第35話 終わりの見えない終わりの始まり
少し先のことまで語ってしまうことになるが、ここで1942年前半の東部戦線について、メインストーリーを述べておこう。
ドイツは1941年冬まで、ずっと攻め続けていた。だから守勢に回ったドイツ軍の強さは、そこで初めて試されたともいえる。MG34機関銃は、泉下のゼークトは嫌な顔をするかもしれないが、塹壕戦の記憶を生かし、銃身を交換して交互に冷やしながら一晩撃ち続けられる兵器になっていた。弾帯は50発単位で自由に脱着でき、弾帯に弾を差し込む作業は器具を使って速くすることもできた。1941年になると、歩兵用リヤカーIf.8が配備されて、中隊の戦闘貨車(戦火にさらしたくない)と前線の間で重い弾薬を運ぶ負担が減った(長距離移動時は馬で引く)。じつは軽機関銃を軸にしたドイツ軍の戦闘システムは守りにも強かった。
人が運ぶ迫撃砲は、機敏に移動できるほど軽くはなかった。だがあらかじめ陣地と迫撃砲の距離・方向を測ってあれば、陣地へ近づくルートに弾を落とすこともできた。だから守りに回ったときは、味方陣地の周囲を撃つのに便利だった。厳冬期に砲兵陣地を動かすのは、移動先の地面を平らにならすだけで困難さがあったから、歩兵大隊レベルに配置された迫撃砲が柔軟な対応を引き受けた。
ドイツ軍は大きな犠牲を払いながら、冬のロシアでの戦い方を覚え始めていた。12月の戦線には確かに冬季装備はなかったが、輸送途中で詰まっている冬季衣類もかなりあって、少しずつ兵士に届いていった。独ソ戦が始まったことは、ドイツの経営者たちに戦争が続くという事実を突きつけたから、ようやく民生需要を抑えて軍需生産が伸び始めていた。
新兵を集めて師団を作り、創設1か月で戦場に出すような戦いをソヴィエトはずっと続けてきた。強固な意志があれば守りでは戦力になったが、攻めるには巧みでなければ生き残れず、生き残れない兵士はすぐに脅威ではなくなった。だからソヴィエト軍も、あらためて血を流して攻め方を学ぶことになった。そして新米の攻め手であるソヴィエト軍は、1942年1月から始まる攻勢では、授業料を払うばかりで取り返せた土地は少なかった。
端的に言えば、「全戦線で」攻勢を始めるべきではなかった。ドイツ軍は確かに12月に、すでに兵と物資の優勢が確保できなくなっているのに、強引な攻勢をかけて失敗した。だがそれは、ソヴィエト軍が優勢になったということではなかった。局所優勢を作り出すには、まず自由になる物資や兵員が必要だが、輸送システムの規模と効率で敵手を出し抜けなければならない。戦場に物資を集積し、予備隊を送り込み終わったら敵にも増援がいた……というのでは優勢は取れないのである。トラックの数、道路の数と質、それらを確保する建設労働者と自動車修理部隊……といった総合的な戦力と、それを狭い地域に集中させる管理能力が問われたとき、全戦線で一度に発起されたソヴィエトの攻勢は長続きしなかった。その攻勢を強引にやらせたのは、スターリンだった。
だがまったく成功しなかったわけではなく、あちこちでドイツ軍の前線に大きく食い込んだ箇所ができた。そして春になっても、スターリンはそうした場所から兵を退くことになかなか同意しなかった。1942年夏のドイツ軍は、そうした突出部を切り取り包囲することから攻勢を始めた。
--------
マインドル空軍少将は前大戦直前に士官候補生になって、砲兵中尉で第1次大戦を終えた。陸軍大学校へ行かなかったのでだいたいロンメルと同じ出世スピードで、大佐になったのは1939年だった。砲兵連隊長をしていたのだが、たまたまオーストリア共和国軍を再編して第3山岳師団を作るとき、マインドルの砲兵連隊から1個大隊を引き連れて参加し、新しい山岳砲兵連隊長になるよう指名されたのてあった。そして師団は1940年、ノルウェーのナルヴィクに行った。
ナルヴィクでは狭い街に閉じ込められて全滅の危機にさらされたが、マインドルは連隊とともに生き延びた。そして1940年11月、空軍に転属したマインドルは、新設された第1空輸突撃連隊の連隊長となった。苦戦を生き延びた経験と指導力を買われたのであろう。グライダー連隊だから、今さら落下傘降下の訓練はしないで済んだ。
当時、第7航空師団にはふたつの降下(落下傘)猟兵連隊があり、マインドルの空輸突撃連隊は3つ目の歩兵戦力だった。大戦後半の降下猟兵師団は歩兵師団に似た陸上部隊だが、大戦初期の第7航空師団は輸送機部隊・グライダー部隊と落下傘部隊・空輸歩兵部隊を統一指揮する組織だった。この編成で、ドイツ軍は1941年6月、クレタ島を奪取に向かった。マインドルは重傷を負ったが、騎士十字章を受けた。
そして1942年2月。
「こんなところに、兵たちはずっといたのか」
建物よりも建物の跡地の方が多かった。そしてどちらも平等に雪に覆われていた。それも泥と煙とほこりが混じった汚い雪だった。クレタ島で撃たれてからずっと傷をいやしていたマインドルには、初めて見る東部戦線の冬だった。
モスクワへの突破口として、前年晩秋には大包囲戦の舞台となったヴャージマは、いまドイツ軍の最前線となりつつあった。すでに述べたように、北へ100kmほどのルジェフ付近をソヴィエトは包囲しようとしており、半島の形になりつつある戦線の「付け根」に当たるヴャージマ周辺には何日にも分けて、数千人のソヴィエト空挺部隊が降下して、パルチザンと呼応して手当たり次第にドイツ軍の後方を荒らしていた。そしていま、それに対抗する「マインドル戦闘群」が発足しようとしていた。
「年齢には勝てんな。部隊名を覚えきれん……」
指揮下に入る部隊のリストを見てぼやいていたマインドルは、視界の隅に接近する自動車の軍司令部旗を認めて、はっと直立して敬礼した。第4軍司令官になったばかりのハインリーツィ大将が到着したところだった。歩み寄りながら軽く答礼したハインリーツィは、マインドルが見ている書類にすぐ気づいたようだった。
「部隊名のリストは覚えんでいいぞ、将軍。どうせすぐ入れ替わるからな。君の大隊と、あといくつかましな部隊を選んで、それを盛り立てるようにするといい」
「了解しました」
マインドルの第1空輸突撃連隊は4個大隊から成っていたが、第2大隊と第3大隊だけがヴャージマ周辺にいた。距離が100km未満なら周辺のうち……という程度の意味でだが。第1大隊は北方軍集団、第4大隊は南方軍集団で、戦線の穴を埋めるためにこき使われていた。マインドル戦闘群では、親衛隊だろうが陸軍だろうが、かろうじて治安戦に使える状態の部隊も加えて人数をそろえ、次々に表面化する危機を火消ししていくしかなかった。
「通信隊は空軍から出してもらえるか。師団司令部につく程度の規模で」
「打診してみます、将軍」
「助かる」
ハインリーツィは笑った。バラバラに戦う治安部隊から情報を集約し、いちばん差し迫った脅威を除く司令塔の役目をマインドルは期待されていて、そのためには有線電話か無線通信の機材と要員が必要だった。そして空軍も陸軍から一方的な無心を受けているわけではなく、陸軍部隊の関心を引きにくい野戦飛行場の安全を保つためには、空軍が地域防衛に首を突っ込む利点もあったのである。だからハインリーツィはマインドルに治安部隊を渡して通信隊をもらおうとしているわけであった。
--------
ハルリングハウゼンは、久しぶりのノルウェーが厳寒期であることに震え上がっていた。オスロでこれなら、北方の航空基地はもっと寒いに違いなかった。民情は落ち着いたというより、ドイツ軍との関わりを市民が避けていた。実質的にこの地を支配するテアボーフェン国家弁務官はNSDAPの指導者としてドイツでも評判は良くなかったが、暴力的な支配でその悪名をさらに高めたから、市民たちはうわべに気を遣って暮らしていた。
1941年11月、イギリス空軍はタラント港を空襲し、停泊中のイタリア艦隊に魚雷で大損害を与えていた。明けて1942年1月、ハルリングハウゼンは大西洋航空指揮官から第26爆撃戦闘団司令に転任し、航空魚雷統括官を併任した。ドイツの航空魚雷は、海軍が研究していたときは空軍が(海軍向けリソースを固定化されるのを嫌って)熱心でなく、空軍が興味を持ったときには海軍が研究成果を渡さず、結局イタリアから買ったという迷走ぶりだったが、ゲーリングは海上作戦のエースであるハルリングハウゼンにこの新兵器を託し、魚雷運用の経験がある部隊を第26爆撃航空団に集め始めていた。
「戦艦ティルピッツがトロンヘイムの近くに隠れたそうですよ」
第5航空艦隊の旧知のスタッフが、ハルリングハウゼンに耳打ちした。戦艦ビスマルクの同型艦ティルピッツは、もうこの戦争では今更追加できない、虎の子の大型艦である。
「さあて、我がドイツ空軍には雷撃のために設計された航空機はないわけだが、ティルピッツの戦力化とどちらが早いかな……」
自虐的なことを言う割には、ハルリングハウゼンの表情は暗くはなかった。狼は獲物を求めて移動するものだ。いま潜水艦隊は戦時統制に慣れていないアメリカ商船を狙っており、空軍は大西洋でだんだん分が悪くなってきたものの、やはりノルウェーからソヴィエト向けの船団を狙う新しい仕事ができていた。まさにハルリングハウゼンは、そのためにフランスから移ってきたともいえた。
「勝っていても負けていても俺たちには仕事がある。問題は、勝っているかどうかだが」
「大佐どの!」
友人幕僚のとがめる声に、ハルリングハウゼンは首をすくめた。全体的に勝っているかは別として、ここでならイギリス船団と戦って勝てる……という自信までは、ハルリングハウゼンは失っていなかった。
--------
ゲオルグ・フォン・ベーゼラーガー男爵・騎兵大尉は偵察大隊長だったが、実際に率いている戦力は1個中隊相当だった。当時のドイツ軍ではどこにでもあった話である。
歩兵師団の偵察大隊は、自転車に乗った1個中隊と、騎兵1個中隊から成るのが原則だった。歩兵より少しだけ先行し、敵を捜索し、弱い敵なら殴り合い、有力であれば様子を報告した。決戦兵力としてまとまった騎兵部隊はもう第1騎兵師団しかなかったが、移動速度も火力も中途半端であり、すでに本国で第24装甲師団への改編が始まっていた。
シュトラウス上級大将のドイツ第9軍はボックのモスクワ攻略作戦では北端に近い戦域を担当した。モスクワからだいたい西に200km余りのところにルジェフという街がある。モスクワの北を蛇行したヴォルガ川と、ラトビアのリガからモスクワに至る道路が交差するところで、古来、多くの王や貴族が取り合った要地である。1941年末から、盛り返したソヴィエト軍はルジェフの北を突破すると南へ食い込み、ルジェフを北に突き出した半島のように半包囲したのだが、その形がはっきりしてきたのは年が明けてからである。今その渦中にいる第9軍所属部隊のひとつ、第6歩兵師団としては、ひたすら押されている実感だけがあった。
野戦郵便の到着は滞っていたが、ベーゼラーガー大尉は手紙を書くのに忙しかった。部下が次々に戦死していたので、家族に何か書き送らねばならなかった。中隊長や小隊長は、彼らもだいたい本来それにつくべき階級の者ではなかったが、血走った瞳で部下に交じって歩哨に立っていたから、代わりに書くしかなかった。偵察大隊はこんなとき、最前線の見張り役を期待された。ちゃんと建っている農家などもうほとんどなかったから、大隊全員が休憩となるとここで過ごした。
「ゲオルグ! ゲオルグはいるか」
車のエンジン音に続き、太い男の声がした。師団司令部副官部の大尉だ。室内に火はないが、人いきれでいくらか寒くない。そのドアを開けると、ゲオルグを手招きした。ごろごろ寝ている一般兵に聞かせたくない用件があるから、厳寒の室外に出ろというのである。たぶんベーゼラーガーは思い切り迷惑そうな顔をしたはずだが、副官は全く反応しなかった。彼はそういうことが仕事なのだ。
外套を羽織って外に出ると、副官はごそごそと地図ケースをかき回し、封筒を見つけると無言で突き出した。ベーゼラーガーが最初の数行を読んだとき、副官の大きな手袋がぱふぱふとベーゼラーガーの背中を叩いた。太い眉の副官が、見たことのない笑顔をしていた。もちろんその内容を知っているのだ。
夏以来の勇戦に対し、柏葉付騎士十字章が貴官に授与された。あわせて本国において快速兵学校教官を命じられた。直ちに現業務を次席者に引き継いで、授与式のため師団司令部に出頭せよ。そういう趣旨の命令書であった。ベーゼラーガーは助かったのである。帰れるのである。
ベーゼラーガーは、薄暗くなってきたロシアの大地を見渡した。まだこの大地のあちこちに、部下たちが散らばって任務に就いていた。副官が言った。
「ゲオルグ。コニャックが手に入ったら、送ってくれないか」
「とびっきり匂うコルン(ドイツの蒸留酒で、兵士の安酒の代表)を送ってやる」
握手するベーゼラーガーには、また本国に帰れるという実感がわかなかった。
--------
1941年夏から、ビーヴァーブルックは軍需大臣(Minister of Supply)をやっていた。これはもっぱら陸軍の兵器と需品を生産させる部門であって、航空機生産省の陸軍版のような組織であり、海軍は海軍省の中に同種の担当部署があった。
1942年2月、ビーヴァーブルックは軍需大臣から転じて、新設された戦時生産大臣(Minister of War Production)になった。これは一種の昇任だった。陸軍兵器生産をつかさどる軍需大臣から、陸海空の要求をまとめて労働・徴用大臣や、レンドリース元としてのアメリカと向かい合う立場になったのである。また航空機生産に口を出されるのか……とフリーマンは身構えた。
だが2週間も経たないうちに、ビーヴァーブルックは今度こそ閣僚を辞した。公職はいくつか残ったが、戦時内閣には二度と戻ることはなかった。
国内での主な交渉相手となる労働・徴用大臣のベヴィンと犬猿の仲だったこともあるが、理由はもうひとつあった。1941年秋、ビーヴァーブルックはチャーチルの名代としてモスクワを訪れ、敗報が続いても戦いをあきらめないスターリンに少々感銘を受けすぎてしまった。だから「第二戦線(大西洋岸への再上陸)を早く」と自分の新聞にも書かせ、閣議でもそう主張するようになってしまったのである。しかし説得するとか交渉するとか、そういった話し方をこの新聞王はすっかり忘れ去ってしまっていたから、閣議で簡単に孤立したし、チャーチルもかばえなかった。
ビーヴァーブルックはチャーチル政権の滑り出しに大きな功があったが、この時期に至っては多くの悪影響を振りまいていた。チャーチルには放逐できないビーヴァーブルックを追い詰めたのは、皮肉なことに、スターリンであったともいえる。
そして、第1次大戦時の回想を含めて著書の多いビーヴァーブルックは、ついに第2次大戦期の回想は書かずに終わったのてある。
--------
すでに触れたように、ドイツはウーデットのまずい技術指導(の空白)によって、航空機開発リソースの戦略的な集中と撤退ができなかった。イギリスは1938年以降に打ってきた施策がようやく軌道に乗り、戦前からある機種の生産は伸びてきたが、新鋭機種の開発ではやはりまだまだ苦しんでいた。重爆撃機の問題はいずれまとめて扱うとして、戦闘機についていえば、そろそろスピットファイアやハリケーンと交代を始めるはずだったタイフーンやトーネードが、搭載予定エンジンの開発遅延を主な理由として、なかなか量産が進まないという問題があった。
だからノースアメリカン社が作ってくれるムスタング戦闘機はありがたかった。この戦闘機が積んでいるアリソン社のV-1710エンジンは、P-38、P-39、P-40といったアメリカ陸軍航空隊の戦闘機にも軒並み採用され、レンドリースでイギリスにも供与された。それだけ優れたエンジンだったが欠点もあった。同じエンジンを使ったせいで、ほとんどのアメリカ戦闘機隊と一部のイギリス戦闘機隊が、同じ悩みを抱えることになってしまった。
エンジンの高空性能を決める基本的な要素はふたつある。高空では空気が薄いから、空冷式エンジンは冷却能力が下がる。液体の冷媒を持っている液冷式エンジンは、比較的この問題に強い「はず」である。ところがアリソンV-1710エンジンは、液冷式なのに高空に弱かった。
それにはもうひとつの要素が関係している。過給機である。要するに燃料を燃やして飛ぶのだから、エンジンに酸素を空気ごとポンプで吹き込んでやれば、同じ時間内に多くの燃料を燃やせて出力が上がる。V-1710エンジンはまったく無名のメーカーが作り出し、いくつかの採用例では成功作DC-3旅客機のエンジンと争って勝った、航空エンジンの「ロッキー」のような存在である。だが海軍の飛行船用エンジンから陸軍の爆撃機用エンジンまで、いろいろなトライアルに片っ端から応募した流浪のエンジンであったため、「高空で戦うため過給機を組み込むことを前提にした設計」になっていなかった。だから過給機搭載版の登場は遅れてしまったのである。
アメリカ軍の持つニーズも、V-1710エンジンにとっては不運だった。考えてみてほしい。1920年代や1930年代、「アメリカに対して戦略爆撃を仕掛ける仮想敵」とは誰なのか。少なくともアメリカ本土に対して、この種の脅威を与える敵は存在しなかった。日本という具体的な脅威に向き合い、モンロー主義を破って外征しようという機運が高まったとき、初めて戦略爆撃を行ったり防いだりすることが現実味を帯びたのである。だからアメリカ陸軍航空隊が高高度戦闘に関心が薄くても、仕方のない面はあった。
V-1710エンジンの戦闘機は、比較的高空が得意なドイツの新型戦闘機、例えば1941年前半に本格的な投入が始まったBf109Fには苦戦することになった。だからますます、比較的高空に強いマーリンエンジンのスピットファイアやハリケーンには、しっかりイギリス本土上空を守らせねばならなかった。いったん北アフリカから対日戦線へ航空機をごっそり引き抜かれたエジプトのイギリス空軍は、かき集められた雑多な航空機でロンメルと戦い、イギリス空軍の地上支援システムを再構築して行くことになった。
そして秋になり、北アフリカに上陸したアメリカ陸軍航空隊を悩ませた最大の問題は、ここに書いたもののどれでもなかったのだが、そのことは時期が来れば語るとしよう。第一次大戦前半を偵察機部隊指揮官として過ごし、性能で劣位にある偵察機への出撃命令を出す苦しみを味わったフリーマンは、二度とそれを繰り返すまいと開発指導に奮闘したのだが、航空優勢を決める要素はそれ以外にも、あまりにもいろいろあるのである。
--------
第32話で、1941年末から1942年初頭のドイツ軍が鉄道輸送に難渋した事情については触れた。年末から2月にかけて輸送実績は下がり続け、そこで底を打った。そのころの事情をここで語っておこう。
Feldeisenbahndirektion(FBD、野戦鉄道管理局)は1941年春、ライヒスバーンの抵抗に業を煮やしたゲルケ輸送総監が設置を始めたものである。応召したライヒスバーン職員を多く抱えた軍の鉄道管理組織で、戦線近くを担当することになっていた。鉄道管理の現場に踏み込まれた鉄道省はさらに抵抗し、1942年までもつれ続けた。1941年11月、ソヴィエト占領地域の鉄道の半分は広軌だった。期待したほど広軌の機関車や貨車は捕獲できなかったし、届く物資も広軌路線への再積み出しに適した仕分けがされておらず、鉄道省と軍の責任分担をめぐる争いは、どちらにせよ能力を超えた、達成できない目標をめぐる非難の応酬になった。
11月から列車の不足(滞留)を中心とする輸送力不足が顕在化し、寒い冬による内国河川の凍結が輪をかけた。11月の東部戦線への補給列車は本数を数えれば前月の5割増しだったが、予定の場所に着いていなかった。ドルプミュラー鉄道大臣はゲルケのために資源割愛には応じたが、指揮下に入ることには抵抗を続けた。
1942年1月14日、ワルシャワに輸送総監部が置いていたBetriebsleitung Ost(東部補給指令所)は改称して鉄道省の傘下に入り、鉄道省は東部戦線についてより重い責任を負わされた。いっぽう2月9日、シュペーアがトート弾薬生産大臣の後任となり、広範な権限を持つ軍需大臣となった。簡単にまとめると、ゲルケが強権で鉄道業界を抑え込もうとしたのは失敗に終わり、強権と産業人の活用を使い分けるシュペーアが登場して、ヒトラーがやろうとしなかった(まさに政治的)調整に手を付けたのである。
まず軍需省がライヒスバーンの車両などを一元的に調達するようになった。これはむしろドルプミュラーが、シュペーアの政治力を借りようと提案したことだった。1942年3月、牽引車などを作るデマグ社の重役からトートの部下となっていたデーゲンコルブがこれを任され、戦時型機関車である52型の生産推進、冬に損傷した機関車の修理部品優先増産などを打ち出し、1943年3月に生産余力を戦車に向け直されたほど成功していった。
そして1942年5月25日、シュペーアの推薦を受けて、ヒトラーはガンツェンミュラーをライヒスバーン総裁代理兼運輸次官に任じた。つまりドルプミュラーを留任させる代わりに、ガンツェンミュラーはドルプミュラーの代わりに何でも決めてしまえるようになった。
戦略爆撃がドイツの産業を壊すスピード、地方行政を担う党組織が持ちこたえ都市を再建するスピード、そしてシュペーアたちが生産性を高めてゆくスピードが競い合った結果は、1942年に限って見れば、ドイツにとって大きなプラスであった。
--------
1942年1月、エル=アゲイラを発ったロンメルがベンガジやデルナを取り戻し、イギリスをトブルクとガザラ陣地帯まで押し返した作戦には、名前がない。作戦ではなかったからである。
背景はいくつかある。1941年末まで撤退に次ぐ撤退で追いまくられていたアフリカ装甲集団には、1月4日から2ヶ月止まっていた野戦郵便がどっと届き始めた。ケッセルリングの空軍がマルタ島のイギリス空軍機や潜水艦の活動を抑え込んで、輸送船が届くようになったのである。さらに5日には戦車54両が届いた。
逆に日本との開戦で、イギリスは空軍も陸軍もいくらかの戦力を極東へ取られたり、届くものが届かなくなったりした。
イギリス軍がドイツ・イタリア軍の損害を過大評価していたことも、悪い方向に働いた。イギリス軍はドイツ軍が動き出した時のため機動予備を置き、どこまで退いてどこで反撃するか計画していたが、その機動予備は本国からやってきたばかりのイギリス第1戦車師団だった。補充車両と補給物資を腹いっぱい吸い込んだアフリカ戦車集団を抑え込むには足りなかった。とはいえ、1月20日現在でロンメルが持っているドイツ戦車は100両余りであり、第15・第21装甲師団を合わせて戦車の数は1個師団分あるかないかであった。例によって、持ち金を全部賭けるロンメルに意表を衝かれ続けたのである。
無人地帯の幅が広い砂漠の戦いで、第15装甲師団の偵察隊が東へ動き始めたのは1月17日であった。備えようのないリビア内陸部を進んだロンメルは、イギリス軍を案外弱体と見て、21日から大規模な威力偵察をかけた。途中で遭遇する中途半端な規模の部隊を素早くたたくことを繰り返し、威力偵察はだんだん攻勢にすり替わって、イギリス軍の退いたベンガジを海岸沿いに進んだアリエテ戦車師団が奪ってしまった。こんな経緯だから作戦名がない。
日本と開戦したことによる一時的な数的劣勢は、アメリカの本格参戦でいずれ巻き返せるはずだった。だからチャーチルはオーキンレックを代えようとしなかったし、オーキンレックは第8軍のリッチーを代えようとしなかった。だがリッチーは第13軍団長のゴッドウィン=オーステン中将が冷静に早めの退却を上申したことに不満をあからさまにしたので、ゴッドウィン=オーステンは辞表を出し、オーキンレックは仕方なく受け入れた。前年のクルセーダー作戦のとき、状況が混とんとする中で悪い報告に心を動かされたカニンガム将軍が全面撤退を上申してオーキンレックに首にされ、後任になったのがリッチーだったから、ゴッドウィン=オーステンをそのままにすることはオーキンレックの不興を買う……とリッチーは感じたのだろう。しかし軍団長を飛ばして、軍司令官が師団長に撤退中止を命じるのは、高級指揮官としては後戻りできない部下への不信表明で、リッチーの経験不足が表れた一件だった。
逆に、イタリアにもドイツにもロンメルの猛進を支える補給手段はなかったから、早くも2月にロンメルは停止しなければならなかった。マルタ島奪取で空軍の仕事を減らしたいケッセルリング、エジプトに行きたいロンメル、クレタ島の悪い記憶に引きずられ、降下猟兵の運命についてサイコロを振りたくないヒトラーの駆け引きには、長い時間が費やされることになった。もちろん積極的に攻勢を起こすためには、いずれにせよ物資の集積が必要だった。
第35話へのヒストリカルノート
航空魚雷が難しいのは、空中にある間に回転してしまって、そのせいでまっすぐ飛んでくれないところです。ドイツ海軍は当然、日本海軍に航空魚雷を譲ってくれと言ったのですが、日本海軍は回転をある範囲にとどめる安定器を取り外してドイツに送ったので、ドイツは肝心なことがわかりませんでした。
厳密に言うと、ハルリングハウゼンが着任したころKG26の司令部は北イタリアにあって、所属飛行隊とともにノルウェーに集まったのは3月でした。
過給機の性能が良くて高空に強い空冷エンジンの代表としては、B-29爆撃機のライトR-3350エンジンが有名です。ただしこのエンジンは高出力に冷却が追い付かず、火災事故を頻発させました。
本当に戦争に慣れている国は違うなと思うのですが、イギリス陸軍省は戦後になって、中東総軍司令官だったウェーヴェルとオーキンレックに大戦当時のことをあらためて報告するよう命じました。その中で、リッチーとゴッドウィン=オーステンのことはオーキンレックが書いています。ただリッチーが何を考えてそうしたかは、マイソフの想像です。




