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第36話 雪が解けると会議になる


 1942年1月と2月は、日本にとっては希望の季節であり、残り全部の参戦国にとっては失望の季節だった。アメリカとイギリスは言うまでもないが、ドイツは思った以上に失ったし、ソヴィエトは思ったほど得られなかった。


 ルジェフ周辺の戦いでシュトラウスやハインリーツィを追い立てていたのはコーニェフとジューコフだった。コーニェフのカリーニン方面軍は北を突破し、南へと回り込んだ。ジューコフはその南の戦線をぐいぐい西へ押した。だが結局、3月の泥の季節までドイツ軍は持ちこたえ、降下したソヴィエトの落下傘部隊は狩り尽くされるか、パルチザンに合流した。


 兵が足りなかった。砲弾が足りなかった。武器が足りなかった。なぜ足りないかと言えば、スターリンが重点を絞らず、まだ優勢ともいえないリソースを少しずつばらまいて、全戦線での攻撃を命じたからだった。


 スターリンが重点を絞り込まないから、ドイツが退いたのは、守りが相対的に弱い場所になった。カリーニン方面軍はルジェフの西側に突き出した部分ができたし、レニングラードの南の方にも第2打撃軍が突出部を作って、デミヤンスクを守るドイツ軍を危機に陥れた。ハリコフの南でもソヴィエト軍は大きく土地を稼いだが、何を包囲することもできず、そこで泥の春を迎えた。


--------


 ジューコフは1942年3月になっても、まだモスクワ前面を担当する西部方面軍司令官だった。すでにSTAVKA代表という立場で前線司令部に出ている人物もいたが、軍事的には経験も才能もない、人を脅しつけることしかできないレフ・メフリスがクリミア半島に派遣されているだけだった。さすがにメフリスを軍司令官にすることはスターリンもためらったのだろう。


 会議室にいる老シャポーシニコフは、去年の夏にジューコフが放り出した参謀総長の椅子にまだ座っていたが、見るからに体力を衰えさせていた。会議室と言っても、スターリンの執務室の続きにあるいつもの大部屋だが。まだスターリンは現れておらず、ポスクレビシェフ官房長が彫像のように部屋の隅に控えて、ふらちな将軍どもが触れてはならない執務室の書類に触れないか見張っていた。


「ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ!」


「アレクサンドル・ミハイロヴィチ!」


 ワシレフスキー作戦課長から呼びかけられたジューコフは、すぐ相手の父称を呼んで、背中をたたき合った。「コンスタンティンの息子ゲオルギーではないか!」「久しいな、ミハイルの息子アレクサンドルよ!」という応酬である。


 博識で明晰(めいせき)なワシレフスキーのおかげで、かろうじてシャポーシニコフは立っていられるのであろうとジューコフには思えた。だがワシレフスキーは各種の命令草案を起草し、スターリンへの戦況説明でも中心的な役目を果たし、さらにスターリンの様々な下問にも何も見ないで即座に答えなければならないのだから、上司のことに気を回す余裕はそれほどないだろう。


「……」


「……」


 もうひとりの参加者とは、黙って腕を回すだけであいさつになった。ティモシェンコはキエフが失われても相変わらず南西総軍司令官であり、再建された南西方面軍司令官を兼ねたり、人に任せたりした。そして1941年末にはハリコフを取られたものの、ロストフ(ロストフ・ナ・ドヌー)を一時的に取り戻してルントシュテットを辞任に追い込み、年末からクルスクを取りに行って、これは負けた。だが並行して、南西方面軍と南部方面軍を使って、ドネツ川の西側に大きな土地を取り戻すことに成功していた。ハリコフの南に、ソヴィエト側からドイツ側へ突出した部分ができたのである。


 ドイツがソヴィエトに侵攻したとき、ティモシェンコ国防大臣は陸軍を代表する立場にいた。いまジューコフも、コーニェフのカリーニン方面軍との共同作戦を指導するために、西部総軍司令官の職を復活させて就いていたから、南西総軍司令官のティモシェンコとジューコフは同格だった。


 ジューコフたちにとって旧知のヴォロシロフもいた。ジューコフは挨拶を繰り返した。


 スターリンが入ってきたので、みな一斉に起立した。ジューコフは慌てて自分の椅子を探した。シャポーシニコフが代表して声を上げた。


「同志スターリン!」


「ボリス・ミハイロヴィチ! よく来た、同志たち。掛けてくれ」


 スターリンはシャポーシニコフに同僚たちよりほんの少し敬意を示すと、長机をぐるりと回った。そして遠方からの参列者には言葉を、いつもの人々には軽く微笑を振る舞った。そして言った。


「始めてくれたまえ、ワシレフスキー」


 スターリンは着席せず、歩き回りながら議論を聞いていることが多かった。自分に向けて話させないことで、追従などの成分を情報から払い落としていたのかもしれないが、誰もその理由を尋ねる勇気はなかった。


 シャポーシニコフが自らキーノートスピーチを引き受けた。ソヴィエト軍の優位はあらゆる点でまだまだ怪しいというのが、その主な内容だった。シャポーシニコフは、すべての方面軍がひとまず守勢を取るべきだと述べた。つまり、「リソースは非常に限られているのだ」と司令官たちに伝えたのだった。


「だが、限られた戦域であっても、複数の戦域で同時攻勢をかけるべきだと思うのだ」


 スターリンの意向は、それと真っ向から対立するものだった。攻撃を命じて、成功させる。それが最高司令官の栄光というものである。


 ここにいる方面軍司令官は、せんじ詰めれば、ジューコフとティモシェンコだけだった。ヴォロシロフはひどい成績の司令官をリリーフするときくらいしか、もう指揮を執らなかった。つまりふたりは、最も期待され、最も重要な指揮を任される、同格のライバルだった。


「参謀本部の判断に大筋で同意する。だが西部方面軍としては、春のうちにルジェフだけは……」


 言いかけたジューコフは、この会議に隠された構造に気づいた。参謀本部はすでに、「攻勢などかけずにこの夏をやり過ごそうぜ」と提案した。それなのに、「攻勢をかけるならば」戦闘に立つべきふたりのリーダーが、ここに両方呼ばれている。つまり……


「ジューコフがルジェフの名を口にするとすれば、ティモシェンコはハリコフを取り上げるのかな」


 わずかな静寂をとらえたのはスターリンの言葉だった。ティモシェンコは苦笑してうなずき、ワシレフスキーは控えめに肩をすくめた。そう。誰がここに来るかを決めたのはスターリンである。シャポーシニコフとワシレフスキーの判断を知りつつ、スターリンは同時攻勢を取りたいのだ。ヒトラーもまた守勢には回らないだろうと、わかっていて。もちろんジューコフが年明けからずっと攻略に取り組んでいるルジェフ突出部のことや、ハリコフ奪取作戦に関する参謀本部へのティモシェンコからの打診のことは、いろいろなチャンネルで、ここにいる皆がおぼろげに知っている。


「我々にハリコフを取らせてください、同志スターリン」


 ティモシェンコの言い方は、ジューコフの記憶にないものだった。


 失敗が続いて、ティモシェンコには後がないのだ。いや、後がないと思っているのだ。だがティモシェンコの心の動きは、ジューコフにはピンとこなかった。西部総軍司令官として、自分の仕事を邪魔される不快感だけがあった。いま旧友が自分に成果が見劣りすることで焦っている気持ちは、部下のメンツを気にせず叱り飛ばし脅す(ときどき実際に解任し告発する)今のジューコフには響かなかった。


 シャポーシニコフはそれをぼんやりと眺めながら、自分の辞表の文面を考えていた。実際に辞職したのは、ティモシェンコの攻勢とボック元帥の攻撃計画が同じ地区で交錯し、参謀本部が強いストレスにさらされた5月20日であったのだが、ロシア帝国陸軍大佐として労農赤軍に志願した老将軍には、健康の衰えはもう自覚できるレベルだった。


--------


「済まんなハンス。激職のあとにろくに休ませることもできない」


 ハルダーは執務室に客人を迎えていた。まだここには、香り高い本物のコーヒーがあった。


 フォン・グライフェンベルクは開戦からフランス戦までハルダーの下で作戦課長をしていた。シュツルプナーゲルが病気休職すると次長代理にもなった。そんな優秀な男だから、バルバロッサ作戦では気難しいボック元帥の参謀長として中央軍集団を差配させられた。ようやくソヴィエトの攻勢をしのぎ切るめどが立った4月1日、グライフェンベルクはその任を離れるとともに、中将に昇進した。


 その次の職が、問題だった。


「いいかい。これは私限りの処置だ。人に言うなよ」


 ハルダーは立ち上がって金庫を開け、中にあった書類を数枚取り出して、グライフェンベルクに渡した。グライフェンベルクは少し目を見張ったが、無言で読み、ハルダーに返した。4月5日付総統指令41号であった。本来、OKHそのものが命令先のひとつだから、その下の司令部スタッフには見せてはならない。


「率直に申し上げて、意図を実現する手段に具体性を欠きます、将軍」


「手段の方が乏しいので、中央軍集団の攻勢はきっぱりあきらめてもらった。北方軍集団は突出部を切り取る限定攻勢を準備中だが」


 もちろんグライフェンベルクは、ボックを引き継いだ中央軍集団のクルーゲと、ルジェフを担当する第9軍のモーデルがたびたび総統官邸に呼ばれていたことを知っていた。つい先月まで、ヒトラーはソヴィエトに反撃しろ反撃しろとうるさかったのだが、総統命令はモスクワ正面での攻勢について触れていなかった。


「君に参謀長をやってもらうチーム・アントン(Stab Anton)だが、最南方の戦区を引き受けてもらうことになるだろう」


「戦区でありますか」


 言いたいことはわかるよ……と言いたげに、ハルダーは苦笑した。グライフェンベルクは中将なのである。しかも前任は軍集団参謀長で、司令官の階級はそれより上。


「南方軍集団を分割する場合、コーカサス側を受け持ってもらう。コーカサスのことは総統指令に書いてあったろう」


 狼狽した顔になるグライフェンベルクを数秒楽しんで、ハルダーは言い添えた。


「前書きのような部分に少し出てくるだけだ。スターリングラードを目指す作戦が非常にうまくいった場合……君たちは必要になる」


「では……」


「言うなよ」


 ハルダーは声を低くした。


「総統もそれほど自信は持っておられない」


--------


 陸上自衛隊の(海自・空自と比べた)傾向を現す四字熟語として、用意周到、動脈硬化、頑迷固陋(がんめいころう)といった言葉がささやかれることがあるそうである。人は言ってもなかなか動かないから、どうしても動いてほしいときは、動いてくれるように根回しをする。人のカタマリである陸上部隊は、それが当然だと思っているし、他者にもそれを期待する。ところが空自は旧軍の母体がひとつではないし、パイロットには個人営業色があるから、良く言えば勇猛果敢に新しい考えを試すし、悪く言えば前に言ったことをすぐ捨て、支離滅裂である。外が見えない艦内部署も多く、通信の不自由なフネとフネで腹を合わせて戦う海自は、チームプレイのルールを厳密に守ることを互いに期待するから伝統墨守である。陸自が陸軍の伝統を大っぴらに引き継げなかったのに比べると、海自は海軍の後継者を自認しても比較的批判されなかったから、海軍以来引き継いでいることはそれを理由に変えたがらず、そこを唯我独尊と評されることもある。


 前置きが長くなった。アメリカ陸軍総司令官のマーシャルは、まさに用意周到な人である。アイゼンハワーという優秀な幕僚がいると聞くと、将来の抜擢(ばってき)のために部下をやって面接させた。そして戦争が始まるとすぐ、アイゼンハワーを呼んで動員の指揮を執らせた。そして良く言えば温容端然(おんようたんぜん)、悪く言えば孤峰屹立(こほうきつりつ)、すべての人と距離を保つ人であった。そのマーシャルが、すべての(反ナチの)人との距離をゼロにしてしまう善意の人、ハリー・ホプキンス特使と一緒にロンドンにやってきたのは、1942年4月であった。


「大規模反攻作戦をラウンドアップ作戦と呼称するものとし、遅くとも1943年9月までに行われるべきこと。そのさい48個師団のうちイギリスが18個師団を提供すること……」


 アメリカからの提案を聞くイギリスの軍人たちは顔色を失っていた。政治家たちも、失敗した場合の巨大な人的損失、その政治的リスクにだんだん気が付いて、笑顔がだんだん無表情に置き換わっていった。


「日本より先にヒトラーを打倒する」という基本方針は、イギリス戦時内閣官房のもとにある三軍のプロジェクトチームが草案をまとめ、チャーチルがルーズベルトの賛同を取り付けたものだった。もちろんことの性質上、チャーチルら政治家たちが短い口頭指示を出した可能性はあるから、誰が言い出したかを断定的に語っても仕方がない。ここで重要なことは、イギリスを利する提案をイギリスが言い出し、アメリカが呑んだという順序関係である。だからイギリスは感謝したし喜んだし、楽観的になった。


 その好意を具体的な作戦計画に煮詰めていくあいだに、不都合なことがわかってきた。アメリカはイギリスの(援助込みの)準備ができないうちに、イギリスが(イギリスから見て)冒険的な上陸作戦に参加して、アメリカとリスクを分かち合うことを想定していたのである。そのことがはっきりしたのが、この会合であった。


 とくに、それに付随する小規模作戦という扱いのスレッジハンマー作戦は、イギリスにとって小規模どころでない震源だった。フランスのコタンタン半島(シェルブール周辺)やブルターニュ半島(ブレスト周辺)に橋頭保を作るもので、ドイツの国内騒乱やソヴィエトの崩壊といった緊急事態に実施されるべきものとされていた。1942年秋までは準備が間に合わないという但し書きはあったが、実行するとなれば、イギリスが過半の負担を背負うことになりそうだった。ラウンドアップ作戦の1943年9月も実現困難に思えたが、スレッジハンマーは失敗時の大損害が生々しく予想できた。


 チャーチルたちは言葉を濁した。両方について同意したという印象を持ってふたりは帰国した。だが具体的な検討に入ると、イギリスはスレッジハンマーに全面的に反対する格好になり、アメリカの心証を害した。


 それを解決すべく、6月にチャーチルたちはクリッパー旅客飛行艇でアメリカに渡ることになったのだが、それは先のことになる。ここて少し、種明かしをしておこう。


 1936年のアメリカ下院選挙で、民主党は共和党に対し334対88と史上最大の優位に立った。ルーズベルト大統領が持ち込んだニューディール政策の成果が表れ、さらに改善が期待されていたのである。しかし大戦を前にして再び景気が悪くなり、1940年総選挙ではわずかに持ち直したものの、1942年秋の選挙では二大政党の議席数は222対209と僅差になり、諸派5議席も考えに入れるとわずか8議席差の過半数にまで追い込まれた。アメリカが大戦に加わり、大損害を受けたことはそれぞれ政治的なコストとなってルーズベルト政権にのしかかっており、秋の選挙を待たずとも与党不利は予想できた。だからアメリカは、せめて1942年のうちに陸上で勝利をつかみたかったし、もしそれがイギリスの都合で出来ないのであれば、「東半球はひとまず見捨てて太平洋で勝利を求めろ」という意見に従うほかないのであった。


 ミッドウェイの勝利があったではないか。日本の読者はそうおっしゃるかもしれない。だがミッドウェイでヨークタウンを失ったアメリカが太平洋に持っていた正規空母は、サラトガ、エンタープライズ、ホーネットだけだった。翔鶴と瑞鶴が健在で、多くの軽空母を持つ日本とやっと五分になっただけである。地中海でマルタ島輸送作戦を手伝っていた空母ワスプがこのあと太平洋に回されたが、1942年後半にワスプとホーネットが失われ、サラトガは潜水艦伊26の雷撃で9月から11月まで戦列を離れ、破損個所をそのままにしてエンタープライズが前線にとどまるといった具合で、結局エセックス級が就役してくるまで艦隊空母の優勢を得ることはできなかった。だからアメリカは1942年の月を追うごとに、「どこかで勝利を得たい」という政治的要求をあからさまにしていった。もっともチャーチルも1942年7月1日、自分の不信任決議を採決される羽目になったのだが、それは次回に語るとしよう。


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 上陸・進撃や敵艦轟沈以外に、「勝っている」という実感を国民に与える方法はもうひとつある。戦略爆撃である。1942年までのイギリスの戦略爆撃と言われて、ほとんどの人はあまり多くを思い出せないのだから、もちろん目覚ましい成果などなかったのだが、少しさかのぼって、その話を概観してみよう。


 国民士気を狙うテラー爆撃としても、産業や輸送を叩く爆撃としても、イギリスの戦略爆撃は当初うまくいかなかった。賭けるべきチップを全部本土防空につぎ込んでいるあいだは、それも当然だから、声高な批判が目立たなかった。


 ポータルが空軍参謀総長になったので、1940年10月にピアース中将が後任の爆撃機部隊司令官になった。ハンプデンやウェリントンと言った双発爆撃機による夜間爆撃が効いていないことはうすうす分かっていたが、すでに述べてきたように重爆撃機開発は遅れ、アメリカから分けてもらう話も(いくらかもらったし、対潜哨戒用も含めれば、大戦後半には大量の重爆撃機をもらうようになったが)すぐには大きな力にならなかった。このことはフリーマンとビーヴァーブルックの確執という形で、すでに語ってきた。


 航空爆雷が実用の域に達し、ドイツ戦闘機の脅威が減じたことで、1941年3月には爆撃機部隊に新しい仕事ができた。イギリス近海でUボートを見つけ、沈めるのである。もちろん空軍がこんな任務を自分で思いついて進めるはずもない。戦時内閣の意向だった。


 実際に沈んだUボートは数か月の間に数隻だったが、ドイツ潜水艦が報告のために発する短波をとらえるHF-DFが実用化されるなどイギリスに有利な変化がいくつか重なった。追い立てられたUボートは、よりアメリカに近い大西洋西部や、喜望峰周りの航路に重点を移していった。第27話でのUボート襲撃がそうした海域で起きていたことを、ご記憶の読者もおられるだろう。だから大西洋の戦いへの参加を続けながら、春の終わりから爆撃機部隊はまた大陸に目を向けるようになった。


 1941年3月までに、戦略爆撃の望ましい目標について、いろいろな意見がイギリス国内に出そろっていた。「石油精製がボトルネックではないか」「交通妨害が有効ではないか」「市民に恐怖を与えて、もう一度ドイツ軍を後ろから刺させよう」といったものである。貿易省で石油関係を担当していた政治家がキャップになって、石油産業への攻撃はドイツのボトルネックを作り出せそうだという報告書を1940年12月に上げた。イギリス空軍は主に石油関係の施設を狙う指令を1941年1月に出したのだが、悪天候が数週間続いているうちに航空機雷任務が割り込んで、そのまま夏が近づいていた。


 いっぽう1941年春からドイツ空軍は「べーデッカー爆撃」と呼ばれたイギリス地方都市への爆撃を開始したが、これはイギリス空軍に「都市爆撃の効果を検証するデータ」を与えることになった。


 これらを何とか折り合わせ、航空委員会がまとめた1941年7月9日付の命令は、「交通網への攻撃として、その結節点であるルール地方の大都市を狙い、交通妨害による国民士気の低下を期待する」というものになった。施設から地域(都市)へ、より大規模な出撃とする方向に舵を切った。「当たらないなら数を落とすしかない」というのは、古来軍事につきものの発想である。


 しかし数を落としても当たらなければ……どうということはない。1941年8月のバット報告書(Butt Report)は、航空写真を使って爆撃の効果を評価したもので、半分以上の爆撃機が目標を大きく外していることを赤裸々に示した。じつは1940年12月に、爆撃したはずのドイツ工場が無傷であるという証拠写真が撮影され、政府と空軍の上層部でゆっくりと回覧されたことがあったのだが、ようやくそれをしっかり証拠立てるだけの撮影機材がそろってきたのであった。


 フリーマン参謀次長などは「せめて荒天時には出動を取りやめて練度向上に当ててはどうか」と言ったのだが、政治的には、そうもいかなかった。国民にアピールしたい点ではイギリス政府もアメリカ同様に切実だったのである。


 爆撃機を誘導する方法と、より正確に効果を判定する(写真偵察などの)方法が少しずつ追及され、改善されていった。だが、出撃させれば損害も出た。11月7/8日のベルリン夜間空襲は、悪天候にもたたられて160機中21機喪失という結果に終わった。もちろんピアース爆撃機部隊司令官は針のむしろに座ったが、当時のイギリス爆撃機部隊はこのころ、もうひとつ重い仕事を押し付けられていた。フランスのブレスト軍港にいるドイツの巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウ、そして重巡洋艦プリンツオイゲンに対する爆撃である。


 ヒトラーは、ノルウェーを連合軍の上陸から守るために艦隊を本国へ回航するよう、しつこく海軍に求めた。ムルマンスクの南で鉄道を遮断するドイツの北極狐作戦は1941年夏に失敗に終わったが、第32話で触れたようにムルマンスクにはイギリス空軍戦闘機隊が進出していたし、1941年3月のロフォーテン島襲撃(クレイモア作戦)に始まるノルウェー沿岸への短期間の襲撃が繰り返され、「第2戦線はノルウェー北部に開かれるのではないか」という懸念には一定の根拠があった。


 1942年2月11日深夜にブレストを出港した3艦は、イギリス海峡を抜ける大胆なコースを取って12日遅くドイツ本国に帰還した。このことはイギリスでは海軍(と空軍)の失態として世論を刺激したし、結局ドイツも3艦を勝利に結びつけることができなかったのだが、イギリス空軍にとっては、主要な爆撃任務がひとつ消えたことを意味した。いまや、新しい戦術と指揮官を投入するときだった。新しい爆撃機と、新しい誘導システムが、ようやくそろい始めていた。


 1942年2月14日、イギリス空軍の一般指令第5号は後世に「地域爆撃指令(Area Bombing Directive)」とも呼ばれることになった。都市の施設ではなく住居地域が、産業労働者を中心として市民の士気をくじくために主な目標とされることになった。1941年7月9日付の命令にちょっと肉がついただけとも言える。そして(フランス市民を困らせても効果は薄いから)ドイツ本土で、ついに登場した電波誘導装置GEEの有効半径内にあるルール地方の主要都市が、当面の目標候補とされた。そして2月20日に新しい爆撃機部隊司令官として着任したのは、対人スキルは低いがまさに勇猛果敢なアーサー'ボマー(あるいはブッチャー)'ハリスだった。新しい方針が巨大な波紋を作り出すころには、春は深まっていたのだが、それは次回に語ることとしよう。


--------



 クリミア半島は黒海に突き出し、要港セヴァストポリがある。ルーマニア油田への爆撃基地になりうるほか、中立国トルコからルーマニア経由でドイツに輸入される貴重なクロム鉱輸送船への通商妨害も防がねばならず、ドイツにとっては将棋の端歩のように、地図の端だからと言って放置すれば影響が大きい戦場だった。マンシュタイン大将が第11軍司令官に補され、1941年末までにいったんクリミア半島からソヴィエト軍を追い出してセヴァストポリ周辺を包囲する形に持って行ったが、クリミア半島の東端(ケルチ半島)はコーカサス地方から延びるタマン半島とわずかな距離しかなかった。これを利してソヴィエト軍は1941年末から相次いで上陸作戦を敢行し、クリミア半島に再びソヴィエトの2個軍が襲い掛かった。


 読者の皆さんは、デン・ハーグ近郊にグライダー降下してひどい目に遭った第22(空輸)歩兵師団のフォン・シュポネック師団長(第23話)を覚えておいでだろうか。彼はそれなりに出世してこの地にいた。上陸に対処できたのはシュポネック軍団長の指揮下にある1個師団だけだったが、マンシュタインの現地にとどまれという命令は無線の問題で届かず、シュポネックはその師団に退却を命じた。シュポネックは抗命のかどで告発され、死刑のところヒトラーが禁固6年に減刑した。


 この作戦はもともと、トルコ国境・イラン国境を担当するトランスコーカサス(ザカフカズ)方面軍が担当していたが、クリミア半島の東側(ケルチ半島)を確保したままセヴァストポリの手前で食い止められたままなので、すでに述べたようにスターリンはSTAVKA代表としてレフ・メフリスを送り込んだ。軍司令官級の逮捕者が出るなど恐怖政治が敷かれたが効果はなく、1942年1月28日に司令官コズロフ中将は新設のクリミア方面軍に横滑りして、クリミア戦線だけを担当することになった。いくらか増援も来た。しかしすでに述べてきたように、1941/42年の年末年始にソヴィエト軍は全戦線で攻勢に出たため、どの戦線もリソースが足りなかった。クリミア中央の有利な丘陵で耐え忍んだドイツに対し、ソヴィエトが数的優勢を活かせなかったのは、砲と弾が伴っていなかったからであろう。逆にシュポネックが無事に逃がした第46歩兵師団は、砲の多くを捨ててきたにもかかわらず、ソヴィエト軍の断続的な攻勢を良く支えた。


 厳冬には利点もあった。タマン半島とケルチ半島をつなぐケルチ海峡が凍結したのである。人と物資が海を渡り、2月が終わるころソヴィエトは再び攻勢に出た。だが海面の凍結が解けるとともに、春の雨と泥がやってきた。4月、ついにソヴィエト軍の攻勢は止まった。もちろんこの停滞を利用して、ドイツ軍も反撃準備をすることになった。


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 1940年秋にグライフェンベルクがOKH作戦課長を離任してから、後任はずっとホイジンガーである。現職のまま少将になった。ライヒェナウが(亡くなるまでの短期間だが)南方軍集団司令官に昇ったとき、作戦担当参謀次長のパウルスが後任の第6軍司令官になってしまったから、ホイジンガーが次長代理のような格好になっている。少佐のころからずっと作戦課にいるから、ハルダーとも参謀総長着任以来の付き合いである。


 今日は偉い人の来客がなかったので、ハルダーはツォッセン市(ベルリン近郊で大規模な通信施設がある)のOKH構内食堂で、ホイジンガーとワーキング・ディナーを取っていた。東部戦線が泥まみれになっているので、打ち合わせることも少ない。


「今年も引き続き、モスクワを目標にされるのかと思っておりました」


「すでに敵の備えが厚い。我々が局所優勢を得ることは、もう難しいだろう」


 ホイジンガーは、何か言いたそうに、しかしそれをためらうようにしていた。ハルダーはそれを気づかぬような顔をして、穏やかに話を続けた。


「去年の夏から秋にかけて、私とヨードルは我らが総統に対し、モスクワを取ることを繰り返しお勧めした。少なくとも7月までに国境の野戦軍を打ち負かしたところで、スターリンが屈しなかったのを見てからは、ずっとだ」


「11月の泥が凍ったとき、総統の言われるようにグデーリアンを南に向けていたら、もっと割の良い血の取引ができたかもしれません」


「だがそれではスターリンは和を乞わず、戦争は終わらない」


 ホイジンガーは今度こそ、コメントを控えたようだった。


「我らが総統は、講和を言い出すとしても、相手が降伏だと感じるような一方的なものしか提案されない。何かを提案されるとしてもだ。モスクワを取ることは、あちらから何かを言い出させる政治的な圧迫になったはずだ。私には政治家の気持ちなどわからないが。そしてそれに失敗して、戦争を終わらせる手段は我々の手から失われた」


 ハルダーは最後のヴルストを口に入れた。ホイジンガーはやはり何も言わなかった。そしてハルダーも、最後の一言は控えた。


<ドイツはもう、負けることによってしか戦争から抜け出せないのか?>


第36話へのヒストリカルノート


 ソヴィエトの会議はジューコフ回想録、米英の協議はイスメイの回想録をもとに書いています。Stab Antonは4月24日に発足しており、ハルダーの戦時日誌に面会者としてグライフェンベルクが記録されているのは4月20日です。ただしこの日はもっぱら中央軍集団の現況を聞き取ったようで、5月18日に新司令部のことを打ち合わせています。大河ドラマ的に、4月5日の総統指令発出直後に架空の会議を立てました。



 軍事関係の本だけ読んでいると、ヒトラーがコーカサスの油田のことを言い出したのは唐突な思い付きに見えるのですが、燃料生産関係の資料を読んでいると別の景色も見えてきます。


 ゲーリングは空軍総司令官であると同時に、「4ヶ年計画責任者」であり、ドイツの経済統制では最大の権限を持っていました(4ヶ年計画大臣ではないので4ヶ年計画省はなく、ゲーリングの下部機関はありましたが地味な名前でした)。すでに何度か触れたように、ゲーリングはポーランド戦が世界戦争になるとは思っていませんでしたから、巨大な航空燃料消費が続いていくことを想定していませんでした。既に1940年には悪い兆候が出ていましたから、ゲーリングは1941年2月に(液体)燃料生産を最優先するよう指示しました。しかし第17話で1938年11月の会議を取り上げたように、鉄鋼は各部門の取り合いでありゲーリングですら余分を分捕るのは容易でなく、陸軍の動員が解けないことから労働力も足らず、燃料生産施設の増強が思うようにいきませんでした。


 1941年の液体燃料消費が生産を120~150万トン(ルーマニアの1939年の原油生産量は624万トン)上回ったことを知ったゲーリングの経済計画チームは、「必要量が近いうちに満たされる」1942年以降の計画を立てて見せたのですが、この計画にコーカサスの原油獲得が織り込まれていたことが、戦後の押収資料で分かりました。最近見つかったものではなく、イギリス軍の専門家委員会が1946年に報告書を出しています。「コーカサスを取る」ことを思いついたのが誰であったのかは、だからはっきりしません。ヒトラーも開戦前の1940年秋からコーカサスの油田が必要だと発言していました(ゲーリングから他の要人への伝聞が残っているだけですが)から、やはりヒトラーが最初のひとりだったかもしれません。1942年夏には、経済関係の要人たちやカイテルが「コーカサスの油田がないと燃料需給が破たんする」と認識していたと思われる、断片的な記録や証言があります。逆にヨードルを含めた高級軍人にはそうした認識がなく、「ソヴィエトにコーカサスの資源を使わせない」ことが作戦目的だと思っていたという証言も多いのです。



 最後のハルダーとホイジンガーの会話は全くの創作ですが、「1941/42年の冬で、もうこの戦争には勝てないと思った」と戦後のインタビューで証言している人物がいます。ヨードルです。


 じつはこのインタビューはしばしば不正確に孫引きされ、ドイツ軍人の著書でも誤った引用をされていることがあります。ヨードルは「自分が」「1941/42年の冬で、もうこの戦争には勝てないと思った」と言っているのです。ヒトラーについては、別のある時期を過ぎたら、もう勝てないと思っていただろうと述べています。それは大戦中盤について、この作品のキーコンセプトのひとつになります。



 1942年2月15日にはシンガポールが陥落しましたから、ドイツ艦隊のイギリス海峡突破(チャンネルダッシュ)と合わせてチャーチル内閣には批判が集中しました。「広く意見を聞いている」ポーズを取らなければならなかったチャーチルは、ソヴィエト駐在大使から帰任したばかりのクリップスを王爾尚書(無任所大臣のひとつ)として戦時内閣に加えました。モスクワを持ちこたえたスターリンは当時のイギリスでは称えられており、戦前からの労働党親ソ派であったクリップスもその人気を分かち合っていたのです。このクリップスが1942年2月25日、下院でぽろっと「いまや米ソの支援もあるので、戦略爆撃に大きなリソースを振るのは再検討の余地があるのではないか」と個人的意見を述べてしまい、ニューヨークタイムズ紙が取り上げて英米で問題になりました。「住宅地爆撃で行くぞ」と政府と空軍は腹をくくりましたが、国論が統一されたわけではありませんでした。


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