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第40話 折れた牙

9月10日に「士官稼業~Offizier von Beruf 外伝と解説」の第3部分として「外伝01 ルイジアナ大演習」を投稿しました。未読の方はよろしければどうぞ。アメリカ戦車部隊・戦車駆逐部隊のお話です。


https://book1.adouzi.eu.org/n4288gu/3/


 感想、「いいね」、ブックマークや評価はもちろん人並みに楽しみにしております。ありがとうございます。


 ソヴィエト軍がいつもの無駄攻勢を控えていることは、ドイツ側にも感じ取れた。だからドイツ軍が「何か仕掛けてくると用心していた」レベルまで譲歩すれば、東部戦線のドイツ軍は用心していた。しかし「各部隊は予備隊の保持に努めろ」と指示する程度で、組織全体として危機に対処するリソースを用意できないままだったという意味では、ドイツ軍は無策であり無力であり、それでも思い切った退却ができないという点で無能であった。もちろん読者の皆さんはご存知のように、その程度の無策と無力と無能は、連合軍の指導者たちがたびたびさらしてきたものであった。そしてそれをカバーできる物量上の優位を得られないまま、ドイツは世界との人口比・資源比に相応する消耗と破滅を見せていったのである。


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 9月から11月までの長い準備期間に、スターリングラード攻略部隊を逆包囲する天王星作戦の担い手は、3つの方面軍に再編されていった。スターリングラード北西から南下するのは、バトゥーティン中将の南東方面軍。スターリングラードそのものを死守するのは、ロコソフスキー中将のドン方面軍。スターリングラード南東から西進してバトゥーティンと手を握るのは、エリョーメンコ大将のスターリングラード方面軍。


 2カ月余り弾薬消費を控え、十分な集積を得て取り掛かったことが、この作戦の中心コンセプトであり、結果的には勝因であった。現地部隊、参謀本部、補給総監部が協調した、オールソヴィエトの作戦ということでもあった。11月13日、モスクワでスターリンと会ったジューコフは、作戦開始を19日と予定し、以後も修正されずその通りになった。


 南進するソヴィエト第5戦車軍(再建)が、旧式の35(t)戦車などを装備するルーマニア第3軍とぶつかり、粉砕したことはこの戦いを象徴する場面としてよく語られる。ルーマニア、ハンガリー、イタリアの部隊が交通不便で補給の届きにくい、互いに攻勢をかけづらいスターリングラード北西方向の戦線を埋めていた。それが弱点だとヒトラーも聞かされていたが、どうすることもできなかった。ドイツ軍の規模に対して戦線が延びすぎ、予備を残すこともできなかったのだが、将軍たちのほとんどを周囲から追い払ったヒトラーは、それに対して何もしなかった。バトゥーティンとエリョーメンコが作る包囲の輪は、ドイツ軍が補給の要としていたカラチ・ナ・ドヌー付近で23日には閉じてしまった。


 スターリングラードの包囲から(空路以外で)抜け出た者はない……とも語られる。実際には、スターリングラードで戦うドイツ軍部隊はその行李(こうり)・段列を市街戦の銃火が及ばない郊外に置いていたから、引き裂かれた小部隊が無数に生じ、脱出を図ってソヴィエト軍と遭遇戦を繰り返した。予備のないドイツ軍は、せっかく脱出した兵士たちを乱雑にまとめて、戦線の穴埋めに用いたから、この時期を生き延びた脱出者はいずれにしても少なくなった。


 そのとき、ジューコフはこの方面の作戦指導をワシレフスキーに託して、古巣の西部方面軍に転じていた。ドイツ中央軍集団からルジェフ突出部を切り取る火星作戦の最終準備にかかったのである。結果的には、この攻勢は失敗した。比較的多くのドイツ軍予備が集まったことに加え、ソヴィエト軍は騎兵集団が前線を突破したまま森で孤立したり、砲兵が渡河にもたついて参戦が遅れたりする連係ミスが相次ぎ、ドイツ軍のように諸兵科連合で勝とうとするジューコフの企図が達せられなかったのである。もしトハチェフスキーとその信奉者たちが生かされていたら、カマ演習場でドイツから学んだ委任戦術が広がり、部下の建設的な独断が評価され奨励される軍隊に変わっていたかもしれない。だが、そうならなかった。それをジューコフはようやく認めた。


 以後のソヴィエト軍は、ドバっと砲撃して、ドドっと歩兵が殺到して、どこかに穴が空いたらキコキコっと戦車部隊がキャタピラ音を響かせるというステップ式の諸兵科分離作戦に傾いた。縦にノルマが下りてきて、命令を果たせなければ厳罰という組織の性格上、上下関係がない軍人同士が調整するのはどうしてもうまくいかなかった。それを「スターリンの代理者」であるSTAVKA代表が、スターリン本人と頻繁に電話して胃を痛めながら裁定して、トップレベルではかろうじて整合性を維持していた。軍や師団のレベルで隣と配慮し合えというのは、システム的に無理なのであった。


 だが、ルジェフでドイツが支え切ったのと引き換えに、スターリングラードの包囲を解く戦力は少なくなった。ツァイツラーはスターリングラードで包囲されたパウルスの第6軍に戦力と物資があるうちに、全力で脱出させようとぎゃんぎゃん嚙みついたが、ヒトラーは応じなかった。


 モスクワの北西、レニングラードへの交通を妨害する位置にあるデミヤンスクは、1941年からずっと包囲されたり解かれたり攻防が続いていて、輸送機による補給が大きな役割を果たしていた。今度もそうしろとヒトラーは言った。だが包囲された部隊の規模が隔絶していて、今度はそうはいかないのだと現場は上申した。ゲーリングは、「空軍には可能だ」とヒトラーに言うしかなかったが、成算を伴った約束ではなかった。11月のあいだに、そのことははっきりし始めた。


 ボックを継いだヴァイクスは、ヒトラーの苦手なタイプだった。ヴァイクスの苗字を全部書くとReichsfreiherr von und zu Weichs an der Glonであって、最後のグロンと言う小村が一族発祥の地だった。ハプスブルクやホーエンツォレルンのように先祖の居城名ではないものの、出身地がはっきりしている苗字は古い領主にさかのぼれる名家であって、フォンのつく姓の将軍たちと同様にヒトラーは圧を感じたし、ツァイツラーにとってもはるかに先輩だった。ヒトラーとツァイツラーは、事態をおさめるために、まだヒトラーとケンカをしていない、比較的若い将軍を思い出さねばならなかった。


 マンシュタインがいた。セバストーポリを陥落させた後、第11軍司令部とともにレニングラードの南で戦っていた。これを司令部ごと南へ投じる決定は11月21日になされたのだから、機敏と言えなくもない。だが動かせるのは将軍と司令部だけで、実戦力のほとんどは前線に張り付いていて、後方の部隊を絞り出すように集めねばならなかった。第11軍は「廃止」され、ドン軍集団司令部と看板を書き変えて司令部チームごと転戦した。スターリングラードの救出に向けてドン軍集団の主力となるホトの第4装甲軍のうち、第24装甲師団などは第6軍と一緒に包囲されていたから、外側に残っている部隊で戦うしかなかった。たまたま休養再編を終えてコーカサス方面に向かっていたラウスの第6装甲師団は、11月26日に第4装甲軍に組み込まれたが、その最初の仕事は最寄りの駅で出来るだけ早く降車して、突進してくるソヴィエト軍を現地で食い止めることだった。なりふり構わず、ラウスは装甲師団(の歩兵)に円周陣地を作らせ、懸命に我が身を守った。列車から戦車を下ろせる場所とタイミングがなかなか見つからなかったのである。


 だが1942年10月、すでにアフリカでも大きく戦局が動き、11月にはアメリカ軍がそれに加わっていた。少し時計の針を戻し、そのことを語るとしよう。


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 これだけ対陣が続けば、第1次大戦の西部戦線であれば、木材で側面を補強された塹壕が深く掘られていたことだろう。エジプト西部にそんなものはなかった。すでに語ったように、地雷は精一杯運び込まれ、両軍がそれを敷いた。エル=アラメインの街は、イギリス側戦線のすぐ背後にあった。海岸から、車両が塩と砂と泥に沈んでしまうカッタラ低地まで、イギリス軍の点在する陣地帯を地雷原がつなぎ、ロンメルが回り込む余地をなくしていた。


 1938年、ホバート少将はエジプトに渡って、当時まだ機甲師団ではなかった戦車部隊をフラー流に訓練した。それはつまり、歩兵や砲兵に頼らない陸の艦隊として、軍艦のように走って撃ち、同航戦や反航戦をやるということだった。不評であり反発も食らったが、何よりまずかったのは、諸兵科連合の時流に合っていないことだった。


 じつはホバートの亡くなった姉はモントゴメリーの妻だったのだが、1942年8月にイギリス第8軍を任されたモントゴメリーは容赦なく義弟の訓練を否定し、歩兵も戦車兵もひとつのチームの中で動くようにさせた。歴戦の勇士たちに補充兵が混じり、チームとしての訓練が先送りされてきていた。よく言われるように、ずっと戦線にいる部隊は、継続的な訓練に配慮しないと練度が落ちるのである。


 多くの機甲旅団が、イギリスの巡航戦車ではなくアメリカのグラント中戦車とスチュアート軽戦車を受け取っていた。これも以前触れたことだが、グラントの75ミリ砲には徹甲弾だけでなく、榴弾があった。イギリス製のバレンタイン歩兵戦車は(カヴェナンター巡航戦車の重大な不具合がたたって)機甲旅団にも多く配属されていたが、次第に戦車旅団にだけ配属されるようになり、トブルク陥落を聞いてルーズベルトが手放したシャーマン中戦車は機甲旅団が使った。


 バレンタイン歩兵戦車は火力で劣ったし、仕様を欲張った後継のチャーチル歩兵戦車は配備を急いだものの、不具合続出で戦力化が遅れた。フラーとホバートの戦車兵総監部はアメリカ戦車の奔流に流されるように、機械化総監部に道を譲り、限定的なリソースと任務に甘んじることがはっきりしていった。


 良くも悪くも、モントゴメリーの指示は短く、細部は参謀長から指示させた。戦線を守る部隊群には「no retreat」と命じた。その一方で、3個戦車師団から成る第10軍団を新設し、これを攻撃と機動のために予備とした。中東総軍の主となったアレキサンダーも調子を合わせて、「ロンメルを倒せ」とだけモントゴメリーに命じ、細部を任せた。


 そして10月23日。チャーチルからずっとせっつかれていた攻勢を、ついにモントゴメリーは発起した。もう翌月にはアメリカ軍がアルジェリアに上がるというタイミングであった。地雷原をめぐって昼夜を分かたず数日間の戦いになると見込んで、満月が巡ってくるのを待ったのである。


 この戦線でこれまでの定石である「内陸側からの回り込み」を取らず、中央を突破する作戦としたのは参謀本部などから疑念が出されたが、モントゴメリーは聞かなかった。逆に、内陸側からの回り込みを偽装する工作はうまくいった。薄っぺらい直方体の燃料缶は積むと下がつぶれるし取っ手がしょっちゅう取れて運べなくなるし、イギリスでドイツ軍のジェリカンをそっくり複製するほど不評であったが、これを使って偽の飲料水パイプラインが偽装侵攻ルートへ向けて30kmほど「敷設」されたのである。近寄ると四角いことがわかるが、航空偵察写真では何かニョロニョロしたものに見えてくれるはずだった。


 決定的な突破が得られないまま、部隊が互いに位置をさらした。内陸コースではないと見たロンメルは海岸沿いに主力を集めた。モントゴメリーはそれを見て、出来る限り海岸沿いから兵力を引き抜いて、突破部隊に加えた。その間も相互の消耗が続き、ロンメルの補給状況は細り、稼働戦車は減っていた。そして11月1/2日夜、モントゴメリーはスーパーチャージ作戦を発起した。キドニー・リッジとイギリス軍が呼ぶ高地の南で、ドイツ軍の戦線を突破するのである。ここは北アフリカでの戦いの焦点の多くがそうであったように、内陸を東西に結ぶ道が通っていた。


 だが、カバーのない平地を誰かが渡っていかねばならなかった。モントゴメリーは第2ニュージーランド師団に配属されていた、第9機甲旅団にそれを命じた。各種の対戦車砲を浴びてほぼ全滅であったが、他の2個機甲旅団がすぐに続いた。アメリカ戦車はまだまだあった。ロンメルは戦車をかき集めてぶつけるしかなかった。すでに戦車の比率は1対5に近づいており、相互に損害を受ければ、痛みの大きいのはドイツ軍だった。モントゴメリーに言わせれば、数的優勢はこうやって生かすものだった。


 モントゴメリーの用兵は、イギリス軍でも諸兵科連合が成り立っていた第1次大戦末期の戦法に似ていた。ロンメルは「回り込む、一点突破する、奇襲効果のあるうちに先手を取り続ける」第1次大戦ドイツの浸透戦術に近代兵器をくわえて成功したが、砲撃に続いて戦車をまとめて投入し、損害にかまわず渡りにくいところを一気に渡らせるのは、まさに1917年に起きたカンブレーの戦いの再来であった。


 そして11月4日、ロンメルはヒトラーから既に受けていた撤退禁止命令を無視して、総退却を決意した。だが、ちょっとした工夫が必要だった。ロンメルはこの種のことにも戦術的才能を発揮して、いつものように別の人々に迷惑をかけた。


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「我らが総統は理解して下さったよ。君は留任だ」


 カイテルはヴァーリモントを安心させたつもりだったが、うれしそうではなかった。ヨードルは今回も、ヴァーリモントに冷たく、何もしてくれなかった。そしてヒトラーがヴァーリモントを非難したのは、まったくの八つ当たりだった。


 ロンメルはエル=アラメインからの撤退を事後報告した。それも5ページの長い報告の後ろに目立たないように書いた。すぐには気づかずにいてくれたら、後で(とが)めても「もう報告しましたよね」と言えるということだった。


 当時ロンメルからの報告は、ローマにあるイタリア軍総司令部付きドイツ代表武官事務所にまず届き、ここで暗号を組み直されてOKWに届く仕組みだった。ロンメルは、ローマに電文が午前2時に届くようにした。悪辣(あくらつ)というしかない。


 これで朝まで電文を放置したら、ヒトラーに処罰されるのは代表武官の某中将であったろう。さいわいスタッフは「重要な電文が来た」と感づき、しかし「注意しろ」とか余計なことは書き添えずに、午前3時にOKWに送った。OKWの当直士官はヒトラーを起こすことをためらい、ヒトラーの目にロンメルの報告が触れたのは午前10時で、もう命令を撤回させるには手遅れだった。


 ヒトラーは犯人を捜し、当直士官に降等と配転を食らわせ、その上司であるヴァーリモント作戦課長も最前線へ送られるところを、カイテルが根気よくなだめたのである。


「……君がここに来たときは、まだツァイツラーがOKWにいたのだな」


「はい、元帥」


 ヴァーリモントは脈絡(みゃくらく)のないカイテルの言葉に短く答えた。


 ヴァーリモントもツァイツラーも、「ヒトラーは言い負かせば折れる」と信じ込んでいた。ヨードルがそんなヴァーリモントを終始冷たく扱ってきたのは、「自分に不愉快な役回りを押し付けている」、あるいは「総統への忠誠が足りない」と思っているせいなのだろう。


 ある意味で、カイテルの感覚もヨードルの感覚と同じだった。軍務官僚としてヴァーリモントの能力に不足はない。だがヒトラーに近づけてもいいことはないし、そうだとするとヨードルの仕事で、ヴァーリモントに分担させられることは、つまらないものしか残らない。だから自分はヴァーリモントのために弁じてやるけれども、ヨードルもそうしろとはカイテルは言わないのである。


「いっそ、君はベルリンで私の代理をやるというのはどうだ。昔なら国防大臣が決済したような案件が今でもたくさんある」


「異存は……ありません」


 ヴァーリモントは言いよどんだ。まあ、軍人の仕事ではない。だがヒトラーの宮廷に(はべ)るというのは、もう「軍人の仕事」の類型をはみだしつつあるのだとカイテルはにおわせた。それに気づかないというのは、ヴァーリモントがそういう男だということだった。


 独裁者ヒトラーの意を迎えることを大前提としたOKWのシステムは、ドイツという国を安定させてきたが、それがいまや慣性をつけて戦争を引き延ばさせ、ドイツと連合国の死者を増やし続けるように働いていた。


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 聞き慣れない重い砲声に、金属片のぶつかり合う音が続いた。ソヴィエト戦車の砲塔が持ちあがって、車体との間に黄色い光が輝いてすぐ消え、暗く赤い炎が続いた。1942年のドイツ軍は、対戦車砲弾の種類が増えすぎて新型砲と砲弾の生産ペースが合わず、冬近くなってから一般部隊にも75mm対戦車砲が少しずつ配備されるようになった。ソヴィエト軍にとっても、まだなじみのない兵器だった。


 スターリングラードからロストフ・ナ・ドヌーまでは西南西に500km足らずである。そのおよそ中間にあたるコテリニコヴォはドン川の岸にある街で、12月3日にはここをラウスの第6装甲師団が固めていた。それを北側から回り込もうとソヴィエト軍は貴重な第85戦車旅団を出した。第81騎兵師団を露払いに先行させ、戦車が続いた。


 だが戦車がドン川を渡れる場所など限られている。強力な戦車を伴うことで、ラウスは敵の進撃コースを読めたのである。コテリニコヴォのわずかに北、ドン川の支流アクサイ川に橋が架かっているポフレビン(現メドフンクト)という小さな町の入り口で、最初の待ち伏せが1両の戦車を(ほふ)った。丘が川岸に迫り、平地が狭いので守りやすいところだった。


 ソヴィエト軍にとっても突破命令は絶対である。ソヴィエト砲兵がついて来るには時間がかかる。もうこうなっては、モントゴメリーの第9機甲旅団同様、時間を置かず攻めようと思ったら戦車が出るしかなかった。だがドイツ軍はこのころになると、対戦車砲を町の外側ではなく、射界の限られた路地裏などに配するようになっていた。3門の対戦車砲が色々な位置で狙っていた。それぞれ最後には位置をさらして死の沈黙を強いられたが、様々な火器で支援された歩兵1個中隊が6両のソヴィエト戦車を撃破し、2時間を稼いだ。


 T34戦車を20両以上持つソヴィエト軍は、最後には町からドイツ歩兵を追い出した。様子を見に来たドイツ下士官が歩兵連隊本部に、ソヴィエト軍が町の外で集結を始めているのを急報し、連隊の150mm重歩兵砲と砲兵連隊の105mm榴弾砲が集まったソヴィエト兵を叩いて、次の目標への進撃を妨害した。そして、先に列車から降りていた戦車2個中隊がポフレビンに向かった。T34とKV、そしてT-70軽戦車の集団にIII号戦車で力攻めはできず、射撃戦は決定的なものにならなかった。


 ラウス師団長は、ようやく8個戦車中隊のうち7個が12月3/4日の夜に降車と集結を終えたので、一気にすべてを投じることにした。2個大隊のひとつを丘の背後に投じ、西から北へ回り込ませて挟み撃ちである。朝になって相変わらずポフレビンから戦車の立てる音が聞こえると報告を受け、航空偵察の結果を待たずラウスは攻撃を命じた。


 じつは、捕虜の歩兵が第6装甲師団所属だと名乗ったことから、第81騎兵師団長は上司の第4騎兵軍団長に撤退を具申していた。新来の第6装甲師団はソヴィエト軍の見込みに入っておらず、これ自体は正しい判断だった。だが実戦経験の浅い第81騎兵師団は、全周囲に前哨を送っていなかった。だから回り込む大隊が途中でグダついたにもかかわらず、まともに北からの奇襲を受けて壊乱してしまった。少しずつバラバラに分かれ、夜陰に紛れて逃げ延びたが、第81騎兵師団は師団長戦死、参謀長戦死、政治委員戦死で壊滅的状態になった。戦車は町を離れていたものが多く、第85戦車旅団の損害は限定的で済んだ。


 ドイツの戦況はマクロ的には著しく悪化し、敗勢と言ってもいいほどであったが、前線の部隊単位で見れば、まだまだ経験と高性能の武器に助けられて生き残り勝ち進む集団が空にも陸にもいた。それを利用して政治的解決を図る道が、ヒトラーにはもうないのだということを、まだドイツ軍人たちは知らなかった。


※ヴァレンタイン歩兵戦車はこの時期、多くの機甲旅団に巡航戦車の代わりに配備されていますが、もともとヴィッカース社が自分の開発した歩兵戦車マチルダIIの生産にも加わらないかという打診に対して、独自案を逆提案したことに始まるもので、歩兵戦車として開発され、採用されました。誤りの御指摘に感謝して訂正します。


第40話へのヒストリカルノート


 大木毅氏の著作によると、ツァイツラーには未公刊の回想録原稿があって研究者なら読むこともでき、しかし未公刊のため真偽を大勢で確かめ論じることができず、そして本当かどうかよくわからない部分もあるのだそうです。これとは別に多くの将軍の短い回想を集めた企画本があって、ツァイツラーの寄稿分は突然の参謀総長任命からスターリングラード北西での戦線破たん、そしてA軍集団への脱出命令までを扱っています。芝居がかった部分もあって、確かに信じてよいやら悪いやらと思いますが、この小説ではおおむねその原稿に沿って書いています。



 ロンメルの電文の件は、ヴァーリモントの回想をもとに脚色しています。カイテルは実際にヴァーリモントをベルリン常駐の総監代理にしようとしましたが、ヒトラー暗殺事件のどさくさで立ち消えてしまったと(自分の回想録に)書いています。


 じつはカイテルとヨードルは、互いに悩みを相談した形跡が全くないのです。これはけっこう解釈が難しいところです。



 ポフレビン(Похлебин)は、『奮戦! 第6戦車師団』(H.シャイベルト、大日本絵画)ではポチェリェビンとなっています。ここではグーグルマップの表記に従います。


 シャイベルト(戦車中隊長)の回想ではポフレビンを守っていたのは50mm対戦車砲、ラウス師団長の回想では75mm対戦車砲も混じっていたということです。この時期の歩兵連隊対戦車中隊は、両方少しずつ持っていてもおかしくありません。全部75mm砲ということはほぼありません。


 ラウスはこの2日間で敵戦車旅団が壊滅したように書いていますが、シャイベルトは戦車撃破10両と書いています。第85戦車旅団長は直後に更迭され旅団長代理(副旅団長)に左遷されていますが、理由は「適切な部隊集結が遅れた」ことであり車両喪失ではありません。しかし一方、ラウスは12月3日にポフレビンを守っていた対戦車砲が戦車6両を撃破したと書いており、シャイベルトは4日の自分たち装甲連隊の戦果だけを数えていると思われます。ですから真実は10両よりも多く、旅団壊滅よりも少ない中間にあったのでしょう。



 以前触れたように、ヨードルは終戦直後に「1941/42年冬に、もうこの戦争に勝ちはないと思った」と聴取に答え、「ヒトラーも1942/43年冬にはそう悟ったはずだ」と述べています。


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