第42話 チュニジアからクルスクへ
ヒトラーが盛んに人事をいじくっていた1942/43年冬のシーズンを締めくくるのは、1943年3月1日、グデーリアン上級大将の装甲兵総監への叙任だった。
従来から、似たようなポストはあった。ひとつはInspecteur der (兵科名)というポストで、その兵科の訓練計画やマニュアル作りを統括する。戦時には予備軍司令官の下につく。グデーリアン本人も、1938年に快速兵総監をやった。もうひとつはGeneral der (兵科名)というポストで、参謀本部における作戦上の兵科顧問のような位置づけである。
グデーリアンの役職名はGeneralinspecteur der Panzertruppenであり、Generalのほうは自分が引き継ぎ、Inspecteurは別の人にやらせて指揮下に置いた。総統直属だから参謀総長の指揮にも服さない。特命大臣のようなもので、権限範囲がはっきりしない。いかにも、危機に際して総統直命で置かれる役職である。
だが、Panzertruppenのほうにも仕掛けがある。「快速兵」が「装甲兵」へとさらに概念拡張された。このときグデーリアンは、自動車化歩兵を丸ごと歩兵科からもぎ取ったのである。1943年に「装甲擲弾兵師団」への一斉改称があり、軍服のパイピングが歩兵の白から黄緑に変わるのは、そのせいである。
前後して、従来砲兵科がすべて受け取っていた突撃砲を、毎月決まった数だけ装甲兵が受け取れるようにした。そしてそれは消耗した装甲師団に戦車の代わりに配属されたり、対戦車自走砲の代わりに歩兵師団などに配属されたりするようになった(対戦車砲部隊は戦前から戦車部隊の一部で、歩兵連隊の対戦車中隊は例外的に歩兵科で充員・訓練する)。開戦時に優良歩兵師団の対戦車大隊は37mm対戦車砲3個中隊36門を持っていたが、1941年以降にどうしても75mm砲でなければ威力が足りないということになって、行き詰まってしまった。75mm砲をけん引できる車両の数も、整備能力も足りなかったのである。1942年のあいだは、75mm対戦車砲弾が足りないという根本的な問題があったが(アフリカに送られた長砲身75mm砲装備のIV号戦車がたちまち弾薬切れになって、砲弾なしで連れ回されていた話は有名である)、1942/43年冬から対戦車自走砲がまず装甲師団に、次いで歩兵師団にも1個中隊14両程度を配属できるようになってきた。これが突撃砲に変わったのである。
このように、グデーリアンは一種の政治将軍として資源配分戦に挑み、シュペーア軍需大臣らと協力して航空機向けのリソースをいくらか戦車に分捕るなど奮闘を見せた。だがドイツと連合国の生産力比そのものを変えることはできなかったから、それで勝てるというものでもなかった。
[2025年5月訂正:英仏と戦うことは陸軍の計画にはなく、予備軍の手を離れた実戦部隊についても基礎的な兵質向上を指導する必要が出てきました。General der(兵科名)はこの仕事をするため追加されたもので、Inspecteurたちとやっていることは同じなのだそうです。]
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シチェメンコ少将は、ソヴィエト軍参謀本部でトルコ、イランなど中東方面を担当する、だんだん古参になってきた課員だった。だからヒトラーがコーカサスに攻め込んだ1942年後半は現地指導も含めて気の休まらない日々が続いたが、そのおかげで参謀本部そのもので生じていた重大問題から距離を置くことができていた。
1942年5月、高齢のシャポーシニコフは参謀総長を降り、ワシレフスキーが昇任した。ワシレフスキーはSTAVKA代表として各地へ出張することが多くなり、参謀総長代理兼作戦課長としてスターリンへ毎日の報告をしていた仕事を、誰かがやらなければならなくなった。ところがこれは、スターリンの質問に細大漏らさず正確に即答しなければならず、誰にでもできるものではなかった。いや、ほとんど誰にもできなかった。作戦課長室の前は待合室のようになり、作戦課各担当部署の代表が突然のスターリンの質問に対して作戦課長を助けるべく、だらだらと時間を過ごした。それでもスターリンの不興を買い、作戦課長たちは次々と入れ替わった。
この状況を、当のワシレフスキーが心苦しく思っていた。そして現地指導先のザカフカズ方面軍司令部から、「これは」と引き抜いて参謀本部に送ったのが、アントノフ中将であった。
「おはようございます、同志中将」
「おはよう、同志シチェメンコ」
引っ越し直後の作戦課長室には本棚に空きが多かったが、それを埋め合わせるように机の上に本と書類が積まれていた。赴任したアントノフが、スターリンにも伺候しないで、ソヴィエト軍の全体的状況についてひたすら予習をしているのである。
「明日、同志スターリンに面会したいのだが、手続きはどうなっている」
「お認め頂ければ私のほうで、同志スターリンのご都合を問い合わせてみます」
「頼めるか。ありがとう」
それっきりアントノフは書類に目を落としてしまったので、シチェメンコは敬礼して退出した。夢中になると愛想も何もなくなるところは学究肌だった。本当は騎兵連隊にずっと勤めたかった、自認するところでは現場脳のシチェメンコなどとは人種が違う。開戦以来東部戦線の南半分で勤務し続けてきたアントノフは、中東担当のシチェメンコと知らない仲ではなかったから、その優秀さと気質はシチェメンコも知っていた。
作戦課長室を出てきたシチェメンコに、後輩士官が食いついた。といっても声は小さくなった。
「どう思われます、同志少将。その……」
「彼がこれだけ準備しているんだ。やりとげるさ」
「そうだと助かります」
「君が助かるわけじゃないだろう」
若い後輩は苦笑いして離れていったが、これはシチェメンコにはブーメランだった。アントノフはスターリンに大いに評価され、作戦課長を続けるだけでなく、半年後に参謀総長代理に任じられたから、作戦課長のポストはシチェメンコに下りてきてしまったのである。以後ほとんど終戦近くまで、ふたりのコンビが毎日のスターリンへの報告と参謀本部命令起案を引き受けていくことになったのであった。もっともふたりとも、STAVKA代表またはその随員としてモスクワにいないことも多かったのたが。
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アメリカやイギリスがソヴィエトを援助するルートは、大きく分けて4つあった。最も早くから使われたのは、いわゆるムルマンスク船団ルートである。北極海を渡って、ソヴィエトのムルマンスクやアルハンゲリスクに届ける。Uボートとノルウェーからの航空攻撃、時にはドイツの大型艦による攻撃もある。
アメリカ西海岸から、ソヴィエト船籍の貨物船でウラジオストックに入るルートは、日ソ中立条約を活用するものだから武器を積むわけにいかず、食品や衣料品が中心になった。運んだ重量で言えば、4つのルート中で最も比率が高かったと言われる。
ソヴィエトのパイロットをアラスカに受け入れ、シベリア経由で空輸するルートはアルシブルートと呼ばれた。航空機も送られたし、高品位の機械油などかさ張らないものは輸送機で送られた。
Persian Corridorと呼ばれたルートが開かれたのは、実質的に、最後になった。ペルシア(現在のイラン)は1941年8月にイギリスの保障占領を受けた。ここから喜望峰周りの船団輸送、さらに鉄道輸送でソヴィエトに物資を送れるはずだったが、一方的な占領だったからペルシアは積極的に協力せず、イギリスにも輸送ルートの能力を上げていく余裕がなかった。1942年11月からアメリカ軍が現地司令部を設置し、ペルシアルートによる輸送が本格化した。
アメリカはソヴィエトに36万両余りのトラックを送ったが、ペルシアルートはこうした極東ルートで送りづらい軍用品の輸送力を飛躍させた。大戦を通じ、ソヴィエト軍は兵士をトラックで運ぶ自動車化歩兵を持とうとしなかったが、物資の輸送力は大きく向上した。それは弾薬をどっさり送って攻勢開幕時に撃ちすえる、ソヴィエト軍の典型的な勝ちパターンの基礎となったのである。
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すでに触れたように、1942年12月にイタリア第8軍はヴォロネジ方面軍から激しい攻撃を受けて敗走した。そしてクルスク市を中心とする地域をドイツ軍は失った。
泥の季節のあいだに、スターリンは将軍たちに「ドイツは次にどうすると思うか」意見を聞いた。「クルスク突出部の除去ではないか」と異口同音の答えが寄せられた。軍人が地図を見れば、まず思いつく作戦であった。
では、誰でも考え付くクルスク攻撃(ツィタデル作戦)を提案し推進したのは誰か。戦後長いこと、ヒトラーが命令者であり推進者であるような理解がされてきたが、どうもこれは失敗した作戦について、関係者が印象操作をしたのではあるまいか……という疑念が最近……といってもここ30年くらいの間に検討された。
1942年春以来、ドイツ中央軍集団が果てしない出血をしてきたルジェフ突出部は、1942年秋の火星作戦でジューコフの目標となった。これをはね返した後の1943年早春、中央軍集団は段階的にルジェフ方面から撤退した。これで戦線がまっすぐになり、守る兵力が節約できたのだが、そうなるとその南、クルスク突出部のすぐ北に、ドイツ側から突き出したオリョール突出部ができてしまった。
すてにマクロ的な劣勢は動かない。だが「有利な血の取引」の機会を求めず、作らずに過ごすとしたら、その劣勢はますます大きくなるのではないか。そうだとすれば、有利な場所はやはり敵の突出部である。もちろんドイツが自分でオリョール突出部から撤退して戦線をまっすぐにすれは、浮いた戦力を別の場所で賭け金として積み上げることができるのだが、それはヒトラーが断固として認めなかった。ハリコフで目に見える実績を積んで総統を黙らせたツァイツラーとマンシュタイン、そしてシュミット上級大将など周囲の将軍たちが、ヒトラーと対案を出し合い、妥協して選んだのがツィタデル作戦であった。
ツィタデル作戦の著しい特徴は、「バレていた」ことである。ソヴィエトの予想通りの作戦を仕掛けるドイツの動きがバレるのは当然であるが、イギリスのウルトラ暗号解読でも発覚した。チャーチルは情報源を伏せて判明した事実だけを伝えた。それは信じてもらえなかったと思われてきたが、実はウルトラ情報解読班そのものにソヴィエトのスパイがいたため、スターリンは情報の出処を知ることができたし、偵察結果を集めて見るとドイツ軍の集結は明らかだった。ご丁寧にドイツ空軍は6月後半、従来あまり力を入れなかったソヴィエト戦線奥深くの工業地帯を次々に夜間爆撃し、加えて念入りにクルスク周辺の鉄道と飛行場を襲撃したので、ますます攻撃目標ははっきりした。
だからソヴィエト軍首脳は、「クルスク突出部を攻めさせて守り切り、ドイツ軍が弱ったところで北からオリョール突出部を切り取り、大包囲を目指す」という作戦を立てた。スターリンはこれを裁可した。
いっぽうソヴィエトはクルスク突出部のふたつの根元での防備や、クルスクを守り切ったらすぐ始めるオリョール包囲作戦(クトゥーゾフ作戦)の準備をひた隠しにしたが、それはあまりにも大規模であった。航空偵察のほか、時々夜中に敵陣を襲って捕虜を取るといった伝統的な方法で、十分に「ヤバい奴らが集まっている」レベルの敵情はドイツにも察せられた。ソヴィエト軍はクトゥーゾフ作戦の準備をカバーするために、バレるのを承知でクルスクの根元を固めたとも言われるが、まあ、互いにバレた。
そうなるとドイツでも全力をクルスクに叩き付けるのは得策ではない……と考える将軍もいて、意見は割れた。
グデーリアンはブレーキ役だった。装甲部隊は傷ついており、再建に時間が必要だった。マンシュタインはアクセル役をつとめた。グデーリアンはドイツ戦車を増やすことに関心を寄せたが、ソヴィエト軍が強化される速度はドイツ軍を上回っているのだから、ためらいは破滅の予約だった。ツァイツラーは当初マンシュタインに共鳴していたが、ソヴィエトの防備に関する情報が上がってくるにつれ、6月には「中止したほうが良いのではないか」とヒトラーに口にするほどになった。
モーデルもツァイツラー同様、攻撃が延期されるにつれて、ソヴィエトの攻勢阻止に全戦力を振るべきではないかと考え始めた。控えめに言っても、モーデルの迷いはヒトラーをも迷わせた。
モーデルは軍人一族の出ではなく、才幹を認められる一方で、その上昇志向の強さに顔をしかめる先輩も多かった。第3装甲師団長として東部戦線に出たのが、装甲部隊の初めての指揮だった。モスクワ戦では装甲軍団長に出世して北側からモスクワを回り込もうとして果たせなかった。1942年1月から第9軍司令官として泥沼のルジェフ攻防戦を続け、年末の火星作戦でジューコフを退け、そのあと平穏にルジェフ突出部から撤退して戦線をまっすぐにし、第9軍を丸々フリーハンドにして、新たな持ち場であるオリョール突出部へとやってきたのだった。普通ならこんな後退はヒトラーが認めないが、「攻勢で使うためにモーデルの軍を引き抜くのです」と(まだどこを攻めるか決まらない時期だったが)ツァイツラーに言われて、同意したものであった。
ヒトラーが集めた(比較的)お気に入りのメンバーは、ヒトラーに良いニュースをもたらす代わりに、口々にいろいろな利点や欠点を言い立てて、総司令官としての決断を迫った。ヒトラーは精一杯逃げた。作戦は5月から7月にずるずる延期された。パンター戦車の初期不良への対処は、ヒトラーにとっては格好の逃げ口上になったかもしれない。のちに7月の作戦開始直前にもヒトラーは軍首脳の前で演説し、パンターやティーガーの数がそろうのを待って延期してきたのだと説明したが、将軍たちはそれらが今のところ、それほどの数ではないことを知っていた。
ヨードルは連合軍に拘禁されてからのインタビューで、「ヒトラーは1942/43年の冬までにはこの戦争に勝利はないと悟っていただろう」と答えている。もちろんヨードルが1942年夏以降の不遇を嘆くのはもっともな話だが、ヒトラーにとって敗北はおそらく自分の死を意味するのだから、簡単に受け入れられるものではない。そうした大きな迷いの中に、クルスクをめぐる迷いは位置づけるべきかもしれない。
もちろんソヴィエトにも迷いはあった。バトゥーティンは自分たちから仕掛けたかったし、スターリンも内心は(相変わらず)そうだった。だがジューコフとワシレフスキーが当初の方針を押し通した。誰を重んじるかについて、スターリンは前の夏に決めたことを守った。
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<ご負担をかけて申し訳なく思います。我々も全力を尽くします>
テスケは付箋に走り書きすると、軍集団後方監の日次報告書にクリップで留め、若い士官を呼んで届けるように言いつけた。
テスケもかつて師団補給担当参謀だったことがあった(第22話)。師団補給担当参謀も師団司令部とは別の小さなチームを率いて、師団補給指揮官を通していろいろな非戦闘部隊をコントロールしていた。「非戦闘部隊」には補給以外にも郵便、憲兵・法務、捕虜管理などが含まれ、全体として大規模になる。
軍団以上の高級司令部では、その指揮官はOberquartiermeisterといったが、ここでは後方監と訳しておく。参謀長が率いるチームは作戦指導が仕事であり、別系統であって、建前としては後方監は軍司令官に直属する。この後方監のチーム(Oberquartiermeister Abteilung、後方監部)が補給を始め、多くの(人事関係は参謀長チームの副官部が担当するなど、全部ではない)後方任務をつかさどる。だから道路を直す建設部隊、軍集団の倉庫管理や荷役を行う部隊、軍集団直轄のトラック部隊などは、こちらに属する。
テスケが率いているのは鉄道輸送関係の部隊であり、原則的には軍集団の持ち物ではないが、応援チームのように軍集団の下についているものである。1943年初め、テスケがフィンランドから転任して中央軍集団輸送監になったとき、輸送監部と後方監部の報告に「送った」「届いてない」といった食い違いがたびたび見つかって、司令官や参謀長への説明に時間を取られた。テスケは後方監部と話をつけて、あらかじめ互いの報告書を見せあい、整合性を持たせることにしたのである。
ツィタデル作戦が近づくにつれ、必要輸送量は激増したのに、ブリャンスクからオリョールに至る路線でパルチザンの鉄道妨害は激しくなった。1942年に建設部隊が1車線だけ丸太を敷き詰めたような、アスファルトとは無縁の道路だったが、後方監部はトラック輸送でせいいっぱい鉄道輸送の不足を補ったのである。だからテスケとしては、「微力ですみません」といったコメントをするしかなかった。そしてテスケにとって、トラック部隊の奮闘は、どこか他人事であった。
兵站部隊と言うものがあり、ただひとりの兵站指揮官がいるのであれば、その意思決定の良しあしはシンプルに論じられるのであろう。だが部隊に平時から組み込まれた馬車やトラック部隊、戦時動員されて師団以上の直轄部隊となる馬車やトラック部隊、ドイツ国有鉄道ライヒスバーンとそれを管轄する運輸省、検収と保管と品出しをつかさどる本国の(何系統かある)地域司令部、OKWのもとでそれを統括する予備軍司令部、補給物資の割り当てを中心とするOKH補給総監部、鉄道輸送と内国水運統制を中心とするOKH輸送総監部にはそれぞれ人的物的資源の制約があり、経緯と思惑があった。例外事項をリストに加えればまだまだあり、空軍が工面してきた野戦鉄道設備一式をどこからか手に入れて空軍野戦師団のために使い、これは空軍所属だからテスケの指揮には服さないと言い出したときは、中央軍集団司令官のクルーゲに口添えを頼んだが、ゲーリングに逆らう協力はもらえなかった、逆にOKH輸送総監部は海軍からバルト海の海運統制権を譲ってもらって統一運用しようとずいぶん運動したのだが、聞いてもらえなかった。
みんな、自分にできることをするしかなかった。テスケの指揮下で、鉄道工兵部隊がいくつか野戦軽便鉄道を敷設し、トラック部隊の負担を減らす努力をしていた。だがそれは実を結ぶのに時間がかかるものであったし、1942年秋のB軍集団で生じたように、退却があれば無駄になってしまうものでもあった。
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ロンメルを破ったイギリス第8軍は、1943年1月下旬にようやくトリポリに入り、2月のうちに港の復旧を進めた。トリポリ手前では、ドイツがトリポリの良い飛行場を使えるのにイギリスは程度の悪い野戦飛行場しかなく、またいくらかロンメルに時間を稼がれた。
物資補給にトリポリ港を使うことで、モントゴメリーはオーキンレックとリッチーが1年前に陥った困難を回避して、第8軍の大半を最前線近くに集めることができた。それまでは限られた戦力で進んでいかねばならず、距離という防壁が8月のエルアラメインから2月のトリポリまでモントゴメリーを阻んで来たともいえる。2月中旬、ロンメルの最後の部隊がリビアを明け渡し、チュニジアのマレト防衛線に退いた。
すでにチャーチルとルーズベルトのカサブランカ会談で、モントゴメリーがアイゼンハワーの指揮を受けることで話はついていた。カセリーヌ街道(日本で峠と呼ばれる地形でないという話は第41話で取り上げた)の戦いでアメリカ軍に対して小康を得たロンメルは、東のイギリス軍に対して攻撃計画「カプリ作戦」を立てた。あまり語られることがない攻撃である。
この作戦はドイツ軍が守るマレト防衛線の内陸側から出撃し、イギリス軍の背後にあるメドニンの街を取ってしまおうというものであった。だがロンメルの成功を支えてきた情報の優位は、もうなかった。エニグマ暗号機のディスクを一斉交換するのは近場の陸上部隊相互では比較的容易だから、イギリス軍は暗号解読を空軍、海軍、高級司令部の順に進めていったのだが、北アフリカでは例外的に局地的な陸軍部隊間通信も解読していた。そして攻撃計画の概略が漏れてしまった。急いで増援が呼び寄せられ、3月6日の攻撃を迎えた。ロンメルは52両の戦車を失ったが、45両は対戦車砲による戦果だった。モントゴメリーの戦後の回想はエニグマ暗号解読がまだ秘密だった時期のもので、勝利の要因をすべて書くわけにはいかなかったが、モントゴメリーが言うようにあまりにも「いつものロンメルのやり方」であり、もう奇襲性がなかった。モントゴメリーは追撃せず、じっくりとマレト防衛線攻略作戦を準備した。3月16日、モントゴメリーはようやく動き出した。
ロンメルがメドニン攻撃に使ったルートよりさらに南に、マレト防衛線の背後へ大回りできそうな入り口があった。イギリス軍が負け続けている時期からずっと地中海で戦ってきたフレイバークのニュージーランド第2師団が、この「左フック」ルートを引き受けた。20日にはドイツ軍も気づいたが、モントゴメリーは構わず強攻させた。ドイツの予備は海岸沿いを攻める陽動攻撃に引き付けられていて対応できず、イギリス空軍もリスキーな陣地攻撃を続けて、28日にはマレト防衛線はイギリスのものになっていた。
すでに3月9日、ロンメルはアフリカを離れていた。ケッセルリングの回想に、「ロンメルがアフリカを離れてくれるというので、喜んでダイヤモンド柏葉剣付騎士十字章の推薦書類を書いた」とあるので、ロンメル本人を除く大人たちの相談では、離れたときにはもう戻さないことが決まっていたに違いない。
パットンに叱咤されたアメリカ第2軍団は、真東のカセリーヌ方向ではなく、南東にマレト防衛線の裏側へと向かった。数的劣勢のイタリア軍を地雷原が支え、パットンは前線に出て士官たちにかみついた。
マレト防衛線を追われた枢軸軍はワジ(雨季にだけ流れる枯れ川)を守りに使い、戦車が通れないので歩兵たちの陰惨な戦いになった。ついに突破が成功すると、パットン軍団を何度もはね返していたイタリア軍も退き、連合軍は東西がつながった。4月7日になっていた。
パットンが難渋したように、ドイツ軍やイタリア軍が地雷原や有利な地形を使って守ると、それを一蹴できるほど連合軍の優位は大きくなかった。慎重に物資を貯めて戦い、そのうえで犠牲を冷徹に受け入れるモントゴメリーは、枢軸軍の天敵であった。モントゴメリーがチュニジアで高い地位にいなかったら、ここでのドイツ軍はあと何か月か持ちこたえたかもしれない。
ヒトラーがどの時点でチュニジアはもうだめだと思ったのか、確定的な資料はない。しかし4月になると、膨大な装甲車両の整備などが間に合わず、東部戦線のツィタデル作戦が5月1日には開始できないという現地司令部の上申が相次ぎ、それに対しヒトラーは決行を言い張る理由に「チュニジアで決定的事態が生じないうちに」と言い出したので、早ければカプリ作戦の失敗を見てロンメルを呼び戻したころ、遅くとも東西の戦線がつながった4月上旬であろう。
第42話へのヒストリカルノート
この小説は「日本語では読めないもの、政治関係などミリタリファンが普通そこまで読みに行かないもの」を中心にお送りするのがコンセプトです。クルスクについては、ソヴィエト崩壊以来色々明らかになったことを(もちろんドイツ側も)ショウォルター『クルスクの戦い1943: 独ソ「史上最大の戦車戦」の実相』(白水社)とテッペル『クルスクの戦い 1943 第二次世界大戦最大の会戦』(中央公論新社)が総ざらえしてしまったので、飛ばして次に行きたいくらいですが、なるべくネタ被りを避けて書こうと思います。概説としてのバランスが悪くなっている可能性については、あらかじめお詫びします。
『泥の季節のあいだに、スターリンは将軍たちに「ドイツは次にどうすると思うか」意見を聞いた。「クルスク突出部の除去ではないか」と異口同音の答えが寄せられた。』というのはグランツ&ハウスの著作にある話で、つまり、ソヴィエト側で語られていることです。あとで出たショウォルターの著作ではこのエピソードは取り上げられず、比較的あとになってジューコフが現場近くからの報告を挙げ、ドイツ装甲部隊の集結をスターリンらに確信させたことが重視されています。「我々は根拠を持って早くから準備していた」ことをソヴィエト軍の記録は誇張しているのかもしれません。ショウォルターのタイムラインを前提とすると、もし5月にドイツが仕掛けていたらクルスク突出部の根元に特別な防備はないことになりますが、ドイツ軍の回復もそれだけ不十分でした。
クトゥーゾフ作戦の準備にドイツ側は気づいていたという(ドイツ側関係者の)主張にショウォルターは懐疑的で、7月12日のクトゥーゾフ作戦開始を受けて13日からモーデルの装甲部隊が北へ向かっていくのは読みのうちでもなく、それほど迅速でもなかったと論じます。
ダイヒマンは東部戦線から地中海においてケッセルリングの参謀長でしたが、クルスクではモーデルたちを支援する第1航空師団長でした。ダイヒマンはクルスク戦開始2日前に東プロイセンで開かれた総統列席の会議に出席しました。ここでヒトラーは、これから南東に攻めようとする中央軍集団・第9軍に対しソヴィエトが北から攻勢をかけてくる可能性について触れ、そうなったらすべての空軍部隊をその守りに充てると述べました。実際、ソヴィエト軍はクトゥーゾフ作戦を発動し、オリョール突出部を切り取るように進出してきました。ここを守っているのが第1航空師団でしたが、ヒトラーの言うとおり相当な増援をダイヒマンは受け取りました。危機の数日間は空爆に明け暮れ、増援が来なくなったころソヴィエト軍の突出も止まりました。
ダイヒマンの報告書は公刊されていますが、アメリカ「陸軍航空隊」の求めに応じて書かれた、地上支援や戦術偵察のシステムを中心とする報告書であるため、あまり顧みられていないように思います。この小説では、モーデルを含むドイツ側がクトゥーゾフ作戦の準備をおぼろげに察知し、少なくとも懸念していたという見方を取ります。ただドイツ軍は「全般的な警戒」以上の再配置をしておらず、スターリングラードの天王星作戦に続いて、「どこから主力が来るか」をソヴィエトが隠し通したことは認めて良いと思われます。
おそらくマンシュタインは、自分のような優れた将軍が作戦的勝利を積み重ねることによって、1943年時点であってもまだ講和のために「交渉の余地のある全般的戦況」が作れると思っていました。ですからマンシュタインは、少なくとも自分が大兵団を指揮しているうちはヒトラー打倒計画に乗らなかったのでしょう。そして戦後になっても、クルスク戦などいくつかの作戦について「あのときは惜しかった」という語り方をしました。パウル・カレルにもそういう傾向がありましたが、雑誌ライターとして(ドイツの)読者の反応を頼りに生きている立場では、当時の「売れる文章」はそうしたもので、マンシュタインとの共謀があってもなくても彼はそうしたのではないかと思います。
実際のところ、中途半端な和平ではヒトラーの個人的破滅が待っていることを考えに入れれば、1942年以降に「ヒトラーを排除しない和平のチャンス」はなかったのでしょう。20世紀末のソヴィエト・東欧の崩壊は大きな契機ではあったでしょうが、やはり近年のドイツでのこうした議論は、当時の偉い人たちが全員鬼籍に入ったころでないと、遠慮なく口に出せなかったのではないかと思います。




