表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/53

第39話 痛撃と変質


 1941年春のレンドリース法制定に始まったアメリカからイギリスへの物資の流れから、まずイギリスが援助の一部をソヴィエトに振り向けた。ソヴィエトはそれに加えて自らの身を削って、猛烈な勢いでドイツのヒトとモノを減らした。


 1941年12月以降の極東でイギリス連邦軍に大きな軍事負担が生じたことはすでに語った。そしてシュペーアの台頭と国民への容赦ない動員で、ドイツ軍需産業の潜在能力が引き出され始めたので、次第に大きくなり始めたイギリス爆撃機部隊の圧力は効いていないように見えた。重爆撃機を事実上持たないと言っても、この時期のUボートと航空機は、まだまだ連合国の輸送を脅かしていた。


 クリミアでも北アフリカでも、もちろんスターリングラードへの道でも、ドイツ空軍は早くから拡張した兵器のストックと、経験豊かなクルーという「資産」を陸軍のために使っていた。そして残りは海軍と共に海上で攻め、大陸の空で守る戦略消耗戦に投じていた。軍拡のタイミングが早く、経験ある現役兵・(兵役を経験して間もない)予備役兵の「資産」に優位を持つことは、ドイツ陸軍も同じだった。すぐにはこれらの「資産」をしのぐことができず、1942年夏まで連合軍はヒトラーを負かすことができなかったのである。


 だが、そのストックは間断なく削られて、秋とともにほころびが出てくるところだった。


--------


 ヨードルが失寵(しっちょう)し、リストが罷免された数日後、スターリングラードからジューコフとワシレフスキーがそろってスターリンを訪れていた。


「大きく出たな、同志ジューコフ」


 スターリンは返事も聞かず、長机の上で地図を広げて目を落とした。その地図には、予備部隊の位置と規模が書き込まれていた。だからジューコフはのぞき込まないよう視線を下げた。参謀本部が用意した報告だが、ワシレフスキーも今は特定の司令部を指導する身だから、最新のデータは教えてもらっていなかった。だが、ワシレフスキーは半年前から参謀本部を代表して、司令官たちの要求をはねつける金庫番の役目を果たしていたから、いまジューコフが要求した増援の過大さはよくわかっていた。


 スターリンはふと視線をワシレフスキーに向けた。「なぜ何も言わない?」と視線が言っていた。


 スターリンは、間断なくドイツ軍を攻撃するようスターリングラード方面軍と隣接方面軍に求めていた。スターリングラード正面への圧力は、それによって軽くなると期待された。ドイツ軍を忙しくさせるためだけの攻勢は、血の取引としてはソヴィエトに高くついた。つまり優勢を作り出し、ソヴィエトに有利な取引に変えるためには、膨大な戦力を追加する必要があるとジューコフは述べたのである。だが、ジューコフはすでにワシレフスキーに意見を求めたうえで、そうしたのではないか。そうスターリンは思ったのである。


「同志ワシレフスキー。提案があるのではないか」


「2カ月のあいだ、攻勢を控えることはできないでしょうか。砲と砲弾を集めます」


「支え切れるか」


「スターリングラードでだけ出血が続くのであれば、その補充程度は何とかなるでしょう。血と弾の交換にはなるでしょうが」


「現にそうなっているからな」


 スターリンは視線をジューコフに移した。ジューコフは大きくうなずいた。相変わらず無駄に眼力(めぢから)がある。スターリンはいつものように、静かに言った。


「明日会おう。ふたりで提案をまとめたまえ」


 ふたりは敬礼した。後の天王星作戦はここから始まった。職業軍人の提案に基づき、間断ない出血を2ヶ月「控える」ことをスターリンが受け入れた瞬間が東部戦線の転回点であって、そのあと半年間に起きたことは、その決断の帰結に過ぎなかった。


--------


 新しいイギリス第8軍司令官となったモントゴメリーは吝嗇(けち)で知られた男である。「自分のチーム」に最大の戦力的な余裕を与え、最小の出血を強いることで目標を確実に達成する……というセンスが比較的強かった。それは官僚組織の長によくある感覚であり、民間企業であれば「社内政治に()ける」たぐいのリーダーの考え方である。自らを歯車と化し、命令を遂行し、難しいことは最高レベルの計画と判断にゆだねるのがイギリス軍の原則だとすれば、これはとんでもない異端の考えである。部下から慕われ、上司から嫌がられるのがモントゴメリーだった。


 だが北アフリカという土地は、人口がまばらで情報インフラも整わず、砂嵐が無線通信すら阻み、普通の戦場なら入ってくる情報が入ってこない場所だった。上長の判断を仰ぎたくても、仰げない場合もあった。よく訓練されたイギリス士官にとって、ここは恐怖の土地であり、委任戦術の申し子であるロンメルにとっては理想の戦場だった。


 モントゴメリーは疫病に立ち向かう有能な首長のように、失点のリスクが高い戦車部隊だけの機動戦を封じて、チームバトルを志向した。諸兵科連合の戦闘訓練を熱心に課し、それに適した榴弾や徹甲榴弾の戦車砲への支給を求めた。イギリス軍の負けパターンを現場に近いところでつぶせたことにも、モントゴメリーの英軍らしからぬリーダーシップが貢献していた。


 敵も諸兵科連合で来るのだから、こちらの苦手をぶつけられるのは当然である。マチルダ戦車などに使られる2ポンド(口径40mm)砲には榴弾がなかった。たしかに小口径榴弾の威力は低いし、車内で爆発事故が起きたときの被害も徹甲弾より大きかったが、それがあれば柔軟に戦えた。いま徹甲榴弾(ある程度の貫徹力を残して、榴弾のように炸薬(さくやく)も詰めた弾丸)を撃てる75mm両用砲がグラント中戦車やシャーマン中戦車とともにイギリス第8軍にもたらされ、モントゴメリーはこの砲を絶賛する報告をロンドンに上げた。セクストン、プリーストなど、榴弾砲を戦車の車体に乗せた自走砲も次々に届いた。イギリス砲兵は迅速に移動して射撃し、位置を知られたらすぐ逃げる砲兵へと変わり始めた。


 そして、動かなかった。アメリカから送られてくるものをひたすら貯めた。チャーチルが何と言ってもダメだった。動けるだけの補給が貯まらないロンメルも、エル=アラメインからの出口に地雷を敷き詰めた。「かたくなる」しか使えないポケモン同士のバトルのように、地雷ばかりが増えていった。


--------


「えっ」


 ハルダーは解任された。9月24日であった。カイテルからヨードルのことを聞かされたとき、ヒトラーはハルダーについても交代を考えているようだと伝えられてはいた。そうは言っても、これだけ将軍たちを懲罰的に解任していたら、自分の後任は見つからないはずなのだ。


「後任は……」


「私も聞かされておらんのですよ。相談もありません、将軍」


 カイテルの表情も暗かった。


--------


「えっ」


 ツァイツラーは居眠りから覚めた男のような顔をした。ルントシュテットのD軍集団(西方軍)司令部参謀長だったツァイツラーは、いきなりヒトラーに呼び出され、数時間の演説を用件も告げずに聞かされ、「そういうわけで君を陸軍参謀総長に任じる」と言われたのである。


 もうヒトラーが「信用」している陸軍軍人は総統付き武官のシュムント少将くらいになってしまっている。その知人というと、やはりせいぜい少将くらいである。シュムントはヒトラーに、気鋭の後任参謀総長としてツァイツラー少将を推薦したのであった。


 ヒトラーは政治家の営業スマイルをツァイツラーに浴びせた。


「君を2階級特進させて大将とする。才気ある若い将軍と老練の少佐は、かのフリードリヒ大王も好んだ組み合わせだ」


 ヒトラーは、老いた将軍たちを出し抜いたつもりだった。ヒトラーは自分の言うことを聞く若い将軍を要職につけられる。いや、要職につけられた若い将軍は、ヒトラーの支持だけを頼りにせざるを得ないだろう。


 だが、ツァイツラーはそんなタマではなかった。上司を根気よく言い負かすことは、参謀士官の仕事の一部だった。そういう傾向を持つ参謀士官は多かった。ヴァーリモントが典型的にそれであり、ロスバークもある程度はそうであった。だからカイテルはヒトラーとの衝突を予見して、教師としての忍耐力を持つヨードルを作戦部長に呼び戻したのである。それは今まで成功していたが、すでに総統はヨードルと口を利かず、指示を書面で伝えるようになってしまっていたから、その防壁がなくなった。


 ツァイツラーは、東部戦線全体での数的優位がもうないことをヒトラーに説きつけるようになって、ヒトラーをだんだん閉口させていった。そしてツァイツラーは、「それをしなかったカイテルやヨードルは、弱気に過ぎる。幾千万といえども我征(われゆ)かん」と思っていた。だからツァイツラーは東部戦線の報告を「陸軍総司令官たるヒトラーにOKHが報告する」と言い張って、細かい報告をOKWに上げず、総統会議で自分の口から説明するようになった。これも、ヨードルと戦前から縁の深いハルダーが角の立たないように処理してきた陸軍の不満を、参謀本部を代表してツァイツラーが物申(ものもう)すということであった。


 ヒトラーは、予備戦力を配分するスターリンと同様に、資源配分交渉の当事者になってしまった。だがスターリンが専門家の意見を聞くようになったのと逆に、ヒトラーは聞かなくなったし、今さら聞きづらくもなった。大戦後半にかけて、ヒトラー個人への陳情機会をすべての高級司令官が求めるようになって、ヒトラーはますます人に会わなくなり、現況に合おうが合うまいがただ命令を遂行するよう求め、ドイツの統帥は柔軟性を失ってしまったのであった。もちろんそれは、数的劣勢に転じた不利を増幅した。


--------


 マインドル(第34話に登場)はヴャージマ周辺で戦った後、北方軍集団の戦区に移って、デミヤンスク周辺を最前線とする第18軍の後方治安戦をやっていた。「マインドル師団」にいた空輸突撃連隊の一部も消耗し、解体されて、空軍とは名ばかりの雑多な部隊となっていた。


 それが1942年9月末、さらに不思議な成り行きになった。マインドル師団司令部を基幹として、いまは影も形もないまっさらの航空軍団、第13航空軍団を創設し、マインドルを軍団長に据えるというのである。そして軍団に入れるものも入れないものも合わせて、空軍所属の歩兵師団である空軍野戦師団を20個作るというのであった。


 9月13日、ヒトラーがゲーリングと調整もせずに総統指令を出し、空軍は陸軍に兵員20万人を移管せよと命じたことが始まりだった。これもまた「ぼくのかんがえたすばらしいせんそうしどう」で、もう止める者がいなかったのである。寝耳に水のゲーリングは必死に抵抗した。そして1週間ほどで妥協案として決まったのが、空軍所属のまま20個歩兵師団を設立するという案であり、マインドルはその親玉とされたのであった。まもなく、マインドルの軍団は訓練を引き受け、野戦を指揮する空軍野戦軍団は別に作ることになった。


 下級指揮官たちは歩兵戦闘について簡単な講習を受けただけだったし、陸軍は自分も足りない師団砲兵を手放したがらず、砲兵としては砲兵大隊ひとつ、対空砲大隊ひとつを持つだけだった。その内実も、チェコスロバキア製75mm山砲やら、毒ガス投射兵器として用意され旧式化した105mm煙幕投射機35(つまり大型迫撃砲)やらを含み、威力も射程もソヴィエト軍師団砲兵に見劣りした。ダメな部隊だと分かっていても、陸軍は戦線の穴埋めをしなければならないので、使った。


 ヒトラーの愚かな思い付きに、彼らが血の支払いを始めたのは、間もなくのことだった。


--------


 スターリングラード方面の鉄道補給が、ヒトラーが一連の爆発を見せた1942年9月のうちに、飛躍的な改善を見せたことは、関係者の名誉のために書いておいてもいいだろう。標準軌にレール幅を変更されて、直接ドイツから列車が来られる区間の先端は、7月に占領したミルレロヴォからほとんど前進していなかった。しかしミルレロヴォに通じる線路は使いやすいように近道ルートが敷設され、そこから先もソヴィエトのレール幅のまま捕獲列車で運行できる区間がふたつあって、間をトラックがつなぐ形で、9月中旬にはスターリングラードのすぐそばまで曲がりなりにも補給ルートができていた。


 8月末になるとドネツ川の鉄橋修復が終わり、ロストフ・ナ・ドヌー方面から標準軌の列車を通せるようになった。そこでミルレロヴォ駅の荷下ろし設備はお役御免になり、数日のあいだ工事で補給が止まるつらい日々があったが、9月末にはカラチ・ナ・ドヌー市(からドン川をはさんだ西岸)まで補給列車が来るようになった。スターリングラードの西端まで80kmもない場所である。


 スターリングラードから見て北西方向には、まったく鉄道のない大地が広がっていた。だから10月以降、ドイツの鉄道工兵たちはロストフ・ナ・ドヌーに通じるようになった鉄道の途中駅から、野戦軽便鉄道を北へ敷設することに力を注いだ。この補給が届きにくい地域に、ドイツを手伝わされたルーマニア軍やイタリア軍部隊が展開していた。残念ながら、彼らがそれを必要としていた間にこの路線は完成せず、あまり役に立たずに終わった。


 つまり、もしスターリングラードに向かったドイツ軍が補給困難な進撃を控え、有利な損害比でソヴィエト野戦軍を撃滅するように戦っていたら、ソヴィエトはもっと困ったことになっていたかもしれなかった。その考え方で言えば、鉄道による補給ルートのないカフカズ(コーカサス)地方東側での南下は、論外のことであったろうが。ヒトラーは野戦軍撃滅よりも土地を取ることを優先し、新たな占領のニュースを自分にとっての良いニュースと考え、部隊を急き立てた。


 もちろん、1941年末にドイツがモスクワを取っていた場合のように、ドイツがスターリンの単独講和を引き出せるチャンスはもうない。例えばヒトラーの破滅が1年遅れたとか、そういったレベルのチャンスでしかなかったであろう。


--------


「一緒に働けて光栄です、ミスタ・フリーマン」


「制服の洗濯をしくじったのか、ウィル。安いところはやめとけ」


「ウィル! 新しい壁に登りに来たのか! 参謀本部の壁は飽きたのか!」


 背広姿のフリーマンはすれ違う人みんなにあいさつされた。まあ、見知った顔の方が多かった。相手はみんなフリーマンを知っているようだった。1942年10月19日、フリーマン退役空軍大将は航空機生産省に戻ってきた。だがフリーマン(第36話以来の登場)に何が起きたか、少しさかのぼって語ったほうがいいだろう。


 チャールズ・クレヴンはヴィッカース・アームストロング社の元経営者である。チェンバレン内閣末期に数日だけ航空大臣をやったホーアが、民間の有識者として航空委員会に迎え、以来ずっとその職にあった。ビーヴァーブルックがいなくなると、彼が腕力で決定を押し通すことを前提としていた航空機生産省は、誰が決定者なのかはっきりしなくなってしまった。こういうとき「航空機の専門家」が何人いてもダメで、「話をまとめられる人」か「話を押し通せる人」が必要なのである。官僚たちの提案がまとまらなければ、後任の大臣たちもはっきり優先順位をつけられなかった。みんながビーヴァーブルックのように振る舞えるわけではない。


 1884年生まれのクレヴンはまだまだご老公扱いされる年齢ではないが、この種のリーダーシップを期待されてほとほと消耗していた。たびたびクレヴンはフリーマンにその役目を譲りたいと上申していたがチャーチルが渋っていた。ビーヴァーブルックに航空機生産を任せた失敗を自認したくなかったからだとも言われる。1942年7月についにクレヴンは辞職した。アメリカ陸軍航空隊が重爆撃機をイギリスに渡す気が(当面)ないことがはっきりして、イギリス航空業界に重爆撃機を増産させるにはフリーマンが必要だとチャーチルも観念した。だがフリーマンのほうも実力派参謀次長だから交代が難しい。あれこれ調整していたらこの時期になってしまった。


 そして、背広である。フリーマンは航空機生産審議官(chief executive)として省内の実権を握るため、現役軍人の肩書を捨てねばならなかった。フリーマンは、食べたいランチの勘定は自分で払う男だった。


「B-17に続いてマーリン・ムスタングも逃がしてしまったらしいな」


 ワシントンに交渉に来ていた顔ぶれを見つけたフリーマンは、陽気にジャブを繰り出した。アメリカ陸軍がP-51と名付けたムスタング戦闘機に、イギリスのマーリンエンジンを載せた試作機はイギリスで作られて高性能を発揮し、ちょうど進んでいたアメリカ企業でのマーリンエンジン量産計画とリンクさせて、大規模に進めることになった。ただしそれはアメリカ陸軍航空隊が受け取ることになってしまったのである。


「逃がした分はわが国で作るんだ。働いてもらうぞ」


 フリーマンは返事も聞かず先を急いだ。まだまだ人と仕事が待っていた。


--------


 この時期に地位を失ったドイツ高位軍人の長いリストの最後には、思わぬ人物が加わった。だがその理由は、この時期に吹き荒れた嵐と同じ根から生えていた。


「ああ、うらやましいなあ。俺も何回か辞職したんだが、慰留されてなあ。俺を評価してるってわけでもあるまいに」


 ヴィルヘルム・カイテルは、弟を見送るのを口実にラステンブルクの士官専用食堂に出てきて、ビールをあおっていた。


「解任は辞職じゃないよ」


「同じようなものさ。俺が電話するんだよ。どちらも」


 ヒトラーが顔を合わせたくない将帥を辞めさせるときは、カイテルが健康上の問題がどうとか、辞職の表向きの体裁を整える相談も含めて電話をすることがよくあった。


「まあ、無事にここを抜け出せたのはめでたいことだ、ボーデヴィン」


 ボーデヴィン・カイテルは、目の前の兄を置いて首脳部を去ることをどう言っていいかわからなかった。ヴィルヘルムはその表情を楽しむように沈黙し、そしてジョッキを上げた。


「ドイツに」


「……ドイツに」


 ビールを喉に通したヴィルヘルムは、小さくつぶやいた。


「ドイツをドイツとして回してきたのは俺たちだが、それはいいことだったのか」


 きょろきょろ周囲を確認するボーデヴィンに、ウィルヘルムは苦笑した。


--------


 ボーデヴィン・カイテルはもう砲兵大将に出世していたが、「病気休職」ということにして10月1日にOKW人事局長の任を解かれた。後任は総統付き武官を長くやったシュムントの兼任だった。もちろん士官へのNSDAP流政治教育が強化されていくきっかけにもなったが、ここで士官候補生の学歴要件と家庭条件が取り払われたのが決定的な変化だった。逆に言えばボーデヴィンは、この要求に抵抗してきたのであった。


 大学入学資格(当時の日本で言えば、旧制高校卒業相当の学歴)を持つという本来の条件は、最終学年で志願したら卒業したことにしてやるとか、後で試験を受けることを条件に認めるとか、例外規定を次々に書き加えるドイツ風のやり方で緩められてはいた。だが全面撤廃となると、今まで高学歴士官に囲まれて勤務するのを忌避していた軍人たちも考えを変えた。


 家庭条件とは、財産のない行商人だったロンメルの恋人が家族に加わると士官として前途が閉ざされてしまうとか、ヨードルの母が同じ理由で父の退官まで籍を入れず父親の名前すら教えなかったとか、そういった問題である。


 教育のない下層階級から、戦場での手柄などで推薦された士官候補生が次々に登用され、専門的知識を飲み込み切れないまま前線に立ち、とくに欠員の著しい歩兵部隊を率いた。そして総合的な指揮能力の不足をさらけ出して部下を巻き添えにする事例が増えていったのである。


--------


 局面転換の種は巻かれ、発芽のときを待っていたが、一見すると気づけないほどだった。11月になってすらスターリングラードのドイツ軍は新たな攻勢をかけることがあった……とジューコフは戦後に記している。

第39話へのヒストリカルノート


 1942年9月中旬から、ドイツ軍はもうひとつの兵員不足対策を始めました。開戦以降、各師団の補充大隊は新兵を訓練する仕事を軍管区司令部所属の(したがって、予備軍所属の)組織に任せていました。その中から、訓練後期の兵員を歩兵・砲兵。工兵、充実していれば対戦車砲兵などを持つ「予備師団」に仕立てて占領地後方に陣取らせ、訓練半分、治安任務半分の暮らしをさせたのです。同様の「予備戦車師団」もありました。作戦級のウォーゲームをたしなまれる読者の皆さんは思い当たる節があると思いますが、これらの多くは壊滅した師団を再建するために使われました。



 2ポンド砲に榴弾が支給されなかったのは、車内での誘爆と事故のリスクを重く見たからだという説もありますが、理由ははっきりしません。ただドイツ戦車と戦っているつもりが対戦車砲と連携され、有効な反撃ができずに損害を増やすことがたびたび起きていたのですから、より大きな危険への対応を優先するのが合理的だったでしょう。そうした変化を下から起こすことは、イギリス軍では困難でした。



 フリーマンは航空機生産省の事務次官(財務省出身)に次ぐナンバースリーであり、航空技術に関するほとんどすべての件では大臣に次ぐナンバーツーであったと考えられますので、日本の「省名審議官」に当たる訳語としました。



 すでに何度か出てきたテスケは開戦時に大尉でしたが毎年のように昇進し、1943年2月には大佐になりました。実役停年(じつえきていねん)といって、原則として日本でもドイツでも軍人は昇進後一定年数を経ないと次の昇進が与えられない決まりでしたが、個別に「もっと早く昇進したものとみなす」辞令を出すなとして決まりを無視することができました。その後に人事局長代理になったシュムントに会って話を聞く機会があり、シュムントは「フリードリヒ大王は若い将軍と老練な少佐を組み合わせた。戦時にはいいやり方だと総統が(おお)せだ」と言ったのだそうです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ