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第38話 修復と亀裂


 地中海のイギリス海軍は、ガザララインからトブルクに至る戦いの間、それどころではない別の関心事があった。マルタ島への補給作戦である。エジプト側とジブラルタル側からそれぞれ輸送船団を接近させたのだが、世界中で艦艇が必要とされ、エジプト側船団には戦艦も空母も出せなかった。戦艦を含むイタリア艦隊が出動してくると、大損害を出しながら航海してきたエジプト側船団は反転帰投するしかなかった。ジブラルタル側船団は、途中まで送ってくれた空母イーグルとアーガスが引き返すと激しい空襲に遭い、6隻の輸送船のうち2隻しか届かず、タンカーはその中にいなかった。


 マルタ島は帆船時代、そして軍艦が石炭で走っていて航続距離が短かったころまでは、値千金の中継港だった。今では往年の輝きはないが、航空基地、レーダー基地、暗号通信傍受基地、そして潜水艦基地としてやはり戦時の価値は高かった。


 マルタでは海水淡水化装置も井戸のポンプも石油で動いていた。石油がなくなれば降伏するしかなかった。どうしても失敗するわけにはいかないイギリス海軍は最後の試みにあたり、船団護衛のために4隻の空母を集めた。ただしイーグルとアーガスは古い小型空母であり、ヴィクトリアスとインドミタブルが頼りだった。そのほか、手前で戦闘機を発艦させてマルタ島に届けるために、空母フューリアスが同行したが、この艦載機は防空のあてにはできなかった。戦艦ネルソンとロドネイ、さらに多くの軽巡洋艦と駆逐艦が付き従った。輸送船団は8月2日にイギリスを発ったが、護衛艦隊のジブラルタルへの集結はばらばらだった。


 だが、まだまだイギリスは手元不如意だった。空母アーガスにはいつも載せている飛行隊がいたがソードフィッシュ雷撃機が中心で、今回の任務には適さなかった。臨時に乗せる艦載機型ハリケーン戦闘機とパイロットたちをかき集めたのだが、他の空母と合同演習をしてみると、練度不足が際立った。アーガスはジブラルタルから引き返すことになった。8月10日、船団は地中海に入った。フューリアスは戦闘機を飛ばすとさっさと帰った。


 ドイツのUボートも、危険なジブラルタル海峡を潜り抜けて、地中海に入っているものがあった。その1隻が11日昼過ぎに船団をとらえ、空母イーグルを葬った。


 サルディニア島からも、シチリア島からもドイツ機とイタリア機が飛び立った。対空砲火と戦闘機隊の敢闘で被害は抑制されていたが、12日夕刻、シュツーカの爆弾がついにインドミタブルの甲板に大きな被害を出し、発着できる空母はヴィクトリアスだけになった。すでに船団で最も大切なタンカーのオハイオは魚雷と爆弾を浴びて、航行不能になっていた。


 強力な支援艦隊も、これだけの損害を出しては、シチリア島とフランス領チュニジアの中間に入っていくことは危険すぎた。戦艦ネルソンとロドネイ、そしてヴィクトリアスはマルタ島まで400km余りを残して引き返すことになった。ネルソンに座乗(ざじょう)するサイフレット中将の判断には、オハイオが届かなければマルタは降伏するしかなく、艦隊を無理心中させるわけにいかないという現実が影を落としていた。


 わずかな軽巡洋艦と駆逐艦が、最後の行程を付き合うことになった。夜になると、イタリア潜水艦が軽巡カイロを沈めた。ひとつだけいいニュースがあるとすれば、攻撃で手一杯のイタリア空軍もドイツ空軍も護衛を出そうとしないので、イタリア巡洋艦戦隊が帰ってしまったことだけだった。


 13日にはマルタ島から掃海艇隊がやってきて護衛に加わった。午後を過ぎると、フューリアスが届けたばかりのスピットファイア戦闘機がマルタ島から飛んできた。空襲は続き、軽巡マンチェスターはイタリア魚雷艇の手にかかって沈んだ。そしてオハイオは、順々に集まってきた駆逐艦と駆潜艇とモーターランチのごちゃまぜな集団で、空襲が続く中を四苦八苦して曳航(えいこう)され始めた。そしてマルタ島に着いたオハイオは本当に着底沈没したが、海の男たちは船の状態を知らされていたから迅速に働き、沈むのと競争で積み荷の燃料を()み出すことができた。14隻の商船のうち到着したのは、オハイオを着いた方に勘定しても5隻だけだったが、その中にタンカーが含まれていたので、結果的には勝利であった。


 マルタ島は生き延びた。それは喜ばしいニュースだったが、それが何を意味するかは、まだ明確ではなかった。


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 1942年8月12日から17日まで、チャーチルはモスクワにいた。「そんなことは読んだことがない」という読者の皆さんも多いであろう。歴史書で無視される理由は簡単で、何も決まらなかったからである。東部戦線の困難に心をさいなまれるスターリンが、北アフリカでしくじり、そしていっこうにどこにも上陸しないイギリス軍に不満を持っていることをイギリス大使が打電したので、チャーチルが「会おう」と即決したのである。だから会談の内容は、7月にアメリカ代表団がロンドンに来て決まったばかりのトーチ作戦の概要などを伝えて、なんとかスターリンをなだめるものだった。


 どうせ何も決まらないとチャーチルも思っていたであろうが、真夏に地中海を、それも撃墜されないようチャーチルも酸素マスクをつけて高空を飛んでいくプランを取らねばならず、モスクワに行くこと自体が大変な難事であった。ウィドウメーカー(未亡人製造機)とあだ名された航空機はいくつかあるが、空中分解事故の多かったB-24リベレーター爆撃機はそのひとつで、それでも速度と航続距離からこの航空機が使われた。


 そしてこの小説にとっては、その往還と目的地での出来事はあまり関係がなくて、行きがけにちょっと寄ったエジプトのカイロで起きたことの方が大事なのである。


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 トブルクを取って元帥位をもらったロンメルであったが、イギリス軍はここしかないという守り場所、エル=アラメインに陣取り、ロンメルはそれをどうすることもできずにいた。エル=アラメインの南に広がるカッタラ低地は、干上がりかけた塩湖が大きな割合を占める。乾いている場所でも堅い地面はごく薄く、その下には現地でハシュハシュと呼ばれる塩交じりの細かい砂があり、車両は車輪が沈んで抜け出せなくなる。かといって、広大なカッタラ低地を迂回してイギリス軍の背後に回り込むことは、およそ現実的ではなかった。


 とはいえ、海岸に位置するエル=アラメインの街からカッタラ低地までは、30km余りの幅があった。街そのものの防備のほか、イギリス軍は3つの陣地を築き、周囲に地雷と鉄条網を張り巡らしてドイツ軍の通過を阻んでいた。トブルク陥落以来、ロンメルは何とかここを抜けようと、工兵に道を開かせて前進を試みたが果たせず、8月までを過ごしていた。


 8月初旬にエジプトに着くまで、チャーチルはオーキンレックを交代させるつもりはなかった。だが、気が変わった。ロンドンでオーキンレックの報告を受けている限りでは指揮に問題はないように見えたが、オーキンレックの部下である軍団長や師団長たちと話してみて、オーキンレックや、彼がカイロに残して中東総軍を任せた参謀長の評判がひどく悪いことを知ったのである。


 短い間に大きな人事異動を進めようとしてグダグダしたが、オーキンレックの中東総軍からペルシア(イラン)・イラク方面を切り離し、残った中東総軍の司令官には、トーチ作戦に参加するはずだったアレクサンダー大将が座った。古巣のインド軍ではオーキンレックと交代したウェーヴェルがまだ総司令官だったから、オーキンレックはしばらく無役となった。リッチー罷免以来空席だった第8軍司令官には、モントゴメリーが呼び寄せられた。戦前から大演習の主宰者として実績があったが、ダンケルク以降にたびたびあった上陸作戦計画が全部流れてしまったために、ますます演習大将のようになってしまっていた。


 だがイギリス第8軍にいま必要とされていたのは、実はそれだった。北アフリカのイギリス軍はずっと、諸兵科連合の戦い方をしくじってきたのである。今の第8軍将兵は、辛苦を生き延びてきた精兵たちであったが、将軍の采配よりも小集団の才覚で生き延びてきたわけだから、言うことを聞かない猛者(もさ)たちになっていた。モントゴメリー回想録の表現を借りれば、命令に対する士官たちのbellyaching(腹が痛いこと、転じて不平不満を言うこと)が当たり前になってしまっていたのである。威令を行き届かせる必要があった。


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 7月、ジューコフの西部方面軍はルジェフ方面での攻勢を発起した。手持ちの部隊と弾薬でやるしかなかった。だから夏のうちに、この攻勢は失敗したことすら目立たなかった。


 スターリンは自分を長とするいくつかの組織の区別にこだわらず、意見を聞きたいと思ったら誰でも呼んだ。司令部がそれほどモスクワから離れていないジューコフが呼ばれることもあった。だからスターリンに呼ばれたとき、ジューコフはそれほど不思議に思わなかった。


 攻勢が失敗しそうなのを叱責されるかもしれないとは思ったが、仕方なかった。数日前から、スターリングラード市街の一部で交戦が始まっているとは聞いていた。自分に増援を期待できる状況ではなかったし、今までに何度か自分の部下に勝利そのものを命令し、「違反者」を処罰してきていた。失敗と言えば、7月にヴォロネジへ北からしつこく反撃していた第5戦車軍などの攻撃は、西部方面軍司令官を兼ねつつジューコフが現地入りして、STAVKA代表として督励(とくれい)していた。方面軍司令官をふたり代えたが攻撃は失敗した。


 執務室には、意外なことに、誰もいなかった。GKOの政治家たちか、NKVDの幹部たちがいつも誰かいるが、それもいなかった。自然に喉が鳴った。スターリンは人払いをしていた。


「掛けたまえ、ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ」


 スターリンの苦笑に意地悪さの成分を感じ取って、ジューコフはいくらか安心した。自分をだまそうとするのであれば、スターリンはそんな成分を表情に含ませないだろう。人のいるところでは、スターリンはジューコフを父称で呼ばなかった。それは嬉しがらせに聞こえたが、もっと悪い何かを隠していないのであれば結構なことだった。


「GKOの皆と話し合ったのだ。彼らは私の代理を置くべきだという意見だ。STAVKA最高司令官の代理だ」


 スターリンは少し沈黙したが、ジューコフは慎重に言葉を選んだ。どうしても答えねばならないようなので、言った。


「どのような命令でも、果たす準備はできております。同志スターリン」


「国防人民委員首席代理を兼ねてもらう。スターリングラード方面軍にワシレフスキーが行っている。行って交代してくれ」


 これはティモシェンコの序列がジューコフ以下に落ちたということであり、前年末以来スターリンが無理な攻勢を命じ続けてきたことをやめ、ジューコフやワシレフスキー参謀総長の意見に従っていく契機となる人事だった。


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 東部戦線の南半分で、ドイツの勢いは止まらなかった。南部方面軍は増援を受けられないまますり減って、廃止された。その残兵とノヴォロシスク軍港から絞り出された海軍水兵部隊、そしてケルチ半島から逃げ延びた部隊を、本来はトルコ国境を守る司令部であるザカフカズ(トランスコーカサス)方面軍が指揮して、リスト元帥のA軍集団と向き合った。


 A軍集団から見た南方侵攻ルート……というイメージでしばらく話をする。最も西のコースは海岸沿いにノヴォロシスクに向かうものだが、これはカフカズ(コーカサス)山脈西端を回り込むことになり、道もよくないし迂回する余地もなく、歩兵と砲兵でゆっくりと正面突破するしかなかった。


 大都市クラスノダール周辺はクバン川流域の平地が続くクバーニ地方で、クラスノダールから8月12日にソヴィエト軍は撤退した。しかしここから南へカフカズ山脈を超えていくルートも道が悪く、山岳部隊の領分だった。黒海沿岸のトゥアプセ市に通じる山道が攻防の焦点になって、ついにドイツ軍はここが越えられなかった。


 だからドイツ軍装甲部隊は、カスピ海沿いの東側ルートを通るしかなかった。比較的良い道路がトルコまで続いており、今次大戦でドイツ軍が初めて直面する「ステップ」だった。南に向かうカフカズ山脈はトルコ国境近くまでドイツ軍の移動を妨げなかったが、乾いた草原で、大都市がないため水道や井戸のインフラが乏しく、大部隊が飲料水を確保するには川の存在を意識して進退するしかなかった。


 ソヴィエトの増援はカスピ海を渡ってバクー市に送り込まれ、ようやくドイツ軍の進撃に立ちはだかる位置に展開し始めた。一方ドイツ軍は、際限なく増える占領地の治安を維持するために最前線では人も物も足りなくなってきた。カフカズ山脈まであと100kmほどのモズドクをドイツ軍が取ったところで攻勢が止まり、9月に入るとドイツ軍はもう土地が取れなくなった。


 リスト元帥は9月10日に解任されたが、その直前に起きたことが、この小説にとっての転回点といえる。


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 厳冬の前に小春日和が来るように、夏の東部戦線からは勝利の知らせが次々にヒトラーを訪れた。8月8日、クラスノダールの近くにある油田都市マイコプが陥落したことは特にヒトラーを喜ばせた。ヒトラーはこのままドイツ軍が裏口から、1941年夏にクーデターが失敗したイラクなどになだれ込み、イギリスから油田を奪い去ることを夢見た。だがボックがせせら笑っていたように、そうした土地の奪取にはソヴィエト軍のせん滅が伴っておらず、占領負担ばかりが増えていた。


 モスクワは取れなかったから、もうフランスに勝ったような形で、ソヴィエトに勝つことは望めなかった。だからヒトラーが外交に出なければいけなかったのだが、ヒトラーはそうしなかった。ヒトラーはすでに1941年後半にユダヤ人問題の「最終的解決」に関する基本的な指示を出してしまっていて、親衛隊はその具体化を進めていた。圧倒的な勝利以外で戦争が終われば、占領地のユダヤ人に対してやったことが暴かれ、もともと無理な軍拡を続けて歪んでいたドイツ経済は簡単に各国の制裁で行き詰まってしまうことは明白だった。このころすでに、ヒトラーは控えめに言っても病身であり、脳内に結んだ歪んだ戦争像をもとに指導をする傾向がますます強まっていたが、仮にここで完全な正気に立ち戻ったとしても、勝利できないヒトラーにはユダヤ人(だけてもないが)虐殺の露見が待っていた。


 そして9月7日、ヨードルはA軍集団のリスト元帥との会談から帰ってきて、ヒトラーに復命した。


「リスト元帥の報告にある通りであります、我が総統。トゥアプセに通じる山道は少数の敵によって効率的に防がれ、我が機動作戦を展開する余地がありません。カフカズ山脈西端部を超える周囲の道路も同様です。我が軍はノヴォロシスクの市街地ほとんどを制圧しましたが、東の郊外地区からソヴィエト軍を追い出せず、軍港を利用することができません。そしてA軍集団戦線の東半分においては鉄道による補給ができず、人員と燃料の許す限りでの若干の機動が可能であるにとどまり、カフカズ山脈にたどり着くことはもはや望めません」


 野戦軍を撃滅せずに土地だけ取っても、占領負担が増えるだけである。もちろん政治家だけが持っている権限と手段によって、後方の収奪と賦役は進むかもしれないが。この作戦全体が持っている純軍事的な「おかしさ」をボックは正しく感じ取っていた。そう。血の取引としてあまり得とは言えず、限りある資源と時間の空費である。たまたまスターリンたちが過誤を重ねて対応が遅れたため、進撃は長いこと成功し続け、ヒトラーに考え直させる適切なタイミングが今まで見つからなかった。いや、以前触れたが「どうも話がうますぎる……」という意見は7月からあって、ヒトラーも一緒に首をひねっていたのだが、ヒトラーは都合よくそれを忘れていた。


 いっぽう、ヨードルは趣味の登山者として、リストから計画を聞くと、これはダメだとわかった。だが、それをヒトラーにわからせることができなかった。()れ物に触る「いつもの扱い」をしていてはいけないときだった。だが、話せばわかるヒトラーでもなかった。一部始終を見ていたヒトラー付き武官のひとりエンゲル少佐は、「総統は1分また1分と興奮してきて、攻勢の失敗を感じ取っていた」と日記に書いた。そしてヒトラーは犯人探しを始めた。


「補給が届かないのは参謀本部の責任であろう。何カ月を準備に費やしたと思っているのだ」


「6月28日に攻勢が発起されてより、まだ2カ月余りにすぎません、我が総統。鉄道工兵はたゆまず作業を続けております。ロストフの東で落とされたドネツ川の鉄道橋はいまだ復旧せず、野戦軽便鉄道の資材を持ち込む貨車を通せない状況です。これまでは敵の補給も遮断できておりましたが、カスピ海を渡ってバクー市に至る補給路が活用され始めた形跡があり、バランスが変化しようとしております」


「敵もトラックと馬車を使っておるのだろう。我が軍はなぜそれができんのか。馬糞が臭いからか」


「我が総統。東部戦線において我々は7月までに、死者不明者、回復を見込めない負傷者を合わせて140万人以上を失っております。4年分の徴兵者を超える数であります。すでに生産現場はもとより、後方任務に就く者も不足が目立っております。加えて後方の治安にもますます多くの部隊が必要とされ……」


「我が軍があれだけの損害をソヴィエト軍に与えているというのに、こちらの損害のことばかり言うのか。海軍と空軍は連合軍の船団を打ち破ったぞ。どうして奴らにはまだ車両があるのだ」


「8月に占領したマイコプの施設も完全に持ち去られておりました。明らかに共産主義者どもは工場の移転を計画し、徹底的に実行していたのです」


「どうしてそのような周知のことが、対策もなく今我々をとらえているのだ。将軍たちに能力と熱意が足らないからか。ああん!」


 ヒトラーは、今ヨードルに与えられる罰を探した。多くの将軍はヒトラーを我慢することすらしないとヒトラーは知っていた。だからヨードルをいま解任することはできなかった。誰か代わりを見つけるまで、それはできなかった。そしてヒトラーは言った。


「ただいまから、ヨードルとカイテルに私との陪食を禁ずる」


 誰も返事をしなかった。


第38話へのヒストリカルノート


 実際にはスターリンは、ジューコフを電話で最高司令官代理に任じた後、モスクワに出てくるように言いました。



 ヨードルとヒトラーのケンカは、速記録も取られているのですが、ハルダーの戦時日誌から数字を拾って少し盛りました。日付は合っています。


 ヒトラーはヨードルをノルウェーかどこか、山岳部隊を指揮できるところに飛ばして、パウルスを後任にすることを考えました。おそらくパウルスが、ヒトラーにべったりだと評判だったライヒェナウの参謀長を長いこと続けていたので、自分の命令に従順だと期待したのでしょう。もちろんこれは「第6軍司令官としての任務に区切りがついたら」のことであり、その機会はずっとやってこなかったのです。もうヒトラーは、登用したい将軍のリストが尽きてしまっていました。



 正確に言うと、リストが主張しヨードルが賛成したのは、トゥアプセを通るカフカズ山脈の山道で前進が止まったドイツ山岳軍団を引き上げ、その北の平地にあるマイコブ油田地帯の護りにつけたいと言うことでした。ソヴィエトの増援がようやく届き始めて側面!(つまりマイコブ)を脅かしているし、冬は迫っているし、コーカサス山脈を越えての力押しは無理だと言うのです。



 大戦末期、ヒトラーが左腕の震えを止められなかったことは広く知られていますし、エーファ・ブラウンとの結婚証明書の署名も乱れています。ただこうした症状をもたらす病気は、パーキンソン氏病のほかにもいくつかあります。結局ヒトラーはこうした病気について専門家の診断を受けなかったし、例の侍医モレル博士はこうした診断について信用できる人物ではないので、健康状態の全般的悪化は史実であったとして、病名や詳細・正確な健康状態については棚上げにするしかないというのが、研究者の受け止め方の最大公約数であるようです。


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