表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/53

第33話 泥とモスクワ


 まだ戦争が終わってもいない1943年、ソヴィエト軍(労農赤軍)はモスクワの戦いに関する部内限りの報告書をまとめ、2006年にようやく機密指定を解除された。


 もちろん今となっては真偽を評価する材料のない記述も多いが、ユニークなことも書いてある。例えばモスクワには11の鉄道路線が流れ込み、合計すると1日に往復500編成が発着できた。バルバロッサ作戦のための輸送計画では、民需も含め1路線あたり1日30往復と見積もられていたのだから、かなり多い。そしてモスクワ~スモレンスク街道による自動車輸送は、列車15往復相当の輸送力があると評価されていた。


 1991年10月、半地下駅である武蔵野線新小平駅に地下水が流れ込み、突貫工事で復旧されたことがあった。武蔵野線を貨物列車が通れなくなると、冬に向かって長野や北関東に石油製品を送る輸送力が不足することが問題となった。東北本線や高崎線の輸送力はもともと余裕がなかった。上り下りの路線同士をつなぐ環状交通網が弱いのは、多くの首都に共通する特徴である。


 逆に言えば、ドイツ軍がモスクワを回り込もうとしても、そんな道路も鉄道も、あったとしても輸送力は限られている。モスクワへの進路のあちこちで、ドイツ軍は逃げ遅れたソヴィエト軍をとらえて大規模な包囲を成功させてきたが、モスクワに近づくほど、今までとは違った戦いを強いられた。逆にソヴィエト軍は、いわゆる内線の利を得て迅速に首都内を移動でき、首都モスクワが持つ有形無形のリソースを利用することができた。もちろんひとたびモスクワを失えば、その利点はそのままソヴィエト軍に突き付けられただろうが、ドイツがモスクワを獲れればの話である。


 ヒトラーは積極的にモスクワを獲れとは言わなかったとしても、モスクワに向けた進撃の報告は機嫌よく聞いていた。しかし少しでも退却する場所があると、しつこく反対した。ヒトラーはここまで退却に追い込まれたことがなかったから、ヒトラーが退却に対してどんな反応をするか、誰にもわからなかったのである。


 いや、ひとつだけあった。ノルウェーのナルヴィクである。ヒトラーの退却命令をOKWのロスバークが事実上握りつぶし、結局フランスでの勝利のおかげで、そのままドイツはナルヴィクを守り抜いた。それはヒトラーの主観では、ヒトラーの面目をつぶすことだった。そしていま陸軍に二度と退却を許さないことは、当時のヒトラーの処罰感情を満足させた。ロストフ・ナ・ドヌーでのわずかな退却をめぐる対立から、11月末にルントシュテットが南方軍集団司令官を事実上解任されたことは、モスクワ方面でそのあと起こることの序曲だった。


 10月2日、ドイツ軍はタイフン作戦を発動し、モスクワへの最終コースに入った。ドイツ軍ははるかクリミアのセバストーポリ要塞に続いて、ソヴィエト軍が待ち受けている場所を攻めることになったのである。


--------


 ハルダーの9月30日の戦時日誌には、バルバロッサ作戦開始から9月26日までの死傷者・不明者が書かれている。士官17866名、兵・下士官517086名。東部戦線のドイツ軍の15%に当たった。数日後にブーレ組織担当参謀次長から説明を受けたところでは、53万人の損害に対し補充できたのは37万人だった。


 1933年からたゆまず軍拡を進めてきたドイツ陸軍は、軍歴が長い兵や下士官のストックが諸外国に比べて厚かった。それはドイツ軍優勢の貴重な大前提だったが、東部戦線での消耗によって崩れようとしていた。だが10月初めには、破局は懸念されても、現実化しているわけではなかった。原隊に復帰せず、新たに配属先を決める(つまり原隊は別の兵を補充される)目安は全治8週間であったが、長期療養からの回復者は月間7万名にも上っていた。


--------


 10月2日にタイフン作戦が始まったとき、グデーリアンの先鋒はようやくモスクワから南へ300km余りのオリョールに食らいついたところだった。一部のソヴィエト軍部隊は、ドイツ軍の目から見ると崩壊の兆候を示し、無秩序に退却していた。その結果、まずスモレンスク~モスクワ街道の上にあるヴャージマの南北をドイツ軍が突破して、6日から7日にかけて包囲が成立した。


 オリョールを抜いたグデーリアンを止められるソヴィエト軍部隊はなかったが、戦車の損耗など自らの傷跡も深かった。10月4日にヒトラーとハルダーが交わした懇談の中で、すでにグデーリアンの目標としてトゥーラという街の名が挙がっていた。だがついに大戦を通じ、トゥーラがドイツの手に落ちることはなかったのだし、その西にあるブリャンスクを確保しなければ、グデーリアンの補給路は曲がりくねってしまうのであった。


 ハルダーと相談したボックは、4日のうちにグデーリアンに電話を入れたが、オリョールからトゥーラまでは200kmある。ボックは不機嫌なグデーリアンに、とりあえず50km前進してムツェンスクを取れと言った。南からモスクワに近づいてきたグデーリアンは、クルスク~オリョール~トゥーラ~モスクワ街道に沿って進撃している。ムツェンスクもその街道上にある次の街だった。


 ブラウヒッチュやハルダーは、ドイツの精兵がすり減ってしまわないうちに政治的ポイントを稼いで勝負を決めたかった。ボックはブリャンスク包囲戦にグデーリアンを関わらせず、モスクワ奪取の栄光をつかみ取らせたかった。ニュアンスは違うが、「早くモスクワを!」という点では一致があった。


 ところがブリャンスクの包囲は進まなかった。グデーリアンの戦車集団は10月5日から第2装甲「軍」になっていたが、改称は補給の代わりにはならなかった。いや、「軍」となることによって交付所を運営できる補給大隊や、装甲軍司令部が裁量できるトラック部隊が来るはずだったが、すぐ来るわけではなかった。10日午前3時、中央軍集団に総統命令が届いて、近隣の第19装甲師団とグロスドイッチュラント連隊を、すでに確保されたブリャンスク中心部を通ってグデーリアンの指揮下に入れるという命令が来た。道路の状態や現在の担当戦区から、彼らはグデーリアンのもとにしばらく届かなかったし、第2装甲軍はこれで包囲戦の東半分に巻き込まれてしまうことになった。11日になってようやくブリャンスクの包囲網も安定した。


--------


「同志! 同志指揮官!」


 地元の老人がカトゥコフを呼んだ。その後には担架のように細長い箱を担いで、ふたりの年配女性が従っていた。箱はドイツ兵の上着をほぐして縫ったらしい分厚い布で覆われていた。


「薬莢を踏むなよ」


 兵士に言われて、ふたりの女性はたたらを踏んだ。あちこちに薬莢が散らばりすぎていた。


「なるべくでいい」


「あとで拾わせましょうか」


「いや、いい」


 カトゥコフは短く断った。それほど安全な場所というわけではない。目立たない場所をなるべく選んではいたが、見晴らしが悪くては前線指揮所にならない。


 グデーリアンの装甲部隊は、カトゥコフの戦車旅団に先頭の装甲車部隊をいくらか食われたあと、ムツェンスクに主力を集めていた。すでにカトゥコフの軽戦車は戦闘で、中戦車は主に長躯の行軍でダメージを受けたものが多く、いくらかでも車両の補充を受けるべき時期に来ていた。


 保温のための布を取り去ると、下から飯盒(はんごう)が現れた。敵味方の飯盒が混じっている。湯気が立っているので、兵たちの目が釘付けになった。特に昼間は、陣地の近くで火は起こせない。


「ありがたい。冷めないうちに頂け。フョードル! 配分は任せる」


「了解しました。非番の者は並べ。アフラム! ドミトリ! 見張りの兵士に持って行け。4人いるだろう」


 副官がてきぱきと指示を出し始めた。すぐ配らないと凍ってしまう。湯なのかスープなのか中身を尋ねる時間も惜しかった。


 老人が飯盒をひとつ取って、カトゥコフに差し出した。口をつけると、そばの香りがした。そばの実を煮て塩味をつけてあるようだった。かゆと呼ぶには実が少なすぎたが、厳寒の中でも汗をかく理由はたくさんあったから、塩味の液体はありがたかった。


「残念だが、我々は行ってしまう。もうすぐ命令が出る」


 老人は無言で顔のしわを増やした。だが何か言いかけて……黙った。


「赤軍は必ず帰ってくる」


「もちろんです、同志指揮官」


 老人は笑顔を作った。


--------


 戦いは生き延びたソヴィエト部隊に経験を積ませ、英雄を育てていた。カトゥコフ大佐のソヴィエト第4戦車旅団は、オリョールからずっとグデーリアンを遅滞させる戦闘を繰り返していた。10月6日にはグデーリアンの先鋒をムツェンスクから撃退したカトゥコフだったが、11日には脱出するしかなかった。旅団はモスクワ西側に転戦したが、10月の遅滞戦闘を評価され、旅団は第1親衛戦車旅団と改称され、カトゥコフも少将となった。そして1942年の火星作戦では機械化軍団長をつとめ、1943年のクルスクでは第1親衛戦車軍を率い、1944年のリヴィウ=サンドミェシュ攻勢と1945年のダンツィヒ掃討戦(東ポンメルン作戦)で二度のソヴィエト英雄に輝くことになったのである。


--------


 グデーリアンはヒトラーの介入で大魚を逸したのだろうか?


 グデーリアンが補給を受け取るには、ブリャンスクが確保されるだけではなくて、破壊活動でぼこぼこになった市内の道路などが復旧される必要があった。市内で爆破された橋梁だけで11か所あった。それらが復旧されるタイミングを見計らったように泥将軍が来襲して、補給が止まった。だからヒトラーの10日未明の命令は気の利いたものではなかったのかもしれないが、なければ前進が早くなったかというと、あまり変わらなかったと思われる。あえて言えば、ブリャンスクを攻略する第4軍や第9軍の戦力が、グデーリアンの猛進を支えるには足りなかった。そして11月末になっても、中央軍集団向けの物資はほとんどがスモレンスクかゴメリに下ろされていた。近い方のゴメリからブリャンスクまで270kmある。戦ってはいけない場所で戦い、敗れたのがグデーリアンだった。


 それに比べれば、10月12日から13日にかけてボックに伝えられたヒトラーの意向がもたらした影響は、慎重な評価が必要である。ヒトラーはグデーリアンたちに、モスクワ市内へ入ることを禁じた。回り込んで包囲するように命じた。


 確かにそれこそが、モスクワを取るということである。しかし我々は、ドイツの戦力がそれに足りなかったことを知っている。とすれば、この命令こそがドイツ軍に最後の無理を強いたということになる。ヴャージマとブリャンスクで途方もなく割のいい血の取引をしたことに満足して、退いておくべきではなかったか。


 この時点では、間違っているとまでは言えなかった。スターリンもまた、モスクワを守り切れる確信がなかったからである。



--------


 すでに語ったように、ヴャージマとブリャンスクには、合計7個軍が取り残された。


 ヴャージマが包囲を受けている間に、それを迂回した部隊はスモレンスク~モスクワ街道を進み、次の防衛線であるモジャイスクに立ち向かった。すでにモスクワまで100kmであった。


 もう少し北では、カリーニン(現在のトヴェリ)に13日にドイツ装甲部隊がなだれ込み、ヴォルガ川渡河地点が確保されていた。とはいえモスクワから200km以上離れている地点であった。もっとまずいことに、モスクワ~カリーニン~レニングラード街道はヴォルガ川の西側を通っていたから、ここで東側へ渡河してもモスクワ方向への良い道がないのだった。ここは袋小路であり、11月以降のドイツ軍はもっとモスクワに近い突破地点を探して、戦車部隊を転戦させた。


 そして南北の包囲網が狭まる10月10日、ジューコフはレニングラードから呼び戻されて西部方面軍司令官とされた。7月から8月までティモシェンコとエリョーメンコはかわるがわる西部方面軍を指揮し、機構改革やら敗戦引責やらスターリンの迷いと悩みを受け止めてきた。9月になってキエフの危機が深まるとティモシェンコが南西総軍に回り、コーニェフが軍司令官から昇任した。だが大規模包囲を防げず司令官代理に落とされ、ジューコフがその上に座ったのであった。


 すでに述べたように、ジューコフは担当戦域が広すぎることもあって、戦線の北半分をコーニェフに担当させ、やがてそれはカリーニン方面軍として独立した。ドイツ軍の攻撃に耐えている部隊にジューコフが攻撃を命じなければ、もっと割の良い取引の機会があったかもしれない。だがスターリンやジューコフが、攻撃を命じることで自分たちの士気崩壊をギリギリで防いでいたとすれば、無駄だったと簡単に言い捨てることもできないだろう。


 10月13日、東方の小都市クィビシェフへ政府の一部を移転させる措置が始まり、モスクワは数日間パニックに落ちた。ジューコフに命運を託す気になったのか、スターリンは16日、用意を命じておいた特別列車に乗ることをやめ、モスクワに残った。だが混乱は収まらず、19日になってモスクワ軍管区のアルテミエフ少将はスターリンに願って、モスクワは包囲状態にあると宣言してもらった。のちにヒトラーがスターリングラードを「要塞である」と宣言したのと同じ理屈である。包囲下から脱出すればそれは戦術的退却ではない。戦闘の放棄である。モスクワ外郭(がいかく)を守るモスクワ防衛軍がアルテミエフの指揮部隊とされ、その下でシニロフ少将が市内の治安部隊を率いるモスクワ司令官に任じられ、「脱走者」などを軍事裁判にかけることを認められた。19日の布告は20日のプラウダ紙に載り、パニックは強制終了させられた。


 グデーリアンの第2装甲軍は、雪と泥の影響を受けて移動が遅れた。モスクワの真南150kmにあるトゥーラにはブリャンスク方面軍の残余が逃げ込み、市民たちの協力を得て防衛に当たった。


 シベリアからの部隊が増援に交じり始めていた。沿海州にも冬がやってきて、春まで日本軍を気にしないで良いという事情もあっただろうが、別の判断材料もあった。日本では1941年9月6日に開かれた御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定されたが、その註[ロ]には、ソヴィエト側に敵対的行動がなければ「我より進んで武力行動に出ずることなき旨応酬す」(原文は漢字とカナ)とある。明確な合意の一部をなさないものの、「ソヴィエトには侵攻しない方向で……」という発言に席上での異議がなかったことを、東京のリヒャルト・ゾルゲが察知してソヴィエト本国に報告したとも言われる。それはたまたま、タイフン作戦直前のことであった。


 モジャイスクとモスクワ中心部の距離は、東京駅から見ると熱海駅か深谷駅の距離に匹敵する。まだモスクワ郊外ではないまでも、すでに街や村が点在しており、う回路もあったが陣地も重層的だった。16日にモジャイスクが抜かれ、その西で支えていたボロジノもハウサーSS大将の右目と引き換えに17日に降り、その南を走るバブルイスク~ロスラヴリ~モスクワ街道でモスクワ中心部から100kmほどのマロヤロスラヴェツは、18日にドイツ軍の手に落ちた。だが次の街や村が陣地化されており、もう奪取は突破を意味しなかった。後方には友軍陣地が続き、流れ弾の危険の中で老人や婦人が壕を掘っていたから、ソヴィエト軍は敗れたとしても、もう崩れなくなった。だから泥将軍の援兵を得て。ドイツ軍の前進をとうとう止めてしまった。


 控えめに言っても、10月前半のドイツ軍は土地を得て、損害も与えていた。この順調さが逆境に変わったとき、ドイツ軍の原則である「委任戦術」の悪い面が噴き出した。目標未達を打開する責任は現場にかかるが、逆に上級司令官が「自分の問題として」危機に対処するのが遅れるのである。


--------


 10月18日、ブリャンスクの包囲戦は終わった。グデーリアンは解放されたが、この日は大雨が降り始めた日でもあった。


 モスクワの包囲を命じたのは、「野戦軍の壊滅ではなく、政治目標の奪取によって和睦か政権崩壊を強いる」というハルダーの非常の策にヒトラーもいったんは乗ったと理解すべきだろう。だがヒトラーは一向に前進しないグデーリアンにいら立ったのか、10月26日には「グデーリアンがトゥーラを取ったら、ヴォロネジに向かうというのはどうか」とハルダー経由でボックに打診してきて、ボックが怒ると、ハルダーは自分も同意見だと言った。ヒトラーはしばらく、この思い付きにこだわった。


 ボックが粘り強く総統命令を(1日数回)拒否している間に、グデーリアンはトゥーラ郊外まで先鋒を進めた。だがソヴィエトもまた、泥の海を越えて精いっぱいの増援を送り出していた。10月25日に第50軍に発せられた命令書には、第50軍所属部隊としてライフル9個師団(残余)の名が挙がっていた。対空砲部隊であろうと、戦車部隊の雑多な生き残りであろうと投じられ、地元の労働者連隊が前衛をつとめた。10月31日にはカチューチャ・ロケット師団までやってきた。シベリアから第413ライフル師団が到着し、第50軍司令部に属したのもこの日だった。


 ヒトラーがやっていたことは、夏にやっていたことの繰り返しだった。ヒトラーは何でもいいから良いニュースを聞きたかった。モスクワ陥落のニュースが聞けないなら、500km南のヴォロネジ陥落のニュースでもよく、それを同じグデーリアンの装甲軍に平気で期待したのである。だが悪いニュースは聞きたくなかった。悪いニュースが入ってくると、呪術師が悪霊を探すように、責任者を見つけて罰した。敗戦まで数限りなく繰り返されたヒトラーのこの傾向は、1940年のメヘレン事件で第2航空艦隊司令長官がクビになってからしばらく意識されなかったが、すでに述べたように守りづらいロストフ・ナ・ドヌーを放棄したルントシュテットが12月1日に罷免されてから、歯止めが外れたように乱発され始めた。


 泥将軍がやってきてから、ドイツは新たな街や村を取れなくなった。占領地を広げることと敵の戦闘力を奪うことは別だとクラウゼヴィッツは書いたが、兵員や装備で測った戦力と、補給状況を加味した戦闘力も同じではない。10月末にこれから2か月の推移を言い当てることは、当時としては難しかったというべきだろう。


 そして、11月がやってきた。霜は大地を固め、ドイツ軍は動き出した。



第33話へのヒストリカルノート



 労農赤軍という名称が使われ始めたのは1918年からです。たぶんこれは、当時の軍事・海軍人民委員だったトロツキーが選んだ、世界のプロレタリアートに参戦を求めて一気に世界革命を巻き起こすという願望を込めた名称だったのでしょう。1937年12月30日に「ソヴィエト社会主義連邦共和国海軍人民委員部」が創設され(つまり陸軍省から海軍省が分離したようなものです)、海軍は「ソヴィエト海軍」が正式名称になりましたが、それまでは「労農赤軍海軍部隊」という名称でした。1922年にソヴィエト連邦が成立すると、ソヴィエト・ロシア社会主義連邦共和国の軍隊であった労農赤軍にウクライナやベラルーシの陸海軍が加わりました。憲法などでは「ソヴィエト軍( the armed forces of the U.S.S.R.に相当するロシア語)」といった表現があいまいに登場しましたが、労農赤軍という名称は正式に変更されませんでした。


 例えば、次話に登場する11月7日のパレードに先立つ6日の革命記念日式典で、スターリンはその演説を「Товарищи красноармейцы и краснофлотцы」(赤い陸軍、赤い艦隊の同志たちよ)と切り出しています。


 この間、「労農赤軍参謀本部」は陸軍参謀本部であると同時に、海軍や空軍の部隊もしばしば指揮しました。1946年になって、初めてソヴィエト軍参謀本部とは別に陸軍参謀本部を立て、ジューコフを初代陸軍司令官としましたが、このときにソヴィエト陸軍という名称が初登場し、海軍などを含んだソヴィエト軍という言い方も正式なものになって、労農赤軍という名称はひっそりと退場しました。



 このころのダスライヒ師団は、突撃砲を特別に1個中隊持った自動車化歩兵師団です。ハウサーが負傷した場所はボロジノ付近の Gjatschとされています。おそらくグリャジ(Грязи、Gryazi、ボロジノの北西10km)でしょう。Lexikon der Wehrmachtによると、負傷はGranatsplitter(手榴弾片、あるいは榴弾の破片)によるものですが、わずかに残った部隊からの76.2ミリ野砲弾であったようです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ