第41話 暗い渦巻
よく景気対策補正予算のニュースで「真水」という表現が出てくる。「補正予算何兆円」と報じられても、企業に「貸す」ための予算は企業のものになるわけではない。助成を受けた金融機関や企業が出す支出まで「事業規模」に数えている場合もある。政府が民間に払う額の純増だけを数えたものが真水である。マンシュタインの軍集団が反撃のために用意されたと言っても、この真水に当たる戦力が少なかった。前線にもともといる部隊を再編し改名して救出部隊をこしらえても、それで戦局が大きく好転するわけではなかった。12月に入って始まった救出作戦は、ヒトラーがスターリングラード側からの脱出作戦を拒否し続けたために、2週間で中止するしかなかった。この2週間だけを切り取れば、ツァイツラーがヒトラーに敗れた戦争であった。
だがツァイツラーはカフカズ(コーカサス)のA軍集団については勝利した。ヒトラーが迷って、つい後退を許可してしまった一瞬のスキを突き、「総統の命により退却作戦を開始するので準備せよ」という短文の命令を送ったのである。数時間後にヒトラーは命令を取り消そうとしたが、軍集団全体に退却命令が行き渡ってしまったから、取り消せなかった。カフカズ東半分の、良い道路に沿って進撃していたドイツ軍の対応は特に早かった。
夏にクリミア方面軍が失敗した後、カフカズの防衛は、ジョージアのソヴィエト・トルコ国境を守備するザカフカズ方面軍のもとで、方面軍の支隊である「黒海作戦集団」がカフカズの西半分、「北部作戦集団」が東半分を担当していた。ドイツ軍が逃げたので、北部作戦集団は追いかけたが、土地を取り返すばかりでドイツ軍を包囲できなかった。このころはまだ、兵站を担うアメリカのトラックがペルシア経由で届き始めていなかったし、以前触れたようにソヴィエトの砲をけん引する車両は遅かったから、ドイツ軍が全速力で逃げると追いつけなかった。
当時、北部作戦集団はマスレニコフという将軍が指揮していた。NKVD(内務人民委員部の国境警備・治安部隊)のキャリアを持つ人物で、ベリヤ内務人民委員の腹心だった。戦後になってベリヤが失脚したときマスレニコフは将来を悲観して自殺したほどであったから、他の軍人たちの回想で酷評されていても、それはベリヤ失脚後「ほめてはいけない人」になっただけかもしれない。少なくとも逃げるドイツ軍を追いかける過程で、目立つ勝利を上げることはできなかった。だが1943年1月にマスレニコフを司令官として北カフカズ方面軍が再編成され、黒海作戦集団も指揮下に置くことになったのだから、大過なく集団を北上させたことに一定の評価はあったのだろう。
ドイツを阻んだカフカズ山脈は、今度は黒海作戦集団の邪魔をした。モスクワからは北部作戦集団同様、ドイツ軍に先回りして包囲するよう命令が出たのである。だが北西端、しかも黒海沿いとはいえ、カフカズ山脈は厳冬期であった。ザカフカズ方面軍はモスクワに事情を訴えたが聞いてもらえなかった。攻撃は実行されたがスピードがなく、ドイツ軍はクリミアからケルチ海峡経由の補給を当てにして、カフカズ地方側に扇状の陣地帯を築いた。クバン橋頭堡である。ソヴィエト軍としても、スターリングラードのドイツ軍を囲んだままでは力を注げない。橋頭堡の前哨陣地を切り崩していく戦いが、春まで続いていくことになった。
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素人のビーヴァーブルックは、強い思い込みをもって航空機業界を動かそうとした。その思い込みには歪みがあったので、ビーヴァーブルックは退場するしかなかった。しかし航空機生産省は戦時に業界を「指導」するように出来ていたから、明確なボスがいないと衆議だけではまとまらない。そこでフリーマンが戻ってきた……というところまで以前語った。
大臣も交代した。ソヴィエト大使から帰任したクリップスは、労働党現執行部の政敵でもあり、反共産主義で知られたチャーチルとも合うはずがないが、日本参戦直後にイギリスの敗戦が続いたとき、広く意見を聞いているという政治的象徴として戦時内閣に迎えられた。だが第2戦線構築をなるべく引き延ばしてイギリスの負担を抑えないと国内政治が保たない……という相談をしている戦時内閣は、ソヴィエトの友人であり続けたクリップスにはやはり居心地が悪かった。要職である航空機生産大臣にするのと同時に、さりげなくチャーチルはクリップスを戦時内閣のメンバーから外した。さいわい、フリーマンとクリップスはうまくいった。工場視察のたびに労働者に「同志諸君」と呼びかけ政治演説をぶつのはフリーマンが怖い顔で詰め寄ってやめさせたが、政府の意向に沿わない経営者に圧力をかける役回りはクリップスが熱心に分担した。
「1941年の主力戦闘機」になるはずだったホーカー・タイフーンが行き詰っていたのは、セイバーエンジンの量産が軌道に乗らないからだった。そのスリーブバルブ(ピストンの内側にぴったりくっつく部品で、現在の自動車エンジンなどでは廃れている)を量産する工場は赤字企業が経営していて、管理が良くないことが品質の安定性に影を落としていた。フリーマンは人脈をたどってM&Aを仕掛けてもらい、経営者をすげ替えた。タイフーンは戦闘機としても働いたが、エンジンの馬力を活かして爆装し、大戦後半イギリス空軍の代表的な地上攻撃機となった。
ターボジェット戦闘機を開発していたパワージェッツ社については、会社を丸ごと国有化する話をまとめた。工場の生産性に関する実地監査をやって、不成績のショート兄弟社にはまず国選取締役を送り込み、次いで創業者会長を退任に追い込み、残った重役が抵抗するので一時的に国有化した。クリップス大臣の権威を使うハードな政策も、旧知の経営者や技術者に頼んでソフトにおぜん立てすることも、フリーマンは自在にこなした。
さて、フリーマンに課された最大の懸案は、重爆撃機プロジェクトを整理して増産につなぐことだった。もう3種類も要らないのである。となると切られるのは、爆弾搭載量が少なく「搭乗員あたり、運べる爆弾」の少ないショート・スターリング重爆撃機だった。裏返せば比較的鈍重さがなく、搭乗員には人気の機体でもあった。ショート兄弟社への圧力が高かったのも、これを呑ませたせいもあった。まさにビーヴァーブルックの逆をやって、戦闘機や旧式双発爆撃機の生産を減らし、重爆撃機の生産に協力させた。高空に強いターボチャージャー搭載型ハーキュリーズエンジンはようやく生産量が伸び始め、ハリファックス爆撃機はマーリンからハーキュリーズにエンジンを変えることで切られずに済んだが、もちろん本命はアブロ社に散々苦労したマンチェスター重爆撃機をあきらめ、ランカスター(とその次世代機リンカーン)で頑張ってもらうことだった。
もっと現場の実態に踏み込んだ、政治家がやりづらい改善もやった。実際的でない高い目標数値が各工場に与えられていたため、ボトルネックになる資材・部品が各工場で抱え込まれてしまい、あちこちで少しずつ余っていたので、目標数値を実績に合わせて調整し、予備部品も一律の比率で確保するようにさせた。戦時となるとどうしても後回しにされることだが、労働者の士気に響くので、休日出勤手当が「予算の関係で」ついていないケースは改善された。
こうした取り組みは、数か月のうちに積み重なり、1943年春以降のイギリス空軍はドイツの空で存在感をぐんと増すことになったのだが、それは少し先の話である。
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ゲオルク・ベーゼラーガー騎兵大尉(第35話で本国に戻れた偵察大隊長)はしばらく本国で過ごしていたから、スモレンスクの中央軍集団司令部に来てみると、みんな疲れ切っているように見えた。この司令部で勤務する弟のフィリップも無表情だった。クルーゲ元帥すら、ちょっと反応が鈍いように感じられた。だが、司令部には空元気のような活気があった。書類を持った士官が入っては出ていき、いつもどこかで電話が鳴っていた。ジューコフの火星作戦をモーデルの第9軍が受け止めている最中だった。誤情報も含めて情報が細切れにどっさり届き、懸命に士官たちが仕訳けて、ひとつの作戦地図に落とし込み、OKHへの報告書を起案していた。
こんなときに、まったく関係ない話題を元帥に切り出してよいものかとゲオルクは遠慮したが、アポを取ってしまっているものは仕方ない。
さいわい会議室のクルーゲ元帥は、ゲオルクのプレゼンを仮眠時間として使わずにいてくれた。そして賛成までしてくれた。快速兵学校教官であるゲオルクの建議は、いまバラバラの切れ端としていくつかの歩兵師団に生き延びている騎兵たちを改めて騎兵連隊(ドイツの騎兵連隊は1~2個大隊で、大隊は4~5個中隊)にまとめ、砲兵や突撃砲をつけて、騎兵が活動できる後方などで火消し部隊として使うという構想だった。実際、当時の東部戦線後方ではほぼ歩兵しかいないランデスシュッツェン大隊や保安大隊のほかに、砲と中隊規模の歩兵と軽戦車を持った装甲列車部隊、親衛隊所属で旧式軽戦車や装甲車を持った警察大隊などが治安戦をやっていたから、騎兵部隊が加わってもおかしくはなかった。
ボックは1年前に中央軍集団を去ったが、作戦主任参謀は相変わらずトレスコウだった。細部はトレスコウと詰めることになった。
「どうせ今日中にここを発つには遅いだろう。夕食を一緒に出させよう」
トレスコウが言ってくれて、ゲオルクは恐縮した。公務出張とはいえ、大佐殿と同じ食事となると迷惑かもしれない。
「済まんが忙しい食事になる。勘弁してくれよ」
トレスコウが付け加えたので、相伴するフィリップが苦笑いした。確かに新しい騎兵連隊の話をしながら、次々に書類がトレスコウに届き、それを数秒で読み下しては自分の文章を少しずつ書きつけ、書き上がるとフィリップがそれを持って中座した。
「明日の日々命令の草案が要るので、失礼している」
ゲオルクはやっと理解した。ドイツ軍部隊の司令部は「戦闘の部」と「後方(補給、人事など)の部」に分かれている。軍集団司令部では、それぞれを作戦主任参謀と後方監が仕切っていて、参謀長が両方を統括する。だから明日のための軍集団から軍司令部への命令は、トレスコウが戦闘に関する原案を書くが、補給事情などとのすり合わせが要る。その日の報告は当然日が暮れてから届くので、明日のためのすり合わせは今日始まるのである。
そして食事が運ばれてきた。軍用パンに、熱いコーヒーとスープ。後者は司令部ならではの贅沢である。前線の兵士たちの夕食は温食ではない。そして、英語の書かれた缶詰が人数分出てきた。
「敵情視察も大切だ」
缶詰を取り、開けて表示を見ると、アメリカ製の牛肉缶詰だった。
レンド・リース物資を運ぶルートのうち、重量で見て最も多くを運んだのは、アメリカ西海岸からソヴィエト船籍の輸送船(船自体も援助物資)でウラジオストックに陸揚げするルートであった。日ソ中立条約のおかげで、日本海軍は手を出さなかった。だがさすがに、このルートで武器弾薬を送るわけにはいかないから、食糧や繊維製品が中心になったのである。
「うまいですね、大佐」
「だろう? こんなものが次々に届いている。我々も考えをまとめねばならん」
「考え?」
「まあ、それはあとだ」
トレスコウの陰謀に、ベーゼラーガー兄弟が巻き込まれていくのは、ずっと後のことであった。
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スターリングラードのドイツ第6軍を救うための時間は失われつつあった。いつまでたっても、ヒトラーが切望する良いニュースは届けられなかったので、ヒトラーはゲーリングに冷遇されているミルヒ航空次官・空軍査閲総監を呼び出し、スターリングラードへの物資空輸を指揮するよう命じた。もちろんそのための輸送機はなかったし、航空優勢も怪しかったから、事情は好転しなかった。しかし空軍としても精いっぱいやって見せねばならず、一部の爆撃機部隊が爆装をやめて空輸に参加した。
だがすでに、スターリングラード側に下りられる飛行場がなくなりつつあった。馬の飼料を輸送機で運ぶことは効率が問題外だったから、貴重な食糧として消費され始めた。そして馬を食べ尽くして間もなく、2月2日に最後の抵抗がやんだ。
カフカズ(コーカサス)ではドイツA軍集団がクバン橋頭堡への撤退を進め(大ざっぱに言うと、来た時のルートはすでにロストフ・ナ・ドヌーが戦場となっていて、逃げ遅れた面々はクリミア半島へ渡海撤退するしかなかった)、2月にはマイコプやクラスノダールと言ったカフカズ北西部の主要都市にソヴィエト軍が入っていたが、少し南の軍港都市ノヴォロシスクはまだドイツ軍のものだった。まとまったドイツ軍を包囲できず苦しい立場のマスレニコフは1942年2月3日、ノヴォロシスクを奪取するための上陸作戦を敢行した。黒海艦隊は北カフカズ方面軍の指揮下ということになった。
だが失敗であった。現地で土壇場の命令変更があって時間の無駄が生じ、ドイツ軍が素早く反応したのを見て、ノヴォロシスク南西10kmほどのユジュナヤ・オゼレエフカへ3個歩兵旅団を上陸させる計画は中止になってしまった。この作戦と並行して、ノヴォロシスクのすぐ南にある町ミスハコにわずかな兵員が上陸し、極めて危険な陽動作戦を務めることになっていた。ところがこちらは当面無事成功してしまったのである。
小さな橋頭堡では砲撃からの安全地帯がない。そこへユジュナヤ・オゼレエフカに振り分けられた戦力も上陸し、ソヴィエト軍のメンツにかけて退けない戦場となった。スターリンは作戦失敗と聞いて、とりあえず黒海艦隊司令官をアムール川の河川艦隊司令官に左遷したが、ミスハコ橋頭堡の死守を命じた。
読者の皆様はもうお気づきであろう。こんな橋頭堡は戦局を左右しない。だが、やはりこの戦場のことを書いておいた方がいい理由が、ひとつある。
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連絡艇がミスハコ橋頭堡の海岸に着くと、男たちが集まってきた。歓迎のためではない。人を運ぶのに必要な空間を残して、詰めるだけの物資がやってくるから、それを運び出す人手である。
下りた軍人のほとんどは伝書使だったから、宛先の士官を見つけるために連絡艇から走り出た。彼らに下船順を譲って、最高位者なのに後から降りてきた大佐は、政治士官だから「偉い人は最後に乗船して最初に上陸する」海の習慣に関心がなかった。
だが偉いから、ちゃんと迎えが待っていた。
「同志大佐、ご案内いたします」
「砲弾神経症はどうだ」
「通常の後送便で足りる人数です」
歩きながら大佐は迎えの士官に尋ねた。狭い範囲に多くの兵がいて、間断なく砲撃を受けている。もし兵たちのパニックを現地司令部が抑えきれなければ、取り返しのつかない損害につながりかねなかった。
兵士たちは疲れた顔だったが、絶望してはいなかった。この状況ではたいしたものだ……と大佐は思った。
「食糧事情は」
「十分でありますが、狭いので運動不足が深刻であります。凍傷の処置が遅れるもとにもなります」
大佐は少し考えこんだが、話題を変えることにした。上陸部隊は交代させた方がいいに決まっているが、それは東部戦線では望めない贅沢である。
「温かい食事は出せているのか」
「煙を察知されない夜間を待って、薄い粥を全員に出しております。そのあとカーシャ(本来はソバの実を煮た粥料理だが、手に入る材料を煮て作られたソヴィエト戦場食の総称)を用意して、朝に1日分を支給しております」
ソヴィエト軍の野戦炊事釜には、コーヒーを沸かす副釜がないから、1種類ずつ煮炊きするしかない。まだ朝のうちであれば、凍っていないカーシャが配れるのかもしれなかった。
政治委員は戦闘に口を出すのが本務ではない。もちろん士気を鼓舞する演説も必要だし、敵の侵攻があれば地域住民から義勇兵を組織する類の陰気な仕事もある。だが平時であれ戦時であれ、兵士の福利厚生について気を配り上申するのが大切な役目だった。司令部と橋頭保を往復して、危険を恐れない姿を兵士に見せ、戦場の空気を司令部に吹き込むことも、今は重要だった。
顔見知りの兵士が通りかかると、レオニード・ブレジネフ大佐は名を呼んで挨拶した。見ていてもらえるという感覚を兵士に広げたかった。一発も撃たなくても、それがブレジネフ大佐の戦争だった。
ノヴォロシスクからドイツ軍を追い出した数か月後、ブレジネフがもらった勲章は、数万人が叙勲を受けた珍しくもない勲章だった。だがそれは、数万人のブレジネフが戦場のあちこちで働き、耐え、死傷して戦ったということだった。
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アンリ・ジロー上級大将は、今日では大きく取り扱われることが少ないが、1942年には歴史の焦点にいた。フランスが負けたあと捕虜収容所にいたが脱出し、ペタンが率いるヴィシー・フランス政権の支配下地域に入った。ドイツは送還を要求したがペタンは渋った。
アメリカから見ると、ド・ゴールの自由フランス軍はヴィシー・フランス政府やそれ以前のフランス政府と決別し、自分たちが正当な亡命政権だと名乗っていて、フランス上陸後に全土の治政を任せる相手としては頼りなかった。だからヴィシー・フランス政府関係者も含んだ新政府ができると仮定して、それと協力できる軍事指導者に(ヴィシー・フランスから寝返った部隊を含む)フランス軍を任せたかった。いまやイギリスのスポンサーはアメリカなのだから、チャーチルがド・ゴールと結んできた過去は変えていけるはずだった。だからアメリカはジローに接触し、協力を取り付けた。
当時のフランス植民地は大西洋岸のモロッコから、リビアの西隣であるチュニジアまでつながっていた。アメリカ軍は、ドイツがスペインに協力を強いてジブラルタル海峡を制圧することを懸念していたから、上陸部隊の一部をモロッコに上陸させ、海峡の南側を確保したいと考えた。イギリスは逆に、アメリカ軍の上陸があまり西だとドイツ軍がヴィシー・フランス政府への配慮を捨てて、フランス領チュニジアを占領してしまい、北アフリカ全体の占領が遅れてしまうので、イギリス軍が主に部隊を出すからアルジェリア東部にも上陸させろと主張した。これに、アルジェリア西部に上陸するアメリカ軍が加わって、大きく離れた3か所への同時上陸作戦が11月初めに行われた。
たまたまヴィシー・フランス政府の有力者であるダルラン海軍元帥がアルジェにいて、ペタンとひそかに連絡を取りながらアメリカと接触し、ヴィシー・フランス軍がほとんど抵抗せずに連合軍に協力するよう現地で話をまとめ、ジローがそれらの部隊を指揮した。ダルランは年末に若いフランス人に暗殺され、ジローは政治的代表としての働きも期待されるようになったのだが、これは少し後でまとめて語るとしよう。
イギリス軍は大急ぎでチュニジア国境を目指したが、ドイツ軍の対応は早く、チュニジアのチュニス港とビゼルタ港はすぐに占領され、新しいドイツ陸軍部隊が上陸してきた。当初は軍団サイズの部隊であったからネーリング大将が指揮したが、増援が増えて12月に第5装甲軍司令部ができるとアルニム上級大将がやってきた。ネーリングは少し前までロンメルの下でアフリカ軍団長をしていたから、退却してきたロンメルがチュニジアに近づくと、ロンメルの口出しをとがめにくかった。
1941年にオーキンレックに負けたとき、ロンメルは内陸部に湖と塩交じりの砂が続き、守りやすいエル・アゲイラでイギリス軍を食い止めた。だが、もっといい場所があった。チュニジアまで退却して、かつてフランスがイタリア軍に備えていた国境陣地を使うのである。それはリビアを丸ごとイギリスに明け渡すということだったから、イタリア軍総司令部は嫌がったが、ロンメルの代わりはいなかったので、ロンメルが押し切った。
米英軍のチュニジアへの進撃は、12月まではゆっくりとしており、物量で押し切るようなものではなかった。ドイツ軍のチュニジアへの手当てが早かったから、アルジェリア東部に割り当てられた陸上部隊と航空部隊には対抗できたこともある。しかしこの時期はこの地域の(例年より少し早く始まった)雨季であり、航空支援の妨げにもなったし、整備状態の悪い飛行場は使えなかった。イギリス軍は海岸沿いの街道を進み、ドイツ軍の防備が厚いところへ向かった。アメリカ第2軍団は内陸を進み、チュニジアの横腹へ西から突っ込むルートを取った。この部隊がチュニジアに侵入すれば、ロンメルが東のモントゴメリーに備えている陣地帯も背後に回り込まれることになる。ロンメルは第21装甲師団をアルニムに協力させて、チュニジア中部からアメリカ第2軍団を追い落とす共同作戦が取られることになった。悪天候で地上支援が得られないのはドイツも同じだから、これは1月に入ってからの攻勢となった。
すでにイギリスは、近代的な地上支援について大規模な演習を行い、その報告書を参考に爆装戦闘機を敵陣地の攻撃に使い、他の戦闘機は護衛と制空に当たり、中型爆撃機など身が守れない機体は夜間爆撃や後方移動妨害に使うという基本パターンを確立していた。そして西部砂漠空軍のアーサー・カニンガム司令官はモントゴメリーの司令部のすぐ近くに自分の司令部を構え、毎日モントゴメリーから次の日の作戦意図を聞いて、地上支援を手配りしていた。当日になって状況が変わればできるだけ対応はするのだが、状況を聞いて命令を出して離陸準備をして飛び出して目標に到達するには時間がかかる。うまくいく地上支援はたいてい、前日にしっかり手配りを終えた地上支援なのだった。
アメリカ軍は理屈としてはこうしたことを知っていたし、不同意でもなかったのだが、現実に陸軍部隊から上がってくる要求や不満を処理する、空陸合同の演習経験が欠けていた。戦雲が迫ってくるぎりぎりまで軍拡スイッチを入れなかったから、機材を持ち経験もある航空部隊が演習相手に回せなかったのである。やるべきではないと言われていたのだが、地上部隊は自分の命の問題になると、空軍に自分たちの上空を戦闘機で守ってほしいと言った。これは航空撃滅戦では戦力分散になって良くないのだが、そういう要求をするなという通達が浸透するまでしばらくかかった。爆装する分も入れると、戦闘機はいくらあっても足りないのだが、これもすぐには集まらなかった。逆に2月になるとドイツ空軍はチュニス航空軍団司令部にそれまでロンメルを支援してきた航空部隊も統合指揮させたので、全般的には数的劣勢ながら、集中投入できる航空機が急に増えた。
チュニジア北部に西から伸びているアトラス山脈から、尾根のひとつが分岐してチュニジア中部まで南へ走り、東西に視線を通らなくしていた。道路の分岐点となるシディブジッドの町はこの尾根の西にあり、東への道は少し低くなった峠を越えて続いていた。峠の村は日本語でファイドと表記されることが多いが、チュニジアは旧フランス植民地なので現地の発音は「フェ」に近い。ここで1943年2月14日、ドイツ軍が攻勢をかけた。
アメリカ第2軍団に付属するように戦っていた自由フランス軍がフェの村を堅守していたが抜かれた。1943年末から大きな戦いのないまま、アメリカ第1戦車師団と2個戦車駆逐大隊(当時は、37mm砲や75mm砲をハーフトラックに積んだ対戦車部隊)が、互いに支援し合えないほど、戦線に広く薄く散らばっていた。当然のようにドイツ軍は、持っている戦車すべてがシディブジッドの町に集まってくるよう攻撃計画を立て、フェの村を通ってきた分だけでも、アメリカ軍が十分な機動予備だと思っていた戦車1個大隊を数で上回っていたうえ、先頭にはティーガー戦車がいた。15日夜になるとアメリカ第2軍団長の上に立つイギリス第1軍司令部が総退却を命じた。この数日間の戦いは、ドイツ軍の数的優勢がすべてであった。ドイツ軍が素早く作った局所優勢に、アメリカ軍が対応するスピードが劣ったのである。むしろ数的劣勢に立つ可能性があったのに、演習計画のように前哨部隊も機動予備も中途半端な規模にしたフレデンダール軍団長の指揮は、やはりまずかったと言えるだろう。
第2次大戦が始まったころのドイツ歩兵のマニュアルでは、戦車に対してはざん壕を掘ってやり過ごし、敵戦車に後続して来る歩兵と戦えと書いてあった。アメリカ歩兵も、このときドイツ戦車が接近したので、戦車と距離を取って浅い個人壕を掘った。だが大戦の間に、歩兵は集束手榴弾、火炎瓶といった対戦車兵器を持ち、すきを見て戦車に襲い掛かるようになった。だからドイツ戦車は、東部戦線でそうしているように、アメリカ歩兵の個人壕をキャタピラで踏みつぶした。ドイツ歩兵の野戦築城マニュアルは、個人壕であっても深くL字型に掘って、踏みつぶされそうになったら脱出の道を残すように書き換えられていたが、アメリカ歩兵はそれを知らなかった。
もちろん、位置の知れた敵から距離を十分に取らないと、深い壕を掘る時間はない。もっと遠くまで退いてから壕を掘るべきだったが、戦場の駆け引きについての常識感覚が、まだアメリカの指揮官に行き渡っていなかった。
ドイツ軍はさらに前進して、やはり交差点の町であるカセリーヌに迫った。Kasserine Passも峠と訳されるが、こちらは町の東側に伸びる、両側が坂になった道で、カセリーヌ谷かカセリーヌ狭間と言ったところだろうか。連合軍の地上支援航空部隊は先に消耗し尽くしてしまい、それもあってドイツ軍は優勢だった。だが補給が続かず、連合軍の砲兵も奮闘したため、ドイツ軍の攻勢はここで止まった。
空軍の地上支援がうまくいかなかっただけでなく、自由フランス軍の戦区を放置して自分たちの航空偵察ばかりさせるなど、アメリカ第2軍団長フレデンダールの航空部隊への要求には問題が多かった。傘下部隊の連敗と合わせ、フレデンダールは帰国することになり、カサブランカ上陸作戦に参加していたパットンが後任として呼ばれた。映画『パットン大戦車軍団』冒頭はこの軍団長交代・パットンの中将昇進シーンである。空軍のほうでは、東からモントゴメリーのイギリス軍が近づいたため、アーサー・カニンガムが戦術空軍全体の指揮を執ることで、イギリス軍が戦場で学んだバランス感覚を強制注入して、序盤のような不手際は減った。
1943年2月のドイツ軍は、チュニジアでうまくやっていた。シシリー島とチュニス港・ビゼルタ港の距離はわずかで、航空機の傘で守るのに都合がよかった。今までさんざん悩まされてきた補給問題は、ずっと楽になった。カフカズのクバン橋頭堡のように、チュニジアもしばらく保つのではないか……と思った独伊の司令官たちも多かったのではないか。どうしてそうならなかったのかは、すぐに明らかになる。
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さて、1942年10月から1943年2月ごろまでの話をしてきた。読者諸賢は、どんな話が最後に残っているかもうお気づきだろう。ハウサーの「独断撤退」で有名な第3次ハリコフ攻防戦(1943年2月~3月)である。
この話は局地戦の割に長くなるので、外伝としたい。ここでは簡単に済ませよう。
A軍集団の一部はロストフ・ナ・ドヌー市を通って、もと来た道を撤退し、残りはクバン橋頭堡からクリミア半島経由で脱出した。ドイツ第6軍とハンガリー、イタリアなど同盟国軍の空けた巨大な穴をドイツ軍は埋めきれず、ドイツ軍の戦線は薄くなった。いっぽう多くの道路は固く凍結し、歩いて渡れる川すらあったので、1943年に入るとソヴィエト軍の追撃は次々に成功をもたらした。
ドイツ空軍はアフリカでの敗勢を食い止めるために、東部戦線が目に見えて危機に陥る直前から、東部戦線を犠牲にして地中海に作戦部隊を増派した。スターリングラードを救うために輸送機と旧式爆撃機が集まったことは、訓練部隊の機材不足を起こして取り返しのつかない悪循環を作り出してしまったのだが、それでもわずかなお釣りのようなものであった。だから年が明けるころからマンシュタインの救援に集まってきた航空部隊は、東部戦線のあちこちからさらにかき集めた戦闘機や爆撃機であって、その意味では見せかけの優勢と言ってもよかった。もちろん、それでは足りなかった。
ヒトラーは2月上旬、ロストフ・ナ・ドヌーがいよいよ落ちるというので、まだスタリノ(現ドネツク)にあったマンシュタインの司令部に飛んできて、数時間罵声を浴びせたが、最後にはどうしようもないことを認めた。別の大集団が、1942年夏にドイツの攻勢が始まったヴォロネジを取り戻し、マンシュタインの司令部が移転したザポロジェ(現ザポリージェ)に向けて進撃を始めた。ソヴィエト第6軍、第1親衛軍、ポポフ機動集団から成る南西方面軍である。
その北では、ヴォロネジ方面軍に属する第3戦車軍がハリコフに向かっていた。ドイツ陸軍はフランス防衛に当たっていた部隊を中心に、懸命に穴埋めとなる部隊を送ったが、前年から錬成に努めていたヒトラーの虎の子、ハウサー中将のSS装甲軍団も含まれていた。ハリコフ死守を厳命されたハウサーであったが、直接の上司であるランツ大将と2日間言い争った挙句、2月16日に独断で退却してしまった。ヒトラーはまたマンシュタインを詰問に来て、翌日まで居座ったが、ザポロジェそのものにソヴィエト軍が迫ったため、マンシュタインの言い分を呑んで飛び去るしかなかった。マンシュタインはハウサー軍団にまず南下を命じて、ザボロジェの北隣にある大都市、ドネプロペトロフスクへ向かわせた。これはハウサー軍団自身の補給路確保でもあった。
すでにソヴィエトの手に落ちたスタリノからドネプロペトロフスクに向かう東西の街道に、南北の道と交差するクラスノアルメイスキー(現ポクロフスク)という街があった。南西方面軍の最南端を進むポポフ機動集団は、ここでSSヴィーキング師団の抵抗を受けていた。マンシュタインは、その北東で南西方面軍主力を支えていた第7装甲師団と第11装甲師団に、クラスノアルメイスキー攻撃に加わるよう命じた。ポポフ機動集団の4つの戦車軍団は、燃料不足もあってドイツ軍ほど迅速に集結できず、3つが各個撃破されてしまった。
南側面ががら空きになった失敗を認めた南西方面軍は、2月27日から総退却に入った。小規模な守備隊、深入りしていた騎兵部隊などが損失を出したが、多くは脱出できた。ハウサー軍団はドネプロペトロフスクの東を順次掃討して、合流はしなかったのだが、南西方面軍が退いた後ハウサー軍団とラウス特設軍団(グロスドイッチュラント師団を含む)が北上して、ソヴィエト第3戦車軍のいるハリコフへ南から接近した。ハウサーもマンシュタインも独断撤退の件で罷免できなかったヒトラーは憤懣のやり場がなく、総統のために懸命にハウサーへ怒号していたランツを罷免して、ケンプに代えた。ケンプ軍支隊の誕生である。ハウサー軍団とラウス特設軍団がその配下であった。
今度はスターリンがハリコフにこだわった。第3戦車軍の脱出は遅れ、損失を出しながら包囲を食い破って後退することになった。だが、撤退許可は今までと違って、遅すぎるほど遅くはなかった。ドイツ装甲師団は縦横に疾駆したが包囲は分厚いものではなく、多くのソヴィエト軍部隊が脱出した。1941年にヴャージマやボブルイスクで起きたような、数十万人の損失は生じなかった。
軍集団規模とはいえ、補給と消耗の困難を押して、ありていに言えば後のことは他人に丸投げして、「いま押さないでどうする」と主張するところは、マンシュタインもロンメルと変わらない。だが東部戦線を覆う春の泥はどうすることもできなかった。
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1942年11月の天王星作戦でルーマニア第3軍などが壊滅して突破を許したことがスターリングラード包囲の始まりだったが、そのときは戦線を保ったイタリア第8軍も12月からソヴィエト軍の標的となり、半壊しつつ後退して戦線にまた新たな穴が開いた。第3次ハリコフ攻防戦はヴォロネジ方面軍の南半分と南西方面軍の戦いであったが、その穴からクルスクを取ってなお西進を狙ったのはその北隣、ヴォロネジ方面軍の北半分であった。
第37話で、1942年夏季攻勢が始まったころ、当時ヴァイクスが指揮していたドイツ第2軍がヴォロネジの北を守っていたことに触れた。だから第2軍はかなり北にいたのだが、その南側に大穴が空いたので、大急ぎで南進し、2022年2月のロシア侵攻でもハリコフ北西の激戦地となったスミ(スームィ)を中心とした地域で、プショル川などを天然の堀として支えた。この第2軍が中央軍集団南端の軍であり、クルスク突出部を真正面で押さえる役目となった。もちろんこの軍はクルスクの戦いそのものでは積極的な役目を振られなかったのだが、トレスコウ最後の任地はこの第2軍参謀長となったことを記しておこう。
戦線は安定し、ヒトラーのマンシュタインとツァイツラーに対する印象は良くなった。だがそれは空軍の奮戦あってのことであり、アメリカの参戦で海と空でのパワーバランスは陸に先んじて変わっていくことになる。
第41話へのヒストリカルノート
第2次ボーア戦争(1899-1902)で、イギリス軍が南アフリカに船で持ち込んだ軍馬が現地の草を食べず、後続の船で飼料が送られたことがありました。第2次大戦でも、北アフリカではガソリン入りドラム缶をJu52輸送機が空輸し、エル=アラメインから退却する第15装甲師団の首をかろうじてつないだことがありました。うかつに無理だと言い切れないのが史実の世界です。しかしスターリングラードの30万人を空輸で支えるのは、無理でした。




