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第34話 雪とモスクワ


 ロシア暦の十月革命は、太陽暦では11月7日だった。


 その革命記念日に歩兵部隊、さらに戦車部隊をパレードさせろというスターリンの極秘命令を受け、モスクワ防衛司令官は銃を持った市民たちと、その任務上当然その辺にもいた内務省系の治安部隊と、生き残るための貴重な訓練時間を切り詰めた新兵たちを動員した。だが戦車はいない。予備部隊をモスクワに進めておかねばならないが、それは任せろとだけスターリンは言った。スターリンの言葉通りに現れた戦車の一群は、パレードが終わると街を出ていった。どこへ前進していったのか、誰も知らなかった。


 この日に行進した部隊名の長いリストは、戦後になって証言により復元された。しかしついに、この日にモスクワを行進したT-34やKV-Iに乗っていたと証言する者はあらわれなかったので、戦車の所属部隊はわからないままである。


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 ブリャンスクを通る補給ルートが使えるようになるまで、グデーリアンは物資をはるか南のオリョールから運ばねばならず、Bf109戦闘機でカバーできる距離を越えていたので、空軍は輸送機を出したがらなかった。だがこうしたローカルなエピソードよりはるかにマクロな危機が、ドイツ軍全体を覆っていた。


 東部戦線の鉄道輸送は1941年10月から明確に変調し、1942年2月に輸送量の底を迎えた。それは急激ではあったが、長年の問題が噴き出した面があった。


 パルチザンの活動やソヴィエト空軍の空襲は慢性的な影響を与えていたが、もちろん直接的には、雪と凍結がその原因だった。機関車の中でも水の配管がむき出しのものは、カバーのあるものに比べて凍結に弱かった。列車が立ち往生すると、修理施設まで運ぶことが困難だった。駅の給水施設なども凍結で機能を失った。そしてポーランド総督府領の鉄道を管理するオストバーンは、NSDAPの古株としてヒトラーに直訴しやすいフランク総督の地位を背景に、ライヒスバーンの言いなりにならなかった。東部戦線向けの補給列車が諸事情で予定に遅れ、ポーランドを通過しようとすると、通常ダイヤをかき乱されることを嫌うオストバーンが補給列車を待たせた。陸軍も鉄道省もフランクに善処を要求したがなかなか改まらなかった。


 しかし戦間期からずっと、機関車や貨車の数は増え続ける輸送需要に対してぎりぎりだった。陸軍は鉄道設備の拡張については要求できたけれども、機関車や貨車となると4か年計画担当大臣でもあるゲーリングの領分だった。戦間期に比べれば増産されていたものの、負担の大きさの方が鋭く伸びていた。そしてバルバロッサ作戦に伴う鉄道設備の拡張ですら、認められた鉄鋼割当分が実際に納入されなかったためにいくらか遅延し、完遂を見ないまま7月15日に打ち切られていた。こうしたことをヒトラーは政治的に調整せず、(げき)を飛ばすだけだった。


 そして、すでに述べたようにソヴィエトは鮮やかに戦線から列車や車両整備機材を引き上げ、わずかしかドイツに渡さなかった。「ソヴィエトの機関車と貨車で運用する鉄道区間」はあちこちに残ったが、ドイツ軍の巨大な需要を支える線としては細すぎた。ライヒスバーンは国境までの輸送には協力させられたが、開戦後の作戦計画は一切教えてもらえず、鉄道工兵部隊とともに、ドイツ軍首脳部の見込み違いを一方的に押し付けられ、標準軌へのレール幅変更と従来型機関車での路線延伸を果てしなく求められた。


 スターリンの大粛清は、ソヴィエトそのものを危険にさらすほど多くの受刑者を出した。これと比べて、ヒトラーは1933年の全権委任法でスターリン並みの超法規的な(厳密に言うと、任意のタイミングで制定・施行した法令による)弾圧ができる立場になったが、シュライヒャー将軍など政権獲得前に政敵となっていた人々を例外として、軍や産業界といった職能集団を狙った逮捕や処刑は行わなかった。国営企業であるライヒスバーンに対して、外から指導者を送り込む試みもあったが、1934年に妥協が成立し、運輸省やライヒスバーンの指導体制は温存された。だから今になって陸軍が鉄道員たちの領分を(おか)して何かを強制しようとしても、平時から定められた規定や手続を盾に取った抵抗が待っていた。もちろん陸軍はライヒスバーンから応召した士官や兵を集めて、戦地の鉄道を統制する組織を作ったのだが、それだけで解決はしなかった。


 これは政治的問題であり、資源配分の変更を伴う権限の再編によってしか根本的な改善は望めなかった。だからモスクワ周辺で何が起こっていようとほとんど関係なく、東部戦線全体で1942年2月にかけて輸送問題は悪化していった。もちろん3月になって気温が解決した問題がなかったとは言えないが、1942年2月というのは、シュペーアが兵器・弾薬大臣に就任した月であった。このときからシュペーアは様々な調整機構を作り出し、陸海空軍が握って離さなかった配分権も、経済計画に関するゲーリングの権限も根気よくはぎ取って、ヒトラーがやらなかった政治調整を一手に引き受け始めたのである。


 兵器・弾薬大臣として前任者のトートは着実に成果を積んでいたが、政治権力者として問題を再定義し、結果的に自分の関与する範囲を広げ、目標達成のために痛みを強要することは、ヒトラーの信任のもとにシュペーアが始めるまで、誰にもできなかった。ドルフミュラー運輸大臣もフランク総督も留任させたまま、シュペーアたちは柔軟にその実権だけをはぎ取っていったのだが、それには年単位の時間がかかった。


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 冬の訪れとともに、ドイツ軍の一般兵士たちは、「夏以来の戦いでは数的に優勢だったが、その優勢がなくなってきた」と感じていた。これは部分的には正しく、総兵力ではドイツ軍にもともとそれほど数的優位はなかったとしても、序盤で国境のソヴィエト軍を壊滅させ、内陸部から駆け付けてくる部隊や新編成の部隊を各個撃破することで、ドイツ軍の選んだ戦場にはいつも大きな数的優位があった。


 だがドイツ軍はだんだんと消耗し、武器や人員が欠けたまま戦うことを強いられた。それでもドイツ軍にはまだ、ソヴィエト軍より豊富な通信器材と、長距離移動に慣れた装甲部隊、自動車化部隊があった。ドイツ軍がソヴィエト軍より速く、連携して移動することで、局所優勢を作り出し、ヴャージマやブリャンスクでの大規模な包囲作戦が成功した。


 10月になると雪と泥がドイツのトラックを足止めし、足の細いドイツの駿馬たちに試練を与えた。彼らは足が太く短いロシアの農耕馬ほどには泥への耐性がなかった。そしてトラックの助けがなければ、戦車も長くは動けなかった。グデーリアンがスダンで空軍に頼ったように、本来数的優勢がない場所で優勢に戦うために空軍は有効だったが、夏以来の消耗と疲労に加え、初めて経験する厳寒期に安定して飛行機を飛ばし続けるノウハウは、ドイツ空軍にはまだなかった。


 第32話と第33話で語ったように、モスクワ南方の要衝トゥーラ市の防衛戦力は少しずつ強化されたが、グデーリアンはじりじりしながら西側でブリャンスク包囲戦が終わるのを待つしかなかった。9月以降、グデーリアン装甲軍は慢性的な燃料不足に悩まされ、戦力を持っていても、望む場所に集中できない状態が続いていった。


 それでもジューコフの西部方面軍と、それに対するドイツ軍の戦力を比べると、互角なのは兵員数だけで、砲兵ではドイツが5割増し、戦車数ではドイツが2倍というのが当時のソヴィエトの評価だった。この戦力比には、補給状況が加味されていなかったようなのだが。


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 11月4日、霜が降りた。モスクワ周辺で泥の季節は終わりつつあったが、止まってしまった物流が動き出したあと懸命に兵とトラックが働いて、11月15日からモスクワ北西を突破するラインハルト装甲集団などの攻撃が始まり、18日からグデーリアンがトゥーラ方面で動き出した。


 ソヴィエトのブリャンスク方面軍は半壊してひとまず廃止され、トゥーラへ脱出してきた第50軍はジューコフの西部方面軍が指揮した。10月下旬の泥の中でグデーリアンの攻勢を耐え抜いた第50軍だったが、グデーリアンの新たな攻勢はトゥーラを東から回り込むものだった。11月22日、グデーリアンの先鋒はスタリノゴルスク(現ノヴォモスコフスク)を確保した。ジューコフは即日、第50軍司令官のイェルマコフを免じ、数週間後に(死守命令を守らなかった罪などで)軍法会議にかけた。


 スタリノゴルスクはモスクワ~ヴォロネジ街道の上にあった。つまり、トゥーラからモスクワに通じている街道に並行する、もうひとつの街道がグデーリアン装甲軍の前に開けてしまったのである。


 これはヴァイクスの第2軍がグデーリアンの南側で地道に東進したことが影響していた。つまり第50軍の南側を守るべきソヴィエト第3軍が、東へ追いやられてしまった結果、第50軍の東側に手薄な区間ができてしまったのである。ドイツ軍の動きはソヴィエト側に完全につかまれていたが、実際に空いてしまった戦線のすき間は知識で埋められるものではなかった。クルーゲの第4軍も装甲部隊は持たないものの、トゥーラの北側を突破する構えを見せて、精いっぱいソヴィエト軍を引き付けた。ソヴィエト第3軍から南は南西方面軍に属したが、その司令官はまだティモシェンコだった。いちばん大事な戦線を任されるのは、もうティモシェンコでなくジューコフになっていた。



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 いまやドイツ軍の攻撃には奇襲要素がなくなっていた。「モスクワを取る」ことに集中すると、その弊害があった。攻め口が限られ、そこを見ていれば攻撃準備は感じ取れるのである。


 モスクワの真北には大都市がない。だから真北へモスクワを出た放射状の道路は、100km余りを走ってヴォルガ川にぶつかると、そこで分岐してしまう。この道路は当時のモスクワ=ヴォルガ運河、戦後の呼び方ではモスクワ運河と並行している。いうまでもなく、この運河によって北海からヴォルガ川伝いの水運が、モスクワに達していた。


 11月23日から24日にかけて、ラインハルトの第3装甲集団とヘップナーの第4装甲集団はクリンとソルネチノゴルスクでモスクワ~レニングラード街道を越えた。10月に占領したカリーニンとモスクワのだいたい中間地点を突破したと考えてよい。「モスクワを包囲しろ」というヒトラーの命令を忠実にたどった作戦計画であるが、その最先鋒を務めたのは第7装甲師団であった。主力から50km先行した第7装甲師団は、27日に小都市ヤフロマの付近でモスクワ=ヴォルガ運河を越えて橋頭保を作った。


 連携を保ち、囲まれず、敵は囲む。そうした戦術的な機動ではまだまだドイツに分があった。ソヴィエト兵たちは一歩も引かなかったが、あちこちで孤立し、分断された。ただし、ドイツ軍にもなじみ深い「抵抗巣」を点在させて耐え忍ぶ戦術を意図的にとった場合もあった。これまでと違って、包囲を避け、柔軟に後退することもよく見られた。森と市街は、こうした戦い方に適していた。


 ドイツ空軍が大挙出撃するのは毎日ではなかったが、陸軍はそのチャンスを精一杯生かした。いっぽうソヴィエト軍はわずかな予備部隊に強行軍をさせて、第2線陣地を間に合うように引き続けた。反撃のための3個軍には手を付けないようにしながら、ドイツ軍に出血を強いた。こうして駆け付けるソヴィエト戦車部隊は無理な移動も手伝って、稼働戦車が少なかった。


 ドイツも狭い範囲で優勢を作り出すのがやっとで、ソヴィエトの縦深陣地を突破する前に側面を脅かされて、突破距離を稼げなかった。だいたい前大戦以来の突撃隊戦術(浸透戦術)は、敵が即応できないうちになるべくいい位置、深い突破を勝ち取る幻術のような戦法で、そのあいだ自分は側面をがら空きにしているのだから、命令があるまで積極的行動に出ない英仏軍には有効でも、相互の連携など気にせず積極的に交戦してくるソヴィエト軍とは相性が悪かった。第7装甲師団も側面に脅威を受けて、28日にはヤフロマ橋頭保から深入りできなくなった。


 ジューコフとスターリンはまだ反撃計画を詰めていたが、モスクワ北側で反撃の主力となる第1打撃軍と第20軍は11月26日から想定出撃線への移動を始めた。12月1日、すでにだいたい固まっていた計画を背景として、第1打撃軍は西部方面軍に移管され、一部で反撃作戦が始まった。今まで第3・第4装甲集団を食い止めてきたソヴィエト第30軍とモスクワの間に第1打撃軍と第20軍が挟み込まれて、まず第20軍が突出したドイツ軍をハンマーのように正面から叩く位置関係となった。モスクワ南側の第10軍にもウラル軍管区の3個ライフル師団が補充され、攻勢準備が進んでいた。3日になると第20軍も西部方面軍の指揮下に移り、第1打撃軍でもより多くの部隊が攻撃に加わった。


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 ソヴィエト軍の親衛部隊は、ほとんどが実戦で成果を上げ、その栄誉として「親衛」の称号を冠されたが、親衛空挺師団のように実戦経験を経ずに「親衛」の称号を得た部隊もある。それらの部隊は親衛軍や親衛戦車軍にまとめられ、攻勢において先鋒を務めた。部隊も指揮官も急速養成されたソヴィエト軍では、たまたまチームとしてうまく機能した部隊に印をつけ、最優先で補給と補充兵を与えて使い回すしかなかったのである。語源としても歴史的にも都市防衛隊や要人警護隊に発する名称だが、ソヴィエト陸軍での大戦期の部隊運用は「前衛」に近いものだった。


 親衛部隊は支給飲食品や配備兵器でわずかな優遇があったが、一番きつい仕事を任される前に、一般歩兵部隊ではまず望めない、休養再編の時期をもらえることもあった。


 皮肉なことに、この運用は懲罰大隊や懲罰中隊と共通していた。方面軍司令部が管理する士官対象の懲罰大隊と、軍司令部が管理する兵・下士官対象の懲罰中隊は、理不尽な理由で処罰された軍人を多く含んでいたが、まったく理由なしに送り込めるものではないので、命令なしに退却する部隊が減った大戦中盤以降には「補充」が細り、ますます慎重に選ばれた機会に投入され、休息期間が与えられる運用になった。



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 順序が前後するが、第1打撃軍・第20軍と、モスクワ南方の第10軍の構成は、このころのソヴィエト軍をイメージするのに役立つので、紹介しておこう。


 すでに触れたように、モスクワから政府機関や参謀本部の移転が始まったのは10月13日だった。スターリンは10月14日、9つの軍管区に合わせて50個ライフル旅団を編成するよう命じていた。動員されるのは21万6千名であり、士官や下士官の教育を中断された若者たちと政治活動に当たっていた党員が半分、負傷からの回復者が半分という予定だった。3~5個ライフル大隊基幹だから歩兵は半個師団かそれにも満たないが、砲兵も1個大隊に値切られ、120mm重迫撃砲大隊でいくらか埋め合わされていた。


 これらは戦線の数か所に集められ、多くが「打撃軍」という新しい名称の軍司令部に配属された。11月15日の編成下令で25日に編成された第1打撃軍は、8個ライフル旅団、1個騎兵師団、11個独立スキー大隊、2個戦車大隊などから成っていた。大佐の指揮する直協航空部隊があったが、軍直轄部隊で使われていたツポレフTB-3重爆撃機、夜間の嫌がらせ爆撃に使われたPo-2複葉機といった、およそ任務に向かない機体の寄せ集めだった。配置に着く過程で、さらに2個ライフル師団が加わった。


 それでも、この部隊はモスクワ北西で突破をはかる第3装甲集団・第4装甲集団と戦うため、12月1日にジューコフの指揮下に引き渡された。指揮下部隊数はやたらに多いが、12月1日時点の実員は士官から兵まで合わせて36950名で、定数の3個師団相当程度だった。同時期に再編成されたヴラソフ少将のソヴィエト第20軍もライフル旅団で「かさ増し」された同規模の軍で、2個ライフル師団のひとつはブリャンスクで編成され退却してきた労働者師団だった。


 それに比べると、モスクワ南側でグデーリアン装甲軍の横腹を突くべくリャザン方面に集結した第10軍は歩兵7個師団、騎兵2個師団の威容を誇ったが、ウラル軍管区でとりあえず集められただけの、軍歴のない30才代兵士を中心としており、到着した部隊から敵前教練に入っていた。第50軍と第3軍の間隙を埋める配置であったが、少し先の話をすると、さらに南西方面軍に第61軍が付けられて12月に西進を始め、戦線は第50軍~第10軍~第61軍~第3軍とつながるように整理されていった。


 これらの大規模な再配置は、ソヴィエトの鉄道とトラック部隊の能力をギリギリまで試し、12月になってからやっと位置に着いた部隊が多かった。


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 ソヴィエト軍の部隊には、原則として補充が来ないので、人数が減った部隊は減ったままである。そんなことがソヴィエト崩壊のころまで、ウォーゲームの説明書に書いてあることがあった。これは正しくない。


 ただ1941年いっぱい、補充どころではなかったというなら、それは正しい。例えばスタリノゴルスクへのルートを守っていた第299ライフル師団などは、人数が減りすぎたので解体され、残余は周囲の部隊に配分された。ものすごい勢いで部隊が新編されていたため、補充できる地域から前線へ無所属の人員が来ることもなかった。半壊した師団を使って別の半壊師団を再建することはよく行われた。


 1942年になると補充兵や新米士官が前線へ着き、配分されるようになった。スターリングラード戦のころの兵士の手記で、補充は頻繁に来るが生き延びるコツが身についておらず、数日で元の顔ぶれに戻ったと書いてあるものがある。そのほか、進撃途中で出会ったパルチザン部隊を私服のまま編入したとか、歩兵が減ったので現地司令官が後方要員を片っ端から転属させることを許可したとかいった、いろいろな個別例がある。


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 では、グデーリアンの戦ったモスクワ南側の戦いについて、すこしさかのぼって11月18日以降のことを語るとしよう。


 平均1000人くらいになった第50軍の9個ライフル師団のうち、2個師団がスタリノゴルスクへ通じる東向きの道路を守っていたが、先ほど触れたように集中攻撃で突破された。危機に急派されたソヴィエト第239ライフル師団は、11月14日に列車から降り始めたシベリア師団だった。戦前の編成下令だから優良師団である。21日に第50軍に編入されたばかりで、さすがにチームワークを確立しろという方が無理かもしれない。急報を受けてスタリノゴルスクの防衛に当たったが孤立し、25日夜からすべての重火器を捨て、9000人の規模を保って東へ脱出した。戦線を突破された第50軍司令官を22日に馘首(かくしゅ)したジューコフだったが、第239ライフル師団には何もしなかった。脱出後は反撃準備中の第10軍に加わり、年明けに師団長が勲章を受けている。


 脱出が成功したということは、ドイツ軍の包囲網が薄かったということである。このときすでにグデーリアンの攻勢は「駒切れ」の兆候を見せ始めていた。


 すでに触れたように、アムール州から来た第413ライフル師団がトゥーラ防衛の柱と期待されていた。スタリノゴルスクから北へ30kmのヴェニョーフまで、まとまった歩兵部隊はもはやおらず、戦車部隊がじりじりと遅滞戦闘をした。さらに北の小都市カシラはオカ川が東西に流れ、モスクワへの天険(てんけん)としては最後の防衛チャンスだから、遠方にいた第2騎兵軍団が25日、何としてもドイツ軍より先着しろと命じられた。150kmを1日で(一部が)移動した軍団は、あちこちで小規模な遭遇戦を起こした。


 12月2日、グデーリアンは第3装甲師団を中心に、最後の攻勢をかけた。トゥーラの北東から北へ回り込み、トゥーラ包囲だけでも完成させようとしたのである。ジューコフは明らかにグデーリアンがスタリノゴルスクからモスクワに突入することを懸念したが、グデーリアンは自分のための補給路なしにはどこにも行けなかった。グデーリアンが向かった場所にはドイツ第4軍に西から攻められていた部隊しかいなかったが、控えていたソヴィエト第31騎兵師団が反撃して泥仕合に持ち込んだ。それで十分だったのである。グデーリアン装甲軍は、体中から燃料をだらだら噴出させて戦っていたようなものだったのだから。


 そして12月5日、グデーリアンは攻勢の中止をボックに伝えた。上申したのではない。伝えた。ボックの日記では、「[12月2日の攻勢開始時の戦力もすでにひどいものだったが]昨日まで楽観的な見通しを報告していたぞ?」と指摘されている。


 もうトゥーラを攻め取れる見込みはない。ここにいては補給は来ない。グデーリアンは残余をまとめ、全速力で元来た道を逃げた。途中で踏みとどまれという指示はすべて無視した。どれだけ無理を重ねて行軍してきたか、自分がよく知っていた。


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 ロンメルやグデーリアンといった強烈なキャラクターの陰で見えづらいが、ドイツ軍が持つ構造的な問題があった。いわゆる「委任戦術」が持つ負の面であり、どこの職場にも(役所であれ、企業であれ、非営利組織であれ)存在する経営問題である。


 ボックもロンメルもグデーリアンも、補給と増援については上司に対して盛んに文句を言い、要求した。いっぽう下僚には無理なものは無理だと言った。そして「自分の望み」、すなわちノルマを課して、それを実現する方法は考えさせた。部下は上司に対して、独立採算の子会社や、業務委託先のような立場になる。


 そうすると悪いニュースはぎりぎりまで上がらなくなる。予算要求は常に精いっぱい、理屈のつく限り上がってくる。任せるリソースの大きさと、期待する成果のバランスを保つのは上司の責任。委託先としては、無理をしてでもノルマを実現するのが仕事であり、無理だという警告を上げることは自分の評価を下げるリスクがある。


 勝利の条件が整っているときはいいが、乏しいリソースに合わせて狙う勝利の大きさを絞らないといけない局面では、中央に権限を集めたほうがバランスの取れたリソース配分ができるのかもしれない。


 最寄りの鉄道駅から前線まで100kmを越え、その間がトラックや馬車によって何とかつながれることは、東部戦線では夏以来あちこちで繰り返されてきた。しかしブリャンスクがすでに荷降ろし駅のゴメリから300km近く、トゥーラまでさらに直線距離で200km、実際にはそれを大きく迂回するとなれば、グデーリアンに補給が届くと考える方がおかしい。


 誰かが止めなければならなかったが、誰も止めなかった。あるいは、「敵も苦しいから先に崩壊するだろう」という願望を持つことが、とがめられなかった。「負けに不思議の負けなし」というが、たしかにドイツには、モスクワの戦いに敗れる理由があった。


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 それに対し、ソヴィエト軍が勝てる条件は、まだ十分に積み重なっていなかった。


 ソヴィエト軍のまとめたモスクワ攻防戦史には、功のあった部隊名を何度も羅列する箇所があった。だがその中に、大規模攻勢であれば通常含まれているはずの、軍直轄砲兵部隊やその指揮官が出てこない。そういう勝ち方が、ソヴィエト軍はまだできなかったのである。ソヴィエト軍があちこちで作り出す局所優勢は、歩兵の血と肉で勝ち取ったものだった。


 凍土の戦争は、第1次大戦の西部戦線とよく似た条件である。身を伏せて射撃するだけで凍傷を負うリスクがあるなら、敵弾を防ぎながら安定した射撃姿勢を保つためには、深い壕の中に入っているしかない。その外に出ているときは伏せることもできず、風と外気が体温を奪う。だから攻撃を命じられている間、ドイツ兵は今までにないペースで損耗するしかなかった。だが追い立てられたドイツ兵がどこかの村に陣取り、周囲に壕を掘って「ハリネズミ陣地」を作ってしまうと、身をさらして攻撃するのはソヴィエト側ということになった。


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 ドイツ軍はモスクワ周辺から徐々に追い出されていった。ヒトラーは犯人を捜した。南方軍集団のルントシュテットはすでに交代させられていたから、中央軍集団のボック、グデーリアン、陸軍総司令官のブラウヒッチュ、北方軍集団のレーブが12月から1月にかけて辞めたり、辞めさせられたりした。ヒトラーは怒りに任せて、1940年のノルウェーでヒトラーの退却命令に歯向かったOKWのロスバークもこの機会に左遷させた。いわゆる死守命令は最初のうちは「敵と接する以前の退却を禁ずる」といったものであったが、例外ない退却禁止に段々変わっていった。


 もっともボックについてだけは、すぐに呼び返すことになった。ルントシュテットから南方軍集団を継いだばかりのライヒェナウが、寒い早朝の散歩で心臓発作を起こし、亡くなったのである。その後任とされた。


 ドイツ軍はあちこちの防御陣地に立てこもり、多くの凍傷者を出しながら粘った。凍土を掘るために爆薬を使うことをためらわなくなり、村の入り口に生き残った対戦車砲を向け、村の内部には罠を仕掛けた。迫撃砲や歩兵砲は強力な敵に備え後置された。守りに回ったドイツ軍がどういう集団であるか、ソヴィエト軍は知らず、授業料は高かった。


 昼食についてくる1日1回の温食は、秒単位で凍ってゆくのですぐ食べなければならなかった。兵も士官も食事について要望を出したが、配られたものを食べるしかなかった。


 この冬のソヴィエト軍にはソヴィエト軍なりの災厄が待っていたし、ドイツにはドイツの嵐が吹いた。新しい物語が始まろうとしていた。


第34話へのヒストリカルノート


 拙作『なにわの総統一代記』では、シュペーアを善玉として描きました。1998年ごろの執筆当時、すでに「シュペーアはニュルンベルグ裁判で認めたよりも、ユダヤ人の状態などについて知っていたはずだ」という研究は出始めており、そうした戦後の保身が確認されるにつれて、シュペーアのイメージは地に落ちてしまったように思います。


 しかし、すべてが終わってから戦犯裁判の圧力にさらされたときの態度と、実際に権力者であった時の姿勢や能力は、それほど関係するものでしょうか。実務では有能だが記者会見がアレとか、会えばまともな人なのにSNSに出すと手足のついた可燃物でしかないとか、そういう人は皆さんの周りにもいませんか。


 シュペーアは一種の芸術家であり、「自分の作品を残す」ためなら大抵のことに目をつぶる人であったというのがマイソフのイメージです。ただし建築家ですから、作品として自認・許容する範囲に、国家システムも含まれていたのではないかと。だからチャンスをくれる人間がヒトラーであってもチャーチルであっても、シュペーアは「作り上げる喜び」を求めただろうし、普遍的な倫理観を平均以上に持っていなかったことは、それと矛盾しないと思っています。



 ボック元帥の遺した日記には、次のような記述が見つかります。11月11日、ボックはブラウヒッチュに対し、今のペースでしか補給列車が来ないなら、攻勢を中止してその場で冬に向けて壕を掘ることを命じねばならないと言いました。16日、グデーリアンは(攻勢を前に)自信満々で、燃料不足のことだけを気にしていました。18日、ハルダーはモスクワ正面に布陣した第4軍による攻撃を打ち合わせる中で、敵の状況はドイツ軍よりもっと悪く、当面の戦いでは戦略ではなく闘志が問題になるのだと言いました。ボックは、最近シベリアから34個師団が到着したと推定されていて、そのうち21個師団は中央軍集団の正面にいるのだが……と言い返したようでした。


 これだけ読んでいると、ボックだけが事態の厳しさに気づいていて、ハルダーとグデーリアンは脳筋イケイケであったように読めます。終戦直前に機銃掃射で亡くなったボックは、日記を都合よく削ったり書き換えたりするチャンスがありませんでした。しかしボックの言い分は、「確実にハルダーたちから否定されるので責任を取らずに済む暴言」のようにも思えます。ボックだって攻勢中止命令は出さなかったのです。3人とも、これまでの行き掛かりでモスクワを取りに行くしかなくなっていて、マズくなっていく状況に多かれ少なかれ目と耳をふさいでいたように思えます。



 イェルマコフは強制労働5年などの有罪判決を受けましたが即日恩赦され、半年ほど待命を食らったあと、少し格下の仕事から復帰しました。指揮官として実績を積み、大戦末期にソヴィエト連邦英雄に推薦されましたが、スターリンは過去の不首尾を覚えていたようで、1ランク下のレーニン勲章に値切られました。


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