脱出して自分の司令部を再建中のフーペ上級大将が急派されてまとめたが、当初はイタリア軍の指揮下にあって、ケッセルリングがイタリア第6軍司令官の目の前でドイツ軍各師団長に自由行動を認める有様であった。
第43話で語ったように、7月13日、ヒトラーがツィタデル作戦中止を命じるとき、連合軍がシチリア島に上陸したこととクトゥーゾフ作戦の開始を並べて挙げた。これは史実であるが、言い負かされたくないヒトラーの屁理屈であることもそのとき述べた。6月には、もう抗戦の意思が当てにならないイタリア軍の代わりに北イタリアを占領し、南イタリアの戦線に立つドイツ軍部隊を工面しなければならなくなっていて、それをヒトラーがツィタデル作戦延期の理由にした時期もあったのである。結局それは、チュニジアで全滅した部隊の再建(第15装甲師団に代わる第15装甲擲弾兵師団、ヘルマン・ゲーリング師団に代わるヘルマン・ゲーリング降下装甲師団など)、スターリングラードで全滅した部隊の再建(第24装甲師団、第3歩兵師団に代わる第3装甲擲弾兵師団など)、西部戦域からのさらなる転属(第26装甲師団など)といった東部戦線以外のリソースで手当てされていった。まったくなかったわけではなく、LAH師団が追加として北イタリアに転戦したことも、第43話ですでに語った通りである。
7月10日にシチリア島に連合軍が上陸し、19日にはヒトラーはイタリアでムッソリーニと会っていたが、ムッソリーニはローマが空襲され始めた急報を受け、強気の発言を繰り返すヒトラーから何の言質も取れないまま会談を切り上げた。イタリアでは国王と軍部がまず動き、ムッソリーニは7月24日に独裁権を取り上げられ、翌日バドリオ元帥への組閣大命降下を待って拘束された。7月末にはフーペ自身がイタリア第6軍司令官に任じられることでシチリア島の指揮権はドイツに確保されたが、もう大勢は決していた。
ロンメルの下で再編成されたB軍集団司令部は実質的に7月19日に発足したのだが、しばらくその名称は隠された。南ドイツのミュンヘンに設置された新たな軍集団司令部はイタリア北部占領軍と取られかねなかったし、実際そうだったからである。
8月に入ると、ロンメルの下でドイツ軍が有無を言わさず北イタリアの要地を押さえ始めた。「微笑のアルベルト」ケッセルリングには性格的な人への甘さがあって、イタリアは戦争を続けるという要人の言葉をうのみにして、結果的にイタリア王室の脱出などを許してしまったのだし、バドリオ政権が連合軍に降伏する前後にはケッセルリングがヒトラーから信用されず、ロンメルのB軍集団がまさにケッセルリングの「後詰め」のような格好になった。
だがもともと陸軍軍人であるケッセルリングは、シチリアからの撤退作戦を成功させると、わずかな兵力で遅滞戦闘を続け、ヒトラーの信頼を取り戻していった。1943年11月、ようやくイタリア戦線を引き続きケッセルリングに任せると腹を決めたヒトラーは、南方総軍を南西総軍に改称してC軍集団司令部を兼ねさせ(つまりC軍集団に属する陸軍部隊にも、そしてOKWの権威を借りて、南西総軍として第2航空艦隊にも命令が出せる)、ケッセルリングを併任させた。
となると、用のなくなったロンメルとB軍集団には、別の任務が必要になった。それはまた別の話である。
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第35話で、イギリス空軍が発した1942年2月14日の「地域爆撃指令」の話をした。第36話で、その新しい方針に沿った1942年5月30日夜のケルン「1000機空襲」について語った。第37話で、カムフーバーの夜間防空体制がこの飽和攻撃によって揺さぶられたことを述べた。
正式にこの指令を全面改正したのは、1943年1月のカサブランカ会談を経た1943年2月4日の指令、いわゆるカサブランカ指令だった。しかしそれまでにも、いろいろな理由をつけて、いろいろな目標が選ばれた。どうせ都市を爆撃するなら、交通の要衝である都市とか、軍需生産の盛んな都市とかでもいいではないか……というわけである。Uボート基地にも高い優先順位が与えられた。どちらにせよ第36話で語ったように、イギリスの重爆撃機がそろって来るまで、パンチの強さには限界があった。そのさなか、第39話で語ったようにフリーマンが航空機生産省に戻り、増産のネジを巻き始めたのが1942年までの経緯だった。
では、1942年から展開してきたアメリカ陸軍航空隊のB-17爆撃機は、初期にはどんな戦争をしてきたのであろうか。やはりここは、有名なメンフィス・ベル号のことを語るのが良いだろう。1990年に(あらためて)映画になったときは、架空のフライトクルーたちに率いられて命からがらの飛行をすることになった。1943年に「25回目の出撃」を成功させて前線任務を脱する権利を得たメンフィス・ベル号の様子は記録映画となって1944年に公開され、クルーと機体は戦時公債の宣伝のために全米を回った。
メンフィス・ベル号は1942年11月7日から1943年5月19日までに21回出撃している。クルーが丸ごと別の機体で出撃した4回を合わせて25回のうち、8回だけがドイツで、1回がオランダ、2回がベルギー、あとはフランスの目標である。アメリカ陸軍航空隊がドイツの目標を最初に狙ったのは1943年1月27日だったから、もちろんドイツに行った8回はそれ以降である。そのうち1回がルール工業地帯、残り7回はエムデン、ブレーメン、ウィルヘルムスハーフェン、キールと言った北西ドイツの海岸にごく近い場所である。それでも当時は護衛戦闘機の飛べないところであり、相応の損害を出した。1990年の映画でメンフィス・ベル号が25回目の出撃をしたのもブレーメンであり、(あと1回で帰国できるのに)容赦なく危険な目標を与えられたことにクルーは落胆した。
戦間期には高価すぎるとして配備数を抑制されたB-17であったが、さらに武装や防弾板を盛って、新型のB-24とともに敵戦闘機にも火力負けしない重爆撃機として期待されていた。20機前後で緊密な編隊を組み、目標への誘導(部分的な自動操縦)装置を兼ねるノルデン爆撃照準器の力も借りて、アメリカ陸軍航空隊は昼間の精密爆撃を行った。だが史実でのメンフィス・ベル号最後の出撃である1943年5月19日のキール爆撃は、123機が参加したに過ぎなかった。10月8日のブレーメン空襲は399機、そして有名な10月14日のシュヴァインフルト空襲は320機であったことと比べると、1943年前半のアメリカ空軍は量的な面で、イギリス空軍ほどの脅威ではなかった。
1943年2月4日の(イギリス軍への)カサブランカ指令は、連合軍のその後の方針と空軍の現実がチャンポンになっていた。戦略爆撃は軍事、産業、そして経済目標を叩くことで「抵抗が弱まるまでドイツ国民の士気(morale)をくじく」のが目的だとしていたのである。家屋を焼くことはひとまず目標から外れたが、具体的なことは次のステップで肉付けされた。ドイツ国内の目標を100~200機の規模で攻撃できるようになっていたアメリカ空軍の求めで、有望な戦略爆撃目標を選定する合同委員会COAが設置され、3月8日に答申が出たのである。 6分野76個所の目標が選定されたが、最優先目標は「潜水艦生産設備と基地」「航空機工場」「ボールベアリング工場」「石油生産」の4分野であり、「合成ゴムとタイヤ」「軍用輸送車両生産」のふたつが2次的目標とされた。さらに「中間目標」としてドイツ戦闘機部隊の撃滅にも言及があった。だが実際にはアメリカ空軍は、フランスなどにある潜水艦基地を攻撃するほかは、護衛のない爆撃機をあまり奥まで飛ばすこともできず、イギリスの都市爆撃にとりあえず合わせていくしかなかった。
精密爆撃ができないイギリス夜間爆撃隊の目標は相変わらず「都市」だったが、ドイツが厳重に守っている地域への集中攻撃が合意された。イギリス空軍は久しく実施していなかったベルリン爆撃を1月16日、17日(いずれも帰投は翌日)に試したが、飽和させるほどの機数もそろわず、とくに17日には出撃機188機のうち22機を落とされる大損害を出したから、もっと近いところを選ぶしかなかった。COA答申を待たず3月5日のエッセン空襲から始まり、7月まで続いたルール地方爆撃である。
ルール工業地帯には炭田があり、鉄鋼生産の中心でもあるから、他の地域での生産への波及効果を含めた損害の大きさを評価することは難しい。この間にイギリスは重爆撃機配備を着々と進め、7月3日のケルン空襲ではランカスター、ハリファックス、スターリングを合わせて551機を出撃させることができた。第41話で語ったような、復帰したフリーマンの奮闘がようやく実を結び始めていた。
第37話で触れたように、1942年の大規模空襲を経験して、地上だけでなく機上搭載レーダーがドイツでも使われ始めた。イギリス空軍自身の推計では、1943年3月から7月までのルール空襲でレーダー搭載戦闘機と非搭載戦闘機は同程度の損害を与えており、ちょうど戦術・機材の切り替わる時期であった。言い換えれば、ミルヒたちが懸命に戦闘機と機上搭載レーダーを増やして、ヒトラーやゲーリングも損害の大きさを見て「爆撃機生産を減らすな」とだんだん言わなくなっていったのが、この時期であった。レントはすでに夜間戦闘機の大エースであり、飛行隊長を任され、1943年1月には少佐になった。
次の転機が訪れたのは1943年6~7月であったが、それはまた後で語ることにしよう。
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前線の敵軍部隊「以外」を攻撃して敵の戦闘力を奪う方法は、戦略爆撃に限らない。いろいろな間接的攻撃の方法と、それに対する防御手段があり、ずっと競り合いが続いてきた。ドイツ軍の潜水艦攻撃とそれに対する防御は、戦略爆撃と並ぶ巨大な資源のぶつけ合いであった。
イギリス海軍最初の護衛空母とされるオーダシティは、1941年9月に初出撃し、12月にUボートからの魚雷で沈んだ。護衛空母による空からの監視・制圧は、決して一方的なものではなかった。イギリスで完成したものもあったが、次々にアメリカで完成する護衛空母が何といっても多く、撃ったり撃たれたりしながらUボートの戦力を削っていった。
第19話ヒストリカルノートで、イギリス空軍が戦前からロッキード・ハドソンを哨戒機として輸入していたことに触れた。イギリス重爆撃機の数がそろって来るとウェリントン双発爆撃機はこの任務に回され、B-24重爆撃機も航続距離の長さを当てにされて加わった。チャーチルは保障占領計画をちらつかせて、スペインやポルトガルのはるか西、イギリスからケープタウンに向かう航路を守るのにちょうどいい場所にあるアゾレス諸島を飛行場として使わせろ……とポルトガルに迫った。参戦はしたくないポルトガルは、古い話を持ち出した。第2回十字軍のイギリス騎士たちが遠征途上のポルトガルでレコンギスタ(ムーア人からの国土回復)を手伝ったのを皮切りに、ポルトガル王室とイギリス王室には古い協力関係があり、1373年にどうとでも読める玉虫色の相互協力条約を結んでいたのである。この条約に沿ってイギリス対潜哨戒機部隊はアゾレス諸島に進出し(だからアメリカ軍はしばらく使えなかった)、機上探照灯やレーダーで夜間哨戒も行って、Uボートの活動をさらに妨げた。
Uボートが本国との交信に使う電波を逆探知するHF-DFと呼ばれる装置、そしてヘッジホッグなど最新の対潜攻撃兵器が、攻防の力比べに加わった。そして1943年4月から5月にかけて、Uボート58隻が一気に失われ、均衡の崩れたことがはっきりした。以後も一時的に連合軍の損失が増えた時期はあったが、ドイツ潜水艦が自らの損害に見合う戦果を挙げ続けることは、もうなくなったのであった。
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クトゥーゾフ作戦はドイツ陸空軍に「受け切られた」と表現すると、ドイツ軍を褒めすぎかもしれないが、大きな包囲は生じなかったのも確かである。列車を撃てる位置にソヴィエト戦車が現れ、ブリャンスクからオリョールへの鉄道輸送が48時間止まるところまで追いつめられたが、突破の穴はできてもふさがれた。7月末にはヒトラーの渋面を尻目にオリョール突出部からの撤退が始まり、大過なく終わった。ルミャンツェフ作戦もハリコフ、ベルゴロドをはじめ多くの都市と土地を奪回できたが、ドイツ軍は包囲されず、ソヴィエト軍はその過程で多くの血を支払った。
包囲を狙うのであれば、進撃のスピードを落として弾薬と部隊を貯めなければならない。進めるだけ進むよう命じていては包囲にならない。ジューコフは包囲の可能性を探り、スターリンは前進を急がせる傾向があったが、どちらもキエフとドニエプル川が行軍の射程に入ってきたことを意識していた。防備に時間を与えてはならないという点で、ふたりは基本的に一致していた。8月25日にジューコフはモスクワに戻り、打ち合わせに入った。
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とかく悪いニュースに犯人を捜しがちなヒトラー政権において、軍人の責任者が国家の不作為(ふさくい=するべきことをしないこと)の責任を取らされることはたびたび起きた。つい最近までヒトラーやゲーリングがその方針を黙認していた場合でも、そうなった。
1943年半ばまで、ドイツ空軍は東部戦線でたびたび劣勢を食い止め、ひっくり返してきた。そして1942年冬から、危機に立った北アフリカ戦線を食い止めるため、地中海での広域的な海上攻撃を含めて、大きな戦力をつぎ込んだ。もちろんそれらの方針はヒトラーの黙認を得ていたのであり、部分的には求めに応じたものでもあった。そしてクルスク戦において、もはや全力を注いでもソヴィエトの空陸における物量を跳ね返すことはできないとはっきりしてしまったし、チュニジア失陥から7月のシチリア島攻防戦までに地中海で空軍が受けた損耗は、到底長いこと耐えられるものではなかった。
だから犯人が必要だった。イェションネック空軍参謀総長が、ゲーリングの無視の下でヒトラーから叱責されるようになった。開戦以来この席にあるイェションネックは、たしかに今日のドイツ空軍に何ができて、何ができないかについて、基本的な責任を負っていると言えたが、もちろんそれはヒトラーが今さら一方的に問い詰めてよいものではなかった。だがヒトラーは独裁者だった。
8月18日、イェションネックは自殺した。後任人事はもめた。誰もやりたくなかった。2週間ほどかかってようやくコルテン大将が引き受けたと思ったら、作戦部長(陸軍の作戦担当参謀次長に相当)に以前の司令部で幕僚だったコラー少将がつくことが条件だと言ったから、今度はコラーが全力で抵抗したが吞まされた。ドイツ空軍は、もう遅すぎるとしても、少しでも戦う力を保つために変わっていかねばならなかった。
第44話へのヒストリカルノート
今回解説ばかりでドラマパートがないのですが、解説がみっちりと込み入っているので、このままにします。
1943年11月、空軍野戦師団は一斉に陸軍へ引き渡されました。師団名称の改称も(書類のうえで変わっただけで)現場では行われなかったと言われます。現況のまま引き渡され、陸軍にできる限りの人的物的なバックアップが行われたのです。参謀総長が代わって、空軍が失敗を受け入れる踏ん切りがついたのかもしれません。
マンパワーの上では、これは20万人の割譲ですから、空軍の譲歩です。それを埋め合わせるように、空軍はここで初めて「降下猟兵師団」を作りました。今までは第7航空師団に輸送機部隊と降下猟兵連隊が所属していたのを、輸送機部隊を追い出して第7航空師団を第1降下猟兵師団に改組し、第2師団以降も編成を始めたのです。
戦闘親衛隊のアドルフ・ヒトラー連隊(LAH連隊)が旅団、師団と膨れ上がっていく過程に合わせたのでしょうが、かつてのゲネラル・ゲーリング連隊は旅団、師団と格上げされていきました。第5降下猟兵連隊も組み込まれてヘルマン・ゲーリング師団となりましたが、配備される予定だった戦車部隊を欠いたまま、チュニジアで全滅しました。フランスで編成中だった装甲連隊も加えて、あらためてヘルマン・ゲーリング降下装甲師団が再建され、シチリア島の戦いから戦線に加わっていくことになりました。




