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第43話 逆流


 1943年以降、歩兵師団も突撃砲やヘッツァー駆逐戦車を(初期のケースでは、マルダー系列の対戦車自走砲を)いくらかずつ持つようになった。その反面、装甲部隊は今や火消し部隊の中心として追い使われ、集中させることすらできなくなった。歩兵も携行できる対戦車兵器を受け取っていた。もちろん戦車にとって危険な存在になることは、放置してもらえなくなることでもあったが。


 かつての精兵たちは、生き残っていれば下級士官か下士官になっていた。指揮官の命令で有無を言わさず、兵や下士官がずいぶん短くなった士官養成課程に送られることも大戦中盤にはあったのだが、手放した古兵たちが原隊に戻されず、ひどく消耗したどこぞの部隊(ほぼ歩兵部隊)の穴埋めに使われることも増えて、指揮官も兵たちも用心深くなった。兵たちにとっても、一緒に戦った経験を欠く急造チームで戦場に出るのは、古巣で人の言うことを聞いて戦うよりずっと危険だった。東部戦線のドイツ兵士たちは事情は分からぬものの、1943年の春が引き延ばされていくことの果実を喜んで受け取った。


 1942年夏から一部の砲弾で、そして1943年に入ると小銃弾ですら、ドイツ予備軍のストックというものはなくなった。その時期に生産されたものを配分するしかなかった。だからもう砲撃戦でソヴィエトを圧倒するチャンスはなかった。クルスクで局所優勢を得るためには、空軍がよほど頑張るしかなかった。ソヴィエト空軍の上り坂にもう追いつけないことは予感されていたが、今であればしばらく優位を取れる見込みはあると思われていた。Fw190A戦闘機はようやく技術的に成熟し、高空は苦手であるものの、低空での戦いに終始した東部戦線で勝ち残っていけたし、その地上攻撃機タイプであるFw190Fとともにシュツーカや双発爆撃機の重荷を分担していた。シュツルモビク地上攻撃機はソヴィエトの新型機であったが、ドイツ戦闘機に対しては無敵ではなかった。


 1943年夏にはまだ、ミルヒの協力を得たシュペーアも、ゲーリングの空軍については生産システムを乗っ取ることができずにいた。今までの戦術攻撃能力優先の原則を崩すことはできないものの、戦闘機に重点を置いた増産態勢が回り始めていた。


--------


 1943年7月に始まったクルスク攻防戦でのドイツ軍は、足りなかった。簡単に言えばそうなる。


 両軍は持てる限りのものを投げ込んだ。対戦車砲も機関銃もみっしりと布陣して侵入者を待っていた。空には敵も味方もあふれていた。


 フェルディナント対戦車自走砲が機関銃を持っていなかった欠点は、後に実際に機銃を増設する改修が行われたことで強く印象付けられているが、このデビュー戦に限って見ればソヴィエト歩兵の挙げた撃破スコアはわずかだった。ティーガーやフェルディナントに対しては、地雷という無口なプレイヤーが大きなスコアを挙げたのだが、それはソヴィエト軍の砲撃などで、友軍歩兵や工兵の活動が妨げられた結果でもあった。


 ハリコフと違って、ドイツ軍の進路は読まれていたし、備えられていた。最前列に配置されたソヴィエト兵は不運というしかなかったが、分厚い布陣全体を打ち破るほどドイツ軍は多くも強くもなかった。


 ケンプ軍支隊を勘定に入れなければちょっと微妙だが、おそらくそれでも、マンシュタインとホトの南チームが、クルーゲとモーデルの北チームよりも多めの戦力を持っていた。しかしソヴィエトは北チームが主で南チームが従だろうと思っていたから、北の備えを厚めにした。だから物量のぶつけ合いになると気づいたのも、それに勝ち目がないと気づいたのも、北チームが早かった。そのせいでますます、モーデルがクトゥーゾフ作戦をどの程度正確に予見していたか、行動から判断しづらくなっている。南チームより早く攻勢を止めたのは確かだが、その正確な理由はどうとでも解釈できるのである。そして12日、オリョール突出部を北から押しつぶすクトゥーゾフ作戦が発起されたが、これはドイツにもう即応できる予備がなく、クルスク方面から精鋭装甲部隊が戻ってくるのも容易でないというタイミングを計ったものだった。モーデルの装甲師団は可能な限り急いで、次々と北に向かった。


 南ではローカルな道路の結節点であるプロホロフカ村をめぐって、12日に大きな戦いが起きていた。ソヴィエトが長く公式見解としてきた理解は、この戦いをやや英雄的に美化していたと言われる。ソヴィエトがしっかり固めたプロホロフカに南西から近づいてきたハウサー軍団は、おそらく時計回りに迂回ルートを取るだろうから、その(ドイツ軍から見て)右横腹に突っかかろうというのがソヴィエトの計画だった。これはクルスクの南側でソヴィエトが起こす最初の反撃であり、北のクトゥーゾフ作戦とタイミングを合わせていた。


 川や線路(やや高めに作ってある)、さらにはソヴィエト軍が備えていた対戦車壕が邪魔をするので、正面から撃ちあいになったら、車両数に利があるソヴィエトが優位を生かせる地ではなかった。ところがハウサーは損害の大きいLAH師団にはしっかり陣地を固めさせ、まずその左側(西側)でトーテンコープ師団にプロホロフカを回り込むルートを進ませ、ソヴィエト軍が混乱したら右端のダスライヒ師団がプロホロフカに直進しろと命じた。だからソヴィエトは進んでくるトーテンコープ師団、待ち構えるLAH師団、その背後で待機していたダスライヒ師団とそれぞれ正面衝突になってしまった。ソヴィエトが主張してきた数よりも、(兵団に属する車両数ではなく)戦場に入ったソヴィエト車両は少なかったし、迎え撃つドイツ戦車はさらに少なかった。そして前進に柔軟さを欠いて、不利なレートの血の交換をしてしまったのは、ソヴィエトのほうだった。この日、空にはルーデル中佐がいたし、防御を固めたLAH師団の戦列にはヴィットマン大尉のティーガー戦車がいて、比較的有利な位置を選べた。この日に作られた多くの伝承の細部を考証するのは、全体を理解する役に立たない。パイパー大隊長が集束手榴弾で仕留めた1両のT-34戦車をこのリストに加えても大して変わらないのはもちろんだが、どの個人もどのチームも、巨大な全体の一部に過ぎなかった。


 おそらくソヴィエトの指揮官たちは公式見解の中で、ドイツの参加兵力を盛って、自軍の不首尾の印象を薄めたいと思ったのであろう。少なくとも戦闘直後には、それは許されないレベルの損害へのスターリンの怒りを鎮めるために必要とされたし、いったん公式見解となったら後年に引っ込めるわけにはいかなかった。だがもうひとつの見方も成り立つ。ソヴィエトは「ドイツの装甲予備をクルスクにハメてクトゥーゾフ作戦を邪魔させない」計画を立て、成功を収めたのだが、その結果クルスクのソヴィエト軍はひたすら耐えたログが残るだけになった。クルスクの地でもそれなりの戦果があったのだと、死傷者たちの前で言いたかったのかもしれない。逆に言えば、今日の目から見れば、7月12日のプロホロフカの戦いだけを切り出してその意義を問い直すと、相互消耗戦以上のものは見つけにくい。トーテンコープ師団の前進もまた、ソヴィエト戦車の前進を食い止めた親衛隊兵士たちと同様に、ソヴィエト軍が手段を選ばず(例えば友軍陣地ごと砲撃するなど)食い止めたのである。


 ハウサー軍団の右側(東側)にはケンプ軍支隊が進んでいた。ハウサー軍団の側面をカバーする部隊のはずだったが、みっしりと脇を固めるほどの兵力はなかったし、9個師団のうち6個師団は歩兵師団だった。ソヴィエト軍から見れば、「有力でない歩兵部隊かと思っていたら、たまに装甲部隊が襲撃してくる」存在だった。つまりソヴィエト軍が最も不得意とする、現場での即応と協力がなければうまく対応できない相手だった。ソヴィエト軍は誤射誤爆も含め、いろいろな理由で兵を損じたが、それでもドイツ軍との練度の差は縮まっていて、ケンプ軍支隊がプロホロフカに(南東から)近づくことは阻んだ。


 ケンプ軍支隊に含まれている第3装甲軍団がもっと敢闘してくれたら……というニュアンスの指摘は、マンシュタインと南方軍司令部がずっとこの軍団をメインの攻撃部隊に加えたがっていて、ヒトラーが東への備えとしてその温存を解かなかったことを考えに入れて読む必要がある。ケンプ軍支隊は結局、マンシュタインの主力についてきてその東側面をカバーする役をやったが、ケンプ軍支隊そのものが東への最後の備えなのである。だからここで消耗させるわけにいかず、「もっと敢闘してくれたら」というのは「ドイツに装甲1個軍団余計にあったら」という嘆きに等しいのである。


 グロスドイッチュラント師団(のほとんど)を含む第48装甲軍団は、ハウサー軍団の左側(西側)を進み、やはり7月12日に強力な反撃を食らった。彼らは当面持ちこたえたが、交通の要地に先着してソヴィエト軍の後退を阻むとか、大兵団を包囲するとかいったチャンスは作れず、数日先のことまで言えば、行って帰ってくるだけに終わった。



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 ドイツ空軍もまた、陸軍との共同目標を達することができなかったのだから、足りなかったと言える。だが空軍の状況を正しく読み取ることは、陸軍の場合より困難だった。1943年前半のドイツ空軍は、ようやくウーデットをミルヒが引き継ぎ、シュペーアと連携した成果が見え始めて、戦力の(量的な)急回復が見られたからである。ミルヒの産業再編には、少数の拠点に生産を集約することが含まれており、普通ならこれはわざわざ魅力的な爆撃目標を作ってやる行為だった。1942年の米英空軍は、まだ航空機産業に打撃を与えられず、そのデメリットが表れなかった。


 だがせっかく増強された戦闘機隊を、ドイツはますます強まる西部戦線と地中海戦線の圧力に抗するため振り向けねばならず、東部戦線に振り向けられる戦闘機隊はほとんど増えなかった。だから他の機種が回復しても、ますます質も量も上がってくるソヴィエト戦闘機隊の脅威の前では、今まで通りの成果を挙げることができなかった。そして読者の皆様もご存知のように、多くの機種でドイツの新型航空機は量産・配備の手前でトラブり、質的な劣勢がじわじわと広がり始めていた。


 ひとつひとつの空戦ではドイツの勝率は高かった。だがドイツ機が上がってこない戦場で、ソヴィエト機は自由に戦果を挙げた。クルスクですでに、長期間続けることができないようなパイロット当たり出撃回数の多さが見られ、1943年夏は二度と戻らないドイツ空軍のピークであった。


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 7月13日、ヒトラーはラステンブルク総統大本営に中央軍集団のクルーゲと南方軍集団のマンシュタインを呼び出した。そしてよく知られているように、連合軍がシチリア島に上陸したこととクトゥーゾフ作戦の開始を並べて挙げ、ツィタデル作戦の中止を申し渡した。


「我が総統、攻勢の延長を希望します」


 マンシュタインはヒトラーの鋭い視線を浴びた。ヒトラーはマンシュタインの成功を評価するものの、エリート然としたマンシュタインが大嫌いであったし、マンシュタインもヒトラーを上等兵としか見ていなかった。それでもヒトラーはかろうじて無言を保ったので、マンシュタインは発言を許されたものと解釈した。


「ハウサー将軍のSS装甲軍団をはじめとして、我が装甲部隊はソヴィエト軍の予備を撃滅できる絶好の位置におります。限定的な規模での包囲作戦を許可願います」


「よかろう。だが全部というわけにはいかん。LAH師団だけでもすぐ返してもらう。もはやイタリア軍は全体として信用ならんのでな」


 しかしマンシュタインが大急ぎで編んだローラン作戦は不発に終わった。マンシュタインが総統大本営に行って戻ってくるまで、特にバトゥーティンのヴォロネジ方面軍はハウサー軍団の真正面から何度も攻勢をかけ、気力と技量の限りに応戦するドイツ兵を消耗させつつ、存在感を示していた。ところが数日のうちにソヴィエト軍の精鋭戦車部隊は、ここでドイツ最強部隊に挑んであまり有利でない取引をするより、別の機会への集中投入のために退き始めた。こんなところにいたらドイツ軍も孤立するしかないと見切っていた。この数日間は、どちら側も自分の欲しいものを手に入れることができず、損害ばかりが増えた。げんなりする袋小路の戦闘記録を読み上げることを、ここでは控えたい。


 17日には南でもドイツ軍のハリコフ突出部|(!)をとがめるルミャンツェフ作戦が発起され、延長された攻勢も中止するほかはなくなった。ソヴィエト軍にはこうした同時攻勢を進める物量があり、ドイツにはもうないことがだんだん明白になってきた。スターリンは用心深く、ドイツの攻勢は失敗したと宣言することを7月23日まで待った。


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 自動車輸送連隊の中隊長に出世したアムトラッハは、むっつりとした顔で映画館を出てきた。古都と言ってもよいオリョールは、ドイツやフランスまで戻してやれない兵たちが命の洗濯をする街になってしまっており、兵士向けの宿泊施設はもちろん、酒場や映画館が並んでいた。まだテレビ放送のない時代だから、短編ニュース映画を集めて上映する映画館もあった。そうした映画館にわずかな余暇を使って足を運んだアムトラッハだったが、戦場の都合の良いシーンだけを継ぎ合わせ、ヤラセ映像と混ぜて作りだしたニュース映画は、アムトラッハの不安を打ち消してはくれなかった。


 ツィタデル作戦前後から、ブリャンスクからオリョールに至る鉄道路線はパルチザンの目標となっていた。ひとつひとつの妨害はわずかな爆薬によるものであっても、数が多かった。輸送能力の不足分はアムトラッハたちのトラック部隊にのしかかった。


「中尉殿! アムトラッハ中尉殿!」


 聞き慣れた兵士の声に振り返るアムトラッハは、自分では気づかなかったが、わずかな息抜きを邪魔されてうんざりした顔だったのだろう。中隊本部の兵士は少し言葉を失って立ち止まったが、自分の仕事を思い出した。


「新しい命令であります」


 差し出された紙片にアムトラッハは目を走らせた。中隊本部が受けた電話連絡のメモである。中隊所属の段列をかき集めてフトール・ミハイロフスキー(現ウクライナ領オウチェル・ミハイリウスキ Hutir-Mykhaylivskyi)に集まれと書いてあった。オリョールから見て南西であり、キエフ方向から伸びる線路はオリョールに近づくと単線になっていたはずだった。補給物資の来る方向ではない。南方軍集団から増援を融通してもらおうとしたら、パルチザンが線路で何かやったに違いない。


 テスケ輸送監のように輸送総監部の全般的指示を受ける士官たちは、「大使」のような立場である。鉄道と内国水運を統制し、鉄道工兵を区処(くしょ=戦闘に関する指揮は現地の司令部に任せるが、専門的な問題について指示を出すこと)する輸送総監部の窓口として、現地司令部からの要求や抗議は聞くけれども、原則として、それを解決するのは仕事ではない。


 それとは別に、テスケもかつて師団の補給主任参謀をつとめたように、師団以上の司令部なら、物資交付所、倉庫、所属トラック部隊などを指揮するチームを持っている。つまりトラック部隊は鉄道部隊の指揮下にないので、向こう側の様子は何かのついでに伝えられるだけで、急変の起きた事情は想像するしかないのだった。


「先に帰って、兵たちに銃の点検をさせろ」


「ヤーヴォール」


 兵は走っていった。街にはまだ雑踏があり、それなりに女性の姿もあった。これから急いで撤収するとき、彼女たちはどうなるのだろうか。アムトラッハは努めて表情を消したまま数秒を過ごし、中隊本部へ足を速めた。



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 北のクトゥーゾフ作戦と、南のルミャンツェフ作戦は、ソヴィエトが(特にジューコフが)前の冬に火星作戦で学んだことを踏まえ、1944年に東部戦線全域で次々に起きたことの原型だった。縦割りのノルマ社会であるソヴィエト軍では横の連携はうまくいかない。目標未達のあと、後頭部に鉛の退職金を受け取るリスクにさらされているのは、どの指揮官も同じだからである。だから歩兵師団や戦車軍団に属さない軍直轄砲兵は、1942年から砲兵師団・砲兵突破師団や砲兵旅団にまとめられ始め、1943年にはそれらを束ねる砲兵突破軍団も編成されるようになった。アメリカはレンド・リース物資として大量のトラックを送って兵站を助けてくれたが、以前触れたように、砲兵牽引車は低速のものばかりだった。だから大量の砲と弾薬を集中して、攻撃開始時に広い幅で準備砲撃を浴びせ、空いた大穴に歩兵と戦車が飛び込んでいくようになった。そして砲とトラックを(可能なら鉄道も使って)移動させ、次の攻勢をかける整合的な計画を参謀たちが不眠不休でまとめたのである。今回は南北2ヶ所の同時攻勢だったから、砲兵が次の仕事場に移って数週間後に次の突破……という1944年の連鎖攻勢は見られなかったのだが。


 カトゥコフの第1戦車軍やロトミストロフの第5親衛戦車軍は、大急ぎで補充を受け、車両の修理を進めて、8月3日から始まる次の攻撃作戦に参加した。だから少なくともルミャンツェフ作戦の前半、そしてもちろんツィタデル作戦終了前に始まったクトゥーゾフ作戦は、別の部隊群が担うことになった。このころから発揮され始めた連続攻勢や深い突破の能力が「作戦術」とひとくくりに呼ばれることが多いが、それは「物量の優位を具体的戦果に変える方法」であって、優位もないのに攻撃ばかり命じて自分の損害を増やしてきたソヴィエトの頑固さが、ようやく報われ始めたのである。


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 テレベン(現ロシア共和国、カルーガ州Теребень)は森の中にある三叉路の村である。オリョールの北西80kmにあり、当時は南西のブリャンスクから(主に木材を積み出すための)鉄道も伸びていた。


 ここはもともと戦線後方だったが、オリョール突出部の根元を切ろうとするソヴィエト軍が迫ってきたので、後方で対パルチザン戦をやっているような3個大隊がかき集められた。少佐になったゲオルク・ベーゼラーガー(第35話と第41話に登場)は「中央(軍集団)騎兵連隊」の連隊長にしてもらっていたが、4つ目の大隊として、編成途中の連隊から大隊規模の応援を出すよう命じられ、馬なしで列車に乗ってやってきた。連隊長自らの指揮である。


「撃ち負けているな」


 ベーゼラーガーは誰にも聞こえないようにつぶやいた。あまり正確とは言えない迫撃砲弾が、しかし村の規模を考えれば多数降っていた。森をくり抜いたように存在する村だから、森を抜けて人家に近づいたあたりが機関銃の照準先だった。かつて人家であったものが、戦闘のせいで次々に焼け崩れ、村はやせ細っていた。まだ夏で、外で寝られることは救いだった。


 背後からロシア語が聞こえることに、ベーゼラーガーは慣れてしまっていた。もう経験ある騎兵の補充は難しいから、連隊は多くのコサック兵を受け入れていた。ドイツの軍服を着たコサック兵は捕虜になどなれないのだから、裏切りの心配はしていなかった。


「少佐殿、師団からの伝令です」


 大隊本部の従兵が声をかけた。第707歩兵師団は1941年に編成された、およそ前線での戦闘はできない兵質の師団で、占領地が広がった1941年秋に仕方なく東部戦線に呼ばれて、ずっと後方の治安戦をやっていた。だからもともと歩兵師団が持つべき補助部隊の多くが欠けていて、ベーゼラーガー隊のような外部の手伝い部隊を管理する本部のようになっていた。この持ち場も、そういう意味で第707歩兵師団の指揮下にあった。


 命令は可能な限り士官によって士官に伝えるのがドイツ軍の原則である。だから大隊副官になったら寝る間がなく、平時には出世の登竜門にもなる。伝令兵士が持ってくるのは報告か通知のたぐいである。


「増えたか。イヴァンの攻撃部隊に、4つ目の歩兵師団が確認されたそうだ」


 無線傍受か、捕虜の尋問か、情報の出所は伝令から差し出されたメモには書かれていなかった。情報を整理・評価する人手の余裕は、師団司令部くらいまで上がらないと存在しない。横の大隊長が「聞いても仕方ない情報だな」と言いたげに首をすくめ、メモを受け取って一応目を通した。弟のフィリップ・フライヘア・フォン・ベーゼラーガー大尉が大隊長である。


「師団の充足率については、最初の冬(1941/42年)から当てになりませんがね」


 伝令は大隊副官から受領サインをもらって帰っていった。ベーゼラーガー隊は友軍側に延びる道の出口にいた。村内の持ち場を保安大隊に任せ、ここから左右の森に前哨を出していた。ここにいる兵士の半分はすぐ戦闘に入れるよう待機していて、残り半分は寝ていた。ソヴィエト軍は昼夜関係なく森を浸透してくるから、昼も兵士を寝かせておく必要があった。もちろん気まぐれな迫撃砲弾を防ぐ手立てはないのだが。森の中なら安全なように思えるが、枝に当たった砲弾は頭上から弾片をまき散らすし、太い枝や木の先端部が不規則に折れ裂けてそれに加わるのだから、やめたほうがよかった。


 軽傷の負傷兵たちと、後送できない捕虜たちが避難壕を掘っていた。地面を斜めに掘り下げて、すこし水平な部分も作る。壕の上に頑丈な木材を平行に渡し、ロープや枝で1枚の「フタ」にする。フタの上に土を盛って固めると、直撃弾以外には安全な空間ができた。砲兵が待機場所としてよく作る壕だが、いまのベーゼラーガー隊にはちょうど良かった。残念ながら木の根が邪魔で、掘れる場所は限られていた。


 ガサガサと茂みが揺れて、前哨の一隊が帰ってきた。何も持っていない兵士が先頭、短機関銃を持った数人が続き、軽機関銃チームが一番最後だった。撃ち合いになれば敵の銃火は軽機関銃チームに集中するのだから、気楽なご身分とも言えない。チームを率いていた上等兵が敬礼して言った。


「報告。敵の前哨2隊と交戦し撃破しました。兵ばかりでした」


「了解した。大隊副官に報告したら中隊に戻れ」


「兵ばかり」というのは、指揮官が持つような書類や地図は押収できなかったということである。ゲオルクは上等兵を下がらせた。報告を書類にまとめるのも大隊副官チームの仕事で、タイプライターの打てる兵士はこうした仕事が降ってくるから、生存率が少し上がった。


 こうした毎日を繰り返すうちに2週間ほどで、ツィタデル作戦の攻撃部隊が戻ってきて戦線を引き継ぎ、ベーゼラーガー隊は帰還することができた。森林地帯は、数的優勢を発揮するには適していないところだった。


 このような小さな勝利や、一時的な勝利は、まだまだ東部戦線のあちこちでドイツ軍にもたらされ続けた。しかしもう、それを利用して政治的成果につなぐチャンネルは失われてしまっていた。


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「俺たちの戦いはこれからだ」


 言い放ったポポフは、小さな声で続けた。


「異論はあるだろうが、俺は受け付けない」


 遠慮がちな笑い声が、しかし広く、ブリャンスク方面軍の幕僚や従兵に広がった。


 すでに語ったように、クトゥーゾフ作戦は、オリョール突出部を北から押しつぶすものである。突出部の基部に近い西側は西部方面軍が担当し、その中には前年春のハリコフでの失態で左遷され、そこから()い上がったバグラミャンの指揮する第11親衛軍もいた。先端に近い東側のブリャンスク方面軍が、攻勢発起直前、ポポフに委ねられた。春の第3次ハリコフ攻防戦で負けたポポフはそれまで、ステップ軍管区司令官という肩書で、クルスクからコーカサスにかけて南北に広い地域で、スターリンの予備軍を一手に預かっていた。これは降格というほどではないが、前線から外されて反省期間を与えられ、早くも4か月後に、方面軍司令官への(再)昇格を勝ち取ったのである。攻撃に失敗したソヴィエトの指揮官は、防御に失敗した指揮官よりも期待余命が長かった。


 ポポフが引き渡したステップ軍管区もステップ方面軍に改組され、大戦前半はジューコフの冴えない脇役を務めることの多かったコーニェフが譲り受けて、ルミャンツェフ作戦に参加していた。


「同志スターリンからの異論でも受けないというのかね」


「もちろんそんなことはありません、同志中将」


 ポポフはにこやかに、この厄介者の政治委員に答えた。1942年夏のクリミア戦線で失脚したメフリスはまだ中央のポストに戻れず、あちこちの方面軍司令部で軍事評議会委員となっていた。メフリスをつけられたことが懲罰……と言えなくもなかった。


 メフリスの武器はスターリンへの告げ口であったのだから、スターリンの信を失っては、たいした意地悪もできないのであった。クリミアでの大失点をいくらか取り返したのか、メフリスは大戦後半にも司令官解任につながる陰口をスターリンに叩いたが、ポポフは無事に済んだ。


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 ドイツ軍は精一杯の対処をした。7月13日午後から、モーデルが第9軍と第2装甲軍の司令官を兼ねたのである。オリョール突出部はほぼモーデルがひとりで指揮することになり、乏しいリソースだが軍の受け持ち境界を越えて自由裁量できることになった。穀倉地帯であり鉱産資源豊かな南ウクライナの保持をヒトラーは重視していて、モーデルがルジェフ戦域に続いてオリョールでも退却し、戦線をまっすぐにして反撃できる戦力をひねり出すことを黙認した。


 突出部の北半分にいるのは、攻勢に参加できない弱体化した師団ばかりだった。だが彼らにはまだ機関銃と、そして春からせっせと敷設した地雷があった。彼らは次々と、ソヴィエト軍に請求書を発行した。血と鉄と火薬が支払われていったが、1943年の春を比較的平穏に過ごして、ソヴィエト軍にはもう十分な貯金があった。アメリカやイギリスから受け取ったものもあるが、東へ疎開させた工場もゆっくりとしか立ち上がらず、ようやく成果が積み上がってきたのである。


 森と湿地が相対的に少ないウクライナは、戦車の大規模な投入に適していた。だから1943年秋から1944年早春にかけて、フィンランド軍を退けてレニングラードの包囲を解いたことを除けば、ソヴィエトはまずウクライナを攻めることになったのである。


第43話へのヒストリカルノート


 実際には、オリョール撤収作戦は7月22日に発令され、31日までにあわただしく終了し、フトール・ミハイロフスキー方面での爆破事件はその間に起きて2日間列車を止めました。そのときすでにオリョールは混乱のさなかであったはずで、例によって大河ドラマ的に時系列がずれています。




 テレベンの約4個大隊は「ヴェニンガー戦闘群」を構成していました。伝令が師団から直接来るところは、ちょっと大河ドラマ的な嘘があります。当然戦闘群長のところに来て、ベーゼラーガー隊にはそこから伝えられるはずです。



 この時期、ロンメルは総統司令部の客分のような立場にいました。1943年7月13日、会議を終えたふたりの軍集団司令官が一泊する際、夕食は3人になりました。マンシュタインの副官だったシュタールベルクの回想によって、この印象的な夜の様子が歴史に残ることになりました。クルーゲが寝室に行った後、ドイツの将来の話になって、ロンメルがマンシュタインに「元帥に自分は従う用意がある」と言ったのです。


 関与の度合いはともかく、ロンメルは1944年のヒトラー暗殺の陰謀をおそらく知っていたでしょうが、少なくともこの時点ではトレスコウ・グループとの接触はなかったでしょう。とするとロンメルも指揮部隊のない徒手空拳、思い付きの発言と言われても仕方がありません。


 架空戦記であればどうにでも利用できるエピソードですが、史実に基づいて書くとすれば、このシーンはどこにもつながらないデッドエンドと考えるほかなさそうです。



 テッベルは、7月13日にヒトラーがシチリア島を引き合いに出したのは、自分の軍集団に強力な部隊をとどめたいマンシュタインと言い争いをしたくないので、マンシュタインに言い負かされない他戦線を挙げたのだろうと推測しています。実際には7月下旬にルミャンツェフ作戦への反撃のため、LAH師団以外のハウサー軍団を含め、多くの装甲師団をマンシュタインの手元に残すことになりました。



 テレベンはホティネツ市(Хотынец)から北へ30kmほどです。テッベルが7月26日「ホティネツ北方にあった戦線の穴」はすでにドイツ軍がふさいだと書いているのは、ベーゼラーガーたちの持ち場をグロスドイッチュラント師団の一部が引き受けたことも含んでいます。


 テッベルはクトゥーゾフ作戦の中で、ソヴィエト軍が機会をとらえて進行方向を変えれば、ドイツ軍の大集団を包囲するチャンスがあったことを批判的に書いていますが、それは歩兵と戦車と砲兵と兵站が呼吸を合わせた場合のみ可能で、そういう戦い方を思い切って捨てた「身も蓋もなさ」が大戦末期ソヴィエト軍の強さの秘訣(ひけつ)であったように思います。



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