第37話 銃後の有利と戦場の優勢
アメリカを味方に加えたメリットは間違いなく巨大だったが、1942年半ばに実体化した有利さはまだわずかだった。それに対して、日本を敵に回したデメリットは思ったより巨大で、すぐに現れた。開戦から3年目の夏を迎え、イギリスの朝野は思ったほど戦果が上がらないことにいら立ちを感じていた。銃後で得たはずの有利が、戦場の優勢へとつながっていなかった。それは、東方へ疎開した工場が次々に生産を再開しているソヴィエトも同様であった。
一方、1942年2月に着任したシュペーア軍需大臣は、ドイツと占領地域に潜在した生産力を戦争遂行に向けて調整し、連合国がせっかく得た有利さをいくらか帳消しにしていた。シュペーアの手腕だけでなく、ソヴィエトとの開戦で戦争がまだまだ終わらないと思い知った経営者たちの態度変化もあったし、弾薬生産大臣としてトートが着手した弾薬工場能力拡大などの結実もあった。
シュペーア自身は産業のプロではなかったが、産業人の会議を作って生産性向上につながる意見を聞き、ヒトラーから託された政治的権限を使ってそれを現実のものにしていった。だからシュペーアの施策は、軍人の細かい要求を聞かずに済ませているものもあった。例えば装甲兵員輸送車としてSd.Kfz.251系列のほかに、偵察部隊が使う少し小さなSd.Kfz.250系列があった。Sd.Kfz.250では歩兵1個分隊が2両に分乗せねばならず(偵察部隊が複数車両で行動し、全滅せず報告できるチャンスに投資するのは一定の合理性がある)、大戦後半にかけてSd.Kfz.251系列が増産されるとともにSd.Kfz.250の供給が絞られ、ついには供給されなくなった。偵察部隊では、Sd.Kfz.250に装甲車の銃塔や通信機を載せた車両を不整地対策として重宝していたが、大戦末期にはそれなしで戦わねばならなくなった。「あっマズい。Sd.Kfz.251のシャーシで同種のものを作らないと」とおそらく誰かが気付いたのだが、もう大戦末期で、実際に車両が完成したかどうかはわからないのである。
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1942年6月、ワシントン。
キング海軍軍令部長は、アメリカ陸軍とイギリス海軍を馬鹿にする態度が目立つほど、アメリカ海軍に誇りを持つ人物だった。そして対日作戦研究の第一人者であった。つまりルーズベルト政権が「ヒトラーを先に叩く」という基本方針を取るなら、自然にキングはその方針に対し、隠然たる反対派の巨頭となるわけであった。
空母が足りなかった。すでにミッドウェーで戦勝を得たとはいえ、海軍の力で勝ちを占めるには、攻撃力が全く足りなかった。艦隊空母が日本を叩く間に、後方から補充航空機を運んだり、輸送船団を護衛したりする小型空母があれば、艦隊空母を最もそれにふさわしい任務にあてられるはずだった。すでに海軍は、いくつもそうした護衛空母を作るプロジェクトを走らせていた。戦間期の標準大型商船をもとにしたロングアイランド級とボーグ級。給油艦を改装したサンガモン級。護衛空母ではないが軽巡洋艦のための艦体設計を流用し、小型だが速くて艦隊空母について行けるインディペンデンス級軽空母も、まもなく竣工を始めるはずだった。
だが、まだ欲しい。たしかにキングはその意向を、商船建造を監督する海運委員長のロング中将に漏らした。だがロングに相談などしたら、ロングが誰に話を持って行くかはわかり切ったことだった。気づくべきだった。キングは後悔していた。
「君が空母建造に興味があるとは、知らなかったよ」
「はい、先月までは思っても見ませんでした、提督」
ヘンリー・カイザーはへらへらと笑った。いや、へらへらと笑ったように見えたのはキングの嫌悪がゆがめた像かもしれない。キングはこの、言動が派手でチャラい男が嫌いだった。
もともと道路工事会社をやっていたが工程管理に手腕があり、今では造船王となり、戦時標準輸送船リバティシップの生産性向上に大きな貢献をしていた。だが軍艦を作った実績はない。ロングの打診を受けてから設計事務所の尻を叩き、1か月で空母の設計プランを仕上げて持ってきたのだ。
「どうです? バンクーバー造船所には12の船台があります。みんなつぎ込みます。生産を始めてから半年で、30隻を納入して見せますよ」
キングはうさんくさげな視線にさらに力を込めた。カイザーは少女のように笑った。
「検討させたが、構造が少々ぜい弱だ。それに護衛空母は足りておるからな」
カイザーはキングの言葉に目をうるうるさせたが、無駄だった。
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海軍省を出ると、弁護士と設計主任者がついてきた。高級葉巻のにおいが染みついた乗用車に乗り込み、ホテルへ行けと運転手に指示したカイザーは、隣の弁護士に言った。
「チャド、ルーズベルト大統領のご予定をお聞きしろ」
「今からですか」
「ここんところいろいろ頼んだから、ロビイストの電話帳なら1冊できてるだろう。誰かひとりくらい、大統領の電話番号を知ってるんじゃないのか。ハリー・ホプキンスでも悪くはないが、二度手間だ」
弁護士の沈黙は、「キングの反対をひっくり返すほどの好意をルーズベルトに期待していいのか」という疑問に違いなかった。カイザーは首を振ると、言った。
「大統領が俺を好きかどうかは知らんよ。そんなことは関係ない。チャド、ああいう人らはな」
カイザーの表情にはひとかけらの微笑もなかった。殺し屋が仕事をするとき、こんな顔をするんだろうと弁護士は思った。
「こういう話が好きなんだ。ルーキーの成功物語。そういう商売なんだよ、ああいう人らは」
ルーズベルトはカイザーの言う通り、その案を採用するようキングに命じた。だがカイザーもほら吹きであった。1番艦カサブランカの起工から、30番艦シャムロック・ベイの竣工まで15カ月かかってしまったのである。カサブランカ級は日本海軍の特設空母大鷹と比べて、排水量は半分、機関出力は3分の1という小型空母であったが、1943年9月起工分からは竣工までわずか3か月であり、大戦期アメリカで最も多く生産された空母となった。
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1940年冬、すでにイギリス戦闘機部隊は、その優位をイギリス上空で生かせなくなっていた。もちろん本土防空の余力を削ってしまうなど、まだまだできなかった。だから1941年のうちから、戦闘機隊を主とする攻撃隊をフランスなど大陸諸国に送って、バラバラに迎撃してくるドイツ戦闘機隊を減らしてやろう……という作戦が繰り返された。
もちろんドイツが無視できないように、爆撃できる攻撃隊でなければならなかった。旧式の双発爆撃機ではオトリどころか本当に落とされてしまうし、重爆撃機はまだまだ貴重だったから、爆装した戦闘機がいくらか混じるようになった。第35話で触れたように1941年から1942年にかけて、北アフリカのイギリス空軍では戦闘機が爆装して地上攻撃役を務めたのだが、(イギリスには対空砲火に生き残れそうな軽爆撃機がないので)そうするしかないな……という意見は開戦前にすらあったし、本国でもすでに似たようなことを始めていたのである。ただしその航続距離から、ドイツ本土は攻撃できなかった。
さて、爆撃機部隊はというと、1942年春になってようやく攻撃力が上がり、ドイツを弱らせて勝利をつかむ原動力としての可能性を示せるようになっていた。第35話でバット報告について触れたが、何の成果も出せないどころか成果の評価が根本的に誤っていたことへの批判は高まり、対日戦を抱え負担が増えた海軍は「対Uボート戦にあるだけ戦力が欲しい」と陰に陽に言い始めて、ハリス爆撃機軍団司令官へのプレッシャーは高まっていた。
1942年5月30日夜のケルン1000機空襲は、イギリス爆撃機部隊が育て、ため込んできたものを訓練部隊の機体まで駆り出して突っ込んだものだった。すでに達成されたものと、まだ達成できていないものがどちらも赤裸々に示された。
攻撃は成功した。出動した1047機には途中で引き返したり、他の目標に行ってしまったりしたものもあったが、誘導装置GEEは868機を目標まで連れて行った。短時間に殺到した爆撃機の群れをドイツは狩り尽くせず、イギリスの喪失は4%弱にとどまった。焼夷弾を多く含んだ爆弾1455トンは直接的には469人を殺しただけだったが、68万4千人の市民のうち、少なくとも13万5千人が避難し、4万人以上がそのまま帰るところを失った。もっともケルンの戦果は、天候など好条件がそろったもので、6月までにあと2回行われた1000機爆撃の被害はそれに及ばなかった。
ケルンへの出撃で、すでに古兵のハンプデンやホイットレーは合計107機を占めるに過ぎなかったが、半分以上の602機は開戦以来戦ってきたウェリントン双発爆撃機だった。スターリング、ハリファックス、マンチェスター、ランカスターという期待の重爆撃機群は合計338機まで育っていた。そしてそれらの相当部分は、5月から6月にかけて一時的にかき集めた戦力であって、訓練部隊や沿岸航空部隊に返さなければいけなかった。
戦略爆撃機の数がそろって勝利を決定づけることは、まだ1943年以降に期待されていた。今は4つの重爆撃機プロジェクトを整理し、選択と集中をするべき時だった。結局それを推し進めることは1942年秋以降、技術的知識と政治的剛腕を兼ね備えたフリーマンの仕事になった。もちろん先走って言えば、「大規模なフランス上陸が可能なほどドイツを弱らせるために、戦略爆撃が残された唯一の方法である」ことにイギリス軍が(陸軍も、海軍も)納得することが、戦略爆撃に資源が集中される大前提であった。ハリスと爆撃機軍団が奮闘したのはもちろんだったが、1942年8月のディエップ上陸が悪い結果に終わったことは、間接的にフリーマンの背中も押したし、1943年以降の航空戦を変える力となったのである。
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「イワン・フリストフォーロヴィチ(バグラミャン)。私は君に幸運を運べなかった。息災でな」
「同志元帥。あなたは私を救ってくれました。ソヴィエトもいずれお救いになります」
PS-84輸送機のエンジン音のせいで、別れのあいさつは大声になった。フルシチョフとティモシェンコの会話はそれより小さく、バグラミャンには聞き取れなかった。
ティモシェンコが報告のためにモスクワへ飛び立った飛行場は戦闘機と爆撃機であわただしかった。フルシチョフとバグラミャンも管制施設まで歩いて帰るしかなかった。その道すがら、フルシチョフはバグラミャンの肩を叩いた。
「お前さんは生き残った。それはいいことだ。俺が生きているのは、良いことかどうかは知らんが。何もかもダメになったら、訪ねて来い。バレニキくらい食わせてやる」
司令部を代表するように最も重い左遷を受けたバグラミャンに、フルシチョフは明るく話しかけた。大粛清期に富農の多くを殺してしまったスターリンは、農業指導者として実績のあるフルシチョフを手放せなかった。それを織り込んだ、ふてぶてしいフルシチョフの言い分だった。
サイレンが鳴った。ドイツ機の接近らしい。周囲にいる者すべてが走り出した。ふたりも走った。他の走っている者について行けば、防空壕が見つかるはずだった。
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ハリコフ(ハルキウ)方面で攻勢をかけるティモシェンコの計画は、始まる前からいくらか参謀本部に値切られていた。5月12日、スターリンの予備軍をもらえないまま現地の戦力で始まった攻勢は、ハリコフの北と南からドイツの戦線を破り、ハリコフとドイツ第6軍を包囲することを狙っていた。ソヴィエト軍は南北それぞれ、最低でも20km以上を突破した。師団砲兵の射程は10km程度だから、第一線は食い破られたと言ってよい。だが、そこで食い止めるだけの厚みが、まだドイツ軍にはあった。クリミア戦線で戦うリヒトホーフェンの第8航空軍団から、ヒトラーは歴戦の第77地上攻撃航空団など、シュツーカや双発爆撃機をハリコフの救援に回させた。
ドイツもまた、ハリコフの南に突出したソヴィエト軍を南北から切り取って包囲するフレデリクス作戦を準備中だった。突出部南側を担当するクライストの第1装甲軍は5月17日から動き出した。ソヴィエト参謀本部はワシレフスキーが引き継ごうとしていたが、攻勢中止を強く論じ立てたのもまずワシレフスキーだった。ティモシェンコの司令部では政治委員のフルシチョフも、参謀長のバグラミャンも作戦中止に傾いていたが、ティモシェンコ自身はスターリンに強気な報告をして、スターリンは攻勢継続を選んだ。だが23日には包囲の輪が閉じた。25日から31日まで包囲突破の戦いは続いたが、脱出者はわずかだった。
「報告が正確でなかった」ことを主に批判されて、バグラミャンが方面軍参謀長から軍参謀長に左遷され、ティモシェンコとフルシチョフはスターリンの手紙で叱責された。そしてティモシェンコはモスクワに呼ばれた後、(スターリングラード方面軍に改称した)司令部に戻ってきたが、引き続きの敗勢ですぐ解任され、21日からあまり華々しい作戦の機会がない北西方面軍司令官へ飛ばされることになった。デミヤンスクのドイツ軍を包囲していたのが突破され補給と補充が届いてしまい、前任者が降格されたためだった。
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ドイツ北方軍集団の補給ルートは大きく分けてふたつある。エストニアからバルト海沿いに入ってくる西側ルートと、リトアニアやラトビアからソヴィエトのプスコフを通る南側ルートである。レニングラードから50kmくらい南を深く西へヴォルホフ方面軍が突っ込んで、南側ルートの補給路を切ってやろうというのが、1942年1月からソヴィエト軍がここで取った作戦だった。
この作戦には、モスクワでグデーリアンが陥ったのと同種の困難があった。「そんな方向に道は一本も走っていない」のである。森と沼だけがあって、春になって沼に飛行機が下りられなくなると、車両どころか駄馬すら近づけなくなった。後のスターリングラード同様、馬は食料となった。森はあっても飼料がなかったのである。
逆にドイツは、モスクワ~レニングラード線の鉄道と道路をふたつの街、リュバンとチュドヴォで止めていたが、それはソヴィエトが西へ攻め込んだ場所のすぐ北だった。とりあえずここを取れれば、包囲されたレニングラードの解放に大きく前進するのだが、レニングラード方面軍にも、森と沼に補給を阻まれたヴォルホフ方面軍にも、そのあと一歩の前進ができなかった。
レニングラード方面軍司令官は、ジューコフが前任地から連れてきた(第29話参照)ホジン中将だった。ヴォルホフ方面軍が目標未達ながら頑張ってくれたので、レニングラードそのものへの圧力が弱まり、春まで無事におれたのである。だがホジンはスターリンに、自分が両方の方面軍を合わせて指揮すればうまくやれると吹き込んだ。ヴォルホフ方面軍司令官は、スターリンに何となく嫌われているメレツコフ(第28話で逮捕、のち釈放)だった。スターリンは、ついホジンの言うことを聞いてしまった。
ホジンは4月23日に2個方面軍を指揮することになったが、合計9個軍を同時に指揮する能力はなかった。膨大な報告を処理しきれず、どうにか提出した第2打撃軍救出計画は、スターリンに出し直しを命じられた。再度の提案は、第2打撃軍がなりふり構わず脱出してくることだった。書き直しのために情報を懸命に処理したところ、もうホジンの戦力で手におえる状況ではなかった。貴重な数週間がすでに失われていたが、スターリンと参謀本部は5月14日、第2打撃軍の全面撤退を許可した。もうティモシェンコの攻勢は始まっていて、陽動としての意味もなかった。ドイツ軍は22日に追撃を開始した。30日には包囲が完成し、突破支援攻撃は6月5日に失敗した。
スターリンは6月8日、ホジンを両方の方面軍から解任し、翌日にはメレツコフをヴォルホフ方面軍司令官に再任して、さらに包囲突破の道を探らせた。24日夜、第2打撃軍は最後の突撃を敢行した。いくらかが包囲を抜け出し、それが最後だった。それでも兵士たちは森に逃げた。9月まで、小集団の脱出は続いた。
第2打撃軍司令官ヴラソフ中将は、7月11日にとうとう捕まった。ヴラソフがソヴィエト士官として、最も知られた裏切者に変わったことは、ご存知の読者も多いだろう。
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「少佐どの、イタリア工兵から'工事'が終わったと発光信号がありました」
「兵士とトラックを起こせ。日が昇る前に渡り切るぞ」
第15装甲師団補給指揮官のフレイ少佐は、夕方までの特等席(車両の陰)から這い上がって、装甲車に乗り込んだ。固定武装がないイギリス軍の偵察装甲車で、座席が失われていて戦闘には不便なので、フレイの段列に自衛戦闘用として回されてきたのである。装甲車の作る日陰でフレイは休み、そのまま夜になっていた。
3月から5月まで、ロンメルはトブルクより50km以上西で足踏みした。それを防いで、イギリス軍はガザララインと呼ばれる地雷と陣地の帯を作り上げた。5月26日に発起されたロンメルの攻勢は、イタリア軍にガザララインを正面から正攻法で(砲撃と歩兵を中心に)攻めさせ、自分は陣地帯を丸ごと南から迂回するというものだった。そして5月29日早朝、ガザララインの向こうにいるロンメル本隊に向かって、イタリア軍の工兵が地雷原を切り開き、フレイの段列がいまガザララインを横断しようとしていた。
「少佐どの、自分たちが先に通ります」
捕獲トラックに乗った兵士たちが声をかけた。車両を失ったドライバーたちがありあわせの火器で護衛役をやらされている。車載の37mm砲もいくらかあった。フレイは敬礼して応じた。ロンメルなら無造作に先頭に立つのだろうが、その種のDraufgängerTaktik(無鉄砲な戦術)に命を預けるにはフレイは大人過ぎた。
「出発!」
フレイは身を乗り出して身振りで命じた。100近いヘッドライトが一斉に応じた。
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ガザララインを突破したロンメルたちは補給路を切り開き、そこに居座って、砂漠の海で海上優勢を確立した。水の補給を絶たれては、ガザララインを構成する陣地群は降伏するしかなかった。6月14日、ガザラライン全体からの退却が許可された。
だが、まだトブルク要塞があった。エジプト国境への道は遠い。アメリカを味方につけている以上、時間はイギリスの味方である。だからチャーチルは6月17日、アメリカに向かった。次の攻撃計画について、4月に表面化した米英のすれ違いを調整する必要があった。
6月21日未明、ワシントンのチャーチルにトブルク陥落の報がもたらされた。ルーズベルトの決断は速かった。アメリカ第1戦車師団の取り分だったM4シャーマン戦車や105mm榴弾砲(そのうち相当数が自走砲)が、アメリカの手配する高速輸送船団でエジプトに送られることがすぐ決まった。だがチャーチルは感謝しつつ、ともかく帰国するしかなかった。トーチ作戦につながっていく調整は、またの機会にということになった。すでに語ってきたように、アメリカは年の変わらないうちにどこかに上陸したいから、これはトーチ作戦に関わる様々な準備が拙速に傾く要因となった。もちろんイギリス議会も激おこで、チャーチルが帰国すると不信任案が上程されたが、圧倒的多数で否決された。現状は大いに不満だが、いまさらチャーチルの代わりなどいないという点で、イギリスの世論は一致していたのである。
さて、そうなると、トブルクがなぜあっさり落ちたのかを説明しなければならない。捕虜になった守備隊司令官クロッパー少将は欠席軍事裁判にかけられて無罪となり、裁判記録の詳細は長いこと非公開であったので、戦記記事でもちょっと元ネタが古いと、戦闘経過はサラリと流されていることがある。
一言で言うと、ロンメルの妙案というより、イギリスのグダグダのせいであった。時計の針を、まだガザララインの退却命令が出ていない6月10日まで戻すことにしよう。
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6月10日。小型乗用車2両に分乗したドイツ兵の一団が、イギリス遺棄戦車に接近した。ひとりの兵士が走り寄ってよじ登り、慎重に砲塔のハッチを開け、身振りで後続を呼んだ。キャタピラが切れて割れた転輪もあったから、回収は問題外だった。カニスター(ジェリカン)と手押しポンプを持った兵士は、燃料の抜き取りにかかった。最初の兵士は、何か使えるものを探しに車内に入った。みんな急いでいた。夏に差し掛かったリビアは日陰でも摂氏45度で、判断を伴う作業は手早く済ませる必要があった。
爆音が近づいてきた。シルエットはドイツ機の一群だった。積極的に殴り合っている時期には、偵察機にも護衛がつくことがあった。守られているらしいBf110双発戦闘機は爆弾を下げていなかったから、偵察任務であろうと思えた。地上の自分たちがどちら側の兵士に見えているかはわからなかったが、何人かの兵士が手を振った。
歓声が上がった。車内を探していた兵士が、鮭の缶詰を見つけて、ハッチから手を差し出して見せた。この程度の規模なら、隊内で消費してもよさそうだった。調理しなくても、中の油ごとパンに乗せればいいだろう。ハッチの中からは、まだ銃と弾薬箱などが運び出されていた。ドイツ軍も捕獲戦車を使っていたから、砲弾にも価値はあるが、外国火砲の信管に詳しくない回収班は手を触れないように言われていた。
中東総軍のオーキンレックは、1941年のトブルク包囲を耐え抜く間に海軍が小艦艇を多く失い、二度とごめんだと思っていることを良く知っていた。だからトブルクの西側にあるガザララインで何としてもイギリス第8軍のリッチーに食い止めてほしかった。その中央を食い破られ、南端のビル=ハケイムに拠る自由フランス軍も持ちこたえるのが難しくなった6月5日、リッチーは戦車部隊を集中させて大釜陣地(ガザラライン東側に居座ったロンメル本隊)を攻撃したが、大小の対戦車砲に仕事をされた。その結果が、この残骸群だった。
戦車部隊が単独で退くと、歩兵と砲兵は取り残され、戦車の前に降伏するしかなかった。ドイツ軍であれば少なくとも対戦車砲兵と戦車部隊は互いの位置を知らせ合い、戦車部隊が退くときは味方対戦車砲の張った罠に向かって逃げるのだが、イギリス軍はこれができなかった。今回、対戦車砲のいそうな位置はイギリスもつかんでいて、準備砲撃があったのだが、狙いが外れて着弾してしまった。そのことが戦車部隊に伝わらず、命令も変更されなかった。この敗北と大損害は、トブルクで起こることの予兆だった。
イギリス空軍は制空よりも対地支援をしばらく優先するよう泣きつかれ、戦闘機だけで有利な戦闘の機会をつかむドイツ空軍に対して、5月末の数日間で枢軸軍より多くの戦闘機を失った。以後も互いに空の損害を出し続けたが、地上の劣勢をイギリス空軍がひっくり返す力はなかった。トブルクをロンメルが襲ったころになると、イギリスはドイツ空軍の意図を妨害できなくなっていた。
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トブルクの南にある街エル=アデムは数少ない内陸の交差点のひとつ(昨年のクルセイダー作戦で焦点になったシディ=レゼクのひとつ西の交差点)で、大釜陣地からエル=アデムへの道をふさぐイギリス軍陣地帯はナイツブリッジ陣地と名付けられていた。イギリス軍の攻勢をしのぎ切ったロンメルはナイツブリッジ陣地を攻め、迂回してエル=アデムにも別動隊を出した。ナイツブリッジ陣地を守っていた第201近衛機械化歩兵旅団戦闘団はジョンソン准将に率いられ、トブルク要塞に退却し、海岸沿いにすでにトブルクに入っていたクロッパー准将の南アフリカ第2歩兵師団と合流した。この第201(中略)戦闘団は、もともとカイロに常設されていた歩兵旅団(イギリスの歩兵旅団は他国の歩兵連隊と思えばよい)がエジプト国境の守備隊を統括し、やがて野戦師団に臨時編入されて戦場を往来するようになったもので、近衛と言ってもイギリス本土の部隊ではない。
第201(中略)戦闘団長のジョンソン准将。クロッパー准将。そして第32戦車旅団のウィリソン(Willison)准将。3人の准将をはじめとする雑多な部隊が、ひとつの要塞を守ることになり、その指揮官はクロッパー准将と決まった。すでに書いたように、イギリス軍の旅団は数個大隊から成る他国の連隊相当だから、クロッパーの師団司令部にそれらを取りまとめる能力は「あるはず」である。だが、チームはあまりにも急造であり、多国籍兵団を南アフリカ共和国軍が管理した例などほとんどなかった。
1902年生まれのクロッパーは若い准将だった。だがトブルクに取り残されようとしている部隊の中で、最も人数が多いのは南アフリカ第2歩兵師団だったから、他の将軍を上にすることもイギリス連邦の事情として困難だった。
1941年の包囲を耐え抜いた時に比べ、イギリス軍の物資と装備は劣るものではなかった。補給拠点として、いろいろ雑多に陸揚げされていたからである。海軍も陸軍の苦境を放置はせず、孤立してからもいくらかの海上輸送は行った。オーキンレックもチャーチルの視線を浴びながら「トブルクを放棄しろ」とリッチーに命じる度胸はなかった。6月14日にはリッチーに「トブルクを守り切れないと思ったら、そう言え」と打電した。こうした「撤退についての不決断」は、すべてに先行して確かに存在した。
先に触れたように、第201戦闘団はもともと国境陣地管理司令部なのである。だから要塞防衛責任者として、ジョンソンをウィリソンの上に置くことが合理的に思えるが、ジョンソン個人は北アフリカに来たばかりだった。いっぽう1941年の包囲戦末期には、ウィリソンが戦車部隊と装甲車部隊全体を指揮したうえ、支援のために砲兵1個連隊の指揮権を与えられていたのだが、クロッパーはそうした扱いを認めなかった。
ロンメルはアフリカ軍団主力にいったんトブルクを南に迂回して東に向かわせ、そこにわずかな守備隊を残して、反転してトブルクを攻めた。6月20日早朝のことであった。ケッセルリングはマルタ島攻略を優先するよう言い続けてきたが、トブルクという巨大なトロフィーがかかったこのときは、集められるだけの航空部隊を集め、部下たちを鼓舞もした。
準備砲撃は午前5時20分に始まった。7時からの攻撃に対し、ジョンソンはウィリソンに反撃部隊を指揮するよう命じた。ウィリソン自身が自分の部下たちに出動命令を出したのが午前8時であったから、ここまでは何の齟齬も表面化しなかった。
だが、クロッパーの司令部は事態を軽く見ていた。当然主力は南西から来るものと思い、ロンメルが全戦力を東側に張って、いつもの大ばくちをやっている可能性に気づけなかった。実際、工兵が有刺鉄線を切って地雷を処理し、対戦車壕に短い橋を架けて最初の車両を通したのは午前8時30分であったから、空をすっかり独伊が支配していると言っても、陸上部隊がトブルクに近づくには時間がかかった。「空から得られる最新の情報は、ドイツ側が独占する」状況は、この日の悲劇のもうひとつの背景だった。ただし例によって前線に出ているロンメルにそれが届いたかは定かでなく、イギリスの指揮官たちに届かなかったことが、急変する事態に気づくチャンスを減らした。
このとき、反撃の機会があった。しかしウィリソンのもとに集められた部隊はわずかだったし、ウィリソンが周辺の歩兵や砲兵を勝手に指揮してよいかどうかは、あいまいだった。「攻撃があってから適切な規模の反撃部隊を編成する」というジョンソンの考えは時代遅れというと酷であろうが、少なくともロンメルと戦う適切な方法ではなかった。
随伴する歩兵を待っていたウィリソンの戦車部隊が、先行したドイツ戦車と交戦に入ったのは10時半だった。だがイギリス戦車を撃破したのはドイツ戦車ではなく、その連絡を受けた支援砲撃と爆撃機だった。周辺のイギリス野砲陣地も同様の目に遭った。ウィリソンは戦車を呼び集めたが、自分の部下たちからの情報しか入らなかった。歩兵部隊として前線にあったのはインド第11歩兵旅団(連隊規模)であったが、ここからクロッパーへの報告も通信機材の損耗で届かなかった。ドイツには連携があり、イギリスには情報共有がなかった。
戦車が集まってきた第15装甲師団と第21装甲師団は一斉攻撃の算段をつけ、12時ごろの攻撃で状況は一変した。13時、イギリス第4戦車連隊長(最初に交戦に入ったウィリソン指揮下部隊)が第201近衛旅団の陣地に逃げ込み、残り戦車は6両だと告げた。ドイツ戦車はトブルクの喉元……というより心臓に近いキングズクロス交差点に迫った。15時から16時の間に、ウィリソンの戦車部隊はほぼ全滅したが、メルセデス乗用車に乗ったロンメルは14時にはすでにキングズクロスにいた。16時、お茶の用意をしていたクロッパーの司令部に、1000ヤード(900メートル)向こうにドイツ戦車が現れたと警報が走った。
交差点を押さえたドイツ軍は多くの陣地を各個撃破し、夜の間に港湾地区に入った。クロッパーもリッチーも脱出作戦を模索したが、展開が急すぎて間に合わず、砲の位置に弾薬を運び込むこともできなかった。翌21日にクロッパーは降伏した(ワシントンに知らせが届いたときは、時差があって同じ21日の早朝だった)。25日、第8軍司令部に着いたオーキンレックは、リッチーを解任して自ら指揮を執った。
軍事学よりも経営学のケースブックに出てきそうなストーリーであった。ロンメルが作り出した異常事態に対し、対処する責任者に予備のリソースが与えられていなかった。限られた時間ではリソースの再配分ができず、イギリス軍は機会を逃し、ロンメルはそれをつかんだ。もちろんロンメルの状況を有利なものにするために、空軍など他者も関わった。
なお、6月20日のフレイ少佐の書簡には、トブルクのことはほとんど出てこない。捕虜に歩かせて食わせて飲ませる(生かしておくだけでも膨大な水が必要である)だけで、フレイは多忙だった。21日になると膨大な捕獲物資のリストが書簡に並んだ。ロンメルたちは前進したがフレイは数日長くトブルクにとどまって、使える車両を探しては接収した。
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ノルウェーのビスマルク級2番艦ティルピッツに対抗できる米英の戦艦はわずかで、1942年夏にそれらはひどく希少だった。援助物資を積んでソヴィエトへ向かうPQ17船団をこんな時に出したくはないが、東部戦線でソヴィエトが苦境に立ち、米英軍が西ヨーロッパでどこかに上陸するめどが立たない今、送り出さないわけにはいかなかった。ぴったり護衛しないまでも巡洋艦戦隊が近くを航行し、貴重なキングジョージ5世級戦艦のデューク・オブ・ヨークと、16インチ(40cm)砲を持つアメリカ戦艦ワシントンに空母ヴィクトリアスを加えた虎の子の艦隊が、ビスマルク撃沈の指揮を執った本国艦隊司令長官トーベイ大将に指揮されて、300km余りの距離を取って支援できる位置にいた。
アイスランドを6月27日に出た船団は、すぐドイツ潜水艦に見つかって急報され、ノルウェーにいるハルリングハウゼンの部下たちが雷爆撃を浴びせた。
7月4日、戦艦ティルピッツなど数隻のドイツ艦艇が、ノルウェーで外洋に出て、近隣の泊地に入る動きを見せていた。船団は発見されているのだから、トーベイ艦隊が接近してドイツに一方的に発見されるわけにもいかなかった。天候は悪く、ドイツ艦隊の行方を探る航空偵察もできなかった。暗号解読結果はすぐには手に入らず、「なにかが発信されているが内容不明」という状態はイギリス海軍にストレスだけを与えた。第一海軍卿(海軍軍令部長)パウンド元帥は、執務室の椅子で30秒以上黙って沈思した後、「船団を散開させろ」と命じた。ドイツ戦艦がすでに接近している最悪の可能性に対して、なるべく多くの船を逃がす決定だった。バウンドは身振りで部下たちの発言を封じた。他の誰にも、この決定の責任を分担させないということであった。
だが、ドイツ艦隊は現れないまま、航空機とUボートが次々と輸送船を屠った。
本国からの指令は短く、ドイツ艦隊との(分の悪い)戦闘を予期した護衛指揮官は、せめて精いっぱいの助太刀をしようと、駆逐艦だけを率いて巡洋艦戦隊に合流し、ソヴィエトに随行しなかった。すでに航路は半ばを過ぎていたので、燃料に余裕のないコルベット艦などの小型護衛艦艇はそのままソヴィエトを目指した。船団指揮官のジョン・ダウディング准将は、そのまま商船に乗っていくしかなかったが、それを沈められ、護衛のコルベット艦に救助してもらった。
35隻の商船のうち、3隻は航海当初のトラブルで引き返したが、21隻が失われ、11隻だけがソヴィエトにたどり着いた。ドイツ戦艦への出撃許可はついに下りなかった。
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第26話のパーティ場面にちらっと出てきたリューデル航空兵大将を読者の皆さんは覚えておいでだろうか。砲兵から空軍に移り対空砲関係を仕切っていたが、1941年夏に依願退職した人物である。
1942年7月、ヒトラーはリューデルに、故国バイエルンに本営を持つ第5対空砲連隊の軍服を着ることを許した。砲兵として士官候補生を始めたリューデルに、空軍における原隊はないから、これはごく穏当な恩典であるように見える。
だが、恩典は恩典である。かつてのドイツ空軍防空責任者に、今になってヒトラーが恩典を与えた。それは「昔はまともな責任者が仕事してたよなあ、ゲーリング?」ということであり、ケルン1000機爆撃を防げず、なお失点がかさむ都市防空の失敗に、ヒトラーが不満を示したということだった。
空軍はとりあえずヒトラーの慧眼に協賛することにした。9月に総統予備、つまり待命状態に戻されたリューデルは、剣付戦功騎士十字章(騎士十字章相当だが、後方任務や民間有功者に与えられる)を授与され、上級大将に進んで、11月にまた退役した。もちろんそれがヒトラーの望みの焦点というわけではない。
1941年夏から、カムフーバーは夜間戦闘機総監に加えて、第12航空軍団長を拝命していた。イギリス爆撃機部隊の不成功は、カムフーバーの成功だった。それが揺らいで来たわけである。
ドイツの航空軍団や航空師団は指揮官の格を大ざっぱに示し、その任務によって組織の中身はいろいろだったが、第12航空軍団は本土防空軍団であり、主にレーダーを運用する通信部隊とサーチライト部隊から成っていた。これに各地区の航空管区司令部が持つ高射砲部隊を組み合わせて、高射砲に敵機の位置を示したり、レーダーで夜間戦闘機を敵機まで誘導したりした。夜間戦闘機総監は訓練を監修し全体的な指示を出すが、指揮系統に入っておらず命令はできない。「レーダーとサーチライトはほぼ全部俺の部下」「各戦闘航空団所属機は俺の指揮下にある戦闘機師団司令部の戦術的指示に従え」という理屈で、カムフーバーは第3航空艦隊(フランスなど)や本土航空艦隊に属する夜間戦闘機部隊を指導していた。
GEEを使ったハリスの1000機爆撃は、カムフーバーの防空網への飽和攻撃であった。カムフーバーはもっと戦闘機を誘導する地上レーダーを増やしてくれと言った。空軍参謀本部(OKL)はカムフーバーに比べて地上レーダーの効果をもう信用せず、機上で運用できるようになった新型レーダーに期待をかけていた。
そしてケルンでの成功は、他の2回の失望と合わせると部分的成功というしかなかったが、懐疑的だった人々に対して「戦略爆撃という戦争手段」の命をつないだ。ハリスの重爆撃機部隊もまだまだ頻繁に大挙出撃できるほどではなかったから、OKLとカムフーバーの引っ張り合いは翌年にかけて続いた。
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4月の泥がクリミア半島の両軍を止めたところまで、第35話で語った。
ソヴィエト軍が確保したクリミア半島東端のケルチ半島は、少しだけ狭くなったアク=モナイ地峡(パルパチ地峡)でクリミア半島本体とつながっているが、この地峡がだいたい両軍の前線となっていた。
1942年初頭の東部戦線で無数に起きたことが、ここでも起こっていた。ソヴィエト軍は突破口を戦線の北半分に求めて、実際に重圧に耐えきれなかったルーマニア第18歩兵師団を切り崩し、相当の土地を勝ち取ったのだが、かえって北半分だけドイツ側に突き出した戦線ができてしまっていた。しかも攻撃に使った布陣のまま、ゴズロフ司令官とメフリスSTAVKA代表が角を突き合わせて時間を空費したから、南半分の守りが薄い状態がそのままになっていた。スターリンもまずいと思ったのか、4月21日にクリミア方面軍の上に北カフカズ総軍司令部を設置し、ブジョンヌイを司令官としたが、メフリスが作り出す混乱を押しとどめるには足りなかった。
南半分を叩き、北半分の突出部をそのままにする攻撃はかえって敵の意表を突くのではないか……とマンシュタインは考えた。意表を突いたわけではなく、ソヴィエトの航空偵察はこの様子をとらえていたが、ゴズロフは対処できなかった。それどころか、長いこと方面軍司令部の位置を変えなかったため、真っ先に空爆されて混乱に拍車がかかった。ゴズロフはスターリンを電話で説得し、ようやく戦線北半分で孤立しかかっている2個軍の撤退許可をとりつけたが、そのときには第51軍は司令官と司令官代理が戦死し、参謀長が指揮しているありさまで、撤退命令を下へ伝えていくことすら困難だった。方面軍全体が壊乱し、海を越えるタマン半島への撤収作戦は14日から20日まで続いた。とりあえずブジョンヌイが北カフカズ「方面軍」司令官を兼ねて残兵を収容し、クリミア方面軍は廃止となってゴズロフは降等処分された。6月初頭、さすがにスターリンもメフリスを降格し、同時にソヴィエト軍政治総局長から解任した。
ドイツ軍が取り戻したケルチ半島にはソヴィエト軍の飛行場があった。空からの安全が増したことを背景に、マンシュタインは列車砲や自走臼砲を攻撃陣に加え、セバストーポリ要塞を物量で攻めた。
6月2日、春からクリミア半島に陣取っていた第26爆撃戦闘団第2飛行隊によって、セバストーポリに向かったタンカーのミハイル・グロモフが航空魚雷で撃沈された。空母がおらず、大西洋に比べれば狭い黒海だったが、ルーマニアとトルコの通商をソヴィエト小艦艇が妨害し、航空機がぶつかり合い、近代的な海上戦闘の多くはここでも見られた。黒海東岸のノヴォロシスクが修理機能を持つ最後のソヴィエト軍港だったが、7月2日には大規模な空爆を受け、戦い抜いてきた嚮導駆逐艦タシュケントも沈んだ。いまや沈むだけで国威を損なうガングート級戦艦セバストーポリは、黒海の南東奥に避退していた。
プラウ作戦が近づくと空軍の支援も減ったし、巨砲の弾薬も足りなくなった。足りない分はドイツ第11軍が、兵の血で払った。セバストーポリ要塞が陥落したのは7月1日だった。この東部戦線南端の地に上がった小さな炎は、ハリコフ南方から燃え広がった東部戦線南半分の猛火と、やがてつながっていくことになった。
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ハリコフ南方でのソヴィエト軍突出をとがめる5月のフレデリクス作戦は、6月28日からのプラウ作戦の前段階であった。ハリコフから、1941年晩秋以来ドイツ軍が保持し続けているクルスクの街を経由して東へ道路沿いに進むと、次の大都市はヴォロネジだった。ここがまず占領目標となった。モスクワ~ヴォロネジ~ロストフ・ナ・ドヌー街道に到達し、街道沿いに南へ戦力を回していくことがスターリングラードやコーカサスを攻めるためのステップであった。
第4装甲軍の装甲師団は空軍の支援を頼りにヴォロネジへ駆け抜け、歩兵師団がその後を追って包囲の輪を作った。ヴォロネジ南西の小都市スタールイ・オスコルで、4個軍に属する5万人の残兵が囲まれ、全力で東を目指したものの、7月3日までに多くがここで捕まるか死んだ。包囲にはドイツ第6軍のほか、ハンガリー第2軍が加わった。兵力不足に苦しむ1942年のドイツは、もともと色々な領土要求から大きな戦力を提供していたルーマニアに加え、ハンガリーにも圧力をかけて大兵団を出させていた。7月16日までに、ヴォロネジとロストフの中間地点ミルレロヴォで、同じように約4万人のソヴィエト兵が戦場から消えた。
フレデリクス作戦でソヴィエト軍が失った兵と機材は、ハリコフ周辺でドイツ軍に局所優勢を作り出しやすくしていた。スターリンはドイツ軍の目標にモスクワが含まれると予想していたから、モスクワへの街道をまたひとつ開くことになるヴォロネジの維持と、静かにしているドイツ中央軍集団への攻勢継続(7月30日、ルジェフ=スィチョーフカ戦略攻勢作戦発起)を厳命した。ヴォロネジの失陥で、ティモシェンコの南西方面軍はスターリングラード方面軍となったが、やはり敗退を重ねたので司令官を解かれたことはすでに触れた。そしてスターリンは、さらに南で起きていることに気づくのが遅れた。
不利なレートでの血の取引が続き、南方には増援が送られなかった。南西方面軍(スターリングラード方面軍)の南で黒海海岸までを守っていた南部方面軍の保有戦車は、7月25日までに17両になった。ハリコフ南の突出部からはるばる200km以上を撤退してきたソヴィエト第9軍は、その過程で残兵を集め11個師団を指揮下に置いていたがもはや戦力にならず、部隊を他の軍に引き渡していったん予備となり、温存されてきた空挺部隊や、銃を持たされた海軍水兵を配属されて再び前線に出た。
ロストフでドン川を越えたドイツ軍は一部は南へコーカサス地方を縦断し、残りはスターリングラードを目指して東進した。
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順風満帆に見えたドイツ軍だが、問題も起きていた。
7月2日夜、「抵抗が強ければヴォロネジを取らなくてもよい」とハルダーが電話で言ったのでボックは驚いた。翌日早朝7時、ヒトラー本人がポルタヴァ(現ウクライナ領)にあるボックの司令部までやってきた。空路3時間ということは、遅寝遅起きのヒトラーにとっては徹夜の強行軍であった。そして口から出てくる言葉は前日の電話と同様であり、ヴォロネジの航空機工場を破壊して鉄道を通過不可能にすれば、街は取れなくてもよいというのであった。
ボックにとって、戦時経済的にどこが重要だとか、どこを取れば何が手に入るとか、そうしたことはどうでもよかった。ボックにとって勝利とは野戦軍の撃滅であった。
B軍集団で機動力のある部隊は、順次モスクワ~ヴォロネジ~ロストフ・ナ・ドヌー街道に沿って南下したが、包囲となれば歩兵部隊が追い付かなければ火力が足りない。間に合わないのではないか。従ってボックの観点からは、この作戦は土地が取れるだけでソヴィエト軍をいくらも撃滅できず、失敗するのではないか。そう思えたのだが、いやに愛想のいい今日の総統閣下に、ボックはきついことが言えなかった。
6月に編成されたソヴィエト第5戦車軍を中心とする反撃は、これも当然にモスクワ~ヴォロネジ街道に沿って、北から行われた。その攻撃が始まった7月6日、ヴォロネジ川(ドン川)の西側にある大半のヴォロネジ市街はドイツのものになった。東側市街と周辺を完全に制することはついにできなかった。その仕事を置き去りにして、「第4装甲軍は南へ向かえ」というのがヒトラーとハルダーの意向であった。
それはドイツ軍にとって悪いことばかりではなかった。ドイツ装甲部隊が「ヴォロネジ奪取に向けて突進」していれば側面攻撃になったところ、ドイツ第4装甲軍の近隣部隊は柔軟に進退したから、ソヴィエト第5戦車軍は準備のできた敵に向かって単調に突っ込む形になった。15日には第5戦車軍は解散となり、司令官は戦車軍団長に左遷され、7月のうちに前線で戦死した。
グライフェンベルクの赴任した"アントン"司令部には、7月9日にやっとリスト元帥が司令官として補され、A軍集団司令部となった。リストの原隊はバイエルン王国の工兵部隊だったが、第1次大戦が始まってからは参謀士官としてのキャリアが続き、1933年には「歩兵」大将となった。軍司令官級のポストを歴任してフランス戦の勝利で元帥となり、ギリシア方面で指揮を執ってからはここ1年ほど、非常勤の特命査察官のような立場にあった。絵に描いたようなエリート士官のキャリアであり、ヒトラーは露骨に「他にいないのか」という顔をしたが、将に将たる軍集団司令官には先達を置くのが無難である。同日、ボックの南方軍集団はB軍集団と改称された。
「誘いの隙なのか? それとも想定よりソヴィエト軍は弱いのか?」ということが、この一連の措置に先立つ6日の総統会議で問題になった。まだわからない……という結論になった。
6日にヴォロネジの大半を攻めて落としてしまったのは、ボックの攻勢参加部隊中で最左翼(北側)を占め、第4装甲軍の助けを得ながら北からの圧力を支える第2軍のヴァイクスが望んだからで、ボックもそれに乗った。ヒトラーとハルダーは、ボックが第4装甲軍の仕事を次々に見つけてしまい、なかなか南方に回そうとしないのでイライラしていた。逆に8日、ボックは「南方の包囲作戦は、すでにソヴィエト軍に逃げられて、間に合わない」と打電した。
占領地が増えても、鉄道設備の復旧はすぐには進まない。ヴォロネジなどB軍集団の一番北の戦線はクルスクまで鉄道輸送される物資で暮らし、もう少し南はハリコフ駅から補給を受けた。そしてそれ以外は、つまり一番肝心なスターリングラード方面はということだが、四苦八苦して順次復旧される路線と駅を使うしかなかった。ロストフ・ナ・ドヌーの西、ドネツ川を渡る鉄道橋が落とされてしまっていたのである。
ボックが喝破した通り、ミルレロヴォから南では、大きな包囲は完成しなかった。スターリンは他の戦線と同じように、身が縮むような防衛命令を出したが、個々の部隊との連絡は頻繁に途絶し、死守命令として実効を発揮しなかった。そして、すでにすり減ってしまった兵たちはあちこちで確実に、しかし少数ずつ壊滅し、ドイツの時間と弾薬を消費させた。
7月12日、「B軍集団は迅速にスターリングラード方向に向かって押せ」と総括できる一連の命令がB軍集団に出たのだが、ボックは抵抗した。すでに同様の状況はあちこちで生じてきたから、読者の皆様にはお分かりだろう。そんな方向に道は通っていないし、鉄道駅から補給を受ける算段も立たないのである。すでにくすぶっていたボックとヒトラーたちの関係が、ついに切れた。13日、カイテルから電話がかかってきて、ボックはヴァイクスに交代だと告げられた。第4装甲軍をA軍集団に渡す命令とセットだった。
第37話へのヒストリカルノート
この小説では、シュペーアは概念です。正直、シュペーアの実像と虚像について判断する自信がありませんし、だいたい軍人ではありませんからね。歴史小説を書くにあたって、頭のいい人は厄介です。
装甲車の銃塔をSd.Kfz.251の車体に乗せたSd.Kfz.251/23は、残された公式書類のSd.Kfz.251系列車両一覧に「鉛筆で書き加えてある」ものがあるそうです。全般的な生産拡大はドイツ軍にとって結構なことでしたが、ニーズへの調整が必要になることもありました。
カイザーは戦後になってすべての造船設備を手放し、自動車会社を立ち上げ、ウィリス=オーバーランド社を合併しました。カイザーという名前がジープの歴史に見え隠れするのはそのせいです。
1942年1月1日にも、1943年1月1日にも、本国で作戦任務に就くイギリス爆撃機部隊の飛行隊(squadron)は49個でした。沿岸航空部隊に貸し出されていた部隊や、中東・アジアで戦う部隊は含まない数字です。しかし1942年に重爆撃機は10個飛行隊であったのに、1943年には32個でした。私たちはしばらく、このふたつの数字の間の世界を見ていくことになります。もちろん部隊数は同じでも、運べる爆弾の量ははね上がっていましたが、他の任務・他の戦域からの要求もまた膨大でした。
ディエップの戦いについては、本編では軽く扱い、いずれ外伝を書くつもりです。
トブルクで包囲された部隊の中にはまだ准将がいたようです。「3人の准将」というイメージは大河ドラマ的な省略表現で、正確ではありません。
おそらくオーキンレックから見て、リッチーは良い部下でしたが、その下の将軍たちにとって、若すぎて指揮官経験も乏しいリッチーは良い上司ではなかったのでしょう。決断が遅いとか、はっきりしないとか、第34話で取り上げたゴッドウィン=オーステン中将以外にも、リッチーへの酷評を口にする部下たちはいました。リッチーを代えずにいるオーキンレックは、そうした旅団長や師団長や軍団長たちの能力を低く見ているわけで、ウェーヴェル以来の「無理を言われすぎた組織のギスギス」が積もり積もっているのでした。それをどうすることもできなかったという意味では、オーキンレックの能力は欠けていたのでしょう。
WikipediaではPQ17船団の商船のうち24隻が沈み、11隻が着いたと書かれていますが、24隻の沈没船にはは給油船1隻と遭難者救難船1隻を含んでいます。これらを含むなら、船団規模も商船35、(道中の燃料のための)給油船2、遭難者救難船3、CAM船(カタパルトからハリケーン戦闘機を射ち出せる防空商船)1の41隻と書かなければなりません。ですから商船は35隻のうち13隻ソヴィエトに着きましたが、一度放棄され、のち回収されて7月末にソヴィエトに着いた1隻を含みます。CAM船にも貨物が積めるのを勘定に入れれば14隻ともいえます。つい歴史資料の最後のほうに数字が書いてあると、楽だからそれを受け入れてしまうのですが、数字の定義をよく読むと最初の印象と違っていたり、よくわからない点を推測した数字だったりします。これはWikipediaに限ったことではありませんし、研究者が主張する数字にも勇み足が見られることがあります。
電波誘導装置とコンピュータの助けがない当時は夜間着陸が危険なため、夜間戦闘機としては長く飛べる双発戦闘機が主に使われました。しかし機上レーダーが登場するまでは、大型の双発夜間戦闘機には鈍重さを打ち消すメリットがありませんでした。これはBf110がなかなかJu88C/Gに切り替わっていかなかった大きな理由でした。Bf110にも機上レーダーを積むようになると、3人目のクルーをレーダー操作のために乗せることが多くなり、さらに無理を重ねて運用されることになりました。まあBf110の後継機であるMe210がもっと成功すれば、そちらの夜間戦闘機型が登場して主流になったかもしれませんが。
パルパチというのは、現在のヤシミネ/ヤチメンノエ(Ячмінне、Ячменное)の旧称ですが、いずれにしてもグーグルマップでも見つけにくい小村です。




